椿時雨


御沢



1.『そうだ、壁ドンをしよう!』



 突然ですが。
 自分より背も高い図体もデカい男の先輩に、壁ドンされています。
「………………」
「………………」
 壁ドン。それは女子の憧れる萌えシチュエーションの一つ。女の子を壁に追い詰めドンッと音を立てながら手を付いて愛を囁くという、恋愛系の少女漫画や映画などで使われる効果的な方法である。ちなみにこれをやるのはイケメンに限る、という、鉄の掟も存在する。
 俺が女だったら壁ドンされちゃった恋の予感! みたいに胸キュンして盛り上がるところだろうか。しかし残念ながら俺は男で、相手も男で、いっそかつあげされてます脅されてます、殴られる十秒前です、と言われた方がしっくりくる状況だ。
「……沢村?」
 野太さとは無縁の甘い声で、そっと囁かれる。
 ガッチガチのスポーツ系のくせになんなんだ、柔らかく、甘い、ふっくらとしたセクシーな唇から吐息交じりに囁かれる声は蜂蜜みたいにトロリと甘い。
 黒縁眼鏡の奥、伏し目がちな両目を覆う睫毛も長すぎじゃねっすか、くっきりした二重瞼、きりりとした男らしい眉、すっと通った鼻筋に高い頬骨。
 やべぇ。この人マジでイケメンだった…。
 息がかかるほど近くにあるせいで、嫌でも顔の造作が目に入ってきてビビる。ごくりと喉が鳴った。
 長い長い沈黙の後、くっと息を飲む音が聞こえるまで、俺は悔しいがちょっと見惚れてしまった。
「…………えーと、これからどうしたらいいの」
「は?」
「だから次だよ。どうしてほしいんだよ」
 どうもしてほしくない。むしろ退いてほしい。
 さっきまで伏し目がちで妙な色気を漂わせていた御幸一也がむっと唇を曲げて俺を見る。あ、いつもの御幸先輩だ。オカエリナサイ。
「壁ドンって流行ってんだろ? お前が好きな少女漫画は、この後どんな展開に持ってくの」
「えっ…えーと…、今何してたのか正直に言うまで逃がさない、て言うとか」
「他」
「あ、愛を囁くとか…」
「そうかそうか。好き」
 頷いた御幸があっさりと口にする。
「好き」
 聞こえてます。そして知ってます。もう何十回と言われてるんで。
「好きだ、沢村。俺と付き合って」
 イケメンに壁ドンされて告白されるという、女子が夢見るシチュエーションをこの上なく享受しながら、しかし俺の顔はどんどん死んでいく。
 え、これギャグ? 笑えばいいの? 突っ込めばいいの? そもそも壁ドンってちょっと前の流行りですよね。
 ぐっと顔を近付けられてすでに額は触れそうだ。近い。近すぎる。元々接する時の距離が近い人だけど、こうやって正面から顔を近付けられると今にも口と口がくっつきそうで、内心ひやひやだ。
 じりじり背中を後退させようにも壁に追い詰められてるし、だらだらと冷や汗だか脂汗だかも出てきた。
「…………おっ」
「お?」
「お断りしまっす! さーせんっ!」
 勢いよく頭を下げたら御幸の顔面に頭突きをしてしまった。いって! と顔を押さえてよろめいてできた隙間に好機を逃さずしゅばばっと抜け出せば、眼鏡ごと押さえて痛みに沈黙している御幸の姿。
「……てぇな」
 ひぃっ、お、怒ってる。当たり前か。
 でもだって、いきなり壁に追い詰められてドンされて好きとか言われて、ふつーに怖いだろ。頭突きくらい覚悟してて下さい。
「もういいから俺と付き合えよ!」
 がしっと腕を捕まえられて、しまいには怒鳴られる。
 きっと色々面倒になったのだろう、なんかもう色々残念だ。
「い、嫌ですってば! お断りします!」
「すんな!」
「します!」
 そして俺は今日も全力で逃げる。
 まるでコントか何かのような掛け合いで。


 元野球部の先輩に、何故か迫られています。





2.『御幸選手…ですよね?』



 人生とは奇なもの妙なもの。
 一寸先では何が待ち構えているのかさっぱり分からないと思い知った二十歳の頃。
 青道高校を卒業し、俺は大学生になっていた。

「ねぇちょっと、あれヤバくない? すんごい高級車停まってるんだけど」
「えー、なんか撮影してんのかな?」
「見たことある気がするけど誰だっけ、芸能人?」
「誰待ちだよ〜」
 さわさわ浮き足立った好奇に満ちた声が大学の正門前から発生して、まさにその歴史ある立派な正門を潜ろうとしていた俺の耳にも届いてくる。
 人の野次馬根性と好奇心はいかんなる発揮され、人目はとある騒ぎの中心に釘付けだ。
 その流れにいやーな予感を覚えたのは本能だろうか。まるでどーぶつだな、と笑う男の意地悪な顔を思い出しながら正門を潜ると、噂好きの女子がひそひそきゃっきゃしている理由が嫌でも分かった。
 ………やっぱりか!
