"業魔だから"、それは自分を肯定するのに心地良い言葉だった。
人間の感情を失くしていく日々のなかで、ただひたすらに目的を追い求めるために必要なものだった。
刀を振るい、技を磨いて、すべてを斬る。
それが何よりも快感であり、目的であり、自分なんだと悟った。
羞恥、愛、悲しみ、恐怖、喜び、寂しさ、怒り、嫉妬。
今まで何を失い、次は何を失うのか。
遠くでこちらを見つめる人間の自分がいる。
恨めしげに斬りかかるも、簡単に刀が折れてしまった。
膝をつく自分を見下ろすのは、悲しそうに刀を振り下ろす、人間の自分だった。
ああ、死ぬのか。
そうして安堵しながら、目を閉じた。






「…寝てた、のか」


最悪の寝覚めだ。嫌な汗が首筋を伝う。ここ最近、繰り返し見る夢。いつも人間の時の自分に斬り殺される夢だ。最後は抵抗すらせず、まるで斬られることを望んでいたかのように、穏やかに死んでいく。夢とはいえ気分が悪い。


「何なんだ、本当に」


反吐が出そうな頭の中を洗い流そうと、ゆっくりと立ち上がって風呂場に向かった。風呂から上がったら心水でも煽ろう。最低の気分を抱いて、重い身体を引き摺る。


























身体を清めても、足取りは重いままだった。軽く溜息をついて食品庫に向かう。
確かベンウィックが新しい心水を仕入れてきたと言っていた。深酒になりそうだ。ぼうっとしながら扉を開けると、鈴の音のような声が降ってきて、霞がかった視界がクリアになる。



「ロクロウじゃん。心水でも取りに来たの?」


声の主は、脚立の上で身を捩ってこちらを見下ろしていた。


「そんなところだ。…そっちは何してるんだ?」


「夕飯に使うスパイスが取りたくって…」


ただでさえ揺れる船上で、脚立の上に立つ彼女の元に歩みを進めると同時に、懸命に手を伸ばす姿を見つめる。俺が取る、そう言いかけた瞬間、足元が大きくぐらついた。


「わっ…!」


「っと…危ないな。怪我、ないか?」


石鹸の匂いか、香水の匂いか。少なくとも自分ではない、柔かい匂いが鼻腔を擽る。腕にかかる質量は人間らしい温度を放っているものの、反応が見られない。覗き込むと、驚愕と羞恥が入り交じった顔でユクラが固まっていた。


「おーい」


もう少し顔を近づけて呼びかけると、彼女の頬がどんどん紅みを帯びていき、ふい、と視線を反らされた。


「び、びっくりした…!ありがとう、大丈夫っ…ていうか重いよね、ごめんっ!」


「全然重くないぞ。それより、顔が赤いが熱でもあるのか?」


何気なく額をユクラのそれを合わせると、彼女は目を見開いて、ぐい、と胸を押しのけた。


「…!?っ、降ろしてっ…!」


「うぉっ、わかったから暴れるなっ!」


じたばたと手足を動かすユクラをゆっくりと降ろすと、彼女はへなへなとその場にへたり込んだ。両手で頬を挟んで俯いていて、その頬は未だ紅い。羞恥を覚える彼女の姿を見るのは初めてではないのに、何故だかいつもと違って見える。暫く押し黙っていた彼女を見つめている。いつもならここで少し怒ったような口調で詰られる筈だが、その気配はない。視線を外さずに見下ろしていると、淡い音が静寂を切り裂いた。


「…ロクロウは…狡いよ」


「…狡い?」


消え入りそうな声は、確かにそう言っていた。自分の行いを振り返ってみるものの、そのように言われる覚えもない。意味をはかり兼ねて思わず鸚鵡返しをすると、ぽつりぽつりとユクラは言葉を零した。


「…いっつも平気で、恥ずかしくなることしてくる、から…こっちばっかりドキドキするんだよ…」


俯いていても解るほどの、林檎のような頬。先程より遥かに色付いている。その目線はうろうろと床を彷徨い、決して上を向くことはない。その姿を見ているうちに、何故だか自分の脈まで早くなっていく気がする。おかしい。こんなことは、業魔になって一度も無かった。


「…業魔だから、って言うんでしょ…?」


「業魔だから、感情がなくなってるって…。どうせ叶わないことだってわかってるから、ドキドキしたくないのにっ…!それって、…不公平、だよ…」


「…ユクラ、それって」


やはりおかしい。ユクラの言葉の続きをどこかで期待している自分がいる。とうに失くした感情が、まるで波を返すように押し寄せてくる。業魔だから、と納得して、名残惜しさなどなかった筈だった。でも、この早鐘は何だ。その正体を確かめたくて、座り込む彼女の顔を覗き込んだ。


「…不毛だって、わかってるんだよ…!でも、わたし、ロクロウが、…すき、なの…っ」


胸が詰まる思いがした。目を潤ませながら心情を吐露するユクラをどうしても抱き締めたくなって、気づけば彼女の震える肩に手を回していた。ああ、また狡いと言われるのかもしれない。それでも良い、その体温を、匂いを、紡がれる言葉を全て堪能したいと、自分の中の欲求が訴えかけた。案の定心臓は煩くて適わない。他人事のようだった頬の温度が、上がっていくのが解った。


「…悪かった」


「ロク、ロウ…?」


「不公平でも不毛でも、ない」


自分の中の感情を噛みしめるように、そして再確認するように、言葉を吐き出していく。数分前の自分と、今の自分が決定的に違うこと。そしてこの感覚が間違っていないことを肯定するために、きつく抱き締めた。心の奥底から湧き上がるものをそのまま吐き出すという、愚かなサイクルを回そうと、声を絞りだす。



「俺は業魔だが…ユクラが、愛しい」


愛しい、その四文字が唇を伝うことはもう無いものだと思っていた。業魔になり失ってきたものは、死ぬまで戻らない。そう覚悟していた。感情に執着しない自分は、もう人間ではない。それを盾に戦ってきたが、今このときは取り戻した感情に浸り、漂っていたい。そう思った。


「う、そ…」


「嘘じゃない。証明、できるぞ」


震えるユクラの手をとり、自分の胸元へと導く。


「…これが証拠だ」


ユクラの瞳に映る自分は、逆上せたような顔をしているんだろう。そしてきっと彼女は、初めて見た顔だと驚いているに違いない。そう思いながら彼女を見つめると、ぽたりぽたりと雫が落ちる音がした。啜り泣く声は次第に大きくなり、そのうち、胸元にはくぐもった嗚咽が響いた。


「ユクラ、好きだ」


しゃくりあげ、震えながら自分の服を掴むあたたかさを暫し味わおう。夢の中の自分に決別するために、腕の力を強くした。

























食品庫を出る頃には、ユクラは泣き止んでいた。しかしながら目元と鼻が赤い。それもその筈、胸元の布が湿りきっている。子供のように泣いていた彼女は今、隣で俯きながら歩いている。


「ユクラ、どうした?」


「…泣き疲れた。あと嬉しくて、…幸せで、現実じゃない、みたい」


「ははは、夢じゃないぞ。ほら」


ユクラの頭を撫で、手櫛で髪を梳かし、頬に手を寄せる。無意識に目を細めていると、掌に伝わる熱量が増えた気がした。


「…だから、狡いってば…」


「これからは、おあいこだろ」


辿々しく重なる手は、小さく、あたたかい。
いつの間にか、足取りは軽くなっていた。























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