街が少し華やいでいる金曜日。夕暮れ時に徐ろに灯りがともった小さなバーのバックヤードで、ユクラはカッターシャツに腕を通していた。まさか自分がこんなフォーマルな制服に身を包むとは、ファミリーレストランのバイトをしていた数年前には夢にも思わなかった。こんなところでバイトというか、手伝いをすることになったのは、同じ家で暮らすアイゼンの一言がきっかけだった。仲間たちと経営しているバー。時々人手が足らないときがあるそうで、礼はするから手伝わないか、と何となしに言われた言葉。タダ酒をいくらか飲めるとか、新鮮な場所で新鮮な経験をするだとか、理由はいくつかあったものの、その言葉にホイホイ乗ったのは、やはりアイゼンが誘ったからだった。
あの見た目であの迫力の彼がどのようにお客さんに振る舞うのか、手伝いを始める前はあれこれ想像して一人面白くなっていたが、実際はなんてことない、いつも通りの彼だった。


(もっとえげつない営業スマイルでもした方がお客さん増えそうなのに。女の人の)


そんなことを考えながら支度を終えると、少し古ぼけた扉を開いた。



「ユクラか。今日も頼んだぞ」


「おはようございますオーナー!今日も働くぜっ!」


「…ベンウィックの真似、やたらやるよな」


グラスを拭きながら、アイゼンは少し呆れて笑った。ふ、と笑みを零すのも、普段より洗練されたような服のおかげか、とても絵になる。開店準備をして、しばらくしたら客足も伸びてくるのだろう。今のうちに片付けなければならない仕事をしようと、ユクラはモップを手に取った。













「チェックで」


ジャズが流れる店内で、カウンター越しに聞こえた声に反応した。今日は中々の混み具合だ。そんなに大きくないこのバーには、十数人入れば満杯になる。声をかけた客は先日ユクラがバイトに入ったときも来店していたことを思い出したものの、隣に座る女性は前回とは違う。二十二時前、これから彼らは夜の街に消えていくんだろう、そう思いながら会計を済まし、扉の開く音を聞いて、席を片そうとグラスに手を伸ばした。



「こんばんは」


艷やかな声。はっ、と前を向くと、先程の客と入れ違いに一人の女性が立っている。



「カウンター、いい?」


「いらっしゃいませ、どうぞ」


綺麗に巻かれた髪に、華やかなメイク。そして、胸元が少し空いたスーツ。ハイヒールを鳴らして、その客は椅子に座った。ほんのりと官能的な香りがする。見た目にしっくりくるような香水だと、ユクラはぼんやりと感じた。



「アイゼン!この前振り」


「…あぁ。いつものでいいか」



常連かな。綺麗なひと。バー似合うなぁ。アイゼンと同い年くらいかな。友達?それとも…。



グラスを持ちながら、慣れた調子でアイゼンと話している彼女を横目で見ながら、ユクラは脳内で沢山の言葉を浮かべていた。客はまばらで、否が応でも二人の会話が耳に入る。


仕事の手は止めずに、暫く聞き耳を立てていた。時計の針は間もなく重なって、天井を向く頃だ。気がつけば客は彼女ひとり。ユクラは居心地悪そうに、カウンターの隅でクロスを持った。





「…ねぇ、アイゼン。私、…振られたの」


「…そうか」


「だから、今日は沢山飲んじゃおうかな」



こういう場面、ドラマとか漫画で見たことがある。アイゼンはなんて返すのか気になって、ちらりと見たものの、顔は見えなかった。俺が慰めてやる、とか、そんな言葉は聞きたくない。静かに酒瓶を整理しながら、ユクラは唇を固くした。



