#7 暗雲低迷

 別に特段嫌なことがあっただとか、そんな訳ではない。ただ近頃は仕事もこんがらがっていたり、親戚関係で少しトラブルがあったり、お気に入りのスカートに取れない染みが出来てしまったり。ひとつひとつは大したことのない悪感情が、雅の心に偶然積み重なってしまっていただけ。

 だから別に、本当に誰のせいというわけではないのだ。進まない仕事の気分転換に出かけたカフェで、程よく影になっていたテラス席に雅が通されたことも。向かいの道路側に女の子たちと遊ぶ虎次郎を見つけたのも、彼が悪いわけではない。

「お待たせしました、ミルクティーとケーキのセットでございます」
「ありがとうございます」

 店員が運んできてくれたスイーツをちみちみとかじりながらを、道向こうを見やる。どうやら向かい側のオープンテラスはアクセサリーショップらしく、虎次郎は女の子たちを連れて訪れていたらしい。

「ねえジョー、ジョーはいつもここに来るの?素敵なお店ね」
「ジョーってばセンスも良いんだから、惚れ惚れしちゃうわよね」
「はは、そんなに褒められると照れるなあ」

 彼のたくましい腕に露出の多い服装の女の子たちがしなだれかかり、虎次郎はそれをなんなく受け止めている。ああ、羨ましい。私にあのアプローチは出来ない。プライドばかりが積み重なって、年ばかり取ってしまった。子どものころは道行く大人が自由に見えていたものなのに、今ではこの有様なのだから聞いてあきれる。

 手にしたフォークで、はしたなくもケーキの端を潰していった。ぐしゃり、ぐしゃり。ケーキもスポンジも一緒くたにまぜこんで、塊にしたものを口に運んでいく。甘ったるい塊と化したケーキでは、味わいも何も分かりやしない。それでも雅は無理やり口に運び続けた。

「っと悪い、もうそろそろ行く時間みたいだ」
「ええ、もうお別れなのお?」
「『S』でいつだって会えるさ、昼よりも夜のほうが長いんだから」
「じゃあ約束よ、ジョー!」

 虎次郎が次の用事を仄めかしたことで、女の子たちはひとりまたひとりと去っていく。最後に残ったのはミニスカートの良く似合う、巻き毛の女の子だった。そして彼女はジョーにしゃがむよう手招くと、そのまま彼の頬にキスをしたのだ。

「……ぁ」

 小さく引き絞るような声が、雅の喉から漏れた。見てはいけないものを見たような気分になって、そのままテーブルの上を見つめるようにうなだれる。可愛い子だった。自分に似合うおしゃれをして、積極的で明るくて、魅力をアピールすることも忘れない。

 虎次郎に纏わりつく女の子たちは、自分の魅力をきちんと理解している者が多い。彼女だってその例にもれず、いつも通りに振舞っただけ。見慣れた光景だ。幾度となく見た光景だ。それでも何故か、今日の雅は今見たものを上手く呑み込むことができなかった。

 わずかに差していた陽光がふと遮られ、テーブルの上に暗く影が差す。予報では晴れのはずだったのにと訝しがる。億劫がりながらもゆっくり顔を上げると、そこには虎次郎が立っていた。

「よお雅」
「虎次郎?なんで……」
「買い物来てたら偶然お前を見たもんでさ、すみません珈琲ひとつ」

 相席を断る間も無く、虎次郎は当然とばかりに雅の前の椅子を引く。彼の良い体格が収まるには、見た目ばかりの椅子は窮屈だろうに。座面に彼が腰かけるなり、椅子が軋む音を立てた。

 いつもならば、こんな状況は願ってもないことだ。好きな人が目の前に腰かけて、カフェでティータイムを共にしようと言うのだから。けれど雅の心は未だに黒く濁ったまま、先ほどまでのモヤモヤを振り払う事すら出来ていなかった。