 ぴっかぴかに磨き上げられた黒の4WD高級車が正門前に堂々と横付けされ、そこに腕を組んでもたれている男がそれはそれはいい男オーラを垂れ流しまくって嫌でも人目を引いていた。
 肘まで捲り上げられた黒のVネックシャツが鍛え上げられた体を引き締まって見せ、がっしりとした腕に浮かぶ筋は、女子が好きな男の部位ランキングでも上位を占めるあれ。この前漫画を貸してくれた子が言ってたからよく覚えてる。
 目にかかるくらい長い前髪を下に垂らし、丸みを帯びたスクエア型の淡色サングラスをかけていても彫りの深い端正な顔立ちがよく分かる……多分あれは変装のつもりなんだろう。ただ目立っているだけにしか見えないが、きっと本人は大真面目だ。
 そんなオーラだだ漏れの男はあきらかに人待ち顔で、そのなみなみならぬ矛先の相手はさあ誰だ、とある意味周りの目は魔女狩りだ。
 ……うっわー、あっち行きたくねぇぇ。
 脊髄反射的に回れ右してみたところ、それはそれはよく通る声で「沢村!」と呼ばれてしまった。駄目だ、逃げられない。
 高校時代、広いグラウンドで、円陣の中心で、誰よりも声を張り上げて俺達を引っ張り続けた元主将の声量は健在で、なんてこった聞こえませんでしたよ! とはさすがに言い訳できない。
「沢村、こっちだこっち!」
 逃げられない。
 それでも往生際悪くその場から逃走しようとしているところにますます声は引き止めにかかる。違う。違うんですよ、あんたのことが見つけられなかったとかじゃなくて、俺は今ここから、正にあんたから、逃げたかっただけなんですけど!
「……………」
 おーいこっちこっち、と手を振る男をギリギリと首を捻りながら振り返る。俺が逃げようとしているだなんて考えたこともなさそうな能天気な声はここだよ、バカだな、とでも言いたげな苦笑に変わる。
 ちっげぇよ、バカやろう。毒突く言葉も乱暴になる。だってほら見てみろって、周りの視線独り占めだ。じろじろ不躾な視線が突き刺さる。
 そりゃそーでしょう、芸能人みたいにオーラがんがん出してる男が高級車で大学に乗り付けて誰かを迎えに来たんだ、芸能人じゃねぇけど似たようなもんだし、これはもはやちょっとした事件だ。
 そんな動物園のチンパンジー気分を味わいながら嫌々顔をしかめて近付いていけば、紫っぽい淡色のサングラスの向こうから見慣れた二重の目が俺を見てよお、と笑った。
 俺も笑い返しますよ。
 あんたはこの周りの痛いほどの視線、少しも感じないんすかね?
「あのー、御幸先輩」
「今日練習オフだろ? 飯食いに行こうぜ」
「なんで知ってんだっ、いやだから、御幸先輩」
「乗って」
「聞けよ! 人の話はちゃんと最後まで! 小さい頃習わなかったんすかね!?」
「え、何怒ってんの?」
 目をまん丸にして驚いている男には、何故かこの周りの状況は見えていないらしい。まあ普段あれだけ何万人という人の視線を浴びている人だ、これくらいじゃなんとも思わないのかもしれない。
 俺だってそうですけどね、視線独り占めなんてマウンドに立てば日常茶飯事ですけど!
