第一章 産沼の娘




 第三学校の裏山には、山頂公園へと続く山道がある。
 桜の時期もすでに終わり、青葉が燦然と光る桜の木の下を、俯き加減に歩く。
 四月半ばの空気は、思った以上に冷たい。ブレザーを着ていないことを、口惜しく思う。
 五分ほど山道を上ると、道端に小さな石像を見つけた。卵に似た形をした、苔むした石像。それは、脇道を見つけるための目印になっている。
 石像が指示す道に、目を向ける。向こうは整備されている山道とは違い、土が踏まれたことにより形作られた自然の道だ。
 私はほんの少し躊躇った後、脇道の方へ足を踏み入れる。無意識に、肩に掛けたスクールバッグの持ち手を握りしめていた。
 この道の先には、絶対に近付いてはいけない、とされている沼がある。
 ――曰く、この沼で遊んでいた中学生が溺れ死んだ。
 ――曰く、この沼から未知の毒ガスが発生していて、それを吸い過ぎると幻覚を見るようになる。
 その他沢山の、本当なんだか嘘なんだかわからない噂群。そんなものを半ば脅しのような形で聞かされながら、この街──星見ヶ丘の子供は育つ。
 無論、人間は禁を破りたい生き物なので、産沼を主な遊び場としている子供も少なからず存在する。こんな獣道ができてしまうくらいには。
 ……それでも私は、何故か、あの沼が怖かった。近寄ってはいけない場所だと、理解していた。
 元々聞き分けがよく、「いい子」にカテゴライズされることの多い私だけれど、親に、教師に言われたから近寄りたくないというよりは、もっと本能的に、あの沼へ行くことを避けていた。
 そう。
 私は今日初めて、この脇道に足を踏み入れたのだ。
 大したことは無い、と、繰り返し自分に言い聞かせる。
 あの場所を遊び場にしているという男子生徒は、沼で遊んだ翌日も、私に不必要な暴言を向ける。
 肝試し代わりにあの沼を訪れた女子生徒は、その翌日も私を貶め、嘲笑う。
 大したことなど、無いのだ。私が、過剰に怖がっているだけなのだ。
 そう念じながら、早足に産沼を目指す。
 脇道に入って、十分ほど歩くと、公園ほどの広さの開けた空間が現れた。
 地面の中央が学校のプールほどの面積の穴になっており、お椀のようにそこの丸い穴の半分ほどが、灰色の泥で満たされていた。私が今立っている場所から沼の水面までに意外と高さがあり、中に落ちてしまえば、他人の手助けなしに這い上がることは難しいように思える。沼の周囲に昨夜ロープの類は無く、確かにここは子供が遊ぶにふさわしい場所ではなさそうだ、と納得した。
 私は沼の周囲をゆっくりと歩きながら、その水面に目を凝らす。
 ――聞き分けがいいことだけが取り柄である私が、親や学校からの言いつけを破ってこの場所に来たのは、ある物を探すためだった。
 沼の泥と、似たような色をしたブレザー。それが、私が探しているものだ。
 ――体育の授業から帰ってきたら、机の上に畳んで置いてあったはずのブレザーが忽然と消えていた。
 盗まれたのか、隠されたのかはわからないが、ともかく、そこにあったはずのブレザーが誰かの手によってどこかへ移動させられたことは明らかだった。ワイシャツやスカートを持っていかなかっただけ優しいという見方もできなくはないが、流石に安価とは言えないブレザーを盗った人間に対して「優しい」という語を使えるほど、私は善人ではない。
 ごみ箱や焼却炉など、学校内で心当たりのある場所を探していた時、すれ違った趣味の悪い連中がこちらをじろじろと見つめているのに気づいた。「あれ、どうしたの?」
「沼に捨てた」
「うっそぉ」
 心底楽しそうな、笑い交じりの声。私が視線をそちらにやると、彼女たちはきゃらきゃらと笑いながら散開した。
 連中が犯人候補の上位に位置する集団であったため、私はある種、連中の言葉を信じる形で、遥々この沼までやってきたというわけだ。
 私は、目を皿のようにしてブレザーを探す。不透明な沼の底まで見通そうと試みる。……しかし、いくら水面を凝視しても、それらしきものは見当たらなかった。
 会話の中で言っていた通り、沼に捨てたというのは嘘だったらしい。
 はぁ、と溜息を吐く。骨折り損のくたびれ儲けとはまさにこのこと。
 これが筆箱や上履きなら、即座に諦めて新品を買うのだが、制服となると話は別だ。ブレザーだけでも中学生の毎月の小遣いでカバーできる金額を超えているし、「ブレザーなくしたから買って」などと言えば親からいらない勘繰りを受けること間違いなしである。
 ――探すべき場所は、他にあっただろうか。
 沼の淵にしゃがみ込み、沼に浮かぶ、不気味な泡を見つめながら思案する。
 と、その時だった。
 灰色の泥が、突如ぼこりぼこりと沸き立った。あぶくが浮いては消え、浮いては消え。まるで私が見つめているその一点だけが熱くなり、沸騰しているかのようだった。
 私は突然の出来事に驚き、素早く立ち上がった。半歩後退り、様子を伺う。
 その沸騰は、三十秒ほどの間続き、やがて水面は元の静寂を取り戻した。名残のように浮いていた泡が、ぱちんと消える。
 ――なんだったんだ、今の。
 がっくりと肩を落とし、踵を返す。どことなく不吉な予感がして、今すぐにこの場を離れたいと思った。思った、のだが。
 足を一歩、踏み出そうとした、その時。私はその音を聞いてしまった。ざぷん、という音に、気が付いてしまった。背後にある沼から、水音がしたのだ。その音はまるで――沼の中から何者かが、顔を出したかのような音だった。
 私は、はたと疑問に思う。
 水音が、沼の中から何者かが出てきた音なのだとしたら――それは一体、何者なのだろうか?
