07

 あまりにも暇だ。ソファに座って足をブラつかせる私の向かいで、イルーゾォが報告書を作成している。

 私は夕方からの任務に向けて待機中、イルーゾォは先程任務を終えて報告のためにアジトに立ち寄っていた。時刻は昼過ぎで、私の仕事が始まるにもイルーゾォが報告書を書き上げるにもまだまだ時間はある。何かをする気にもなれなくて、ひたすらにイルーゾォの横顔を見つめていた。


「ねえイルーゾォ、鏡の中ってイルーゾォからしたらどんな所?」
「なんだ藪から棒に、次の仕事の連携でも考えてんのか?」
「ううん、ただの好奇心」

 先日の洋館での一件で、私はすっかり鏡に対して複雑な感情を抱くようになってしまった。怖いわけではないし、そもそも朝起きれば鏡なんていの一番に見なければならないものだ。それでも、ふとした時に鏡に映る自分がどちらなのか、偶に考えこんでしまうのだ。

 イルーゾォは鏡と接する機会が多い。答えが出ない私の疑問よりも、きっと彼の方が正解に近いのではないだろうか。そんな考えから問いかけた言葉だった。


「見た目には、どっちの世界も変わりねえ」
「そうだね、前の仕事で入れさせてもらった」
「それでもあの場所は現実じゃない、上手く言えねえけど何か違う場所なんだ」

 そう言うなり、イルーゾォは黙り込んでしまった。思ったよりも真剣にとらえてくれたようで、時折考え込むような吐息が漏れる。

 ああでも、そうか。考え込むということは、きっと彼も気になっていたのだろう。己の能力で訪れる事ができる、鏡の向こうの世界について。


「きっとイルーゾォがそう言うなら、そうなんだろうね」
「まあ当然だな!あの場所を誰より知ってるのは俺だ、キサラもようやく俺の慧眼に気がついたか」
「もう、そんな事ばっかり言って」

 咎める仕草でイルーゾォの顔を見れば、鼻で笑われる。じゃれているのはお互い承知の上なので、仕草はそのまま続けておく。
 
 けれど、考えれば考えるほどイルーゾォの言葉は正しいような気がするのだ。鏡の向こうは、よく似ているけれど現実ではなく、全く未知と言うわけでもない。似て非なる世界は、きっと遠くて近い場所にある。


「じゃあさ、今度鏡の世界を探検しよう」
「探検?ガキじゃあるまいし、俺にわざわざそんな事しろって?」
「だって、鏡の向こうに行くのはイルーゾォの能力じゃない!分からないよりも、色々知っておいたほうが仕事の役にも立つよ」
「それは、確かにそうかもしれねえな」
「ね、そうでしょ!じゃあ約束!今度ふたりで行こうね」

 イルーゾォの人差し指を握って、ブンブンと振り回す。手を払いのけられそうになっても、力を入れて握り続ければ呆れたように手が下ろされた。ここで無理矢理にでも私を剥がさないのがイルーゾォの良いところだ。

 私は新しい約束に心が浮ついて、やりたい事で頭を一杯にする。鏡の中とはいえ、お腹も空くだろうしお弁当が必要だろうか。いっそのこと皆を読んで、あちらの世界の調査を大々的にやるべきか。知らないことを知るのはいつだって楽しい。期待だけが私の胸に渦巻いていた。


 全身がウイルスによって、グズグズに溶け落ちていく。痛みを叫ばない箇所は無く、苦痛は永遠にも感じる。
 もう少しだったのに。勝てるはずだった。鍵を奪って、ポンペイの遺跡を後にする。出来たはずだ。もう少しで鏡に手が届いたのに。そうすれば俺は、コイツに勝てたのに。

 一瞬の時間に、思考は取り留めもなく回り続ける。きっと自分はこのまま死ぬのだろう。任務も果たせず、勝利も得ることなく、仲間の仇も討てずに。
 後悔と苦しみが身体を駆け巡って、何もかもへの絶望が心を貫いた。俺は、こんなところで。


「ねえ、イルーゾォ」

 苦痛からか幻聴まで聞こえはじめた。この場にいるはずのない女の声は、尚も俺を呼び続ける。いったい何なんだ。幻だというなら、何故アイツの形をとる。


「約束を果たそう、迎えに来たよ」

 約束。そうだ、そういえばそんな事を話した。鏡の世界を見るのだと、あの場所について共に考えるのだと。

 手足はとうに腐り落ちた。あとは胴体を駆け巡るウイルスが脳を犯すだけだ。かろうじて動く目が鏡の破片に映れば、見知った女の姿で手招きをする誰かがいた。


 ああ、そうか。そうだったのか。鏡の向こうにいるのは彼女自身だ。そして、これから己も同じ場所へ行く。この自分が言葉を交わした彼女で無くても、彼女はどこかの自分と約束をした。それだけ分かっていれば充分だ。キサラ、俺は。

 目元を緩ませて風に消えた男が、どこに消えてしまったのか。知っているのは、鏡の向こうの女だけだった。

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