ディア・マイ・ポスト




 私は、ポストだ。
 赤くもなければ鉄の箱でもないし、道端に茫然と突っ立っているわけではない。でも我が高校において、私はポストと同じ役割を担っている。
 そして今日は、一年で一番ポスト業が忙しくなる日だ。
「渕上さん、これ……!」
 クラスメイトはどこか緊張した面持ちで、私に平らな箱を差し出した。結構高価なブランドのチョコレートに、可愛らしい封筒が添えられている。
 今日は、二月十四日。俗にいうバレンタインデーだ。今差し出されたこれも、バレンタインデーの贈り物だ。……悲しいのは、この緊張した顔も、差し出された箱も、私に向けられたものではない、というところだろうか。
「ええと。……桧山に?」
「うん、そう!」
 クラスメイトの表情がぱっと輝いた。
 桧山。桧山楓。私の中学時代からの友達。現在バレー部の部長にしてエース。顔立ちは華やかでこそ無いものの、精悍という言葉がよく似合う。……なお、楓なんて可愛い名前をしているものの、奴はれっきとした男である。
「じゃ、放課後渡しとく」
「お願いね」
 自分で渡せばいいのに、と思いつつ、チョコレートを受け取った。クラスメイトはぱたぱたと足音を立てて離れていく。私に預けただけで本人の手元に渡ったわけでもないのに「渡しちゃったー」とキャッキャしている様は、正直ちょっと滑稽だ。それでいいのか、乙女たちよ。
 私は机の横の紙袋にチョコレートをしまう。既に大きな紙袋はチョコレートで一杯だ。その全てが桧山宛のものである。自分宛のものがないのがちょっと悲しいが、今日はそもそも女の子から男の子に告白する日だ。女子である自分が貰えるものといえば、良くてばらまき用のチョコ菓子くらいのものだろう。まあ、それも、私相手に渡す奴なんかいないだろうけど。

     ***

 放課後。私はすっかり薄暗くなった教室で、桧山を待っていた。
 魔法瓶から湯気の立つ紅茶を飲みながら、紙袋の中身をひとつひとつ検める。頑張って作ったんだなぁとわかる手作り品から、ちょっと高価な既製品まで、多種多様なチョコレート……だけでもないな、甘いものばかり貰うことを見越してか、煎餅なんかも混ざっている。
 それらの中からひとつ、普段自分ではめったに買わないような高級チョコレートの箱を躊躇なく開ける。桧山からは「どうせ消費しきれないから欲しいのあったら食っていいぞ」と言われていたし、気持ち云々の話をするなら本人に渡さず私に託している時点でたかが知れるというものだ。
 包み紙をはがし、缶のふたを開ければ、中からはハートやアヒルの形をしたチョコレートが出てくる。この、たかが九粒のチョコレートが四千円近くするのだから恐ろしい、と思ってしまうあたり庶民だ。アヒルを摘まんで口に入れる。高いだけあって美味しいが、一粒で飽きて缶の蓋を閉めた。
 ──割と最低なことをしている自覚はある。
 一応の信頼の元託された贈り物を、横からかすめ取って消費する。それがいいことか悪いことかと言えば、悪いことに決まっている。結局それは、他人の思いを踏み潰すのとそう変わらない。……悲しいことに、もう慣れてしまって欠片ほどの罪悪感もないけれど。なんなら受け取り主から推奨されているし、受け取り主もわざわざ返事をしたりはしてないみたいだし。
 濃厚なチョコレートの甘みを濯ぐように、紅茶をすする。ベルガモットの香りが心地いい。
 そろそろバレー部も片付けを始める頃だろうか、と思って時計を見た、まさにその時だった。
「渕上。電気くらいつけろよ」
 ドアの方から、なじみ深い声が、聴こえた。
 そちらに目をやると、そこにはエナメルバッグを肩に掛けた、ジャージ姿の男子生徒が立っている。言わずもがな、桧山だ。
「桧山。……早かったね」
「片付け任せてきた」
