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 海辺の田舎町へ向かう列車は、平日の昼間ということもあって空いていた。
 私は、家に出てから何度も確認したメモにもう一度目をやる。
 そこには「高杉美紅」という名前と、電話番号、彼女の自宅の最寄り駅が記されている。
「駅まで迎えに行くってさ。駅前の駐車場に赤いミニクーパ停めて待ってるって」
 そう言った兄の友人の言葉を思い出す。
 私はこの、高杉美紅という人物を知らない。会ったこともなければ、名前を聞いたことすらない。けれど彼女は、私の兄の一番の友人だったらしい。
 一体どんな人なんだろう。
 あの博愛精神の塊のような、良くも悪くも分け隔てなく人と接していた兄の、「一番の友人」とは。
 ──次は、海南。海南。終点です。
 メモをぼんやりと見つめていたら、そんなアナウンスが聴こえてくる。
 私は息をたっぷりと吸ってから、座席を立った。
 この終点駅で、「高杉美紅」が、私を待っているはずだ。

     ***

 駅前の、白線すら引いていないだだっ広い駐車場。赤いミニクーパがたった一台、止まっている。
 その車に寄りかかって立っている人の姿を見つけて、私は歩く速度を上げた。
 向こうが私の姿に気づいて、ゆるゆると手を振る。
「雪の妹さん?」
 雪、というのは我が兄・高河雪彦のことだろう。
「はい、高河優香です。高杉美紅さん、ですか?」
「うん、そう。ごめんね、こんな辺鄙なとこまで来てもらっちゃって」
「いえ、そんな」
 私はそこで初めて、彼女をまじまじと見た。
 すらりとした、背の高い女性だ。スタイルがいい、というよりはとにかく細いと言った印象。ゆったりしたカットソーとスキニータイプのレザーパンツが、彼女の細さを強調している。
「とりあえず、乗って」
「はい」
 頷いて、ミニクーパの助手席に乗り込んだ。
「……雪、亡くなったんだね」
 車のエンジンをかけながら、高杉さんが独り言のように呟く。
「はい。……自殺、でした」
「うん、聞いた。それで写真を、探してるんだよね」
「はい。あの人、高校までの卒業アルバムすら捨ててしまっていたから、遺影にできる写真がないんです」
「はは、雪らしい」
「他人の写真はたくさん撮る癖に、自分の写真はないんですよ」
「あいつは、写真撮られるの。嫌いだったからねえ」
 彼女はからからと笑い、ダッシュボードのシガーケースに手を伸ばしかけた……が、私の存在を思い出したのか、なににも触れずに手を引っ込める。
「構いませんよ、煙草。家族ので慣れてるので」
 なにしろ、私以外の家族は全員喫煙者なのだ。亡くなった兄も含めて。
「……じゃ、お言葉に甘えて」
 高杉さんはシガーケースから煙草を一本取り出して、ジッポライターで火をつけた。
「……あの。高杉さんは、兄の恋人だったんですか?」
 私の言葉に、高杉さんは目を瞬かせた。しばらく言葉を噛み砕くように煙草の煙を吸い込み──煙をふうっと吐いてから、からからと笑った。
「違う。私とあいつは、ただの友達」
「そう、なんですね」
「私はあいつを好きだし、あいつも私を好きだったけど、それは友愛以外の何物でもないよ」
 釈然としない気持ちで、高杉さんの横顔を見た。
 兄の写真を探しているのだ、と話した時のことだ。兄の学友たちは誰もが口を揃えて「高杉美紅ならあるいは」と言った。通夜にも、葬式にも来なかった女の名前を、誰もが答えたのである。
 誰にも写真を撮らせなかった兄の写真を持っている女性。それは「特別な存在」以外の何者でもないのではないか。私はそう思っていた。
「ともかく、私は。あいつの恋人ではない」
「……では。兄はどうして、あなたにだけ写真を撮らせたのですか?」
「どうして、か。うーん」
 高杉さんは唸りつつ、煙草の火を灰皿ですり潰した。
「雪の、本当の姿を。知ってるから、かなあ」
「本当の、姿?」
「そう」
 それっきり、高杉さんは黙ってしまう。……もしかしたら、兄のために祈ってくれているのかもしれない、と、思った。

