螺子巻きと歌謡い人形
覚えている。
あの日、彼女と目が合った時の衝撃を。
心臓の鼓動が一際大きくなったことを。
白い肌。黄金の髪。碧玉のような、深い青の瞳。薄っすらと開いた唇は桜色だった。僕より十ほど年上に見える、麗しい女性。
彼女のその目を見た瞬間、僕の鼓動は、速度を上げた。心臓で打ち鳴らされた鼓動が、脳の奥まで響いて、今まで知らなかった感情が、堰を切ったように溢れ出した。
それは雷に打たれたような衝撃で、脳の回路の一部が、焼き切れてしまったような気がした。
──これが、恋というものだろうか。
僕は、初めて知った感情に「恋」という名をつけながらも、それを認めることができずにいた。そんなはずは、ないと。恋の……初恋の相手が、こんなものであるはずはないと。
「リュート、紹介しよう。彼女こそ、アントニオ氏の最高傑作。至高の歌姫・シエナだよ」
なぜなら、旦那様から、そう紹介された彼女が──人ではなく、人形だったからだ。
***
朝だ。
廊下の窓からは、夏の日差しが燦々と降り注いでいる。窓の外を見上げれば、紺碧の、雲ひとつない夏空。今日は暑くなるだろう。
僕は彼女の部屋のドアをノックする。
殺風景な部屋の中央には、一人掛けのソファーと、その脇に小さな作業台、簡素な椅子が置かれている。
ソファーに座すは、麗しい人。
白磁の肌、肩口で切り揃えられた淡いブロンド、ラピスラズリの碧眼。薄く開いた唇には桜色の化粧が施されており、華奢な肢体は、ゆったりとした白い寝間着を纏っている。
「おはようございます、シエナ」
そう挨拶しても、返事はない。いつものことだ。
「今、着替えの用意をしますね。少し待っていてください」
一礼して、小部屋に備え付けられたウォークインクローゼットを開ける。洋服の中から、紺のセーラーカラーがついた半袖ブラウスと、紺のプリーツスカートを選んだ。今日は暑くなるそうだから、涼し気な服が良いだろう。戸棚から白い、フリル付きの靴下を出して、シエナの元へ向かう。
僕が目の前に立っても、彼女の視線がこちらに向けられることはない。
作業台に衣装を置くと、僕は彼女の足元に傅いた。
「失礼」
一言断って、彼女の冷たい素足に触れる。ほんの少し手に力を込めて彼女の足先を伸ばし、靴下を履かせる。
「今日は、暑くなるそうですよ。シエナ」
そう言いながら、シエナの胸元に手を伸ばし、寝間着のボタンをひとつずつ外していく。全てのボタンを外すと、その白い身体が露わになる。その身体には、命の温かさも無ければ、肉の柔らかさもない。白磁でできた、痩せぎすの身体。服の上から見えない場所に興味はないとでも言わんばかりに装飾を削られた、つるりとした胴体。それが、彼女が人ならざる存在であるということを証明しているようだった。
僕は、シエナの人間らしくない部分を覆い隠すように服を着せる。ブラウスを羽織らせて前面のボタンを留め、彼女を肩に担ぐようにして腰を浮かせ、スカートを履かせた。スカートのプリーツを整えながら、胸元のリボンは何色がいいだろうと考える。
クローゼットに戻ると、戸棚から何種類かのリボンを取り出し、眺める。
──涼し気で、華やかなものを。
そう考えて、水色のシフォンを手に取った。また、クローゼットのシューズボックスから紺色のラウンドトゥパンプスを出す。踵が低く爪先が丸い、シングルストラップの靴だ。
再び傅いて靴を履かせ、シフォンをセーラーカラーの下に通して、胸元で蝶結びにする。薄い生地が、シエナの胸元を彩る。
「シエナは肌が白いから、紺が映えますね」
そんなことを囁きながら、作業台の引き出しから櫛を取り出した。毎晩、仕事終わりにも梳かしているけれど、髪から埃を取る意味も込めて、毎朝丁寧に梳かす。髪を梳かし終えれば、シエナの身支度は完了だ。
最後に、僕は首から下げた小さな巾着袋から、金色の螺子を取り出す。
──この螺子が、シエナに命を与える鍵だ。