「そんなだから横暴って言われるんだよ、エース様」
「人待たせてたからな」
「へぇ、今年は直に貰えるのね。よかったじゃん」
「お前のことだ馬鹿。待つって言ったのお前だろうが」
 桧山は呆れたような顔で私の額を小突いた。
「幼気な女子を小突くんじゃありません」
「は? 幼気な女子がどこにいるんだよ」
「目の前に」
「どこが幼気だ、滅茶苦茶強かじゃねーか」
「はいはい、これ重いから持って、桧山へのプレゼントなんだから」
 魔法瓶をリュックに入れて、帰宅の準備を整える。キャラメル色のダッフルコートと赤チェックのマフラーを装備して、ポケットに両手を突っ込む。手袋は、今日に限って家に忘れてきた。
「悪かったな、わざわざ取り次いでもらって」
「まあ五回目だし。もはや慣れたわ」
「そうか」
 軽やかに、桧山が笑う。
「……ほんと、人気者は大変だね」
「全くだ。消費しきれん」
 桧山は、決して甘党ではない。食べないわけでも、食べられないわけでもないが、この量をひと月そこらで消費できるほど甘い物が好きではないのだ。……だからといって、想いのつまったチョコレートを他の女子に「持っていくか?」なんて聞くのは、いかがなものかと思う。勝手に開けて勝手に食べていた私が言えたことではないのだけれど。
「……で? お目当ての人からは貰えたわけ?」
 揶揄うように問いかければ、桧山は苦虫を噛み潰したような顔をする。
「……貰えてねぇし、貰えるとも思ってねぇよ」
 ──桧山には、好きな人がいる。
 その事実を、私は去年のバレンタインデーに初めて知った。きっかけは単純、私が「なんでそんなモテるのに恋人作らないんだ」という積年の疑問をぶつけたからである。好きな人がいる、ということに対して「ふぅん」以外の感想はわかなかったけれど、案外小細工や隠し事が苦手な桧山が、ここまで長い時間片思いを拗らせているというのは面白くもあり、意外でもあった。
「つーか桧山、まだ袋の中確認してないでしょ。なんで貰えてねぇってわかんの」
「あいつはお前にチョコ託すとか、しねぇ」
「何その厚い信頼、ちょっと羨ましい」
「お前のことも信頼してるから安心しろ」
「嬉しいこと言うねぇ、どこを信頼してるのさ? 言ってみ?」
「口の悪さと薄情さ」
「うるせぇ黙れ」
 そんなふざけたやり取りをしつつ、なんで桧山、告白しないんだろ、と首をひねる。
 相手がどんな奴なのかは知らないけれど、桧山ほどの人間に告白されたら大抵の人間は「じゃあお友達から」か「付き合ってください」のどちらかで返事をするように思う。桧山はそれくらいにはいい奴だし、いい顔をしているし、いいスペックをしている。欠点と言えば暗記科目が格別に苦手なことくらいだろうか。気を許した人間――主に私――に対して少々デリカシーがないことも欠点に計上してもいいかもしれない。
「相手、桧山のこと好きなの?」
「うるさい。……そんなこと、俺が知るか」
「じゃあなんで待ってんの、相手の告白。つーかそれなら思い伝えないとお話にもならないんじゃない?」
「……あるだろ、居心地いい関係ってやつ」
「ああ、そういう」
 関係を壊したくない。……だから、思いを伝えられない。噂によく聞く現象だ。
 人は出会って三ヶ月経つと相手を自動的に友人にカテゴライズしてしまう。だから三ヶ月経つ前に恋人になっておくことが肝要だ、なんて話も聞く。逆を言ってしまえば、友人という関係を確立してしまってから恋人になるのは難しい、ということになるわけだ。
 相手が自分に恋愛感情を持っている、と知ってしまっては、今までと同じように振る舞うのは難しい、という意見もわからないではない。そんな程度で破綻する友情なんざ所詮仮初めだ、とも思うけど。仮初めでない人間関係が存在するのかなんて、私にはわからないし。
