今のこの状況をどうやったら打破できるか、それだけを考えようとしている。だけど、甘い声と鼻腔をくすぐる香りが、そしてその笑みが、わたしの脳みそをしびれさせてくるんだ








午後二時、その日ゆくらは魏軍で仕事をしていた。入社して数ヶ月、少しずつ仕事にも慣れてきたゆくらは、色々な人から仕事を頼まれるようになった。隣の席に座る先輩社員である王異も、例外ではなく、よく気にかけてくれている。



「ゆくら…ちょっといいかしら」

「はい!なんでしょう?」

「資料室に資料を取りにいってきてもらえる?私これから軍議なの。こんな用を頼んで悪いのだけれど」

「もちろんです!今の作業が終わり次第いってきますね」



いつも仕事を教えてくれる王異の役に立てるなら、とゆくらは手早く仕事をすませ、資料室へと向かった。この会社は広く、未だに迷うこともある。長い廊下を歩き、突き当たりにある部屋の入り口でカードキーをかざすと、人の気配がなく静かな空間があった。



(ええと…王異さんがいってた資料は…)



資料室は背の高い棚で埋め尽くされ、その一つ一つが綺麗に整頓されている。ゆくらは手元のメモを見ながら棚の間をかいくぐるも、目的のものはなかなか見つからない。


「どこかなぁ…」




そっと独り言を零した。勿論その言葉は、空中に消えるものだと思っていた。






「その声、ゆくらかな?」







予想外の音。振り返ると、そこにはキラキラと昼の陽に当てられた薄茶色の髪を揺らし、目を細める先輩社員がいた。





「あ…郭嘉さん…」




郭嘉。魏軍きっての切れ者で、よく仕事ができると評判の社員だ。初対面での女慣れ、むしろ女好きな雰囲気を見て取れたゆくらは、その綺麗な顔立ちとたち振る舞いを見ると、無闇にぎこちなくなってしまう。男に耐性がないわけではないものの、郭嘉はたらしぶりにはいつも心臓が高鳴らされる。





「こんなところで会えるなんて、私は運がいいようだね」



にこりとしながらゆくらのもとに歩み寄る郭嘉は、いつもより少し気だるさを纏っていた。思ってもみない人物との邂逅に、ゆくらはすこし緊張した。


「王異さんに頼まれて資料探しにきたんです。…郭嘉さんも資料を?」


「私は…そうだな、束の間の休憩とでも言おうか」


「郭嘉さん、それってつまり…サボり…ですよね?」


「そうなるかな」


堂々と休憩、もといサボりを認め、微笑む郭嘉に、ゆくらもつられて笑顔になる。


「ゆくら、捜し物は見つかったのかな。良ければ私も探そう。大体の物の位置は把握しているからね」



確かに、この資料室は広く、要領を掴まないと目的物を探し当てるのに手間取りそうだ。ゆくらはこの申し出に礼を言い、捜し物を告げると、郭嘉はそれなら、と案内した。




「こんな所にあったんだ…。ありがとうございます、郭嘉さん。とっても助かりました」



「役に立てて光栄だよ。ところで…ゆくら、仕事は慣れたかな?貴女のことだ、頑張りすぎていないか私は心配だよ」


「そんな…心配だなんて…。毎日楽しいです!みなさん優しいですし、はやく戦力にならないと、です」


優しく甘い郭嘉の声色に呼応して、ゆくらの視線はふらふらと惑う。新入社員を気にかける、ありふれた先輩社員の構図だと言うに、なぜこんなにも緊張感と気恥ずかしさに見舞われるのか。こちらを見つめる郭嘉の視線に戸惑っていると、こつり、と靴音が鳴った。


「そうだ、ゆくら。こちらに来るといい」


気づくと郭嘉は窓際へ近づき、ゆくらを呼んでいた。歩み寄ると、ゆくらの目には光に照らされたビル群と、抜けるような青空が映り込んだ。


「わ…!すごい、きれい」


「この眺め、息抜きには丁度良いだろう。私も曹操殿も、時々見に来るんだ」


「曹操さんも…ですか?なんか親近感湧くなぁ…」



魏軍のトップがサボりにくるなんて。思ったより曹操はお茶目なのかもしれない。そしてその曹操を探して回っている夏侯惇の姿を想像して、ゆくらから笑みが零れた。





「…ゆくら、貴女は…思ったとおりの可愛い人だね」



可愛い人、その言葉がゆくらの脳内に入った瞬間、思考は止まってしまった。声も出ず、そしてただ、頬の温度が上がるだけ。その熱さにより再び思考回路が動き始めると、脳内で警鐘が鳴りはじめた。


(この人は誰にでもこう言うんだから!)


胸が脈打っていることを悟られまいと、上擦らないようゆくらは返事をした。


「えっと、可愛いだなんて、わ、わたしには勿体無いお言葉というか、その…」

「ふふ、照れているのかな。そういう素直なところも、愛らしい」



「(愛らしい…!?)い、いや!照れてない!です!びっくりしただけで!!わたし、戻ります…!」




郭嘉の側から慌てて離れようとするゆくら。なるべく郭嘉の姿を、声を、香りを意識しないよう、前だけを見るようにしたが、それは不意にかかる力に遮られた。



「もう少し話をしよう、ゆくら。それとも…行ってしまうのかな?」



掴まれた手首がチリチリとした。全身が逆立つような感覚。警鐘は大きくなっていく。このままでは振り返れない。こんなことで染めている頬を見られたら、彼の機嫌は良くなるだろうが、自分の胸が高鳴りすぎてどうにかなりそうだ。


「わ、わたし…戻らないと…王異さんが待っているかもしれないのでっ…!」


「…そう。でもこれを先輩命令だと言ったら…?」


いつもより低い声が脳内を刺激する。その瞬間、手首にかかる力は、全身へと伝わり、抵抗できないままゆくらの体は郭嘉のもとへと引き寄せられた。







「王異殿は、あと一時間は戻らない」





耳元で囁かれる声に神経が集中した。体温が上昇する感覚がする。それとともに、心臓が、脈が、飛び跳ねる。相手は郭嘉だ。からかっているんだ。そう思っても、まだまだ顔は熱くなる。



「ふふ、意地が悪かったかな」


そう言って微笑みながら、ゆくらの髪を撫でる郭嘉。ゆくらは、自分の心臓の限界を感じ取った気がした。




「か、郭嘉、さん…あの…!わたし…っ!失礼します!!!」



(恥ずかしすぎて死ぬ…!)




ゆくらは郭嘉の手を振りほどくと、小走りで扉へと向かった。頬を抑えるとやはり未だ熱い。このままだと頭が可笑しくなりそうだ。これが恋なのか、それともただの照れなのかはわからないが、ただただ、早鐘のような鼓動を感じるゆくらだった。




「…これもまた一興、かな」



ゆくらの後ろ姿をみて呟いた郭嘉は、楽しげに微笑んでいた。












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