「発声練習、しましょうか。シエナ」
シエナの首に手を伸ばし、髪の隙間に指を滑り込ませた。
シエナの首の後ろには、無骨な金属の穴がある。螺子を差し込むための穴だ。
僕はシエナの髪を持ち上げると、もう一方の手で螺子を穴に差し込んだ。ゆっくりと螺子を回すと、カチカチと、シエナの内部構造が音を立てた。
しばらくそのまま螺子を巻いて、螺子が回らなくなったところでそれを抜く。すると、シエナの薄く開いた口から、柔らかな少女の声が聴こえる。それは、歌だ。表情も動かないシエナの口から、歌が聴こえるのだ。その声を今日も聴くことができた、ということに、心の底から安堵する。
シエナの頭を抱くような格好のまま、目を閉じてその声に耳を傾ける。幼い頃から何万回と聴いた歌。その歌を聴くだけで、心が凪いでいく。毎朝、シエナの発声練習を聴く時間こそが、僕の至福の時間だ。……彼女の歌声を独り占めできるのは、この時だけだから。
シエナは、謡唄い人形だ。歌を唄わせるために造られた、所謂オートマタである。
そして僕は、彼女の召使い。命ない人形相手に、召使いというのも妙な話だが、「人形の管理人」などという冷めた呼び方をされるのは我慢ならないので、僕は自ら「シエナの召使い」を名乗っている。
──本当は、「シエナの恋人」なんて名乗ってみたいものだけれど、シエナが旦那様のものであり、僕が雇われの身である以上、そういう訳にもいかない。
──叶わぬ恋、というやつだ。
シエナは、鈴の音のような声で一曲歌い上げると、再び沈黙する。
「流石です、シエナ」
ラピスラズリの瞳を覗き込み、シエナの髪を撫でた。シエナの表情がどこか誇らしげに見えた、気がした。
ポケットから懐中時計を取り出し、時間を確認する。時刻は午前六時四十分。そろそろシエナを連れて移動しなければならない。
部屋の隅の車椅子を、ソファーの前に移動させる。僕はシエナを抱き上げて、車椅子に座らせた。
「行きましょうシエナ。まずは旦那様に朝のご挨拶です」
そう言って僕は、彼女の車椅子を押す。
***
黒檀の扉を三回ノックして、「おはようございます、旦那様」と声をかける。特に返事は待たずに扉を開け、シエナとともに入室する。
シエナのを旦那様のベッドの正面に置いて、僕はベッドに歩み寄る。どうやらまだ現実と夢の狭間にいるらしい旦那様の肩を優しくゆすり、声をかける。
「おはようございます、旦那様。お目覚めの時間ですよ」
「おぉ、リュート。おはよう」
「今、螺子を巻きます。少々お待ちを」
寝ぼけ眼を擦る旦那様にそう伝え、シエナの元へ向かう。そして再びシエナの螺子を巻いた。
旦那様は、唄うシエナを見て、幸せそうに溜息をつく。
シエナは、旦那様にその歌声を気に入られて購入された人形だ。なんでも、シエナから流れる声が、亡くなった奥方に似ていたのだとか。僕が拾われた時にはその奥方は亡くなっていたから面識はない。しかし、シエナと似た声だというのなら、それはそれは素敵な女性だったのだろうと思う。
「……その人形も、声が弱ってきたな」
ぼそり、と旦那様が呟いた。
「もうそれがうちに来て十年が経つ。……当然か」
旦那様ははぁ、と深い溜息をついて、物思いに耽るような表情をした。
「メンテナンスはしておりますが……内部構造の手出しは、僕には出来ず。……申し訳ありません」
シエナの生みの親である職人は、シエナを造った時点でかなりの高齢だった。五年ほど前、その職人が亡くなったために、内部のからくりのメンテナンスが出来なくなってしまい、シエナは急速に衰えている。
慌てて頭を下げると、旦那様は「いや、いや。物はいつか壊れるものだ。リュートはよくやってくれている」と言ってくださった。
「そうではなくてね。……君もそれを毎日あちらこちらに運ぶのは大変だろう? 体の関節も徐々に動かなくなっているようだし……だからもう少し小さなサイズの人形はないかと探していたんだ」
「……それは」