 この沼に生物が住んでいる、という話は聞いたことが無い。この街の子供は皆、「魚一匹いないから、あの沼で遊ぼうなどと考えるな」と繰り返し忠告を受けてきた。その忠告が真実だったとするならば、この沼にいる生物は、今ここに突っ立っている私一人のはずなのに。
 ざぷ、と、再び水音が響く。その生物の身動きに合わせて、水面が揺れる。
 ――だめだ。
 ――振り返っては、いけない。
 好奇に駆られる自らに、今すぐこの場を離れろと必死で言い聞かせる。
 過去に読んできた創作物の登場人物たちは皆、こういう時、大抵好奇心に負けて振り返り、その結果、目も当てられないような末路を辿っていた。彼らと同じ目に遭うのは、ごめんだった。
 しかし、何故だか体は動かない。体の関節という関節が、錆び付いてしまったような気がした。
 ざぷ、ざぷ、と水音は続く。泥を掻き分けて歩むようなリズムだった。
 水音の波間から、何かが聴こえた、気がした。自らの吐息を殺して、耳を澄ます。泥の音の隙間から、微かな音を、拾い上げる。
「――――ッ!」
 思わず、息を飲んだ。
 拾い上げた、その音は。……吐息、だった。
 はぁ、はぁ、という、鈴の音のような声が入り混じった呼気。吐息に入り混じるその声は、紛れもなく――人の、人間の、ものだった。
 ――人。人間。
 ――沼の中から、人、が?
 先ほどの沸騰は、水中で人が息を吐いているようにも見えなくはなかった。まさか、沼の底に沈んでいた人が、浮かび上がってきたとでもいうのだろうか。
 そんなことはあり得ない、とかぶりを振る。もしそれが人だったとするならば、私がこの沼の周りをぐるりと回っている間、沼の底で息をひそめて待っていたということになる。潜水のギネス記録が二十二分だというから、不可能なことではないのかもしれない。私がこの沼を訪れてから、まだ十五分ほどしかたっていないはずだし。……でも、一体、何のためにそんなことを。
 そうなると、ますます興味がわいてくる。そこにいるのは、一体何なのだろうか。そもそも、本当にそこにいるのだろうか。私の思い違いではないのか。人間でないのなら何なのか。人間だというなら、生者なのか死者なのか。
 ――駄目だ。駄目だ駄目だ駄目だ。
 ――それを見たら何かが致命的に変わってしまう。
 駄目だと叫び続ける理性を他所に、私の体は好奇心に負けた。
「……ッ!」
 振り返った、その先。灰色の泥が溜まった沼の中。そこには、こちらを見上げる人の影があった。
 14歳の私とそう変わらない年頃に見える人物が、なぜか一糸まとわぬ姿で立っていた。体付きを見るに、女の子のようだ。濡れて肌に張り付く長髪は沼の泥と同じ灰色をしており、助けを求めるようにこちらを見上げる目は灰がかった青色だ。
 どうやら向こうは私を認識しているらしく、助けを求めるようにこちらに手を伸ばし、こちらへ歩を進めている。しかし、太ももの半ばまでが泥に浸かっているため、なかなか思うようには前に進めていないらしい。
「……あなた、大丈夫?」
「ぁ、う」
 彼女の声は、言葉にならなかった。赤ん坊のような呻き声を上げ、こちらをひたすら目指している。
 私は、沼の中にいる彼女に手を伸ばした。彼女はのろのろと泥の中を歩み、私の手を取る。
 ぐい、と力を込めて彼女を引き上げる。その体は、不自然なほどに軽く、決して力持ちではない私の腕力だけでも沼の中から引きずり出すことができた。
「ねえ、名前は?」
 引き上げた彼女に、鞄から出したフェイスタオルを手渡して問う。しかし、予想通りと言うべきか、彼女は「うー」と呻くばかりで、意味のある言葉は返ってこなかった。それどころか、彼女は受け取ったタオルを見て、それをどうすればいいのか思案している風だった。
「ああもう、貸して」
 私は彼女からタオルを奪い取り、泥にまみれた顔と身体を拭いた。当然、フェイスタオル1枚で全身の泥を落としきることができるはずもなかったが、少しはマシになった。
「……あんた服は?」
 彼女は答えない。
「家は?」
 答えない。
「どこからきたの?」
 以下略。
 なにを聞いても答えが返ってくる気配はない。一瞬ここに放置して帰ってやろうかと思ったけれど、どう考えても年頃の女子を全裸のまま放置するのはまずい。
「……これ、着て。汗臭いかもしんないけど我慢して」
 鞄から半袖半ズボンの体操服を取り出して、差し出す。相変わらず彼女は首をかしげるだけだったので、とりあえず問答無用で上を着せる。言葉が通じていないらしい相手にズボンを履かせるのは思った以上に大変な仕事だった。
 彼女が私より小柄だったために、体操服はぶかぶかだ。正直不恰好なことこの上ないが……これでとりあえず、街中を歩いても捕まることはないだろう。
「とりあえずうちに来て。風呂くらい貸せるし、私のお古でよければ服もある」
 確か今日は、両親共に帰りが遅い日だ。人の一人や二人、連れ込んだってバレやしない。
 呆然と突っ立っている彼女の手を引っ張って、山道を降りる。
 ブレザーの件は明日以降に先延ばしだな、と溜息を吐いた。

      ***

「疲れた……」
 ソファにどっぷりと身を沈め、私はふう、と息を吐く。
 案の定というか、風呂に放り込んでも一向になにかをする様子が見られず、私が彼女の全身を洗う羽目になった。
 身体や髪の泥を洗い落とし、タオルで拭き、服を着せ、髪を乾かしてやる。
 その間、彼女は時折「うー」とか「あぅ」とか呻き声を漏らしたものの、抵抗する素振りは見せなかった。今も、小学生時代の私の服を着て、ソファの端っこにちょこんと腰掛けている。
 どうしたものかなぁと思案する。親からの追求を思うとこのままこの家に置いておくわけにはいかないし、「身元不明で喋りもしない不思議な子を家においてあげてほしい」なんて無茶苦茶を言える友人も私にはいない。
 彼女の行く先を、早いところ、見つけなければならない。
「……あぁ、そうだ」
 ふと、思い浮かぶ顔があった。彼ならば、引き取ってはくれないまでも、相談には乗ってくれるかもしれない。……もしかしたら、変わり者の彼のことだから「この子、貰っていい?」とか言い出すかもしれない。
