目の前に広がるのは、漆黒だった。
深い深い闇のなかにいるような気がして、足掻いて見せても、終わりなんてやってこなかった。
人の存在はすぐ近くにあるのに、わたしだけが色を持たないような、息が詰まる感覚がする。
(眠れない…)
ベッドに入ってどのくらいの時間が経ったのだろうか。体は疲れきっているはずなのに、うまく寝付けない。幾度となく寝返りを打つも、胸がざわつくのが収まらない。
この世界で生活をするようになって数週間。人も、人のようなものも、獣も、皆死んでいった。死なんて、元の世界ではまるで他人事のようで。鮮やかな死を目にして、立ち尽くすしかできない自分は本当にこの世界にそぐわない存在なんだと思い知らされる。
そんなことが頭を巡ると、一層胸の奥が疼く。明日も皆の足を引っ張らないように出来ることをしなければ。閉塞感のある部屋を見渡し、ふと立ち上がった。夜風にでも当たろう。ユクラは覚束無い足取りで靴音を鳴らした。
わたしが何者であるのか、わたし自身わからない。元の世界でどのように暮らしていたか、断片的にしか覚えていない。自分が自分でない。気づけば、ぼんやり夜の海を眺めながら、わたし、を手繰り寄せるように馴染み深いメロディを口ずさんでいた。
好きな歌だったんだろう。月明かりの下、波音にかき消される声が口を突くたび、涙が一筋溢れおちた。
そんなことにも気づかず、ユクラはただ暗闇を見つめていた。
遠くで自分を呼ぶ声がした。
「…ユクラ、もう寝たんじゃなかったのか」
はっ、と振り返ると、見慣れた布地がたなびいていた。
「ロクロウ…」
呟くと同時に、濡れた頬を乱暴に擦り、俯く。見られた。一人で泣いているところを見られた。恥ずかしさがこみ上げ、顔に熱が集まった。
「眠れないのか?」
「…うん、寝なきゃいけないのにね。ロクロウは…寝ないの?」
「月見酒でも一杯やってから寝ようと思ってな」
ロクロウはユクラの隣に腰掛け、徳利を傾ける。
お猪口に口をつけるロクロウの横顔を何気なく見つめると、ビュウ、と風が頬を掠めた。
「はぁー…やっぱり美味いな」
満面の笑みで一杯目を飲み干したロクロウは、またも徳利から注ぎ、お猪口をユクラへ突き出した。
「飲むか?」
「うん、ありがとう」
アルコールが喉を抜けると、香りが鼻腔を擽る。そういえば、久々に酒を飲んでいるのかもしれない。そのためか、じわじわと体が温まっていく。
「月と海を見ながら心水を飲む、最高だな」
にっかりと笑うロクロウにつられてユクラの口角も上がる。
他愛のない話をしよう、ユクラは意識を引っ張り出して、口を開いた。
「辛い…のか?」
しばらくあれこれと穏やかに話しこんでいたロクロウが、心配そうに覗き込む。その瞳は真剣で、ユクラは目を合わせられなかった。気恥ずかしさで身動きがとれない。
「へっ?…あ、いや、大丈夫だよ!皆すごく良くしてくれるし、優しいし、全然!今日もね、ライフィセットとマギルゥが…」
「俺の前では泣いていいんだぞ」
頭の上に温度を感じた。ふと見上げると、少し困ったような、優しい顔があった。こんな顔をされたら、泣いてしまうでしょう。その言葉すら紡ぎ出せずに、詰まる。
「ロク、ロウ…っ」
「泣いたほうがスッキリするだろ」
子供をあやすように、ゆっくりと、何度も。心地良い質量が髪を行き来する。
そのたび、じわりと涙がこみ上げる。もはや意志では止められない。自分の中に渦巻いていた暗いものが、体外に出てゆく感覚。夜の闇に溶けてゆく。
「…わたし、わからなくて…っ皆に迷惑、かけて、ここにいて、いいのか…っ自分がなにかもわから、なくてっ…」
「ああ」
「無力、で…意義が、ないっ…」
「…そうか」
揺れる船体によって、コップの水が溢れるように、泣いていた。そのとき、大きく無骨な手が動きを止めた。
「…意義はあるさ。俺がユクラを守る。守るものが出来たら、業魔だって強くもなる。それでいいんじゃないか」
「…守、る…」
「応、守るぞ。ユクラはユクラだからな、俺だって俺だ。簡単なことだろ」
「ロクロウ…」
「…だから、大船に乗った気分でいたらいい」
「もう、乗ってるじゃん…っバカっ…」
「ははは、そうだな」
至極シンプルな言葉が、胸の詰まりを解いてゆく。許された気がした。溢れる涙は、そのうちロクロウの胸元を濡らした。いつの間にか体を引き寄せられたユクラは、ほのかに薫るアルコールにか、また顔を熱くした。ぽんぽんと、背中を撫でられると、無駄な力が抜けてゆく。委ねてしまいそうだ。涙は有限なのかもしれない。
「…ロクロウ」
「なんだ?」
「ありがとう」
「応」
抱き竦める力が強くなった。途端に、ロクロウに抱きしめられていることを再認識して、鼓動が早くなる。
「あの、これ、いつまで…」
「もう少し…それとも、嫌か?」
表情は見えないものの、きっとロクロウは悪戯っぽい瞳をしているんだろう。嫌じゃない、そう言って、ユクラは目を閉じた。
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