フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン




 みんなが寝静まった真夜中に、僕は大きな木箱を抱えてテントに忍び込んだ。
 そうっと赤と白のテントの内側に潜り込めば、円形の舞台と、それを取り囲むように並ぶ客席が見える。
 普段は陽気な音楽と、ピエロの戯けた声と、観客の感嘆に満ちているこのテントだが、時間も時間だからか、まるで眠りについているかのようだった。
 スポットライトの代わりに、天窓から月の光が降り注いでいる。妙に神聖な光景に、僕はグッと息を呑んだ。
 僕は舞台によじ登って、隅の方に木箱を置く。
 木箱の中からジャグリング用の棍棒を四つ拾い上げて、僕は円形をした舞台の真ん中に立った。
 客席をぐるりと見渡してから、そっと目を閉じる。
 瞼の裏で、スポットライトが弾けた。妖精に扮した踊り子の衣装が煌めいて、動物の鳴き声が木霊する──……。
 そんな舞台を、夢見ていた。舞台の真ん中に立って、ジャグリングを披露する日を。
 ──その日はきっとすぐそこに近づいている。
 ──だからこれは、その予行練習。
 そんな言い訳をしながら、僕は、目を、開けた。
 目の前にある場所は、夢見た舞台よりずっと寂しい、静謐な場所。
 ──それでも、今は。今この時点では、それで十分だ。
 バレたらきっと団長にぶん殴られるだろうな、と思いながら、棍棒を宙に放つ。
 ゆっくり、確実に、取りこぼすことにないように。
 唇にイントロのメロディーを載せながら、存在しない観客へと、曲芸を披露する。
 四つの棍棒をひとつひとつ宙へ放って、僕自身はその場でターン、棍棒をそれぞれ見事にキャッチして、決めポーズ。
 幻想の中で、観衆が喝采する。割れんばかりの拍手がテントを揺るがして、僕は気取ったお辞儀をする──……。
 お辞儀をしたタイミングで、ふと気付いた。
 ──幻想ではなく、現実に、拍手が鳴り響いている。幻想のそれよりはずっとか細い、ひとり分のそれだけれど、確かに聞こえる。
「ブラボー」
 ベルベットのように滑らかな少女の声が、僕に賛辞を送る。
 それを聞いて、僕は弾かれたように顔を上げた。
 最前列のど真ん中。舞台に一番近い場所に、彼女は座っている。
 オフゴールドの髪は月の光で艶めき、青い瞳は宝石のように光った。白磁の肌は薄闇の中にあっても一才のくすみを感じさせず、その肢体は彫刻のように均整が取れている。
 僕は、彼女を知っている。いや、このサーカスに立ち寄ったことがある者であれば、彼女を知らぬ者はいない。
「き、君は、アンジュ」
「あら。あたしのこと、知ってるの?」
「ここで君のことを知らない人なんていないよ」
 ──踊り子のアンジュ。
 天使を意味する名をつけられた、我がサーカス団が誇る至高のヒロイン。
「あたしもあなたのこと、知ってるわ。食事係さん」
「大道芸のルードヴィヒ。食事係はやらされてるだけ」
「そうだったの」
「そうだよ」
 僕は深いため息をついて、舞台に座り込んだ。
 アンジュは心底楽しそうに笑うと、客席から立って舞台に登った。
 彼女はネグリジェの裾をたなびかせながら、僕の周りを跳び、回る。
 その姿は、オペラ座で踊るバレリーナのようであり、真夜中の湖面で遊ぶ妖精のようだった。
 息を呑むような美しさ。喝采すらも忘れるような、優雅な舞。
 彼女は一通り踊ると、僕のすぐ傍で恭しく礼をした。
「ねえ、あなた」
 汗の滴が、彼女の顎から舞台に落ちた。アンジュの碧眼が僕を見ている。
「あなたは──どうしてここにきたの? こんなちっちゃなサーカス団に、夢なんてありはしないでしょう」
 僕が言葉に窮していると、アンジュは歌うように言葉を紡いだ。
「あたしはね。親に売られてここに来たの」
「え」
「三百万でね、売られたのよ。八つの時にね」
「どうして?」
「私、可愛いって有名だったから。ほら、団長は可愛らしい女の子が好きでしょう?」
「ああ……」
 団長の女好きは有名で、俺とまぐわえば舞台に立たせてやる、なんてことも平気で言うような人だった。そんな人に買われたらどうなるか、なんて、わかりきっているようなもので。
「……あなたは?」
「僕は──捨てられた。日照りが何年も続いて、飢饉が起きて。食い扶持がなくなったから。口減らしってやつさ。五歳の時だよ。……飢えて死ぬしかなかったところを、先代の団長に拾っていただいた」
「あら。それじゃあ、あたしたち、おんなじなのね」