 そうと決まれば、話は早い。私はすっくと立ち上がった。片手で床に放り出されていた鞄を拾い上げ、もう片方の手で彼女の手を引く。最早彼女に言葉をかける気は失せていた。

     ***

住宅街の真ん中に、それはぽつんと建っている。色褪せた看板を掲げた古い店舗の上に、住居スペースが乗っかっている。地震が来たら一瞬でぺしゃんこになりそうなボロさの建物だ。ここが、私の目的地である竈屋である。
 竈屋は、私の家から徒歩数分のところにある古本屋だ。古本屋といってもリサイクルショップの類ではなく、学問的な価値のある貴重書や美術品を扱うような店である。いつ行っても閑古鳥が鳴いており、正直どうして潰れていないのか不思議でたまらない。少々頭のイカれた店主曰く、「他にも色々仕事はあるから、店は道楽」とのことだ。
 立て付けの悪い引き戸を開けると、店の奥から「いらっしゃーい」という、間延びした男の声がした。
 本のタワーを避けながら店の奥に進む。店の奥には、大量の古書が積み上げられたカウンターがある。その向こう側の椅子に座って、ボロボロのノートと向き合っているのが、先ほどの声の主でありこの竈屋の店主でもある男だ。
「こんにちは」
 そう声をかければ、彼は手元のノートを閉じて、こちらを見上げた。長い前髪の隙間から、お月様みたいな色の瞳が覗く。
 彼の名は、竈名無。どう見ても偽名だろう、という名を本名として用いる、自称三十路のおにーさんだ。
 土気色の肌と、金色の瞳。それを暗幕のように覆う髪は闇色で、首の後ろには猫の尻尾みたいに細くまとめられた毛束が垂れている。洒落っ気のない男だが、右耳には星の形をした銀のピアスが飾られている。顔かたちは決して悪くないのに、不健康な顔色やこの世の全てを嘲笑うような表情で損をしている感は否めない。好青年とはいいがたいし、決していい奴だとも思わないけれど、髪や瞳の色合いが夜空のようだから、私は彼を、割と気に入っている。
「なんだ、苗か」
 地を這うような、低い声。彼は露骨に落胆の溜息を吐き、首を左右に傾けた。相当肩が凝っているのらしく、ゴリゴリと嫌な音がする。
 苗、というのは竃だけが呼ぶ私のあだ名だ。私の本名は苗元育江という。
「しかも珍しいことにダチも一緒か。もう四月だってのに、明日は雪が降るな。雪じゃないなら、槍か? 飴か? 何が降っても一大事だなぁオイ」
 低く掠れた、聞き取りにくい声で、竈は結構無礼なことを言う。
「残念ながら私に天候を操る能力は無い」
「冗談。……苗のことだ、どうせ友達ってわけじゃねぇんだろう。その子にまつわる相談事と見た」
「……いつも思うけど、客に対して失礼では?」
 多感な中学生相手に、面と向かって友達いないとか言うんじゃねぇ。
「苗はお客じゃねぇだろう。お前、うちの本、何一つ買って行ったことないだろうが」
「それは中学生が買える値段の本を置いてから言って」
 この竈屋は、置いている本のほとんどが学問的な価値を持つ本だ。価値のある本、というのは当然値段も高くなるわけで。見た目はただ古いだけのペーパーバック本なんかもあるのだけれど、それらにも何らかの価値があるらしく、万単位の値がついていたりする。
「ま、中学生のためになるようなもんは置いてねぇから買わなくて結構」
「……そうなの?」
 そう言う割に、カウンターの上にはハリーポッターシリーズが塔になっていたりするのだが、これもためにならない本の部類なのだろうか。それとも暗にガキ相手に商売する気なんざねぇと言っているのだろうか。
「うちの本は価値のわからない奴が持ってても意味ないものばっかだからなぁ。価値がわかるようになったら売ってやるよ」
殿様商売甚だしい。
「で、その子は?何者?」
 竈の骨張った長い指が、彼女を指差した。
「拾ったの」
 私は、非常に簡潔に状況を述べる。
「……はぁ?」
 案の定、竈は素っ頓狂な声をあげた。彼の金の目が、彼女をじぃっと見つめる。
「……どこで」
「沼」
「沼って、産沼か?」
 無言で頷くと、竈の視線が私に移動した。限界まで見開かれた三白眼と、視線が交わる。
「……色々と、訊きたいことはあるけど、とりあえず。経緯を聞かせてもらおうか」
 私は彼女の方をチラと見てから、一連の出来事を語って聞かせた。
 ブレザーをなくしたこと。沼へ探し物をしに行ったこと。沼が沸騰したように泡立って、彼女が現れたこと。なぜかほっとけなくなってしまって、拾ったこと。かといって家に置いておけるわけでもないからここに連れて来たこと。
 竈は相槌すら打たず、神妙な顔で私の話を聞いた。私が話を終えると、竈は椅子の背もたれに身体を預けた。何事か考えるようにうんうん唸った後、深い溜息を吐いた。
 沈黙の後、竈は椅子から身体を起こし、カウンターに両肘をついて、ゆったりとした動作で指を組み、金色の瞳で私を鋭く睨む。
「随分とまぁ厄介なもん持ち込んでくれたなぁ。よりにもよって産沼か」
 呆れたような、声音だった。
「先生の言いつけ破れるタイプだったんだな、お前。散々産沼に近付くんじゃないって言われてるだろうに」
「事情が事情、だったから」
「……なんかもう、この際産沼に遊びに行ったのはいいや。……でも、その事情とその子拾ったのは話が違う。世話できないものを拾うんじゃありません」
「……ごめん」
「俺ですらあの沼には近付けないってのにこの馬鹿は……はぁ、どうしたもんかね」
「……そんなに危ないの、あの沼」
 確かに足を滑らせれば泥の中に真っ逆さま、這い出ることは難しいように見える。けれど、彼女の膝辺りまでしか推移がなかったのを見るに、深さは大したことないように思えた。沼に落ちて死んだ人間がいる、という噂が嘘臭く思えたほどだ。
「相変わらず運がいいんだな、苗は」
 呆れたように肩を竦めて、竈は語り始める。
「危ないよ。ただ君は、勘違いをしているように見える。俺の言っている『危ない』ってのは、泥の中に落っこちそうだの安全性に問題があるだの、そんな話じゃねぇんだよ。……あの沼で、度々人が消えてるって話、聞いたことがある? 苗の年代だと……あれか、第三中の生徒が消えた話が馴染み深いか」
