Gemini




 私は納屋の床にぺたんと座って、自殺した私を見つめていた。
 天井の梁から吊るされたロープで吊り下げられた体は、酸素不足にもがくことすらできなくなったようだ。だらりと両手両足を投げ出して、事切れる時を今か今かと待っている。
 私はその様子を見て、どうすっかなぁと腕を組んで唸った。
 今の私は、半透明の幽体だ。いわゆる幽体離脱というやつ。
 死にかけの体から魂だけが弾き出されて、こうして自分の死体を観察している。
 ──今体に戻れば息を吹き返すかもしれないな、この体。
 まるで他人事のように分析しつつ、私はやおら立ち上がった。
 自分の体に戻るためではない。自分の体から離れるためだ。
 ──この世に未練はない。むしろとっとと死んでしまいたいと、常々思っていた。
 だからいよいよ死んだのか、ついに! と、ちょっとした感動すら抱いていて、窮屈な体の中に戻って息苦しい世の中を生き抜くなんてことは頭の片隅にもなかった。
 体を水に浮かべるように力を抜けば、幽体の私はふわりと宙に浮き上がる。
 納屋の窓を開けようと窓枠に触れたら、私の腕が窓ガラスを突き抜けた。ありがたいことに、壁なんかは通り抜けられるらしい。
 ──なんて便利。死んで正解じゃないか。
 私はくすくす笑いながら、空を飛んで街へ出た。
 空へ、空へ、空へ。
 街のランドマークタワーよりも高いところまで体を浮かび上がらせれば、眼下に馴染みのある景色が広がった。
 グーグルマップでよく見た、私の街だ。
 ──でも、もう、おさらばね。
 こんなしょぼくれた街より、素敵なものを見に行こう。
 私はゆっくりと時間をかけて世界をぐるりと一周した。
 万里の長城の上を飛び。
 羊が駆ける草原を抜け。
 シベリア鉄道に無賃乗車。
 ヴァチカンの絵画はほとんど全部同じに見えた。
 サグラダファミリアはどこが未完成なのかよくわからず。
 英国料理は大して美味しくもなさそうで。
 自由の女神の指の先に立って街を見下ろし。
 グランドキャニオンで飛び石渡をして。
 ナイアガラの滝に身を投じ。
 アラスカでオーロラを見た。
 空にかかるカーテンの狭間をふよふよ飛んでみよう、と思って宙に体を浮かせたとき。
「──ねえ、何してるの?」
 人の声が聞こえた。
 人の声なんてのは人間がいる限りいくらでもするものだけれど、私に対して声がかかるのはひどく久々なことだったので、私はびっくりして振り返った。
 振り返った先には、半透明の男の子が浮かんでいる。
 ──私と同じ、幽体だ。
 ちょっとだけ親近感を覚えたものだから、ほんの少しだけ会話を試みてみることにした。彼は異国の人間に見えたけれど、ありがたいことに、私の故郷の言葉を話している。
「カーテンを引いてみようと思ったの」
「へえ、いい考えだね」
 男の子はふわっと私の隣に並んで、「僕もやってみよ」と無邪気に笑んだ。
「僕はカルム。君は?」
「オクバ」
 私は敬愛する人の名前を騙った。
「オクバ、君は死んだの?」
「うん、死んだよ。自殺した」
「へえ。僕は病気で死にそうなんだ」
「おや」
 悪いことを言ってしまったかもしれないな、と思った。生きたいのに生きられない人がいるんだから、生きられる人は精一杯生きるべきという幻想を抱いている人間が、この世にはあまりにも多い。
「僕の本体は今、臓器移植の手術中。危ない橋を渡っている」
「急いで帰らなくていいの? 死んじゃうよ」
「うーん、なんか、もういいかなって」
 カルムはあっけらかんと笑う。
「ほら、生きるってのは、意外と面倒くさいだろう?」
「わかるよ」
 だから私も死んだのだ。
「だからもういいやって」
「そっか。……カルムはどこへ行くの?」
「星を目指そうと思って」
「星?」
「そう、星。ほら、カーテンの向こうに見えるだろう」
「うん」
「あれに触りに行くんだよ。大気圏を抜けて、宇宙を駆けて」
「どうして?」
「そしたら、僕も、星になれるかもしれない」
「へえ」
 星になるのにはあまり興味をそそられなかったけれど、宇宙を揺蕩うのはちょっと面白そうだな、と思った。
「いいね、それ。私も行こうかな」
「一緒に行こう、オクバ」
「うん」
 私たちは手を繋ぐような真似はしなかったけれど、ふたり一緒に宇宙そらを目指した。


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