悪夢の君




 彼が隣にいる時、僕は眠ってばかりいる。
 僕は、ごく一般的な会社員だ。社会人歴はもうすぐ七年になる。広告代理店の営業職として忙しい毎日を送っている。ありがたいことに最近は売り上げも上々で、それなりに大きなプロジェクトを任せてもらえるようになった。
 まあ、どれもこれも、彼のおかげなのだけれど。
 僕の隣で横たわっている彼を一瞥する。ビジネスホテルのダブルベッドの上で、彼はアプリゲームに興じていた。
 小柄な体にオーバーサイズの洋服を纏った黒髪の青年。髪に所々白い色が混ざっているのは、若白髪などではなく、そういう風にわざわざ染めているのだという話を聞いたことがある。
 彼は僕が送っている視線に気がついたのか、スマートフォンから目を離して「眠れないの?」と声をかけてきた。
「いいや。ありがたい話だと思ってさ」
「ありがたい話? なにが?」
「君のおかげで、僕はよく眠れるようになったから」
 彼と出会う前、僕はひどい悪夢に苛まれていた。眠っても疲れが取れず、精神的にも体力的にも追い詰められていた。仕事も忙しく、終電ギリギリで帰る日々の最中、僕は彼と出会ったのだ。
 会社近くの駅のホーム。駅メロが鳴り響く中、僕は彼に声をかけられた。「ねえ、あんた、眠れないの?」と。
 彼の優しげな眼差しに僕はすっかり心を砕かれて、膝から崩れ落ちてしまった。彼はそんな僕を見かねて、近所のビジネスホテルまで肩を貸してくれたのだ。
 その上、捨てておけばいいものを、彼はわざわざ話を聞いてくれて……いつの間にか、僕は朝までぐっすり眠っていた。昨日までの悪夢が嘘のような、静かで穏やかな、優しい眠り。
 それ以来、僕は時々こうして彼と夜を共にしている。特になにをするでもなく、ただただ二人並んで、ダブルベッドで眠りにつく。
「いつもありがとうね、レムくん」
 僕が彼について知っているのは、「レム」という通称と、彼のスマートフォンにつながる電話番号だけ。今時珍しく、メッセージアプリもSNSも使っていないようだった。
「……別に、いいけど」
 くすぐったげにそう言って、彼は寝返りを打って僕に背を向けた。いつも随分と大人びて見えるけれど、今の彼は見た目年齢相応に見える。
「レムくんはさ。……どうしてこんなことしてるの」
「こんなこと、って?」
「僕なんかの話を聞いて、僕と同じベッドで寝て、君になんの得があるのかよくわからない」
 男とホテルに入っていくところなんか、見られたくもないだろうに、彼はその特徴的な髪色を隠すことすらしないのだ。不思議な子だ、と思う。
「得ねぇ」
 ふう、と深い溜息をついて、彼は「一応、あるよ。得」と呟く。
「どんな?」
「秘密」
「……そっか」
 秘密、と言われると知りたくなるのはどうしてだろうな。でもきっと、僕がそれを知ってしまったら彼はもうこうして僕とあってはくれないのだろう、と思った。
「……なんで突然、そんなこと言い出したわけ」
「レムくんのこと、何にも知らないなって思ったから」
「知ろうが知るまいが、一緒でしょ」
「どっちでも変わらないなら、知りたいよ」
「……だめ」
「そっか」
 そんな姿を微笑ましく思いながら、僕は目を瞑った。
「おやすみ」
「……おやすみ」

     ***

 彼が眠りについたところを見計らって、そっとベッドから身を起こした。
 荒い呼吸。小刻みに震える体。時折聞こえる「いやだ」「やめて」という寝言。彼は変わらずひどい悪夢を見ているらしい。かわいそうに。
 手をとって指を絡めれば、ひんやりとした指先から悪夢の音が響いてくる。
 低い視線。学校の教室。給食の時間。罵倒の言葉。クスクス笑い。頭上で傾けられる牛乳瓶。降ってくる乳白色。
 ああ、これは、昔の記憶かな。幼少期の、消しようもない嫌な記憶。
 少し前までは仕事関連が多かったけど、そっちの悪夢は最近そんなに見ていないようだ。少しずつ悪夢の源が減っていってるのかもしれない。
「いただきます」
 口の動きだけでそう呟いて、荒く呼吸をする唇にキスをした。
 かさついた唇にそっと舌を這わせて、眠りの世界に蔓延る悪夢をずるずると吸い取っていく。
 次第に彼の呼吸が落ち着いて、震えも止まる。指先から響く悪夢の音はすっかり止んで、眠りの世界は平穏を取り戻した。
 吸い取った悪夢の分だけ、僕の腹は膨れている。この人の悪夢は上質だから、もうしばらくなにも食べなくても平気。
 僕は、漠だ。夢を喰らって腹を満たす化物。
 悪夢を食べてくれる、なんていうけれど、結局は他人が悪夢を見ないと生きていけない存在だ。
 穏やかな顔で静かな寝息を立てている彼を見ながら、小さく溜息をついた。
 ──ごめんね。また、僕のために悪夢を見て。


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