「え、うん、沼で溺れて死んだ、っていう」
 この街の大人が産沼の危険性を伝えるために話す、教訓話。それは、春のことだったという。第三中学校の一年生二人が、産沼へ遊びに行き、帰らぬ人となった。話の内容はそれだけなのだけれど、子供に恐怖を植え付けるためか、様々な尾ひれがついていって、今やこの街で最もメジャーな怪談と化している。
「残念、溺れて死んだは尾ひれの部分。実際は消えた、が正しい」
「消えた……? 行方不明、ってこと?」
 竈はこくりと頷く。
「奴らはその沼に行ったっきり、帰ってこなかった。死んでいるのか、生きているのか。それすらもわかっていない」
 まあ死んだんだけどね、と、彼は嗤った。
「なんで死んでるって、わかるの」
「奴らは産沼に捕まった。あの沼に捕まって無事でいられるはずがない。そんだけ」
「捕まった……?」
「そ。捕まった。捕まって、食べられた。……あの沼は人を食うんだよ」
「人を、食う沼……」
「正直沼って言葉を使うのも間違いなんだけどな。あれはただ沼のフリをしているだけで、れっきとした一個の生命体だ」
 ……なんだか、妙な話になってきたな、と思った。
 人食い沼。しかもそれは、実際のところ沼ではなく、一個の生命体であるという。伝承やら昔話やら、物語の世界であることを前提にするなら、ありそうな話だ。けれど、自分が住む街にそんなものがある、なんて言われても、信じろという方が無理な話だ。
「……ま、それを語ってる大人たちのほとんどは、あの沼が人を食うだなんて、知らないだろうけどさ」
「運が良かったって言うのは、食べられなくてよかったな、ってこと?」
「ご明察。……お前らは、あの沼を甘く見過ぎなんだよ」
「でも……産沼を遊び場にしている連中が行方不明になったなんて話、聞いたことない」
「それは幸運に幸運を積み重ねてるだけの話だ」
 もしくは実際に行ってもいねぇのにイキってるだけだろう、と、彼は言う。
「……と、忌々しい沼の話はこのくらいにして。そっちの子を見ないとな」
 竈は、彼女に視線を移し、指先だけで手招きをした。
「ええと、名は? その子、なんて名前?」
「わかんないの、口聞いてくれなくて」
「そうか……じゃあ仮に沼子とでもしておこう」
「安直」
「仮に、つってんだろ。意義があるなら別案を寄越せ……沼子、こちらへ」
 彼女、改め、沼子はその声が自分に向けられているのだと気付いてすらいないらしい。私は沼子の肩を押し、竈と沼子を対峙させる。
「失礼するよ」
 竈はそう言うと、椅子から立ち上がり、カウンター越しに沼子の肩を引き寄せた。そのまま沼子の頭部に鼻を寄せ――すう、と、匂いを嗅ぐように、大きく息を吸い込んだ。
「どーも」
 そう言って沼子の肩を離し、再び椅子に腰掛ける。
「え、何今の」
「匂いを嗅いだだけだよ」
「絵面がアウト」
「苗も手、貸して」
 私の言葉は華麗に無視された。どうやらこの「手を貸して」は手伝ってほしい、ではなく文字通り手を差し出せという意味らしい。見る人が見れば、これも割とアウトな絵面じゃないかと思う。
「なんで」
「見るだけだっての」
 渋々右手を差し出すと、竈は「逆」と言って、左手を要求した。
「……痛いと思ったら、なにこれ」
「見ての通り、爪痕でしょうよ。気付かなかったの?」
 沼子が握っていた左手には、沼子の爪の痕が残っていた。かろうじて血は滲んでいないものの、皮膚は破られ、三日月のような痕が並んでいる。
「なるほどねぇ」
 竈は私の手を離し、沼子をじっと見つめている。
「随分とまぁ……よくできてんなぁ、こりゃ。全く、恐ろしいもんを拾ってきたねぇ」
 沼子は、無言だ。呻き声一つ、漏らさない。竈はといえば、爛々と光る目で、沼子を見ている。
 じんわりと、嫌な予感がした。竈がこんな目をするときは、大抵ロクでもない事態が発生しているときだ。初めて竈と出会った時も、こんなような目をしていたな、と思い出す。
「苗。……こいつからは、あれと同じ匂いがする」
「あれって?」
「産沼」
「……どういう意味?」
「文字通りの意味。……沼子からは、産沼と同じ匂いがする」
「そうじゃなくて。だからどうしろって言うの?」
「それは俺が聞きたい」
「……はぁ?」
「沼子を拾ったのは、苗、お前だ。お前はこれをどうしたいんだ、それ次第で対応も変わる」
 竈は肩を竦めて、続ける。
「これがどういった存在なのかは、まあ、わかった。だが、こいつの内面を伺うことはできない。まさに不透明な沼の底を伺うが如し、だ」
 竈は再び背もたれに体を預け、答えのない問いに思いを巡らせるような表情をした。
「危ない奴かもしれないし、人畜無害な、無口なお嬢ちゃんなのかもしれない。……どっちとも言い切ることができねぇから、拾い主のお前に尋ねてる。こいつ、どうする?」
「どうする、って……」
 そんな、拾った子犬じゃあるまいし。人一人の行く末を、こんな、ただの中学生に尋ねられても困る。
「警察、とか……?」
「警察?」
 竈は露骨に嫌な顔をする。警察に嫌な思い出でもあるのだろうか。……ちなみに、彼は警察にお世話になっててもおかしくないようなことを私が知っているだけでも二回ほどやらかしている。よく捕まらないものだと感心しきりである。
「なんで警察が出てくんの」
「え? 普通じゃない? どこかから行方不明になってる子なのかもしれないし」
「……いや、それはないでしょう」
 竈は苦い笑みを浮かべ、肩を竦めた。
「というか、どうやったらこいつが普通の人間だと思えんの……俺がなんで沼子なんて名前つけたと思ってんだ。そいつが、沼の子……産沼の娘だからだよ」
「娘? 産沼の?」
「そ、産沼の娘。産沼から発生したんだから、まあ娘と言って過言ではないでしょう。そもそも、あれが産沼と呼ばれているのは文字通り、子を産むからだし」
「沼の子供、って……なんでそんなことが、わかるの?」
「匂いだよ、匂い。俺は、匂いで常ならぬものを理解できる、って話は前にしたことがあったな?」
 私は頷く。