 ひらり、とアンジュがターンする。ネグリジェの裾が膨らんで、萎んだ。
「おんなじじゃないさ。……君は、みんなから価値を認められている。厄介がられて食事係なんかやらされてる僕とは違う」
「──ねえ、本当に、そう思う?」
 冷えた視線が、僕を見た。
「あたしの価値って、なあに? この母親譲りのかんばせかしら? しなやかに駆動する体躯かしら?」
 その声は、絶望に似た渇きを孕んでいた。
 だから僕は「違う」と首を横に振る。それは彼女にもっと違うことを意識してほしくてのことだったけれど、どうやら逆効果だったようだ。
 アンジュは瞳に瞼をいっぱい溜めて、こちらをじぃっと見た。
「……それとも、きゅうっと締まって殿方を喜ばせる蜜壺かしら」
「違う。違うよ」
「じゃあ、なに?」
「観客はいつも君に釘付けだ。君が豆粒にしか見えないくらい遠くの席の客だって、一生懸命君を見つめている。君が綺麗だからじゃない。君がしなやかだからじゃない。君の踊りは、魅力的だ。君の価値は、みんなの視線を釘付けにする魅力だよ。それは、舞台の上にこそあるべきものだ」
「…………そう」
 アンジュは不安げにそれだけ言って、僕の傍に座った。
 サファイアブルーの瞳が、じいっと僕を見つめている。
 不意に、彼女が僕にそっと近づいた。
 僕の頬に彼女のひんやりとした手が触れて、唇と唇が触れ合った。それは、口づけ、というやつだった。
「な、な、なんだよ、突然」
「嬉しかったから、お礼をしたの」
「……こんなこと、する必要はないよ。僕は本当のことしか言ってない」
 アンジュがまた、僕に口づけをした。さっきよりもずっと長くて、情熱的なキス。
 彼女が僕の体に体重をかけて、僕を舞台に押し倒した。
 オフゴールドの髪がカーテンのように視界を遮って、僕の世界は、僕とアンジュの二人だけになる。
「あなたにとってそれが本当のことだっていうのが、なにより嬉しいの。だから、ねえ、お礼をさせて」
 細い指が僕の胸元を、腹の上を滑って、下腹部に触れた。
「やめてアンジュ、こんなお礼いらない」
「私、これしか知らないの、お礼の仕方なんて」
 やめてアンジュ、と繰り返そうとした瞬間、怒りを内包した足音がテントに響き渡る。
 アンジュが身を起こして、観客席の方を見た。
 円形の観客席の向こう側、観客用の出入り口に見知った立ち姿がある。
 つるりとした禿頭。でっぷりと肥えた体。いつも怒ったような顔をしている男、団長だ。
「ルードヴィヒ!」
 雷のような怒りの声が、真夜中の静寂を切り裂いた。
 僕の体を組み敷いたままのアンジュに「離れて」と囁けば、彼女は申し訳なさそうに頷いて少し離れる。
 団長はずんずんとこちらに近づいてきて、僕が床に落とした棍棒のうちひとつを手に取った。
「この! ボンクラめが!」
 怒りに狂った男は、僕を棍棒で殴打しながら叫んだ。
「これがいくらしたと思ってる! 三百万、三百万だぞ? 高級品だ! お前のような薄汚いのが触っていいものじゃねえ! わかるか、ええ?」
 僕は黙って耐えた。歯を食いしばって、声を漏らさぬよう、決して謝らぬよう、耐え忍んだ。
 やがて意識が遠のいた頃、乱暴に棍棒を地面に投げ捨てる音がする。
「来いアンジュ!」
「や、」
「まだ嫌がれる立場だと思っているのか? おめでたいな! 俺はお前を買ったんだ、三百万でな!」
 嫌がるアンジュの声が遠ざかっていく。
 僕の意識も、同じような速度で遠ざかっていく。

     ***

 朝食の片付けがやっと終わった。
 調理場の隅でこっそりと煙草を吸っていたら、同室のニーノがばたばたと走ってきた。
「ルードヴィヒ、お前宛にファンレターが来てるぞ」
「……ファンレター? 誰から」
「知るか。ブランコ乗りのミスタ・ロンのファンレターの山に混ざってたらしい」
「……ありがと」
 ──ほとんどショーに出たこともない俺に、ファンレター。
 奇妙なことだ、と思いながら封を切る。
 封筒の中にあったのは、手のひらに隠れるような小さなメッセージカード。
 そこには、たった一文、お世辞にも綺麗とは言えない文字が並んでいた。
『わたしとおともだちになってくれませんか』
 署名もない手紙だったけれど、差出人が誰なのかはなんとなくわかる。
 僕は煙草の火を消して、やおら立ち上がって、差出人の元へ向かった。


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