曖昧に逃げる




 あなたに好きといえないまま、ロングカクテルを飲み干した。氷とグラスが、からんと涼しげな音を立てる。
「何か頼む?」
 こちらを見下ろす甘い色の瞳に、「ええ」と頷いた。
 じゃあ俺も、とあなたはメニューに手を伸ばす。アルコールで紅潮した横顔を、こんなにも間近で見るのはきっと最後だ。
 三ヶ月前、この店で同じように二人で飲んだ時の、あなたの言葉が耳の奥に蘇る。
「俺、会社辞める」
 あの日――大して思い詰めた様子もなく、彼はさらりとそう言った。
 今後の引き継ぎのスケジュールだとか、彼が担当している顧客の何割かを私に任せたいだとか。彼は普段の雑談と何も変わらない様子で話す。しかしそんな情報は、私の耳を素通りしていった。
「……辞めるって、なんで?」
 やっとの思いで吐き出した疑問符に、彼は返事をしなかった。返ってきたのは「まあちょっと、色々あって」と、困ったような笑顔だけだった。
 その夜から、ギリギリのスケジュールで引き継ぎを終わらせて、今日に至る。
 三ヶ月の間に想いを伝えるという目標も果たせないまま、こんな時間になってしまった。
「あのさ、北崎さん」
 彼が私を読んだ。
「なに」
 そっとスマホの画面が差し出された。二次元バーコードがでかでかと写った、黄緑色の画面。メッセージアプリの、友達追加画面。
 ――そういえば、私、彼の連絡先すら知らなかった。
 そんなんで「好きだ」なんて、ちゃんちゃらおかしい。
「個人の方の連絡先、教えてよ」
「そうだね、また、一緒に仕事できたら」
「そうじゃなくてさ」
 彼が視線を明後日の方向に逃した。
「また飲もう。俺、北崎さんとの夜が結構好きだよ」
「ほんとに? ………………私もだよ」
 はにかんだ顔を横目に見つつ私もスマホを取り出した。


初出:2020年6月 Twitter企画「眠れない夜のソルベ


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