一瞬、自分の耳を疑った。
「その人形──シエナと同じ音源を使っている人形がね、見つかったんだよ。小鳥の形をした、手のひらサイズのものだ。職人の手のものではなく、量産品だからメンテナンスも容易なものだ」
「……それは、シエナを捨てるということですか」
「……物はいつか、壊れてしまう。壊れてから探すのでは、遅いんだ」
その声が、棘や悪意を孕んだものだったら。僕はすぐさま「ふざけるな」と怒鳴ってシエナと駆け落ちしていたことだろう。でも、旦那様のその声が、労わるような、慈しむような響きを持っていたから。僕はただ、固く拳を握ることしか、できなかった。
「考えておくんだよ、リュート。彼女と一緒に君の心まで壊れてしまっては、いけない」
シエナの、最後のロングトーンが響いた。数年前まで、人が唄っているようにしか聞こえなかった歌声は、いつしか、スピーカーから聞こえる音源のように、ノイズ混じりのものになった。
──シエナの命は、尽きかけている。それは、理解している。
──だからといって、シエナを捨てるなんて。そんなこと。
「……失礼します、旦那様」
再び腰を直角に曲げるようにしてお辞儀をする。旦那様が何かを言う前に、僕はシエナを連れて、そそくさと部屋を後にする。
長い廊下を、シエナの車椅子を押して歩く。次の仕事は八つ時だ。午後のティータイムに、シエナを連れてサロンへ行く。それまでは長い長い休憩、ということになる。
──僕は、この屋敷の中ではある意味特別な人間だ。
僕は十年前、事故で両親を亡くした。たった一人残された僕の身を案じて引き取ってくださったのが、旦那様だ。なんでも、奥方が僕の遠縁の親戚なのだとか。奥方は当時既に亡くなっていたが、旦那様は「妻の親類だから」という、ただそれだけの理由で僕を引き取った。
旦那様に、子供はなかった。奥方が病気がちで、子を産めるような身体ではなかったのだという。そのせいもあってか、「子供になったと思ってくれ」とのお言葉をいただいたが、僕はどうにもそんな気にはなれなかった。「自分に仕事をくれ」と訴え続けて数ヶ月が経った頃、旦那様はシエナを買った。僕はシエナの螺子巻き係を命じられた。最初こそ螺子を巻くことだけが仕事だったが、身体が大きくなってからは彼女の着替えや移動までを任されるようになった。今となっては管理人……もとい、シエナの召使いだ。
「シエナ、休憩をしましょう」
シエナの部屋のドアを開け、ソファーの前に車椅子を着ける。シエナをソファーに座らせ、部屋の隅に車椅子を戻した。
部屋にある小さな窓を開ければ、初夏の風が室内に吹き込んだ。
作業台の脇に置かれている、木製の、背もたれのない椅子に腰を下ろし、シエナの横顔をぼんやりと見つめる。
白磁の肌に、薔薇色の頬紅。唇には桜色。化粧は先日直したばかりだ、一部の綻びもない。先程梳いたばかりの髪も、整えたばかりの洋服も、触れる余地などないほど美しい。彼女と初めて出会った時と同じように。
「シエナ……」
名を呼び、髪を撫でる。その髪は、初めに比べれば随分色褪せている。最初は金色だった髪は、今となってはくすんだオフゴールドになっている。毛先が痛むたびに髪をカットした結果、最初は腰の付近まであった髪は肩口まで短くなった。
「物はいつか、壊れる」
旦那様の言葉を、繰り返してみる。
シエナは人形だ。物、だ。
稼働を始めて十年、内部機構のメンテナンスが出来なくなって五年。一般的な機械人形の寿命から考えても、壊れても仕方がないほどの時間が経っている。当然、職人手製の品であるシエナは、市販の機械人形と同じ方法で修理することもできない。
──シエナが壊れたら、どうしよう。
──そんなこと、考えたくないけれど。
首の巾着から螺子を取り出し、シエナの螺子を巻く。
絹のような歌声が、小さな部屋に響く。