 うつむくようにフォークを握る雅の様子に、何か可笑しいと気が付いたのだろう。気づかわし気に眉を寄せ、虎次郎が心配そうな声を掛けてきた。

「おい雅、お前顔色悪いぞ」
「別に平気だよ」
「嘘つくな、何年お前と一緒にいると思ってんだ。すぐわかる」

 強がっていることをすぐさまに看破され、ぴしゃりと叱りつけられる。こんな嘘など通じるはずがないのに、それでもつい口を出た。虎次郎は随分と心配して、雅を見つめている。それでもその節くれだった指が雅に触れることは無かった。だって雅は、あの少女ではないのだから。

「お前は昔っからそうだろ、ダメなときほど強がる」
「虎次郎には関係ない、平気なもんは平気」
「っとにもう、可愛くねえなあ」

 あの女の子みたいに可愛くなくて悪かったね。そう返そうとして、雅は異変に気が付いた。虎次郎が信じられないものでも見ているかのように、大口を開けて呆気に取られているのだ。人の顔を見ながらなんて失礼な、そう思ったところで雅の唇に水が触れた。水はやけにしょっぱくて、上から上から落ちてくる。

「雅おまえ、泣いてんのか」
「へ、」

 そう指摘されてはじめて雅は自身が大粒の涙を流していることに気が付いた。自覚したところで涙は止まらず、今もなお流れ続けている。ふと触れた頬は、生ぬるく湿っていた。

「ご、ごめん、今日わたしなんか可笑しいみたい」
「雅」

 雅は鞄から財布を取り出すと、数枚の紙幣を重ねてテーブルに置いた。自身が注文したものと、虎次郎が注文した珈琲の代金を払い、いくらかおつりが残る金額だ。風に飛ばされて行かぬようにレシートバインダーを重ね、急いで席を立った。

「本当にごめん、もう帰るね。家帰って寝るから」
「おい、雅!」

 席を去ろうとした雅の片手を、手首ごと虎次郎の大きな手が握る。彼もかなり焦っているのか、手のひらはあつく湿っていた。咄嗟の事で力加減が上手くいかなかったらしい。つかまれた雅の手首がギリ、と音を立てた。

「い、痛、」
「……あ、悪い、」

 漏れ出た小さな声を聞きつけて、虎次郎が慌てた様に手を離す。それでも雅の手首には、くっきりと赤い跡が残ってしまっていた。己が付けた跡を目にして、ジョーが呆然とした表情を浮かべるのが分かる。

「雅、あのさ」
「ごめんね、また今度話すから、今日はもう帰して」
「雅!」

 虎次郎の声を振り切り、雅は駐車場へと駆けていく。角のスペースに止めた車にキーを差し込み、逃げるように道路へ飛び出した。青信号なのが幸いして、みるみるうちにカフェは見えなくなっていく。

 そのまま走り続けて、自宅の車庫へ車を止めた後、どのように玄関に踏み入れたのか覚えていない。それでも雅は今、自宅のベッドの上でうつぶせに倒れていた。何も考えたくない。何も知りたくない。

 もう、これ以上恋に苦しみたくない。

 先ほどからスマートフォンがけたたましく通知音を鳴らし、メッセージアプリのウィンドウが現われては消えていく。送り主の登録名は南城虎次郎だった。

 スマートフォンを隠すように枕を乗せて、その上にまた寝ころぶ。だらりと垂れた片腕は、手首が赤く染まっている。

「消えなきゃいいのに」

 虎次郎が私に触れた証が、ずっと消えなければいい。そうすればきっと優しい彼は、悲しそうに眉を寄せるから。その瞬間、虎次郎は私のことだけを考えてくれる。

 なんて気持ち悪い女なんだろう。自身の思考を自嘲して、雅はへらりと笑う。こんなにも醜い女が、浅ましくも期待して。ぬか喜びしてバカみたいだ。

 枕を強く抱きしめると、その下にあるスマートフォンの振動が伝わってきた。この電波の先に、彼がいる。

「虎次郎、好きだよ」

 こんなにも苦しいのに、それでもこの恋を止められないことが。この日一番馬鹿らしく思えた。
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