     ***

 高杉さんの家は、海辺の町のさらにはずれにひっそりと建っていた。
 二階建ての屋敷はもはや「洋館」という言葉が似合うほどの豪奢さだ。神戸にある異人館がこんな雰囲気だったな、などと思いつつ、高杉さんの車から降りる。
「すごく、綺麗な家ですね」
「でしょう、お気に入りなの。一人で住むには広すぎるけどね」
「え、一人暮らしなんですか? ご家族は?」
「父親は死んだ。母親と弟は東京にいる。……ここは元々、母方のばあちゃんの持ち物でね。ばあちゃんが亡くなったときに取り壊すって話も出たんだけど、私はここが好きだったから。貰って勝手に住んでるってわけ」
「へえ……」
「一時期雪もここに住んでたこと、あるよ」
「えっ? そうなんですか?」
 そんなこと、初めて知った。確かに兄は、大学を卒業してから去年うちに帰ってくるまでは外に出ていたけれど。
「まあ、二年半くらいの短い間だったけどね。ここを貰ったのが大学卒業する頃で、あいつも住む場所を探してたから。丁度良いタイミングだったんだよ」
「へえ……」
 それを聞くと、ますますこの人は兄の恋人だったんじゃないかという気がしてくる。だってそうでしょう、恋人でもないのに男女が同棲なんて、そうそうある話じゃない。
「ま、あいつも気に入ってたんだよ。ここがね」
 私が言葉に窮していると、高杉さんは首をすくめてそう言った。もしかしたら、私が二人の中を勘繰っているのに気付かれたのかもしれない。
「ほら、こっちだよ」
 彼女はそう言って私を先導し、建物の裏手へと回った。そこには、建物から張り出すような形で小さなガラスの温室がある。
 高杉さんは温室の扉を開けて、私に中へ入るよう促した。
「アルバム、持ってくるよ。適当に座って待ってて」
「あ、はい」
 温室を通って建物に入っていく彼女の背中を見送った後、私は改めて温室の中をぐるりと見渡した。
 中央には白いガーデンテーブルと二脚の椅子。周囲には大小様々な植木鉢がぽつぽつと置かれている。……やや寂しい感もあるが、彼女一人では世話をする手が足りないのかもしれない。
 ガーデンチェアに座って待っていれば、五分も立たないうちに高杉さんは戻ってきた。
「お待たせ。はい、これ。雪が置いてったアルバム」
「見ても、良いですか」
「どーぞ」
 中を、そっと開く。そこにはモノクロームの写真が几帳面に並んでいた。
「雪が写真趣味ってのは知ってる?」
「はい」
 兄は写真を撮ることが好きだった。
 最初は家族旅行の写真係。クリスマスに自分専用のデジカメを貰ってからは毎日のようにカメラを持って出かけていた。高校に入ってからはバイトをして必死にお金を貯め、フィルムカメラを手に入れ、ますます写真にのめり込むようになっていった。
「この家、実は暗室があってね。曾祖父さんがカメラ、好きだったから。それもあって、あいつはこの家をいたく気に入ったってわけ」
 アルバムのページをめくる。
 そこには、兄の二年半が凝縮されていた。
 この温室で撮られたと思しき花の写真。
 海辺を歩く高杉さんの後ろ姿。
 道路の真ん中を我が物顔で歩く野良猫。
 そして──最後のページには。
「……あ」
「そう。雪本人の写真は、そのページにある分だけ」
 そこにあったのは、四枚の写真。
 そのいずれにも、黒いワンピースを身につけた男が立っている。
 背景はこの温室。眩しいほどの光が降り注いでいるから、きっとこれは夏の写真なのだろう。
 どこか恥ずかしそうに微笑む彼の表情には、見覚えがあった。
「……これ、兄ですか」
「そ。……びっくりした?」
「……それなりには」
 それが「女装」なのか、「性別に合った服を着ただけ」なのか、「この服の気分だった」なのかは、今となってはわからない。
 でも、そこに写っていたのは。紛れもなく私の知らない姿をした兄で。
 ──ああ、そうか。
 ──兄が、撮影されるのを嫌がったのは。
 ──「らしくない自分」を、保存したくなかったからなのか。
「ショック?」
 高杉さんが、やや緊張した面持ちでこちらを覗き込んだ。
「いえ。そんなには」
 私は首を横に振る。長年の謎が解けた気分だった。
 それを伝えると、彼女は表情を緩めて「よかった」と微笑んだ。
「それ、私が撮った写真なの。雪のカメラを借りてね」
 現像のやり方まで教えてもらって自分の手で写したのだ、と。
 どこか楽しげに、高杉さんは言う。
「雪は、この家の中でだけ、この格好をしてた。勿体無いよね、綺麗なのに」
「……あの、これ、一枚焼き増ししていただけませんか」
「よかったら、持って帰ってやってよ。アルバムごと、さ」
「いいんですか」
「いいもなにも、雪の持ち物だもん」
「ありがとう、ございます」
 私はアルバムを閉じて、それを胸に抱えた。
「あの、高杉さん。もし、お時間が許すのであれば──兄の、雪の話を、聞かせていただけませんか」
 きっと私の知らない兄がそこにいる。……もしかしたら「兄」ですらないかもしれない。
 天国の兄からは今更知ろうとしたところで遅い、なんて嘲笑われるかもしれないが。
 それでも、知りたいと思ったのだ。今更であったとしても。
「もちろん、いいよ。お茶入れてくるね」
 そうして私たちは、長い長い話をした。
 日がとっぷりと暮れて、ランプの灯りが必要になるまで。
 薔薇と紅茶が好きだった「高河雪」のこと。
 心優しく、傷つきやすかった、繊細な「高河雪」のこと。
 終電一本前の電車に合わせて、ミニクーパで駅まで送り届けてくれるまで。
 昔を懐かしむように言葉を紡ぐ高杉さんの横顔を、私はただただ、見つめていた。


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