「渕上はそういうの、馬鹿みてぇだって言うだろ」
「ああ、うん」
 私は容赦なく頷く。
「アホくさ、って言おうと思ってたとこ」
「そういうとこが薄情だって言ってんだよ」
「本心だからね、どうしようもない」
 わざとらしく肩を竦めれば、桧山は深々と溜息をつく。
「お前に彼氏がいない理由がよーくわかる」
「まあ欲しくもないしな」
「友達がいない理由もよくわかる」
「友達? 友達くらいいるよ、多くはないけど」
「誰?」
「桧山」
「俺以外で」
「………………」
「お前、誰にでもそんな口の利き方するだろ。そりゃ友達になりたい奴なんかいねぇよ」
 確かに、特筆すべき友人は桧山しかいないけど。
「じゃあなんで桧山は私の友達やってんのさ」
 私の言葉を聞いて、桧山がじっと、私の目を見た。その視線があまりに鋭くて険しかったものだから、思わず睨み返す。
「なによ」
「反射的にメンチ切るのやめろ」
「残念ながら癖だ。……で、なんでよ」
「さあな、わからん。いちいち考えたことねーよそんなの」
 とっとと帰るぞ、と言って桧山は教室を出ていった。
 私は教室の鍵をかけ、だいぶ先を歩く大きな背中に「職員室に鍵返すから」と言葉を投げる。
 その背中は足を止めることなく、こちらに手を挙げて応える。
 桧山が目指している階段とは逆方向にある、中央階段を駆け下りる。この階段が一番職員室に近い。
 職員室のキーボックスに鍵をかけて、再び下駄箱までひとっ走り。
 玄関の向こうに桧山の姿が見えた。わざわざ待たなくてもそのうち追いつくのに、なんて思いながら、下駄箱の蓋を開ける。
「……あ」
 黒い革のローファーの上。小さな、平べったい箱が乗っている。そっと取り上げて見てみると、それは私の好きな、安っぽいチョコレート菓子だった。ウエハースが入ってる、赤いパッケージのやつ。バレンタイン仕様のデザインになっていて、可愛らしい。
 表にも裏にも手紙はおろか差出人すら書いていなくて、正直恐怖しか感じない。自分の好みに地味に合致している辺りがより怖い。しかし、今ここで――学校内で捨てるのも、それはそれで怖いな。どこで誰が見てるかわからないし。
 ……まあいいや、価格帯的にも本命ではなかろう。こっそり桧山のチョコの山に混ぜてやるか。
 とりあえずそれをコートのポケットにしまい、靴を履き替えて玄関を出る。
「ごめん待たせた」
 そう声をかければ桧山は「いや」と答えた。
 ポケットに手を突っ込むと、指先がチョコレートの箱に触れる。邪魔だし、溶けるし、とっとと桧山宛の紙袋に混ぜてしまおう。
 ポケットから箱を取り出して、桧山の隣に並ぶ。こっそりと袋の中に入れようとすると、桧山が「おい」と一声で私を止めた。
「ばれたか」
「ばれるに決まってんだろ」
「スルーしとけよ」
「断る。……なぁ、それ、」
 桧山が、私の手元を見下ろして言う。
「ああ、これ? なんか、下駄箱に入ってた。差出人の名前すらないし、なんか怖いからどうしようかなって」
 桧山が受け取ったことにしてくれないなら仕方がない。自分で持って帰らなくては。ぽい、とチョコの箱を鞄に放り込んでファスナーを閉める。
 ふと、深く息を吐く音が聴こえた。溜息の主桧山は、眉間を抑えて頭が痛そうな顔をしていた。
「どしたの」
「そうだよな、そりゃあ、そうだよな。いや、俺が馬鹿だった」
「なんの話よ」
「ちょっと貸せ、さっきの」
「は? なんで?」
「いいから」
 桧山の剣幕に気圧されて、鞄から再びチョコレートを取り出す。
 桧山はそれを私の手から奪うと、自分の鞄の中から油性ペンを引っ張り出して箱に何かを書きつけた。
「ほらよ」
 再び、私の手にチョコレートが戻ってくる。
 その箱には、決して綺麗とはいいがたい字で「桧山より」と書かれていた。
