飲み干した心水はまるで味が無い。かつん、とお猪口を置く音が自室に響いた。
ユクラの口から恋慕の言葉を聞いてから、もう五回、夜が明けた。あのとき自分の中に再び湧き上がったのはやはり、失くしたはずの愛情の類であったことは間違いなかった。愛しく、恋しい。その感情に震えたのは絶対的なものであったし、今だって消えることはなく、じん、と胸の奥を暖め続ける。
あの抱擁から恋人らしいことは一つもしていない。というより出来ないのは、自明だった。業魔である自分に恋し、愛してくれているユクラに、果たして枷をつけてしまっていいのか。きっと一生外れる事はない枷を。

業魔と人間が愛し合ったらどうなると思う?そんな馬鹿馬鹿しい問いをアイゼンに投げかけたことがあった。一瞬面食らったあと、一笑に付されたのを覚えている。結局どちらも幸せになれないのだ、どちらも望まぬまま。
ただ斬るか斬らないかだけの二択であるのに、一人の人間に対してこんな感情を抱くなんて、自分らしくもない。自嘲気味に口角を吊り上げると、無味の液体を口に流し込んだ。
ユクラの言葉も、感情も叩き斬れるほど、自分は業魔になっていなかったのか。若しくは彼女が人間らしく自分を造りかえたのか。
ふと掌を見つめる。この掌で温度を感じることが出来ていないのは、人間の自分由来の弱さか、怯えか。それとも自分以外を失うことへの恐怖心か。人間の真似事をして、藻掻いても藻掻いても溺れていくだけだった。














次の夜。いつもの調子で夕食時の会話をこなし、それとなく席を立つ。鍛錬も、風呂も終えた。あとは無駄に心水を消費して、不毛な思考を繰り返すだけ。
そう考えていると、ふと名前を呼ばれた。



「飲まないか、ロクロウ」


「…アイゼン」


誘っておきながら、まるで決定事項のようだ。あぁ、とだけ答え、二人で歩き出す。
ちらりとユクラと目が合った。躊躇って、視線を外した。







胡座をかいて無言で盃を交わしている。穏やかな波の音が余計に静寂を際立たせた。機械的に心水を飲み込み、短く息をつく。どちらが口を開くわけでもなく、ひたすらに心水を煽った。漸くアイゼンが問いかけてくる。



「…自問自答はまだ飽きないか」


「あぁ、自問は飽きないな」


力なく笑うと、アイゼンがこちらを伺い見た。


「お前のことだから答えも出したと思ったが」


「答えなんて最初から決まってるさ。…どうせ幸せにはなれない」


業魔だからな、そう言って暗い空を仰いだ。今日は雲が多く、月が滲んで見える。


「…そうか。まるで人間みたいな物言いだな」


「はは、そうだな。…業魔だったはずが、やけに人間くさくなっちまった。自分でも訳がわからん」


お手上げだ、と言うように上半身を床に投げ出した。目の前の濃紺に吸い込まれそうになる。


「…人間らしさって本当に面倒臭いもんだな」


「感情と理の狭間で刹那的に生きるのが人の性だろう」


「刹那、的…」


「…ユクラもお前も、似た者同士だと思うがな」



似た者同士。その言葉に目を見開いた。夜叉に思いを寄せるなど、そしてそれを言葉にするなど、正気の沙汰ではないんだろう。きっと、彼女も狂っている。
ああ、つまるところ、同じ穴の狢だったのだ。
業魔でも、幸せな結末が待っていなくともいい。そんな自分と似たような熱情を、未来を捨ててまでぶつけてきた彼女は、ああ、なんて刹那的で、いじらしい。
失い、失われる恐ろしさなど、彼女はとっくに飲み込んでいるのだ。
思わず笑みが溢れた。自分がずっと人間の真似事をして悩んでいたことは、彼女はとっくに飛び越えていたのだと、漸く気付いた。


「…そうだな」


してやられた顔で微笑むロクロウを見て、アイゼンも口角を上げた。


「モタモタしてると、海賊に攫われるぞ」


「おぉ、そういやここは海賊船だったな」



起き上がり、微笑むアイゼンと共に心水を飲み干す。
喉が焼けるような感覚を覚えると、船内へと歩き出した。


「お前にも恩返ししなきゃ、だな」


「死神に恩返しか、面白い」


甲板から姿を消すロクロウを見送ると、アイゼンは虚空に向かって溜息をついた。


「…魔女というのは往々にして立ち聞きが趣味なのか?悪趣味だな」


「悪趣味なのはお主もじゃろうて。いたいけな業魔と人間を滅びに導くとはの」


「人聞きが悪いことを言うな。舵をとらせただけだ」


「そうじゃったな〜。しっかし、あ奴らにいつか訪れる破滅が楽しみでならんわい」


くつくつとマギルゥが笑うと、素直じゃねえな、とアイゼンも笑った。















昂ぶる心につられているのか、歩く速度が増す。亡霊のようにユクラの姿を探して彷徨っている。
キッチンの奥で彼女が背を向けているのが見えた。どんな顔をしているか想像に難くない。きっと、思い詰めた顔なんだろう。



「ユクラ」



振り返る前に、貪るように抱きしめた。あの時の温度と同じく、あたたかい。



「ロクロウっ…!?」



驚いて振り向いたユクラは、何が起きたかわからずに慌てて手を止めた。
留まることのない愛しさが、回す手の力を強めてばかりだ。



「遅く、なった」



首元で囁き、ユクラの手を取る。もう戻れない。そう本能が告げると、戸惑う彼女を連れて自室へと歩き出した。















扉は急を要したような音を響かせ、所在なさげに佇むユクラの瞳は、床を見つめている。



「…ごめんね」


「ユクラ…?」


「ロクロウを悩ませたいわけじゃなかった…。でも、こうなることはわかって、…苦しめた、よね」


ぐい、とユクラの腕を引き込むと、しなだれかかる身体は死体のように、力を持たなかった。


「…それもおあいこ、だろ」


互いの熱を分け合うように抱き合うと、胸元がじわりと濡れてゆく。前のように頭を規則的に撫でながらあやしていると、ユクラが呟いた。


「…わたしを残して死んだらいやだよ」


「応、勿論だ」


「もし、ロクロウが理性を失ったら、…すぐ斬り殺してね」


「…あぁ、痛くしないようにする」


「…業魔になってもいいかも」


「それもアリだな」


涙でぐしゃぐしゃになった顔で笑うユクラにつられて、ロクロウも微笑んだ。


「死ぬまで、責任取ってよ」


「承知した」


穏やかに笑うその口元に唇を寄せた。契約成立だな、そうロクロウが言うと、ユクラは幸せそうにはにかむ。
いつまでも二人で狂気に身を浸していようと、どちらからでもなく再び唇を合わせた。唇の温度は、どんどん上がってゆく。


















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