 常ならぬもの――怪奇現象、地球外生命体、人間社会に馴染まない技術、エトセトラ、エトセトラ。そういうものの存在を、竈は匂いを通じて理解することができるのだという。先ほどの沼の話と同じで信じろという方が無茶な話なのだけれど、竈の「嗅覚」のおかげで救われた経験があるために、否定をできないでいる、というのが正直なところだ。
「……俺は、過去に産沼の匂いを嗅いだことがある。その時感じた匂いと同じものを、沼子から感じた」
「そりゃ、あれだけ泥に塗れていたら、匂いくらい、つくんじゃないの」
「どうも外からついた、って感じの匂いじゃねぇんだよ。そもそもお前、話を聞くに沼子を丸洗いしたんだろ。外側からついただけの匂いなら、洗えば落ちるさ。……というか苗、結構長い間あの沼の周りうろうろしてたんだろ。それだけ長い間、人間が泥の中に潜んでられるかよ」
「じゃあ……沼子は、人間じゃ、ないの?」
「人間の定義にもよるだろうけど。……人の胎から生まれ、人の間で育てられたものを人間とするならば、それは人間じゃあねぇな。なんてったって、それはついさっき、あぶくと共に沼から浮き上がってきた存在……どう足掻いてもバケモノの類だ。苗と同じ種族だとは、言い難いだろうよ」
「……そんな」
 私は、沼子の顔をしげしげと眺めた。いまいち印象に残り辛い、良くも悪くも普通の顔立ちをしているだけに、髪の灰と瞳の青がいやに目に付く。けれど、その姿かたちは人間そのものにしか見えなかった。
 竈の真似をして、沼子の髪をくんくんと嗅いでみる。私の愛用しているシャンプーの匂いはすれど、沼や泥の匂いはしない。
 ……竈の、常ならぬものが匂いでわかる、という特性がどこまで本当なのかはわからない。けれど、その特性には、今まで何度か救われたことがある。信頼はともかく、実績だけはあるのだ、この男の「嗅覚」は。
「沼の、子供……そうなの?」
 沼子に問いを投げても、答えは返ってこない。
「まぁ、そいつが人間だと信じるのは自由だけどさ。……でもさぁ、今まで俺がまともじゃないって断じた奴がまともだったこと、あった?」
 竈が、トドメを刺すような口調で言った。
 まったく全てが、その通りだった。いつだって竈の「嗅覚」は優秀で、彼が常ならぬものだと判断したものが厄介ごとを起こさなかった試しがない。
 沼子の、青い瞳を覗き込み、その向こうで何を思っているのかを想像する。しかし、その瞳はガラス玉のようで、その奥にある者を、伺うことはできなかった。
「で、どうしたいんだ、お前」
「……竈は、どうするのが最適解だと思う?」
「俺? 俺ならそもそもそんな怪しげなやつを拾ったりはしねぇよ」
「私と同じ状況にあると仮定して、の話。……竈なら、沼子をどうする?」
 竈を見据え、問う。暗幕のような前髪の向こうで、月の瞳がぱちくりと瞬く。しかし、それも一瞬のことだ。彼は口端をにぃ、と釣り上げ、笑った。白く鋭い八重歯が覗く。
「そうだな、折角。いいものをやる」
 その言葉は、私が投げた問いの答えとは到底言い難いものだった。
 竈は、上着の胸ポケットから銅色のジッポライターを取り出し、カウンターの上に置く。
「これは?」
「ライター」
「それは見ればわかる」
「お前にやる」
「……どうして?」
「いろいろと役に立つんだな、これが」
 竈の白く長い指が、ライターの表面に刻まれた模様を撫でる。歪な五芒星の中央に眼のようなものがある図案は、心の奥底がさざ波立つような不気味さを孕んでいた。
「このライターが、問いの答え?」
「の、半分くらい」
「……残り半分は?」
「俺が今のお前の立場にあるとしたら。俺は、そいつを処分する」
 処分。冷たい言葉だ、と、思った。
「危ねぇ橋は渡らない主義でな。……そいつは他人を――俺を、害する可能性がある。それだけで処分する理由としては十分だ」
「……冷たいのね」
「理性的なんだよ。……そういうお前は意外と情に厚いんだな、驚いた」
「うるさいな」
 意外と、という言葉に反射的に反論する。顔面が凍っているとか表情筋が死んでるとかよく言われるけれど、それと性格を直線的に結びつけるのはやめてほしい。……目の前の性格の悪い男は、そう思っているところまで見込んで言葉を選んでいる気がするから、尚更腹が立つ。
「……お前は冷たいと言ったがな。これ、結構正しい選択だと思うぞ。こいつが俺を害する存在なら、害されるのは俺だけじゃないはずだからな」
「……うん」
 害される。竈は、その言葉を「殺される」とほとんど同じ意味で使う。つまるところ、私が殺されたら、その次に殺されるのは……という話だ。
 私が沼子に殺されれば、次はきっと、同じ家に住む両親だ。その次は、私が登校しないことを心配して自宅を訪れた担任の教師の番だ。何かの隙に、沼子が街に逃げ出してしまえば、通り魔的に、無差別に、見知らぬ人が殺されるだろう。……そうなれば、沼子という一人を生かしたことによってより多くの命の灯火が消える結果となる。それは紛れもない損失だと、竈は言っている。
「俺は、害される前に処分しちまった方がマシだと思う。だからとりあえず、処分の方法だけ教えとこうと思ってね」
「処分、って、殺す、ってこと、だよね」
 沼子を。隣にいる、彼女を。
 竈は、何でもないような顔で、「ああ」と頷いた。
「そいつを拾ったのは苗だ、どうするべきだ、なんて強要はしねぇさ。……だが、そいつが邪魔になった時、処分の仕方を知らなくちゃ、困るだろ」
「……そんな、」
 酷い、と言いかけて、口を噤んだ。ここを訪ねた理由を、思い出したからだった。
 ――「彼女の行く先を、早く見つけなければならない」。
 ここに来た理由を、ふと、思い出した。
 私は、最初から、沼子を手放したかった。便利な押し付け先を紹介してもらおうと、竈屋を訪れたのだ。
「教えて竈、その方法。……念のために」
「簡単な話だ。元いた場所に戻してくりゃあいい」
「は?」
「それを産沼まで引っ張って行って、泥ん中に突き落とせ」
 竈は、いたって真面目な顔をして言った。やる気のない塾講師のような顔で、言葉を続ける。
「産沼は、産む沼だ。それでいて、食う沼でもある。産んで、食うんだ。……あの沼にとっては、自らの娘すら、捕食対象に成り得る」
「でも……危ないんじゃないの、あの沼」
