10歳の夏。ミンミンゼミがけたたましく鳴いているのを聞きながら、千歳は熊本市内を気の向くままに歩いていた。波打つ髪は汗でぐっしょりと濡れ、丸い頬には大粒の雫が浮かんでいる。足にひっかけたサンダルが地面に擦れる度にゴムの焼けた臭いがして、何匹かの蚊がむき出しの二の腕に吸い付いた。普通の子どもなら弱音を吐くような、典型的な真夏であった。しかし千歳は奇特な子どもだった。冷房のかかった部屋で閉じこもるより汗みどろになって歩くことのほうが好きだと断言できる子どもだった。
住宅街から商店街に足を踏み入れる。立ち並ぶ店の自動ドアはつぶさに彼に反応した。コンビニ、スーパー、本屋、いろいろな店の自動ドアが開いては、一瞬だけ気持ちよい冷風を千歳に浴びせ、そして容赦なくドアを締め切るのだった。
あつかぁ。千歳は呟いた。他人事のように空虚な言葉だった。
千歳は昔から神隠しのようにどこかへ消えるのがうまい子供だった。芸術家の父と、その才能を支える母にとって、それは大した問題ではなかった。七つまでは神ん子て言うし、千歳は俺たちん子どもやなかかもしれんなと冗談を飛ばすぐらいだ。千歳はそういう家で生まれて、そういう家で育った。千歳はもう一度あつかぁと呟いた。浮世離れして、いっそ達観しているとも言える無感情な声だった。
千歳はただ歩いていた。気の向くままに右へ左へ。親からは水だけは飲むよう言われていたから、道の途中にあった自販機で千歳は水のペットボトルを買った。ぐびぐびと飲めばそれはすぐに空になる。ゴミ箱に放り込んで、また千歳は歩き始めた。市街地を越え、山を越え、そしてまた市街地に戻った。その頃には真上にあった太陽もやや傾き始めていたけれど、千歳は全く気にしていなかった。何せ一人で熊本から北海道まで放浪するような子供である。ただ、お盆には祖父母の家に帰らなければならないから今日はきちんと家に帰ろうとだけは考えていた。そろそろ終戦の日も近い、真夏のことだった。
そろそろもう一度水を飲もうか。市街地からほど近い河原に出て、千歳は喉の渇きに気づいた。水辺からの風は涼しくて気持ちよいから、ここでいったん休憩にしよう。
河原にたたずんでいた自販機で水を買う。500ml、110円。取り出したペットボトルには玉のような水滴がたくさんついていて、千歳は濡れた手をズボンにこすりつけて拭った。結局持っている限り手が濡れてしまうことには変わりないので、気休めにしかすぎないのだけど、それでも千歳は満足してキャップを開けた。カチリ、と小気味よい音が響いて、それと同時に遠くからパンッと叩くような音がした。
千歳の耳がぴくりと動く。ペットボトルのキャップを締めて、千歳はどこからその音がしたのか探った。パンッという字面は乾ききっているけれど、そこまで枯れたような感じではなく、どちらかというと音叉を鳴らしたような芯のある音だった。だからといって湿っているというわけでは、ない。千歳はペットボトルを片手にぶつけて鳴らしてみた。ボンと柔らかなプラスチックがたわんで、満杯の水がかすかに揺れた。
ちがうなぁ。言葉を零して、音がした方を見る。ちょうどよくパンッともう一度音がした。そう遠くないところに大きな河川を両断するように大きな橋がかかっている。その下からだろうか。千歳は首を傾げつつも橋に足を向けた。
案の定、音の発信源は橋の下だった。
黒髪の子どもがラケットでボールを壁に打ち付けている。ボールがコンクリートに当たり、鈍い音がした。その勢いのまま返ってくるボールに向かい子どもはテニスラケットを振るう。ボールがラケットのスイートスポットに当たった瞬間、パンッと、あの芯のある音がした。
なるほど。千歳は子どもの姿を遠巻きに眺める。遠巻きと言っても河原に一人たたずむ千歳の姿は異様だったが、子どもが気付く様子は何一つなかった。ただ一心不乱に黄色いボールを壁に打っている。ただひたすら、夢中になって、汗にまみれて、ボールだけを追っている。千歳はその姿をただ見つめていた。少し傾いていた太陽がさらに落ちて、空をオレンジ色に染めようとするときまで、ずっと。そしていよいよ本当に帰らなければならないときになって、千歳はようやく伸びをした。子どもを見ることに夢中になるあまり、ほとんど身じろぎさえしていなかった。
千歳は身を反転させ歩き始めた。今度は家という目的地があったため、揺らぐことはない。名残惜しくなって振り返ると子どもはまだ壁打ちをしていた。汗のたまが夕日に照らされてきらきらと輝く様さえ千歳には尊いもののように思えた。子どもは結局、千歳に気づくことはなかった。
「よかねぇ……」
夢心地に呟く千歳の胸に、ほんのりと熱が宿った。それは千歳本人ですら真夏の熱さと勘違いしてしまうような淡くてぼんやりとしたものでしかなかったけれど、千歳の胸にしっかりと根を張って、千歳がどこに行こうと逃さない恐ろしい熱だった。
あの黒髪の子どもは橘桔平という名前で、同じ小学校の同級生だということを千歳が知るのは、夏休みが開けた残暑の厳しい9月のことだった。