古典的な子守唄。この国に住まうものなら、誰だろうと知っている、有名な唄だ。この歌を歌う人形など、この国にはいくらでもあるだろう。シエナの声が人形用に作られた音源であるなら、同じ音源を用いて作られた人形はいくらでもいるだろう。……旦那様が気に入っているのは、シエナの歌声だ。同じ歌声が聴けるなら、シエナじゃなくても問題ないのだ。
──シエナそのものに執着しているのは僕だけだ。
旦那様はお優しい方だ、と思う。
わざわざ僕に、「考えておけ」などと言うのだから。
屋敷内では、シエナは──もとい、シエナと僕は、厄介者扱いされている。旦那様のご家族からも、使用人のほとんどからも、シエナは時代遅れのボロ人形扱いされている。
──こんなにも、綺麗なのに。
シエナの前髪を掻き分け、その瞳を覗き込む。ラピスラズリが埋め込まれた、深い青の双眸。瞳のところどころに金が散っていて、まるで夜空がその瞳に内包されているかのようだ。
程なくして、シエナは歌を歌い終えた。いつもよりノイズが強く聴こえたのが気になったが、ひとまずその音が最後まで途切れなかったことに安堵する。
「シエナ、僕は部屋で勉強をしなければなりません。仕事の時間には迎えに来ます。……失礼しますね」
一礼して、シエナの部屋を出る。
僕の部屋は、シエナの部屋の隣だ。部屋自体の広さはシエナの部屋とそう変わらないが、ウォークインクローゼットが無い分、狭い。
部屋に入り、ベッドに腰を下ろす。部屋にあるのはベッドと机、箪笥のみ。家具だけ見れば簡素な部屋だが、どの家具の上にも本がうず高く積み上がっているせいでどこか散らかった印象を受ける。
僕は枕の上に放置されている本を手に取った。それは、世紀の人形師アントニオ・ニール……シエナの作者について記した本だ。栞を頼りに読みかけのページを開く。
部屋の大部分を占める本たちは、いずれも絡繰人形や、アントニオ氏についての本ばかり。どこかに、シエナの内部構造についての記述がないかと読み始めたものだ。
──中身の構造が、僕にも理解できれば。
──シエナの寿命を、伸ばしてあげられるかもしれない。
とはいえ、流石に企業秘密をおいそれと暴露するはずもない。今のところどの本にもそれらしい記述はなく、それどころか、「私の作品は私とともに死ぬ」とまで記されている本もあるくらいだ。
──身勝手な話だ、と思う。
その作品に惚れ込んで、いつまでも共にいたいと願う人間は、どうすればいいのだ。古びていく身体を抱いて、やがて止まる歌を愛し続けろとでも言うのか。
怒りのような感情を噛み殺して、ページをめくる。
今手元にある本は、謡唄い人形の構造を記した本だ。アントニオ・ニールの特製であるシエナを修理するのに役立つかはわからないが、基礎的な知識がないと始まらない。
遠回りかもしれないし、限りなく無駄に近い努力かもしれないけれど、何もせずにシエナが壊れるまで見守るなんてごめんだ。
「……待ってて、シエナ」
僕の呟きは、誰の鼓膜に届くこともなく、消えた。
***
「失礼します」
ノックをして、シエナの部屋に入る。
当たり前だが、その部屋の様相は数時間前と何一つ変わっていなかった。
「シエナ、晩餐会ですよ。今日はエイダ様やナズナ様もいらっしゃいます」
夕食といっても、普段は旦那様とご家族が食堂でお食事をされる時間、というだけなのだが、今夜だけは訳が違う。旦那様の御氏族やご友人もいらっしゃる、晩餐会だ。普段は夕食には顔を出さず、眠る前に子守唄を歌うだけだ。しかし、此度は、旦那様のご友人が「かのアントニオ・ニールの作品をこの目で拝みたい」とおっしゃったため、シエナが晩餐会で歌うこととなった。
クローゼットから、普段は滅多に使わないドレスを出す。色は、白磁の肌に映える真紅。身体に柔らかさのないシエナでも着られる、袖のないものだ。
ブラウスとスカートを脱がせ、ドレスを着せる。足の関節を動かして地面から足先を浮かせ、膝までドレスを通す。肩にシエナの身体を担ぐようにしてドレスを着せて背中のファスナーを上げる。胸元に金色のネックレスを飾り、足にはドレスと同じ色のハイヒールを履かせた。