 先刻、竈はかなり強い語気であの沼に近寄ったことを叱責した。それを忘れたわけではあるまいと、竈の目を睨む。
「危ないよ。本当だったら絶対に行かないことを推奨するね。俺はあの沼に絶対に近付きたくない。だが今回は、事態が事態だ。……だから、これをやる」
 とんとん、と、竈の指先がライターを叩く。
「あの沼は火を嫌う。多少の護身にはなるはずだ」
 私は、竈のライターに手を伸ばす。思った以上に重たいそれは、初めて触れたものとは思えぬほど、手にしっくりと馴染んだ。
「……山道から逸れたら、火を点けろ。沼が見えたら、速攻それを蹴り落として、振り返らずに逃げ帰れ。……ライターの使い方、わかるか?」
「……うん」
 ライターのリッドを指で弾き、フリント・ホイールに指を掛ける。指に力を入れて、ホイールを回転させようとした、その時。
「ストップ」
 竈が、私の手を掴んで、止めた。
「生憎、この店は火気厳禁だ。試したいなら外でてやってくれ。引火したらタダじゃ済まない」
「あ、ごめん」
 確かに、辺りを見回せばどこもかしこもよく燃えそうなもので埋め尽くされている。そういえばここは本屋だった、と思い出した。
 竈は、ふう、と安堵したような溜息を吐く。
 私はリッドを戻して、ライターをスカートのポケットに滑り込ませる。金属の重みを、どこか心強く感じた。
「……今日はもう店仕舞いだ。帰れ」
 竈はそう言って、私と沼子を店から追い出そうとする。
「……じゃあ、また」
 私はそう言葉を返して、沼子の手を引く。また爪で掌を抉られてはたまらないから、今度は手首を掴む。
 竈屋の扉に手をかけた時、私の肩を冷たい手が叩いた。竈の手だ。
「苗。くれぐれも忘れんなよ。……そいつは人食いの娘だぞ」
 彼は私の耳元に口を寄せ、そう囁いた。それはどういう意味?と問う前に、その手は私の肩を押した。竈屋の入り口は閉められ、内側から鍵がかけられる。
 沼子の手首を掴んだまま、夕焼けに染まりかけた道を歩き出す。
 ――まだ、両親が帰ってくるまでには時間があった。
 なんとしても、両親が帰ってくるまでに沼子をどうにかしなければならない。
 ほんの少しだけ振り返って、沼子の表情を伺う。彼女はのっぺりとした無表情で、虚空を眺めていた。無表情の裏側で、彼女は何を思っているのだろう。
 両親に真っ当に状況を説明できない以上、沼子を家に置くことはできない。
 警察や病院に連れて行くにしても、沼から発生した彼女のことをなんと説明すればいいのかわからない。
 それ以上に――命の危機になんてそう何度も晒されたくない、という気持ちが、沼子への情を上回りつつあった。
 もう、ごめんなのだ。あんな恐ろしい目に遭うのは。あんな恐怖を何度も味わっていては、いつか気が狂ってしまう。
 今回に関して言えば、危険に晒されるのは私だけではない。両親が、担任が、クラスメイトが……竈までもが、死の危機に瀕する、かもしれないのだ。
 ――私は、沼子に居場所を与えられない。
 ――沼子は、私の周りの人を害す、かもしれない。
 ――それならば。竈の言葉に従って、処分してしまった方が、いいんじゃないの。
 ――所詮はバケモノ、なんだから。
「沼子、ごめんね」
 沼子は、返事をしなかった。無表情な彼女は、きっと私の言葉なんか聞いてもいないのだろう。
「私、あなたを殺さなきゃ」
 自分が怖い思いをしたくないが為に人を殺す、なんて、悪人になった気分だった。
 ――否。
 なった気分、なんて甘いものじゃない。私は、自分の都合で沼子を拾い、自分の都合で沼子を殺す、正真正銘の悪人だ。
 私は、沼子の手を引いて、通学路を歩く。
 スカートのポケットの重みが、私の足を産沼へ向けた。

     ***

 学校の外側をぐるりと回って、裏山の山道へと足を踏み入れる。
 夕方の裏山は薄暗い。山道のところどころに街灯があるとはいっても、私がこれから行く道――産沼へ向かう脇道は、獣道故に街灯などない。
 完全に日が落ちたら、道を踏み外していらない怪我を負いかねないほど暗くなるだろう。竈から手渡されたライターの炎と、空から降り注ぐ月と星の光だけが頼りになる。……それも、どこまで機能するのか怪しいところだが。
 ポケットからライターを取り出して、リッドを弾き、フロント・ホイールを回転させる。じゅ、という音がして、揺らめく炎が手元を明るくする。
「――――――ぅ、うあ」
 沼子が、か細い悲鳴を上げた。
「……どうしたの?」
 沼子の方を振り返る。そこにあった彼女の顔は、ここ数時間ですっかり見慣れたあの無表情ではなかった。
 限界まで見開かれた目。震える息を吐き出す唇。身体を仰け反らせて私から――正確には、手の中の炎から、距離を取ろうとしている。沼子に触れている手からは、彼女の震えが伝わった。青い瞳は、私の手元の火に釘付けにされている。端的に言えば――怯えているように、見えた。
 ふと、竈の言葉を思い出す。彼は沼子を「産沼の娘」と呼んだ。沼子が産沼の娘なら――親と同じく、火を嫌っていても、おかしくないのではないか。
 だとすれば、沼につくまでの十分弱、沼子に辛い思いをさせることになる――と、考えかけて、やめた。
 ――私は、今から彼女を沼に突き落として殺そうとしているのだ。
 その場に縮こまられたらどうしようと思ったけれど、手を引けば立ち止まることなく着いてきた。ライターを沼子から離すように腕を伸ばせば、身体の震えも落ち着いたようだった。
「ねえ、沼子」
 彼女は、返事をしない。
「沼子は……死ぬのが、怖い?」
 返事はない。
「死にたくないって、思う?」
 以下略。
 ごめんね、と言おうとしてやめた。謝ることなど、何もない。謝れることなど、ありはしない。
 それ以上、何をいうこともなく、ライターの火に照らされた山道を歩く。
 歩き始めて十分がたった頃、木々のない、ひらけた場所にたどり着いた。……産沼だ。
「……あ、」
 産沼を視認したのか、それとも竈のように匂いでも感じ取ったのか。沼子が、喉を震わせた。
「あぁ……あぇ……う、うぁ……」
