怪我も落ち着いて、仕事に取り掛かれるようになった。傷跡はひきつれて残り続けているけれど、命があるだけ有り難い。要は元通りの毎日だ。

 けれど1つだけ、以前とは違うことがある。メローネの様子が最近おかしいのだ。


 違和感は、私を常以上に見つめる視線が始まりだった。その日は家のソファに並んで、二人てんでバラバラな事をしていた。私はテレビに映る映画を見ていて、メローネは雑誌を手にして。
 けれど、いくら映画が進んでもメローネは雑誌を捲らない。画面の向こうでは冴えない主人公が一躍敏腕スパイとして世界を救うまでになっているのに、メローネはその間も雑誌を読まず私だけを見ていた。メローネの方に首を向ければ、目線が合う。けれど、つながった瞳はすぐに逸らされてしまった。

 そしてまた別の日。
 いつもの様にソファでのじゃれ合いから、私が彼の頬にキスをしようとした。その瞬間、メローネは私のキスを手のひらで受け止めたのだ。
 かと思えば、ハッとした表情を見せて私の顔中にキスを降らせてきた。ギュウギュウと抱きしめられて、私の顔はすっかり彼の胸板に埋まってしまう。結局、私からのキスは出来ず仕舞いだった。


 一つ一つは本当に些細な事ではあるが、こんな違和感が毎日続いているともなれば、流石に心配になる。けれど、何かあったのかと訪ねてみても返ってくるのは「何でもないんだ」の一言。もうお手上げだった。


「というわけで、助言くださいギアッチョ」
「助言って言ったってよ……」

 
 やっぱり自分だけで考えてもわからない時は、友達に頼るに限る。ギアッチョはその点、私ともメローネと親しい最適な人材だ。アジトのソファに引き止めて、横並びに座って相談会を勝手ながら開催する。
 期待に目を光らせる私とは裏腹に、ギアッチョは頭を抱えるような仕草をしていた。何か返答に悩んでいるのだろうか。


「もう一度聞くけどよノエミ、メローネの何がおかしいって?」
「距離感がおかしいの、いつもはあんなに嫌がったりしないのに!私が何かしちゃったかな」
「距離感が、なあ」

 ようは寂しいのだ。急に余所余所しさを覗かせるようになったメローネに、心の奥がツキツキと痛むような心地がする。何かしでかしてしまったというなら、早急に誤りたい。


 悶々と考えを巡らせる私の横で、ギアッチョも同じく考え込んでいた。そして、一度大きく息を吐いたかと思うと、突然ギアッチョの顔がすぐ目の前に寄せられる。驚いてソファの上を後ずされば、逃げた距離だけギアッチョも近づいてくる。

「ギアッチョなに、近いよ」
「そうか?気のせいだろ」


 後ろに逃げる私と、近づいてくるギアッチョ。ソファの上の鬼ごっこは、私の指先が背もたれに触れて終わりを告げた。もう逃げ場なんてないのに、尚もギアッチョは近付いてくる。半ば伸し掛かられるようにして、私は背もたれに背中を枝垂れかからせる。ギアッチョの手が、腰の横に杭のように突き立てられて逃げない。

 本当に何なんだろう。状況を理解できずに、グルグルと目玉がまわるようだ。せめて何か言ってほしくてギアッチョの手の甲をつついても、彼は黙り続けている。ああ、逃げ出してしまいたいほどに泣きそうだ。
 私の混乱を舐めるように見回して、ギアッチョはようやく口を開いた。


「なあノエミ、驚いただろ」
「お、驚いた」
「だろうな、ソレで良い」
「今も正直ギアッチョから逃げたい」
「……顔見知りでもよ、こんだけ近けりゃ何かしら思うのが道理だ」
「う、うん、うん?」
「なあノエミ、お前の他人に対する距離は、コレが本当なんだろうよ」

 そうして、私はギアッチョが何を言いたいのかその時に理解してしまった。ギアッチョから逃げようとした私が、なぜメローネからは逃げ出してこなかったのか。あまつさえ、遠ざかって寂しいだなんて。いつまでも近くに居たいだなんて。


「私、メローネが特別なんだね」
「特別って言えば、仲間もそうだけどな?メローネはもっと特別なんだろ」
「うん、きっとそうだ、でもね、ギアッチョの事もお友達の特別だよ」
「俺も同じだ、メローネもノエミも、俺の仲間なんだからよ、あんまり心配かけンな」

 ギアッチョはすっかりいつも通りで、笑ってすらいる。きっとたくさんの心配をかけてしまったんだろうな。でも、ギアッチョのそんな優しさが嬉しくもある。

 お互いに何だか楽しくなって笑い続ける私達は、アジトに誰かが帰ってきていたことに気づくのが遅れた。部屋のドアが音を立てて開いたときに、はじめてメローネが歩いてきていたことを知ったのだ。


「何、やってるんだ?」

 おかえりと声を掛けようとして、やけにメローネの顔が強張っていることに気がついた。唖然としたようでもいて、何かに傷付いているようでもある。間抜けな事に私は、自身が一体どんな体勢になっているかを、サッパリ忘れ去っていたのだ。
 

 これはね、メローネ。続けようとした言葉が、声にならない。ギアッチョがいきなり立ち上がったかと思うと、私を俵のように担いでメローネに投げ渡したからだ。

「おっわぁ、危ない!ギアッチョ横暴!」
「きちんとメローネが受け止めてんだろうが!あいにくクソみてえな痴話喧嘩に巻き込まれる趣味はねえんだ、とっとと家でも何でも帰ってろ」


 シッシッと手で払う仕草をして、ギアッチョはリビングを出ていってしまった。残されたのは私とメローネの二人きり。メローネは未だに黙っていて、動こうともしない。これは困ったけれど、いつまでも気まずいアジトにいるのも耐え難い。

「とりあえずお家帰ろう、ねえメローネ」
「……ああ」


 玄関を出れば、メローネのバイクが停まっていた。ヘルメットを投げ渡されて、頭に被る。ベルトを調節する金具が緩んでいるようで、中々上手くかぶれない。四苦八苦するわたしを見かねたように、メローネの手が伸びてきて金具を留める。こういう優しい所は、いつもと変わらないのに。

 礼を言おうと彼を見上げれば、何故か私の体が宙に浮く。まるで子供のように抱き上げられて、シートに載せられた。これではメローネが運転できないのでは無いだろうか。
 そう思って前を見た私の視界が、メローネで埋まった。目を瞑る暇もなく、唇に柔らかい感触がする。これは、何だろう。


 余韻を残す間もなく離された唇が、やけに熱い。脳味噌が沸騰するように、思考がまわらない。
 なんで、メローネ。唇は、だって、それは。私達は。


「帰ろう、ノエミ」


 働かない頭で、頷いたことだけは覚えている。気がつけば見慣れた我が家に着いていて、リビングのソファに私は押し倒されていた。メローネの長い髪が私の顔にかかって、檻のように世界を覆う。

 何かが終わって、何かが始まるときは唐突だ。
 口付けられた柔らかさを突き放さない私も、何も言わずに現状を踏み越えたメローネも。優しいだけのいとけなさが走り去る音を、確かに聞いていた。