車椅子をソファーに寄せ、シエナを車椅子に移す。髪と、ドレスの裾を整え、首から下げた螺子を螺子穴に差し込む。カチカチと、螺子を巻いた。螺子を抜くと、シエナが歌い出す。
昔に比べてノイズが目立つ歌声に、耳を澄ませる。
歌声が止まったところで、「行きましょうか、シエナ」と声をかけた。無論返事はないが、もはや彼女に話しかけるのは僕の癖のようなものだ。
僕は部屋の扉を開けて、車椅子を押して歩き出す。なんとも言えない緊張が、背筋に走った。
晩餐会ともなれば、旦那様だけでなく、多くの人の前にシエナを晒すことになる。……旦那様のご家族や、他の使用人は、シエナのことをよく思ってはいない。廊下ですれ違えば「ボロ人形」と誹られることも少なくないほどに。
──だというのに。
──晩餐会、なんて。
嫌な予感に飲まれかけていたことに気付き、首を振ってその予感を振り払う。
──お客様の前で誹謗中傷をするほど、頭の悪い連中ではないはずだ。
──むしろ、ここでお客様からシエナを褒めていただけるようなことがあれば、「棄てろ」と詰ることもできなくなるかもしれない。
──希望的観測、だけれど。
「……緊張しますね、シエナ」
***
晩餐会の会場には、旦那様やご家族、ご親戚のほかに、仕立ての良いスーツをお召しのお客様がいた。金の髪も青の瞳も、決して珍しいものではないが、その姿はまさに光り輝くようだった。年の頃は三十代後半から四十代前半ほどだろうか。美男子という言葉がよく似合う方だった。彼は僕とシエナが会場に入ったのを認めると、一直線にこちらへと歩いてきた。
「ああ、その子がアントニオ氏の最高傑作か」
「え、ええ。謡唄い人形の、シエナです」
「精巧だね……さすがアントニオ・ニールというところか。人型を作ったのはこの子が最初で最後だったと聞いたから、いったいどんな不細工なのかと思ったけれど」
男は、シエナの足元に跪いて、その顔立ちや四肢を値踏みするように見た。
「ええと……失礼ですが、あなたは?」
「ああ、申し遅れた。私はアントニオ・ニール記念館のキャメルという者だ」
そう言って差し出された名刺には、「学芸員キャメル・テラー」と記されていた。
「現在、アントニオ氏の記念館を作ろうという動きがあるんだ。神才と謳われた彼が作った、唯一の等身大人型人形である『シエナ』……それを寄贈していただくために、今日はガトー氏に交渉を」
「……え?」
シエナを、寄贈する。それは紛れもなく、この屋敷からシエナがいなくなるということであり、それはシエナと僕の中が引き裂かれる、ということだ。
「……あの。シエナは、弱っています。声も雑音だらけになるくらいで。このままでは壊れてしまう。アントニオ氏が亡くなってから、内部には手が出せなくなっていますしーー」
「だからこそ、ですよ」
キャメル氏はシエナを一瞥し、静かな声で言う。
「アントニオ氏の作品は、この国の至宝。それを使い潰すかのように、知識ない人間が手を触れ続ける。……まったく、恐ろしい話です」
「そんな」
言い返したかった。声を荒げて、そんなことはないと叫びたかった。しかし、僕にはそれができない。……キャメル氏が口にした言葉は、全てが事実だったからだ。
「生前のアントニオ氏の弟子でもあった、彼の御氏族が協力してくださることになっている。同じ物を作ることはできないまでも、内部の構造については理解がある……手入れもできない環境にいるよりはいいでしょう」
旦那様の方に目を向ける。旦那様は、僕と目が合うと、小さく頷いた。
──壊れてからでは、遅いのだよ。
今朝の、旦那様の言葉が耳の奥で蘇る。
「……シエナの所有者は、僕ではなく旦那様です。何故わざわざ僕に、そんな話をするのですか」
「君の同意なしに、彼女を譲り渡すことはできない。……ガトー氏が仰ったからだよ、リュート」