 許しを請うような、声だった。それでも彼女は、私の手を振りほどくような真似はしなかった。沼の淵へと歩む私に、大人しく手を引かれている。掴んだ手首は、火を見た時よりもずっと酷く震えているのに。沼子は抵抗をしなかった。
 私は、足を止めた。
 数時間前、沼子の手を掴んだ場所と、ちょうど同じあたりに立つ。
 沼子を私の隣に立たせて、その横顔を伺う。
 彼女は、無表情だった。眉を歪めることも、目を見開くこともなく。……しかし、薄く開かれた唇の奥で、歯の根が合わずにいる音が聴こえた。
 強すぎる恐怖で真っ白になってしまったような、そんな無表情だ。沼から発生した彼女が、沼の中から脱出せんと必死に歩いていたあの時と同じ表情をしている、ように見えた。
 怖いんだ、と、直感した。
 怖くないわけがない、と、思った。
 私は――沼子に食われるのが怖いから、沼子を殺そうと思ったのだ。沼子に食われたくないから、沼子を産沼に食わせようとしているのだ。食われるのが恐ろしい、という気持ちはわかる。痛いほどに、理解できる。
「ねえ、沼子」
 沼子の目は、産沼から離れない。
「沼子は――人を、食べるの?」
 わかりきっていたことだけれど、返答は、ない。
 ――どうしたら、いいんだろう。
 ――どうしようも、ありはしないでしょう。
 意味のない問答は、頭の回転速度を緩やかに低下させる。
 私も、沼子の視線を追うように産沼に目を向ける。
 大きな泡が、いくつも浮かぶ水面。風もないのにさざ波立つ泥。得体の知れない不気味さを感じて、じり、と後退る。
「……ッ」
 ぼこ、と。あぶくが浮き上がる。沼の底から、いくつもの泡が浮いてきた。その一箇所だけが、沸騰しているかのように。
 あの時と、同じだ。沼子が、産まれた時と。
 ――また、何かが産まれる。
 やがて、沸騰は終わった。
 数瞬の間をおいて、ざぷん、という、小さな水音が響き渡る。
 目を、逸らせなかった。
 沼から現れたのは――沼色の、腕だった。
 人間のような、五本の指を持つ、沼と同じ色をした腕。しかして、それは、人のそれとは言い難かった。その指の一本一本は私の腕より太く、それに比例するように、掌も大きい。そして、その掌の中央には、ぽっかりと穴が空いていた。底の見えない、黒い穴。……その奥に覗いている白い歯と、紅い舌を見た刹那、その穴が、口であると理解した。
 ――あの手に握られたら、あっという間に潰れてしまう。
 ――いいや、食われてしまう。
 そう認識した瞬間、私の身体は、驚くほど冷静に、逃げの姿勢をとっていた。
 かの腕から目を逸らさず、じりじりと後退する。
 ライターを痛いほどに握りしめ、沼から距離を取る。あれが沼子と同じような存在なら、少なからず火を怖がるはずだ。
 腕は、数度指を曲げ伸ばししたっきり、微動だにしなかった。あれには目など存在しないのに、沼子と腕が、見つめ合っているように思えてならなかった。
「沼子……?」
 沼子の方も、腕と向き合ったまま動かない。ついさっきまでか細い悲鳴を上げていたというのに、声を発することすらなく、その場に呆然と立ち尽くしている。
 腕が、舌なめずりをする。口を、ひときわ大きく開ける。腕はまだ、沼子を見ている。
「沼子!」
 手を、伸ばした。手を引いて、一緒に逃げなきゃいけないと思った。
 けれど――逃げようとした分の距離が、邪魔をする。
 私が、沼子との距離を縮めるために一歩踏み出すより早く、赤い舌が、沼子の身体を絡めとる。
 大口を開けた腕は、沼子を黒い穴の中に引きずり込んだ。
 ――無理だ。あの腕から、沼子を取り戻すことなんて、できない。
 私の頭は、相も変わらず、酷く冷静なままだった。冷たい思考回路は、「あれを見捨てて逃げろ」と叫び続けている。あいつから沼子を取り戻して、なおかつ逃げ切るなんて、できっこない。
 それでも私は、手を伸ばすことをやめられなかった。それが沼子を「処分」しようとした罪悪感からの行動なのか、それとも沼子に何らかの情が湧いたからこその行動なのかは、わからないけれど。
 赤い舌が、舌に巻き取られた沼子が、口の中に引き込まれていく。収まりきらなかった沼子の両足に、鋭く尖った犬歯が食い込む。
「あ、ああああああああッ」
 沼子のくぐもった悲鳴が響いた。食い破られた足からは、泥と同じ色の液体が血のように溢れ出している。
 ゴリ、と、骨を噛み砕く音が聴こえ、沼子の悲鳴が、絶える。噛み切られた足は沼の中に落ち、まるで砂糖菓子みたいに、泥に溶けて消えていった。
 沼色の腕がこちらを見た、ような気がした。閉じた口の奥からは、硬いものを咀嚼する音が漏れ出ている。
 私は再び、じりじりと後ろに下がる。腕が私を追いかけてくる様子はない。
 やがて咀嚼音が止み、腕が泥の中へ引っ込んでいく。指の先が沼の中に引っ込んだのを確認してから、私は踵を返した。
 のろのろと重たい足を動かし、獣道を下る。山道との合流地点についた時、既に日はとっぷりと落ちていて、空は濃紺に染まっていた。
 ――ここまでくれば、火はもう、いらなかったはずだ。
 ライターの火を消すため、リッドを閉めようとする――が。
「あっつ……」
 長時間火を点けていたためか、ライターは素手で触れられないほど熱くなっていた。あの腕と対峙した緊張のせいで、その熱さを気にする余裕すらなくしていたらしい。無理矢理熱に耐え、火を消す。ポケットにしまうのは諦め、ライターを地面に落とした。掌を見ると、赤く焼けた手に、ライターに彫り込まれていた模様が焼き印のように残っているのがわかった。
 ――火傷の痕が残ったらどうしてくれよう。
 心の中で悪態を吐きながら、私は地面にへなへなと座り込んだ。思った以上に疲れているらしい。きっと、肉体的な疲労以上に、精神的な疲労がたまっているんだ、と結論付けておく。
 幸い、街灯の光が私の座り込んでいるところまで届いていたため、腕時計で時間を確認することができた。まだ両親が返ってくるまで、まだしばしの時間的余裕がある。少し休んでから帰ろうと、膝を抱えて目を閉じた。
 瞼の裏の暗闇で、足音を聞いた。山の麓の方から、私の方へと近付いている。