「普通に意味が分からないのだけど、なにこれ」
「……今流行りらしいぞ、逆チョコ」
「……桧山から?」
「ああ。……この学校に、お前にチョコ渡すような奴、俺以外にいるかよ」
 なるほど、これが桧山からであるのなら、菓子の好みが合致しているのもわからないではない。奴は何気に他人をよく見ている。
「違いない。それにしたって普通に渡せよ」
「だーもう、悪かったな」
「全くだよ、知らないうちに返品するところだったじゃないか」
 私はその箱を、鞄に再び収納する。先ほどより、少しだけ丁寧に。
「ありがたく貰っとく」
「……おう」
 見上げた桧山の顔は、寒さのせいか、いつもより赤いような気がした。
 チョコレートを渡すなら、もっと素直に手渡しすればいいものを。
 不器用なくせに、こんな小細工をするから好きな人に振り向いてもらえないんだ。
「私にチョコ渡す勇気があるなら、好きな子に渡せばいいのに」
「だから渡してるだろ」
「その言い方だと桧山が私を好きみたい」
「……そう言ってるんだよ、馬鹿」
「は?」
「昔からずっと。好きだった、って言ってんだよ」
 桧山の唐突なトンデモ発言に、私は言葉を失った。
「……あのさ」
「なんだ」
「ヘタレ過ぎない?」
 好きな人がいると聞いてからずっと思っていたことだったけれど、流石に言葉にせざるを得なかった。ヘタレというか、意気地なしというか。
「うるせぇ」
「何年いっしょにいると思ってんの、え、今更?」
「うるせぇ!」
 怒ってるのか照れてるのか、桧山の顔がかぁっと真っ赤になる。
「……にしても、意外だなぁ。趣味悪いんだね、桧山」
「もう黙れよ……」
「いいよ、黙っても。その代わり返事はまた今度ね」
「いや、やっぱ黙るな。振るならとっとと振れ」
「残念でした、答えは『しばらく時間ください』です。ホワイトデー辺りまで待って頂戴な」
「は?」
 心底驚いたような顔で、桧山が私をじぃっと見た。そんなに見ないで、顔に穴が開きそう。
「ま、チョコ渡したこと後悔したらそれまでに言ってよ。なかったことにするから」
「するかよ。……後悔なんか」
 桧山は、形のいい眉を下げて笑った。
「お、よく言った。かっこいー」
 彼の真剣そうな顔を見るたびに揶揄うようなことを言ってしまうのは、私の悪い癖だな。そんなことを今、初めて思った。
「それは馬鹿にしてると取っていいか?」
「ううん、マジでかっこいいって思ってるよ」
「どこが」
「顔とか」
「顔かよ」
「顔だよ」
 やいのやいのと問答しながら、端の方が群青に染まり始めた空の下を歩く。
 ……ずっと今のまま、友達でいましょう。っていうのは、我儘なんだろうか。我儘なんだろうなぁ。桧山が関係をぶち壊すつもりで告白してきたんだとしたら、の話だけど。
 あとひと月で、私はいろんな覚悟を決めなくてはならなくなってしまった、という訳だ。
 どんな選択をしても、私に特筆すべき友達は一人たりともいなくなるのだろうと思うと、気が重い。
 それでも。何も答えを返さないのは失礼だろう。それだけはよくわかる。
 桧山宛のチョコを私に手渡したっきり、本人から何の反応も返ってこなくて悲しそうな顔をしている子たちの顔は散々見てきた。正直同じ目に遭えと思わなくもないが、私は彼女たちにそこまで強い同情はない。なんならそれに加担していた側なのだし。
 ホワイトデーに何を渡そうか。なんと言葉を返そうか。
 そんなことを考えつつ、私は桧山を見上げる。
 どこか不安げな横顔になんと声をかけていいかわからなくなった。
 ──こんな会話の少ない家路は、初めてだ。
 これからずっとこんな雰囲気になるのなら。それはとても寂しいことだと、私は思った。

     ***

 一ヶ月はあっという間に過ぎ去った。