キャメル氏の目には、随分と真剣な色が写っている。その視線から逃げるように、シエナの方を見る。
その白磁の肌も、金の髪も、碧玉の瞳も、国の至宝と呼ばれるに足る物だとわかっている。理解している。しかし、彼女が自分の手から離れて、大衆の目に晒されるということに、耐え難い寂寥と、一抹の怒りを覚えた。
「返事はいつでも構わない。いや、早いに越したことはないが。……その様子だと、考える時間が必要だろう。決断したら、その名刺にある住所に連絡を。どうか前向きな検討を頼む」
そう言い残し、キャメル氏は去っていった。
***
翌朝、旦那様から「シエナは歌わせず、手入れだけをするように」というお達しがあった。僕の仕事はほとんどなくなり、ただただシエナの顔を見つめている時間が増えた。
「……僕はどうすれば良いのでしょうか」
シエナの瞳に、語りかける。無論、返答はない。
──旦那様が「壊れてからでは遅い」なんて話をしたのは、寄贈の話が来ていたらだったのだろう。
──旦那様は、シエナを手放す気でいるのだろうか。
──だとするなら、僕にはその決定を覆す権利など、ないのに。
──何故、僕の同意がなくては手放せないなどと、仰ったのか。
溜息をひとつ。
シエナの、硬質な頬に手を触れる。ひやりとした頬に、僕の手の温度が移って、徐々に暖かくなっていく。彼女が記念館に所蔵されてしまったら、こんな風に気軽に素手で触ることもできなくなってしまうのだろう。そう思うと、心臓に杭を刺されるような、耐え難い孤独を感じた。
「……シエナは、どうですか」
嫋やかな微笑みを湛えたまま、微動だにしないシエナに、語りかける。
「僕といるより……記念館で、大切にされたいですか」
シエナは人形だ。考えないし、答えない。この屋敷でも、記念館でも、ただ微笑み、螺子を巻かれたら歌う。それだけだ。……それでも、今ばかりは言葉を返して欲しいと願った。打ち砕かれると、決まり切った願いだけれど、彼女自身の思いが聴きたいと、心から願った。
そんな願いなど素知らぬ様子で、シエナは黙したまま、微笑む。
──ああ、僕は。
その目と表情を見て、ふと、悟った。
喉から、乾いた笑いが零れる。
──僕はただ、自分で決断したくないだけなのだ。
──旦那様でも、あの学芸員でも、誰でもいい。シエナ本人でも構わない。
──ただ、自らの意思でシエナの手を離すのも、その手を引き寄せるのも、怖かっただけだ。
それが他者の決断であれば、その結末がどんなものであろうと、僕は受け入れることができるだろう。あの人がそう言ったから、と、他者に責任を押し付けて。
いつだって、そうだったように思う。両親が死んで、この屋敷に引き取られたときから、ずっと。いつだって、旦那様の仰せのままに、と返事をしながら生きてきた。シエナの管理をすることだって、旦那様から命じられた役割だ。
僕は、何も掴まず生きてきた。持っているものは他者から与えられたものばかりだ。自ら掴み取ったものなんて、ただの一欠片も存在しない。
僕が自ら掴んだものがあるとするならーーそれは、たったひとつ。
──シエナへの、執着にも似た、想いだけ。
褪せることのない、あの日の記憶。シエナを見た瞬間に高鳴った鼓動。消えることのない愛おしさ。温度を持つことがない白磁の手を、僕の体温で温める幸せ。
──シエナへの想い。
──これは、もう今更捨てようもないほど身体に馴染んだ、僕の初恋。
彼女の手を撫でる。
僕はどうしたらいいんだろう。僕は彼女にどうなって欲しいんだろう。
僕の腕の中で、緩やかに死んでいって欲しいのか。僕の手の届かない場所で生きていて欲しいのか。
僕は、そのどちらであっても、「これでよかったのだ」と言うだろう。
しかし、そのどちらであっても「もう一方の選択肢を取っていれば」と後悔するだろう。
強いて言うなら──シエナに、僕の腕の中で、生きていて欲しい。