 ――何者だろうか。少なくとも、こんな時間に山に入るなんて、まともな奴でないことは確かだ。
 こんなぼろぼろの状態で、まともでないやつと遭遇するのは危ないかもしれないな、と、思考回路の片隅で思う。しかし、私にはもはや、立ち上がったり逃げたりする余裕はなかった。
 足音が、私の前で止まる。そいつは、私を見下ろすように立っている。
 何故だか、その人影から熱を感じた。目の前で焚火が燃えているような熱さだった。人の体温にしては熱すぎるような気がするし、そもそも触りもせずに体温を感じられるはずがない、と不思議に思った。
 ――ああ、とっととどこかへ行ってくれないかな。
 ――熱さでまた火傷してしまいそう。

「そこでなぁにしてんの」

 頭上から、聞き覚えのある声が降ってきた。弾かれたように、顔を上げる。
 見上げた視線の先には、ジーパンに黒のパーカーというラフな格好をした竈の姿があった。なぜか大きなリュックサックを背負っていて、その上、肩には小型のクーラーボックスを下げている。
「……竈。沼には近づきたくないんじゃなかったの」
「ここまでが限界」
「……そう」
「手ェ、見せろ」
「……火傷した」
「だろうなァ」
「……痕が残ったらどう責任を取ってくれるの。見てよ、何この模様。不気味」
 ヒリヒリとした痛みを訴える手を掲げて見せると、竈はわざとらしく肩を竦めた。
「命が残っただけマシだと思ってください。隣、失礼」
 竈は私の傍らに膝を着き、クーラーボックスの蓋を開ける。中には水と保冷剤がたっぷりと入っていた。
「苗、立てるか?」
「ちょっと無理かも」
「じゃあしばらく水に手突っ込んでな。生憎と、人ひとり担いで歩けるほど丈夫じゃねぇんだ」
 竈は「医者……みたいなのを呼ぶ」と言って、スマートフォンでどこかに電話をかけ始めた。
「……待ってたの?」
 三言二言で会話を終えた彼を見上げて、問う。
「最低限火傷はするってわかってたからな。……まさか動けなくなってるとは思わなかったけど」
「前も、思ったけれど。……なんで、助けてくれるの」
「助けてなんかいやしない。今回に限ってはな」
「……そう」
 竈は毎度毎度、「助ける気なんかなかったさ」と言いながら、毎回私が動けなくなった時を見計らってふらりと現れるのだ。憎い奴だ、と思う。
「ああ、そうだ。渡すもんがあった」
 竈はリュックサックを開けて、中から丁寧に畳まれた布のようなものを取り出した。
 布を受け取り、まじまじと見る。……それは、第三中学校の制服のブレザーだった。裏地には、私の名前が刺繍されている。
「なんで、竈がこれを?」
「待ってる間ふらふらしてたら、たまたま見つけた」
「……どこにあったの」
「第三中の多目的室のゴミ箱」
「不法侵入じゃん……」
「ばれなきゃいいんだよ、ばれなきゃ」
 こいつの今までの不法行為をリストにして警察に持ち込んでやろうか、と、半ば本気で考える。……まあ、持ち込んだとしても、どれもこれも証拠不十分だろうけど。
「……で? あたかも力も入らないってな具合に座り込んでるけど。他にどっか痛めてんの?」
「いや、怪我とかはしてない、と、思う」
「あっそ」
 竈は、私の隣に胡坐をかいた。
 言葉のない時間が続く。その沈黙は決して居心地の悪いものではなかったけれど、隣に座る竈の熱さがだんだん辛くなってきた。肩が触れ合わない程度の距離を保っているというのに、だ。
「竈」
「なんだ」
「熱い」
「はぁ?」
 むしろ寒いだろう、とでも言いたげな顔で、竈は私の方を見る。
「まるで、焚火がすぐ隣にあるような。キャンプファイヤーにぎりぎりまで近付いたような。そんな熱さを、竈から感じる」
私の肌は、竈がいるあたりから高温を感じている。それなのに、私は汗をかかないし、ライターで焼かれた手以外の火傷はしていない。実体のない熱を、感じているような気分だった。
「俺から?」
 頷きで答えると、竈は一瞬、何かを考えるような顔をした。
「失礼」
 竈は短くそう言って、おもむろに私の頬へと手を伸ばした。
 その指先が、肌に触れた瞬間。蝋燭の火に触れたような熱に襲われる。
「――――ッ」
 私は、竈の手を叩いて振り払った。
「熱い?」
 竈の言葉に、再び頷く。
「……そう。そりゃあよかった……いや、悪かったな。可哀想に」
 竈は、前髪をくしゃりと掻き上げながら、口をにんまりと歪めた。満月のような目玉が二つ、暗闇に浮かぶ。
「なにか、おかしい?」
「まぁ、正常では、ねぇな」
「……火もないのに熱を感じる状態が正常だとは思っていないけど……そうじゃなくて。この熱は、なに?」
 彼の目を見上げて睨むと、彼はケラケラと笑った。
「全ての答えを他人に求めるのは、苗の悪い癖だな」
「うるさいな。わからないんだから仕方がないでしょう」
「そりゃそーか。……その熱は……いや、その熱を感じる感覚は、俺の嗅覚と同じ種類の代物だよ」
「竈の嗅覚と……?」
 竈の嗅覚。それは、現実に根ざさないものを匂いで判断できる、というものだ。この熱が、現実に根ざさないものを感じる標だとでも、言うのか。
「そ。この世に根差してないものを、熱いと感じるんだろうさ」
 ――そんなはずはない。
 ――そんなこと、あるはずがない。
 ――だって、そんなことがあるとするならば。
「それは、竈がこの世に根差さないものだってこと……?」
 竈から熱を感じた、ということは。竈自身が怪異の類だということになってしまう。
「端的に言えばその通り」
 彼は、非常にあっさりと認めた。
「貴方は――竈は、何者なの……?」
「俺か? うーん、そうだなァ」
 竈は、何かを思案するように視線を宙に彷徨わせる。
「まぁ……沼子の兄貴だよ、とでも言っておくかね」
 驚きのあまり、目を見張った。
 竈はクーラーボックスを置いたまま立ち上がり、山道の麓の方へと歩き始める。
「もう少ししたら、髪が長くて目つきが怖いお姉さんが来る。その人、一応お医者さんだから、手当てして貰って」
 彼は振り返りもせずにそう言い残して、闇の中に消えていった。





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