 でもこんな不躾なのはさすがに勘弁してもらいたい。
 どこまでもマイペースな男にしおしおと肩を落として素直にドアを開けた。車高がばかみたいに高すぎてわたわたするのはいつものことで、さっさと運転席に乗り込んでいた御幸はサングラスを外しながら、もがき苦しむ俺を呆れ顔で見ている。やっぱりあれ、オシャレしたかったわけじゃなく変装のつもりだったのか。
 滅多に晒さない素顔を晒しているが、もがもがとまったく俺はそれどころではない。
「なにやってんだ」
「う、うるさいな! 四駆は座席が高くて乗りにくいんすよ!」
「そこ、上の方に掴まって乗るんだよ。足かけて」
「あっ、なーるほど!」
 掴まる場所があったのか。もっと早く言ってくれたらいいものを。
 過去何度もわたわたしながら無様に乗り込む俺を見てたくせに、と恨み言が口を吐きそうになる。この人に反発するのは昔からの癖みたいなものだ、条件反射的な。
「シートベルトちゃんとしろよ」
「はいはい…もう早いとこ行ってください…」
 動物園のどーぶつの気持ちが分かってしまったぜ…車の中にいても視線は容赦無くビシバシ浴びせられ、俺はふかふかと上等な革のシートの上でがっくりと項垂れた。あれって沢村? とひそひそ言われる声が聞こえてくるようだ。もぞもぞ尻が落ち着かない。
 それにしても高級車のシートって座り心地が良すぎてびっくりする。この車どんくらいすんのかな、と好奇心で価格を調べてしまった過去の俺の仰け反り具合はそれはそれは素晴らしいものでした。
 マジでこの人金持ってんだなと思い知った。プロ野球選手ってのは、ほんといろんな意味で凄いもんだ。
「ん、おっけー。何怒ってんのか分かんないけど、なんでも好きなもの食わせてやるから機嫌直して?」
 ぴくり、耳が反応する。
 なんでも。好きなもの。その単語は魅力的だ、腹減ったし。食い物に関しちゃ俺は遠慮いたしません!
「肉! ちょー分厚い肉! とろけるような高級肉食いたい、こんなの食ったことなーいってくらいのうっまい焼肉食わせてつかーさい!」
「うん、分かった。それにしてもお前さあ、俺がやった服着てねぇのな。気に入らなかった?」
 車を発進させる御幸の隣でぎくりと目を逸らしたら、窓の外に顔が向いてしまいじろじろと突き刺さる視線をもろ浴びしてしまった。
「あ、あーーーーそうっすね! フォーマル系はちょっとほら、普段着できないですしっ」
「そう? Tシャツも駄目だった?」
「あーあの死神みたいな……今…洗濯中です……」
「そっか。また今度持ってきてやるよ。お前普段から変な服着てるからたまにはいいもん着せないとなあ。そのクマとか、小学生みたいだぞ」
「…………」
 キャラクターギャングがプリントされた自分のTシャツを引っ張って見下ろす。人のセンス笑ってるけど御幸先輩。あんたのセンスもだいぶあれですから。
「もういいから早く肉っ、俺に肉を食わせて下さい!」
「はいはい、いい肉な」
 そして数十分後、俺は自分の迂闊な発言を後悔することになる。
 車を走らせて向かった場所は一軒家のレストランになっているらしく、都心から外れた場所にあった。
 高速乗ったりするから一体どこ行くんだと思ったけど、まさかこんな場所に連れて行かれるとは。
 中に入ると黒いコックコートを着こなしたシェフがすらりと立つ鉄板焼きのお店で、抑えられたモダンな照明につやつやの黒い内装、あふれるようなこう、こうきゅう、かん……。
 ……俺は焼肉を食べたいと言ったつもりだけど、なんだここ、異世界に迷い込んじゃったのかな?
