“A”の魔法




 真夜中の気怠い空気の中に、真っ白な素足が四つ並んでいた。
 ぼんやりとした裸電球だけがあたりを照らす薄暗い部屋に、少女が二人、木製の丸椅子を並べて座っている。
 シングルベッドと細長い机だけで精一杯の狭い部屋は、小柄な少女二人いるだけで十分定員オーバーだ。しかし、真冬の夜を暖房のない質素な部屋で過ごすには、互いの人肌が近ければ近いほど好都合に思えた。
「魔法の薬が欲しいんだ。尾鰭を生足に変えるような、魔法の薬が」
 夢を見ているような調子でそう呟いたのは、黒髪の少女Lだった。
 言葉の矛先には、金色の髪を長く垂らした少女Aがいる。
 Aはゆっくりとした動きでLを見て、くすりと笑った。
「あらあら? あらあらあら。Lってば、貴女、恋をしているのね」
 その微笑みがあまりに優しく、冷たかったから、Lはぴんと背筋を伸ばす。
「……今の言葉は忘れろ、A」
「嫌よ。魔法の薬だなんて、そんな可愛らしいことを言われたら忘れたくても忘れられないわ」
 Lは口をへの字にねじ曲げて黙り込んだ。
 Aは心底おかしそうにきゃらきゃらと笑い、「ああ、おかしい」と笑い涙を親指で拭った。
「……他人を虚仮にするのも大概にしたほうが、」
 Lの言葉を遮るように、Aが「ねえ」と言葉を発した。
 うっとりとした目でLを見て、Aは囁くような調子で言う。
「ねえ、L。欲しいのよね? 魔法の薬」
「──え?」
「あげても、いいわよ? 貴女の望む、魔法の薬」
 Aは木製の丸椅子からすっくと立ち上がって、壁に備え付けられている飾り棚から茶色い小瓶をひとつ手に取った。
「これが貴女のための魔法の薬。一息に飲んで、そのままベッドでお眠りなさい」
 Lは部屋の明かりに小瓶を透かした。小瓶の中には液体と、花びらのようなものが数枚入っている。
「……毒じゃないでしょうね」
「まさか!」
 鈴が転がるような笑い声が部屋に響く。
「毒なんかじゃないわ。……でもね、ひとつ注意して」
 AはLにそっと歩み寄って、Lの柔らかな唇につんと人差し指で触れた。
「これは魔法だけど──海の魔女の薬じゃなくて、マッチ棒の魔法みたいなものよ。期待しすぎは、禁物」
 マッチ棒の魔法。マッチ売りの少女が見た、優しくて温かい幻影。
 手を伸ばせば触れられそうだけど、決して触れられない仮そめの幸せ。
「……そんなのは、」
「意味がないかどうかは、飲んでから決めてちょうだいな」
 Lは悩ましげに沈黙した後、小瓶をぎゅっと握りしめた。
「貰っておく」
「ええ。……もっと欲しかったら、また来ていいのよ」
 Lは黒髪をふわりと翻して、Aに背を向けた。
「おやすみなさい、L。いい夢を」
 言葉に返事はないものの、Lは小瓶を握った手を軽くあげて応える。
 ──そういうところがいじらしくて、いじめたくなってしまうのよ。
 Aはうっそりと微笑んで、Lの後ろ姿を見送った。

     ***

 その夜、私は夢を見た。
 好きな男と結ばれて、幸せに日々を過ごす夢だ。
 その夢には硝煙も血も肉もなく、好きな男の肌の匂いだけが鮮やかに香った。
 男の胸板に顔を埋めて眠り、男の手を取って街を歩く。
 ──ああ、なんと幸せなことか。
 この身に余る幸せにのぼせあがった私の頬は薔薇色をしている。
 それが夢であることはしっかりとわかっているのに、幸せの温度に体の芯が暖かくなるようだった。
 ──ああ、目覚めたくない。
 そう思いながらも、私は眠りの世界の果てが近いことを悟っていて。
 ──ああ、ずっとここにいたい。
 果てにたどり着いたらそこから先は現だということに絶望していた。
 ──ああ、果てがくる。
 ──硝煙と血と肉に彩られた現実が。
 ──近づいてきている。
 ──ああ、もう、足を止めてしまいたい。
 ──もう現実なんて見たくない。ずっと眠りの世界にいたい。
 そんな思いに苛まれながら、私は目を覚ました。

     ***

 談話室の暖炉の前。温かな炎に照らされた場所で、Aは本を読んでいた。異国の言葉で書かれた、難しげな薬学の本だった。
 Aの真剣な表情など知ったことかと言うように、静かな談話室にばたんと大きな音が響いた。談話室の扉が乱暴に開かれたのだ。
「あー、Aちゃんだぁ! なにしてんの?」
 扉を開けたのは、パステルピンクの髪をした少女Cだった。彼女は談話室の中にAの姿を見つけると、ぴょんぴょん跳ねながら近づいてくる。
「……あらC、珍しいわね。暇なの?」
 Aは読書を邪魔されたことに対する苛立ちなど微塵も感じさせない笑顔でCの方を向いた。
「うん、超ヒマ。最近お仕事みんなLちゃんに取られちゃう」
「あの出不精に? 珍しいこともあるものね」
 Aはそう言って、大袈裟に肩をすくめた。
「ほーんと。Cもお外出たいのに、Lってばずるいんだぁ」
 Cは「ご褒美のためなんだって」と言って唇を尖らせる。
「ご褒美……ご褒美ね、うふふ」
「A、なんか知ってるの?」
「……さあ。知らないわ」
 Aは本を抱えて立ち上がった。Cがいる場所で読書ができるはずもないし、部屋でやらなければならないこともできた。
 ──今日もLが“仕事”へ行っているのなら。
 ──ご褒美の魔法を、用意してあげなくちゃ。
「ねえ、C、あの子ったら、馬鹿なのねえ」
 夢の世界で恋した男と過ごすために、心も体もすり減らして“仕事”をする。それはそれは愚かな少女だけれど、組織にとってはこんなに優秀で都合のいい“少女”は他にいない。
「あの子って? Lのこと?」
「そう。……Cはあんな風になっちゃあだめよ」
「よくわかんないけど、CはLちゃんみたいにはなれないよぉ」
「……それもそうね。忘れてちょうだい」
 ──せめてご褒美には甘く幸せなとびきりの魔法を用意してあげなくちゃ。
 Aは薬学の本を大事に抱きしめながら、談話室を出た。




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