「潰れるなよ」


「介抱してくれる?」


「俺より介抱に向いてる奴を沢山知ってるだろう?」


ひらりとかわして、アイゼンはバックヤードへと荷物を運んでいった。なんとなく気まずい。案の定、彼女はツンとして、グラスを飲み干している。



「…注文いいかしら」


びくりとしてユクラが彼女を見ると、先程アイゼンと話していた時よりも尖った雰囲気を纏っていた。


「マルガリータ頂戴」


「かしこまりました」


シェイカーに氷を入れる手が、ぎこちない。何故だか緊張してこなしていると、またも彼女が口を開いた。



「あなた、最近入ったの?」


「…そうです。時々手伝ってて…」


「手伝う?…ベンウィックのお友達?それとも、アイフリード?」


「えっと…」


アイゼンの同居人ですとは、とても言えなかった。刺さる視線が痛い。これは牽制されているんだろう。


「ふふ。アイゼンと私はね、仕事で知り合ったの。骨董のね。一度パートナーとして一緒に仕事したけど、彼、…素敵よね」


「…そうですね」


「仕事中の彼ね、特に格好いいの。ここに居る彼とは全然違う。あなた、見たことないでしょう」


意地悪く笑った彼女は、差し出した酒に口を付けた。


なんとなくは思っていた。もし自分がシェアハウスの管理人にならなければ、アイゼンのような人とは仲良くなることすら、出会うことはなかっただろうと。心の何処かで、自分はアイゼンに釣り合うような女ではないだろうと。雲の上の人、なんて言いすぎかもしれないけれど、ユクラの中ではそのくらい、アイゼンの存在は近くて遠い。
胸のうちの弱い部分を突かれて、ユクラは押し黙ることしか出来ずにいた。
わたしなんかより、この人の方がきっと相応しい。
そんな言葉しか浮かんでこなかった。







沈黙の中、ひたすらにグラスを洗うユクラ。後ろからかかる声に意識を引っ張られた。


「おい、聞いてるのか」


「っ!あ、ごめ…なに?」


「そろそろ閉めるから先上がっていいぞ」


振り返ると、存外にアイゼンの顔が近くて、どきりとした。恋心とか、引け目とか、羨ましさとか、悲しさとか、色々な感情が押し寄せた。



「う、うん。…あの、失礼します」


面白くなさそうな顔でこちらを見ていた彼女に頭を下げて、そのままバックヤードまで歩いていく。彼女の甘えた声が背中に刺さる。胸がひやりとした。
朝まで一緒に、そのフレーズを耳にして、扉を閉めると、ユクラはずるずるとその場にへたり込んだ。



(アイゼンはあの人が好きなのかな)


(わたしなんか、ただの同居人で)


(アイゼンに釣り合うわけない)


鼻の奥がつんとして、深い溜め息をついた。
いつもなら一緒に店を閉めて家路につくが、今日は一人で帰ってしまいたい。このままきっと、二人でよろしくやるんだろう。消えてなくなりたいと思った。
ゆっくりと立ち上がり、ずるずると更衣スペースへと足を引き摺る。カーテンを閉めて、鏡を見ると、ちっぽけな店員が見えた。
いつもより時間をかけて着替えて、靴を履き替える。先に帰るね、ごゆっくり。光る画面に映った文字は、いつもより無機質だ。