 黒の燕尾服を着た給仕の人でさえまるで、異世界の住人のように見える。足元をゆったり流れるような低く抑えられたジャズっぽい音楽と薄暗い店内が、やたらと大人っぽい。
 ぐるりと半円を描いた鉄板の向こう側にいるシェフは、華麗なパフォーマンスで実に様々なものを扱ってみせた。シェフの立つ場所だけやけに照明は明るくて、まるでショーを見せられているような不思議な空間だ。俺はすっかり雰囲気に飲まれて、ばかみたいに背凭れの長い椅子に座らされて沈黙を貫いていた。
 海老や帆立や巨大なアスパラやらなんやら、シェフが手元を動かす度に、銀色のヘラみたいなものが照明を弾いてきらきらと金色に輝く。あれはアワビだ。俺でも分かるくらいの高級食材達が焼かれていく。
 トテモ、オシャレ。デスねーーーー。
「旨いね」
 口に入れた御幸が微笑みながら頷いた。所作がゆっくりのせいだろうか、いつも以上に大人びて見える横顔をちらちら窺いながら、俺もできるだけおどおどしないよう、うるさい音を立てないように口に入れてみた。
 ……分からない。味が分からない。
 アスパラっぽい味はするし、海鮮の味もするけど、食った気にならないのは何故だ。
 シンプルなようでいて何故かびしりとキマっている御幸の服装と違って、俺は学生丸出しのよれよれした洗いざらしのTシャツにハーフパンツ。このシックな店内には明らかに異物だ。ドレスコードってやつは、いらなかったんでしょうか。
 鉄板を囲むように背もたれの長い長い椅子が、距離を開けて客と客の間を保っている。
 向こうにいるのって俳優のナントカって人と女子アナさんじゃないだろうか。見覚えがありすぎて怖い。
 お洒落な細長いグラスに入ったジンジャーエールを飲む。辛い。本物のジンジャーエールの味がする。
 落ち着いて見えるのは所作がゆっくりしていたり、自信が余裕に変わるためだ。今の御幸にはそれが備わっていて、こんな店でも少しも気後れしない姿は堂々としてまるで別人みたいに見える。
 これが学生と社会人の違いってやつだろうか。普段は感じないズレが、ふとした瞬間に垣間見えて黙り込んでしまう。
「ほら、お待ちかねの肉だぞ」
 鉄板の上では分厚い肉の塊がシャッシャッと音を立てて、金色に輝くヘラの中で踊っていた。
 じゅうう、と音を立てて焼ける度にいい匂いがしてくる。口の中に唾が溜まってきた、うおおおうまそう…!
「焼き加減はどうなさいますか」
「俺っ、レアがいい!」
「じゃあどっちもレアで」
「かしこまりました」
「お、おおお……いいにおい…」
 肉の焼ける匂いって、どうしてこう甘美なんだろうか。ごくりと唾を飲み込む。最高級のなんたらA5ランクのうんたらと説明されるけど、ちっとも耳に入らない。
 目の前で切り分けられていく肉はまるでつやつやと輝いていて、赤身がまた食欲をそそる…う、う、うまそう、めっちゃうまそう…!
 岩塩、山葵、泡醤油。好みでどうぞと言われるけど、焼き肉のたれしか馴染みのない俺には何が好みなのかも分からないので、塩でいいや…って、ハッ。
「おいおい、なーに遠慮してんだよ。好きなだけ食えよ」
「く、食いた…えません!」
 いやいや待て、だってこれ絶対たっけーよな、今焼かれてんのだってフォアグラとか言ってたぞ。
 身を任せていた俺が今更我に返って叫んだら、向こう側にいた俳優のダレソレさんがびっくりした様子でこっちを見た。雰囲気ぶち壊してさーせん!
 でも体はとても正直だ。口の端からも涎がだらりと滴ってくる。
 魅惑のボディを持つ肉をちらちらと見ては胃の奥がきゅるきゅる鳴った。今あの肉を食べなかったらきっと俺はこの先一生後悔する…そんなことまで思った。大袈裟じゃなく、真面目に思った。きっと夢にまで見る。
「はっは、体は正直だな。いいから食べて。機嫌直してくれるようこれ、奮発したんだから」
「…………」
 奮発。奮発したのか。ということは、普段からこんな高級なお店に行き慣れてるわけじゃないのか…の割に慣れてるけどな。あれかな、球団の人達と来たことがあるとか?