我ながら我儘だ、と思う。それができていれば苦労はないと言うのに。
僕は椅子から腰を上げ、シエナに「旦那様のところへ行ってきますね」と告げた。
***
僕は旦那様の目の前に座って、湯気が立つ紅茶の水面を眺めていた。恐れ多くも、旦那様は僕の話を聴くために、執務の手を止めてお茶の時間を設けてくださった。
「それで……私と話したいということは、腹は決まったということかな」
旦那様の声は優しげだった。視線を持ち上げると、旦那様の視線がこちらを真っ直ぐに見つめていた。
「……僕は、彼女に死んで……壊れてほしくない、です。それでも、彼女が僕の手の届かないところに行ってしまうのは、嫌なんです」
旦那様は、紅茶に角砂糖をひとつ落として、「続けて」と静かに言った。
「彼女には、生きていて欲しい、です。だから、記念館への寄贈をすべきだと、思います」
旦那様の視線に耐えかねて、手元に視線を落とす。
──これから告げることは、この身には過ぎた願いだ。
「でも、僕は……彼女と共にありたい。…………旦那様、お願いが、あります」
「……言ってごらん」
「僕に、学ぶ機会をください」
「……ほう?」
「シエナのいる場所に、僕が行けばいいのだと、考えました。そこへ行くための勉強を、させてください」
旦那様が、じっと僕を見据えているのがわかる。恐る恐る顔を上げると、そこには、驚いたような顔をした旦那様がいた。
──やはり、この身には過ぎた事だったか。
なんと弁明したものか、と必死で考えていると、旦那様がゆっくりと口を開いた。
「……どうやったら、彼女のいる場所に行けると思う」
「……え?」
予想外の問いかけに、思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。僕は相当愉快な顔をしていたのだろう。旦那様はクスクスと笑い、言葉を続けた。
「シエナの側で働く手段はいくらでもある。リュートは、その無数の手段の中の、どれを選ぶ?」
僕は、旦那様の質問に答えることができなかった。記念館で働く手段なんて、学芸員くらいしか思い当たらなかったからだ。
「きちんと調べて、考えて、納得したらまた話を聞かせてくれ。……リュート君が決めた道を進むというのであれば、私は協力を惜しまないよ」
その言葉に、思わず耳を疑った。しかし、旦那様が念を押すように「君の目指す道を、私が潰すわけがないだろう」と言ったから、先程の言葉も嘘ではないのだと理解した。
「……よろしいの、ですか。僕のような者に」
「君は、私の家族だ。……それ以上に、リタの家族だ」
リタ。僕の遠縁の親戚で、僕がこの家に引き取られるきっかけとなった人。旦那様の、愛する奥方。
「私は君に、後悔してほしくない。後悔せず済むように、なんでも試してみて欲しいんだよ」
旦那様はどこか暗い表情で目を伏せる。
「どうして旦那様は……シエナの行く末を、僕に委ねたのですか」
あの晩餐会から、ずっと疑問に思っていたことだった。旦那様は、美術品──財産の一角であるシエナの寄贈について、何故自分の承諾を条件として提示したのか。
「私にとって、シエナは謡唄い人形だ。絡繰であり、美術品なんだよ。……でも、君にとってはそうではないだろう?」
「……はい」
「うちの連中はみんなシエナを神才が造った人形程度の目でしかみていないようだしね。……それなら思い入れがある人の意見を優先するべきだ」
「……そう、なのでしょうか」
「そうだよ」
旦那様はこちらを見て、微笑んだ。
「愛し合う二人の中を引き裂いていいのは、神様だけだ」
旦那様はそう言うと、話は終わりだと言わんばかりに紅茶を飲み干す。それに習うように僕も、紅茶に口をつけた。
「じゃあ、私は書斎に戻る。……後悔のないよう、よく考えて」
そう言い残して、旦那様はサロンから出て行った。
僕は閉まった扉を呆然と眺めながら、近いうちにキャメル氏と連絡を取って話を聞いてみよう、と考えた。