 桧山になんと返事をするか、という議題は一週間もすれば片付いたのだけれど、とにかくお返し選びに難儀した。
 今までバレンタインのチョコレートなんて貰ったことなどなかったし、お返しを選ぶなんて機会もなかったのだ。おかげでいろんな店のホワイトデー特設ブースをぐるぐる彷徨う羽目になった。
 最終的に選んだのは蜂蜜味の飴玉が銀色の缶に収められただけの、シンプルなものだった。そのシンプルさが、桧山に似合うような気がした。
 缶を入れた小さな紙袋を片手に、バレー部の部室があるクラブ棟へと歩いていく。
 ──随分温かくなったな。ひと月前と比べれば、だけど。
 マフラーとコートは必要なくなって、代わりにブレザーの中にはカーディガンを着込んでいる。ほんの少し体は身軽になったけれど、足取りは前よりずっと、重かった。
 クラブ棟の前に立って、桧山が出てくるのを待つ。「クラブ棟前で待ってるから無視すんなよ」というメッセージには、三十分前に既読がついていた。
 ぼうっとクラブ棟の入り口を眺めていると、建物の中から複数の男子学生の声が聞こえてきた。いくつか知っている声もある。どうやら男子バレー部の面々らしい。彼らの中心に、桧山がいた。同級生なのか、後輩なのかはわからないけれど、楽しそうだ、と思った。
 どうやって声をかけたものか、と迷いながら見ていると、桧山の視線がこちらを向いた。
「……渕上」
「桧山」
 桧山は部員たちに「悪い、今日は先、帰ってて」と伝えると、こちらへ向かって歩いてきた。相も変わらずジャージ姿で、汗で前髪が湿っている。
「待ったか」
「少し」
「そっか、悪いな」
「いいよ、私が待ってるって言ったんだし」
「今日は返事くれるんだろうな」
「勿論」
 ぐい、と。片手で紙袋を桧山の胸に押し付ける。
「これが私の答え」
「お、おう」
 桧山は紙袋を受け取って、困惑したように瞬きをした。
「私、さ。薄情なんだよ、桧山も知ってると思うけど。桧山宛のチョコ平気で食うし、他人の恋平気で嗤うし。割と最低のやつなんだよ」
「……うん」
「でも。……桧山の告白には返事をしないと、って思った。桧山には……薄情になりきれない」
 一呼吸おいて、覚悟を決めて。私は、再び口を開く。
「桧山にだったら、恋をできるのかもしれないって、恋をしてみたいって、思った」
 桧山は頷きだけで相槌を打ちながら、私の言葉の続きを待っている。
「私桧山のこと好きだけど、まだ全然、桧山と同じ好きじゃない。それでもいいって言ってくれるなら、桧山」
 びしっと片手を突き出して。かくんと九十度近いお辞儀をして。
「私と付き合って、桧山」
 数秒の沈黙が、春めいてきた空気を凍らせる。
 ──ああ、やっぱり駄目だったか。
 そう思ったとき。
 突き出した手が、温かいもので包まれた。汗で微かに湿った、桧山の手だった。
「……なんか、渕上がしおらしいと、変な感じするな」
「……うるさいな」
「そんなまどろっこしい言い方しなくたっていいんだよ、お前は。私と付き合え、って、それだけでいいよ。お前がどんな奴かなんて、とっくに知ってる。……俺はそんなお前がいい」
「……そう、か」
「そうだよ。……話も済んだし、帰ろうぜ、渕上。……いや」
 桧山は少し照れ臭そうに笑って、私の手をぎゅっと握った。
「一緒に帰ろう。……涼」
 躊躇うような間の痕で呼ばれたその名前は──家族以外が呼ぶことなどほとんどない、私のファーストネームだった。
 私もその手を握り返して、言う。
「……うん、帰ろう。楓」
 もうポスト業は廃業しよう。そんなことをぼんやり考えながら、楓と肩を並べて歩きはじめる。
 いつもよりほんの少しだけ、心臓の鼓動が早かった。


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