 まあなんだっていいや、なけなしの理性は一気に言い訳を与えられて霧散した。さすがは御幸一也め、俺のことはなんだってよく分かっているな。
 恐る恐る箸を取って、一口大に切られた肉を岩塩に付けてぱくりと口に入れてみた。御幸は頬杖をついて、そんな俺を横から眺めている。
 口の中に入れた瞬間のとろける甘さと言ったらもう! 上品に溶ける肉って甘いんだな! と悟りでも開いた心地だ。かっと目を見開いた後、表情筋が一斉にほにゃーんとだらしなく緩んだ。
「うんまああ…っ、俺今死んでもいい〜〜〜」
「大袈裟だなあ。今死なれたら困るよ、まだ告白受けてもらってないんだから。しっかり生きろよ」
「うぐっふ」
「はは、ごめん。うそうそ」
 喉に詰まらせた俺に、すかさず御幸がグラスを渡してくる。
「気長にやるから。こー見えて俺、気が長いの」
「………そこに諦めるって選択肢は、ないんですか」
 こんな所でよくもそんなこと言えんな。ぼそそと口の中でぼやいたら、横にいる男は自分のグラスを弄ぶようにゆらゆらと揺らしながら、透き通った琥珀色に目を細めて笑った。
 きらり、太い左腕に巻き付いた時計が上品に光った。
「……ないよ」
 しゅわしゅわとシャンパンゴールドの小さな炭酸が弾ける。つってもあれ、俺と同じジャンジャーエールなんだけどな。違う飲み物に見えるのはなんでだ? やっぱり眼鏡を外しているせいだろうか、とちらちら盗み見る横顔は男らしく整ったイケメンだ。
「一生。死んでも。墓まで大事に抱えて、持ってくよ」
「み、御幸せんぱい……」
 少女漫画であればきゅんとするところだろうか。
 ……重い。重たすぎる。
 茶化す空気でもなかったから言えなかったが、とりあえず墓の中まで持って行かれるとは重たすぎる。
 気を取り直して再びに肉にがっついた。ねっとりしたフォアグラの濃厚さを堪能して、ガーリックライスに食後のアイスまで食べて、口の中はすっかり幸せだ。
 それにしても鉄板で焼かれたアイスなんて初めて見たので、いまだにあれがなんだったのか分からない。御幸が連れて行ってくれる店はいつも俺には初めて見るようなものでいっぱいで、旨い上に面白い。
 いつの間にか支払いを終えていた御幸に促されて店を出たところで、女子アナのナントカさんとばったり出くわした。一緒にいた俳優のナントカさんの姿はない。まだ店の中だろうか。
「あの…失礼ですが、御幸選手…ですよね?」
 お茶の間でも清楚系で人気のある美女にそっと声をかけられた御幸は、にこりと笑ってええ、そうです、と大人の対応を見せた。
 美人はまとう空気も美人だ。ぽかんと口を開けて眺めていると、御幸に邪魔をされた。ちょっと、なんでわざわざ人の前に立つんすか、見えないじゃないか。
「私、御幸選手の大ファンなんです。よく試合も観戦しに行かせてもらってます。先日の逆転ホームランも興奮しました、私とても感動して…」
「そうなんですか。ありがとうございます。あの日はたまたま調子が良かったのでラッキーでした」
「そんなご謙遜を…いつもご活躍を拝見しています。あの、私…」
「ありがとうございます。良かったらまた観戦しに来て下さい。では、連れがいますので失礼します」
 背中をぐいぐい押されてたたらを踏みながら駐車場へと向かう。女子アナさんは物凄く名残惜しそうにしていて、もっと話したい雰囲気満載だ。俺には一瞥もくれなかったが、なんかすげー色々光ってたな。
 御幸はにこやかに大人の対応で締めた後、さっさとその場を離れて車に乗り込むと深い溜息を吐いた。
 なんつーか、こういうところを見ると、ああこの人ほんとに遠い世界にいるんだなあとか、まるで一緒の寮で暮らしていたのが嘘みたいに思える。
 一軍で活躍するプロ野球選手、御幸一也。
 青道高校のキャプテン、という肩書きより、きっと世間は『プロ野球選手、御幸一也』一色だ。俺にとっては今も昔も、御幸は御幸だけど。
「悪いな。まさか声かけてくるとは思わなくて」
「え? いやべつに、俺は何も…ってかあれって朝の番組とかに出てる人っすよね! すっげー美人でしたね」
