「きっと大佐は覚えてないよなあ」

 これはただの独り言だ。
 中尉に頼まれた書類を一人で整理しながら、私はまだ降り続いている雨の音に耳を傾けた。この分だときっと明日も雨だろう。

「あの時も、雨だった」

 濡れた髪が額や頬に張りついて、ひどく不快だったことをよく覚えている。


◆ ◆ ◆


 しがない歌手だった私は、お世話になっているパブで、いつも何曲か歌わせてもらっていた。

 その日は早く家に帰りたくて、大通りから外れた近道である路地を、雨の中、足早に歩いていた。申し訳程度にしか傘は役に立たず、服はすでにびしょ濡れだ。髪だって張りついてきていて、最悪。
 街灯のない真っ暗な狭い路地に差しかかり、思わず足を止める。「最近、物騒だからね。気をつけて帰りなよ」マスターが心配そうに言っていたセリフ。物騒、とは近頃、通り魔が増えてきているらしい。

「だいじょうぶ、だいじょうぶ」

 自分に言い聞かせるように、傘の持ち手を握りしめ、暗闇に足を一歩踏み出す。ポツポツという傘にぶつかる雨音がやけに大きく聞こえた。

「しゃがむんだ!」
「えっ!?」

 言われるよりも早く、腕を引かれて倒れ込む。
 視界の端で、まばゆい閃光が走ったかと思うと、暗い路地に火花が散った。「これだから、雨の日は……」雨具のフードの下で舌打ちが聞こえる。

「大丈夫ですか」

 倒れた拍子に落としてしまった傘を金髪の女性が拾い上げ、そっと雨を遮ってくれた。ついで舌打ちをした男性に「無能なんですから、勝手に行動しないでください」とキツイ言葉を投げかける。
 何が起きているのか理解が追いつかない私は、差し伸べられた大きな手を掴み、立ち上がることで精一杯。二人の男女の雨具の下から見える青い服装に、軍の人なんだ、とぼんやり思う。

「申し訳ない。私としたことが、美しい女性に手荒なマネを」
「マスタング大佐。こんな時まで口説かないでください。ヤツに逃げられてるんですよ」
「そう言うな、ホークアイ中尉。すまない、こんなに濡れてしまって」
「……えっと、大丈夫、です。家、すぐそこなので」

 すっかり全身ずぶ濡れになってしまって、張りつく髪が相変わらず気持ち悪い。しかしそれよりも、なにか別の感情がぐるぐると渦巻いて、熱でも出てきてしまったかのよう。

「私は彼女を家まで送ります。大佐は他の皆さんと合流してください」
「分かった。それでは、気をつけて」
「あ、ありがとうございます……」


◆ ◆ ◆


「それで、きみは歌手を辞めてまで軍へ?」
「いえ、歌はいまもたまに……」

 そこで手を止めて、顔を上げる。

「た、大佐!?」
「まさか、あの時の美女がきみだったとは。女性の顔は覚えているつもりだったが……」
「あ、あの時は暗かったですし、雨も降ってたので。っていうか、いつから」

 一人で書類整理をしているつもりだった私は、まさか本人がこの場にいるとは思わず。ずいぶんな独り言を聞かれてしまったに違いない。
 雨だというのに、大佐は珍しく楽しそうな表情をし「ほとんど最初からだな」と、頷いた。やはりずいぶんな独り言を聞かれていた。


私は雨に恋をしてしまったのだ。