紙飛行機のマークを押してさよならしよう。
親指を曲げたその瞬間、乱暴に開いたドアが悲鳴を上げ、ユクラは振り返った。



「ユクラ!」


「アイゼン!?お、お客さんは…!?」


「帰ってもらった。閉店時間過ぎてるからな。…それより、もう帰るのか」


一瞬だけ、あの人の香りがして、思わず目を伏せた。


「…邪魔だと思って。アイゼンと凄くお似合いだったから。あの人、まだ近くにいるでしょ?わたし帰るし、今ならまだ…」


出口の扉と向かい合って、声を絞り出した。その刹那、横から衝撃音が聞こえて、ユクラの体は思わず固まった。直ぐにその出処はアイゼンの掌と扉だとわかり、振り返る。


「な、なんで…?」


「…お前、本当にそんなこと思ってんのか」


端正な顔立ちに鋭い眼光。その碧は、しっかりとこちらを見据えていて、ぶれることがない。


「え、ちょ、ちょっとまってなんで怒ってるの!!?」


「怒ってない」


「怒ってるよ!!なに!?なんで!?」


「怒ってるんじゃねえ、イラついてるだけだ」


「やっぱ怒ってるんじゃん!」


訳が解らない。別に気に障ることを言ったわけでもない。ユクラは混乱して、慌てふためいて、目を白黒させていた。


「…何か言われたのか、あいつに」


アイゼンに見下され、言葉が詰まる。別に直接的に何かを言われたわけじゃない。ただ、自分が勝手に悲観していただけだ。


「…言われてない。何にも」


「じゃあ何でそんな顔してんだ」


「これが普通の顔だし」


「今にも死にそうな顔が普通な訳ないだろ」


俯いているものの、視線が注がれ続けていることにユクラは気まずさを感じた。逃げることも出来るのかもしれない。しかし、その後を考えると気が重い。ちらりと見上げた先にある顔は、早く言え、と無言の圧力をかけている。暫く黙っていたが、間に流れる雰囲気に観念して、ユクラはぽつりと言葉を吐いた。



「…アイゼンは、あの人のことが好きなんだと思ってた。…あの人は…綺麗で、色気もあって、…わたしが知らないアイゼンを知ってて」


また鼻の奥がつんとして、視界がぼやけてきた。言葉にすると、こんなにも壁は脆かったのだと思い知らされる。醜くて、恥ずかしい感情。好きな人にぶつけるだなんて、なんて愚かなんだろうと、ユクラは心の中で自嘲した。



「あの人の方が、似合ってるんじゃないかって思って…。わたしじゃ、…釣り合わないって…っ」



告白したも同然の言葉を口にして、頬が熱い。言ってしまったと、後悔の波が襲う。顔を上げることが出来なかった。



「…そうか」



否定も肯定もしない返事。意図が解らなくて、ユクラが恐る恐るアイゼンを見やると、視線がぶつかった。



「俺はそうは思わない」



溜息をついて、アイゼンはそのまま話を続けた。ユクラの胸は、早鐘のようだ。


「…大体、あいつは只の知り合いで、前の仕事相手だ。何を言われたかは知らんが、少なくともそういう目では見たこともないし、…見ることもない」


「そう、なの…?」


「だから今日だって帰って貰った。…今迄はっきりしなかった俺も悪かったが…」


「…っ」


「あとな、釣り合いなんてどうでもいいだろう。誰が決めるわけでもない。現に…」



背中にいきなりの温度。気がつけば、顔の目の前が暗くなって、抱き竦められていた。



「好きでもない奴にこんなことしない」


耳元が熱い。思ってもみない心地良い低音が流れ込んできて、ユクラの体は固くなった。


「え、えっと、まって…!いま、す、すきって」


「言ったが?」


思考が爆発してしまう。真っ赤になるユクラを見下ろして、アイゼンは微かに笑った。


「それとも、俺が誰彼構わずこんなことするとでも思うか」


「…ちょ、ちょっとだけ」


「おい」


「う、うそです」



状況の変化についていけなくて、頭が沸騰しそうで、なんとか少しふざけてみるものの、一向に脈拍は元に戻らない。そんなユクラに、アイゼンは更に追い打ちをかけた。



「俺は言った。でもお前の口からはまだ聞いてないな」


「…何を」


「解ってるだろう」


さっきからアイゼンの術中に嵌っている気がしてならない。ユクラは機嫌が良さそうに口角を上げる彼に向けて、口を開いた。しがみつく手に力が入る。喉はカラカラだ。胸が煩い。暫くは、この状態が続くんだろう。紡ぐ言葉は、どんどん熱を帯びてゆく。改めて告白を聞いてアイゼンは満足そうに笑った。















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