「……お前、あーいうのがタイプなの?」
「んん、んー、俺はどっちかっていうともう一人の明るいゲンコちゃんの方が好きっすけど」
「…………へー」
 自分から訊いたくせにまったく無関心な声で鼻を鳴らした御幸が、車を発進させる。
「にしてもすげぇっすね。あんなキレーな人に声かけられるなんて、やっぱ野球選手ってモテるんすね!」
「金さえ持ってればね。大抵の奴はモテるだろうな」
「ちょっと、ひねくれすぎだろそれは」
「事実だよ」
 身も蓋もないことをあっさり口にする横顔を盗み見る。そう言いながらもどうせ、満更でもないくせに。
 シートに深くもたれて、窓の外を流れていく景色を眺める。
 変なの。プロ野球選手の御幸一也は、高い店を知っていて、当たり前のように奢ってくれて綺麗な女子アナに声をかけられて、車を運転して、寮まで送ってくれる。まるで俺の知らない御幸みたいだ。
 なんでも持っていて、なんでも好きにできる。
 それだけのものを、この人はもう手に入れてしまっている。
「俺はお前が好きだよ」
 いきなり横から静かに言われて、ぐっと息を飲んだ。
 なのにこの人は、俺が欲しいって言う。
 いろんな人にアプローチされて、綺麗な人に好かれても、それでもなんでか男で、後輩で、そんなリスクだらけの俺がいいって言う。
 御幸先輩は男が好きなんですか。咄嗟の疑問は当時、この人がまだこんなに有名じゃなかった頃にぶつけてみた。いや、と考える間もなく返ってきた答えを、俺はよく覚えている。
 ふつーにナガサワちゃんは好きだし、女に興味がないわけじゃない。でも、俺は。
 ずるる、と窓にもたれた頭が、振動で滑る。ちぇ、と唇が拗ねたように尖った。
「……嘘ばっかり」
「嘘じゃねーよ」
 ぼそぼそ呟いた声を拾われて、御幸がははっと笑った。柔らかく、あったかく、慈しむように。
「……まだ、だめ?」
 独り言のような問いかけには答えなかった。窓の外を黙って眺める。まるで光のみちだ。
 車のヘッドライト。等間隔に並ぶ背高のっぽの光の群れ。そびえ立つ高層マンションの灯り、点滅する赤色。
 無数のひかり、の中を。
 静かに、音もなく、走っていくみたいだ。
 目を閉じた。寝たふりをしようと思ったわけじゃないけど、気付けばすっかりすやすやと眠りに誘われていた。
 俺、あんまり頭良くないんで分かんねぇっす。
 御幸先輩の言うまだって、何?



 最初の告白は、俺が高校三年生の時。
 引退してしばらく経った頃だった。
 俺が言うのもなんだが、誰もが羨むプロ入りを果たした超高校級捕手、御幸一也の未来は明るいものだった。
 世代最強を誇る強肩と冴え渡るリード、勝負強いバッティング。加えて強豪校の4番で主将の重責を務めあげた精神力を買われ、都内球団のドラ1を掻っ攫っていった男として、華々しくプロ入りを果たした。
 先は日本代表かメジャーかと更に高みを望まれ、そんな誰もが夢見る輝かしい未来を歩み始めた男は一年後、何を血迷ったのか、かつてバッテリーを組んでいた後輩投手の前に現れ好きだ、と告げた。
 好きだ。付き合って欲しい。
 ごくごくシンプルな告白だった。
 …………ど、どこに付き合えば、いーんでしょうか。
 目を白黒させ、どもりながら返した俺に、御幸は真面目な顔を崩さなかった。
 あまつさえ、俺の人生に。と言った。
 俺の人生最期の日まで、付き合って欲しい。
 どさくさに紛れてプロポーズされたと気付くまで、実に半年はかかった。
 告白をされたのは、何もこの時が初めてではなかった。
 同じクラスの子に、違うクラスの子や下級生にと、俺はこれまでにも度々告白をされたことがある。自分で言うのもなんだが、その頃人生最大のモテ期到来だった。
 だけどあんなに全身全霊をかけた告白というものを受けたのは初めてで、それがまさか御幸から向けられるとは思ってもみなくて、正直に言おう。
 身構えた。嘘だと思った。揶揄われていると思った。
 ……意味、分かんねぇ。
 そして気付いた。
 この男が生粋の勝負師であること。上に立つ者の常で、自分の思い通りにさせたがる性質を持つこと。相手の攻略が難攻不落であればあるほど、燃えるということ。
 つまり、まあ。そういうことなんだろうなって。



「……むら、さわむら」
 ゆさゆさ揺らされて、んあ、と間抜けな声を上げながら目を覚ます。やべ、俺寝てた。慌てて口を拭いながらがばっと体を起こせば、窓の外は見慣れた寮の近くだった。御幸が車で送ってくれる時に、いつも停めてくれる場所だ。
「着いたぞ」
「んんー、あざっした…それじゃ、おやすみなさーい…」
「こらこら、待て待て」
 寝起きでぼやけたままドアを開けようとしたら、猫か何かのように首根っこを掴まれて阻止される。引き戻されて再びシートに落ち着いたら、すいと右手を取られた。
 え、なになに、なんすか。寝ぼけ眼もぱっちりバッチリ覚醒だ。
 大学寮は人通りも車の通りも少ない、ひっそりと静かな場所にあるせいで、エンジンの切られた車の中も静かだった。
「……お前、普段から時計してねぇな」
「はあ、まあ、スマホがあれば時間は分かるし」
 俺の手をゆるく掴んだまま、御幸の親指がそっと肌を撫でる。触り方がなんか、……なんか、こう。ですね。
 むずむずと落ち着かなくて放そうとするけど、今度はぐっと握り込まれて先手を打たれる。むむ、外れない。引いても上下に揺らしても放してくれない。そんなに強く掴まれてる気はしないのに、圧が強すぎて離れない。
「ちょ、ちょっと、御幸先輩」
「やっぱ身だしなみは大事だよなあ」
 一体ナニゴトかと戦々恐々とする俺とは対照的に相変わらず飄々と笑いながら、御幸がダッシュボードを開けて何やら箱のようなものを取り出した。箱のような、ていうか小ぶりの箱をぱかりと開けて取り出したのは、見るからに高そうな腕時計だった。
「時計は男の身だしなみだろ。やるよ」
 あれよあれよと右腕にはめられたシルバーの腕時計は文字盤が黒で、しっかりした重さと大きさだ。覗き込んだ文字盤にはRから始まるローマ字の上に、王冠みたいなマークが刻まれている。
 自分で言うのもなんだが、すげぇ。今の俺の格好にはとんでもなく似合わないなってことだけは異様なくらい分かる。カツオにトンビってやつだっけ?
「……俺あんま時計とか使わないんすけど」
「だから身だしなみだって。時計の一つくらい持っておいて損はないだろ。ちょっと背筋が伸びる気しねぇ?」
「う…まあ、確かに」
 よれよれの格好でなんだけど、腕時計がやけに高価っぽくてしゅっとする気はするな。御幸の左腕を見ると、文字盤の中にも三つの小さな丸い時計らしきものを持った似たようなデザインの時計がはめられている。きっと俺にはめてくれた時計と同じメーカーのものだろう。好きなのかな?
 目の高さに持ち上げたりと色々してみる。時計のナニガシは俺には分からないが、ほうほう立派だなあと思う。
「似合うよ」
 にこにこしながら言われて、胡乱気に見返した。多分御幸は大真面目だ。
 貰う理由がないんですけど、と悪足掻きしてみてもいいが、うまいこと言いくるめられてしまうのはいつものことだ。口達者な御幸にかかれば俺の意見も意思も、最初からないに等しい。
「ええと、こんな立派なもんをありがとうございます」
「大したことねーから気にすんなよ。あーあとこれもやるよ」
 後部座席に手を伸ばした御幸に今度はなんだ、と構える俺の前に現れたのは、マフラータオルだった。薄闇の中で目を凝らしてみると、でかでかと『御幸一也』と書かれているちょっと待て、これあんたの応援グッズじゃないっすか。
「リニューアルバージョンしてふわふわ感二倍らしいぞー、バスタオルにでもすればいいよ」
 い、いらねええええ…!
 と全力で思ったが、条件反射で受け取ってしまった。
 球場ではきっと御幸ファンがこれを掲げて『みゆっきーみゆっきー』とはしゃぎながら楽しそうに応援しているんだろう。俺がバスタオルに使ったら、たちまち寮中に『見ろよあいつ…御幸のファンだぞ』て噂が立って揶揄われるに違いない……
「あ、ありがとうございます…………」
「青と黒の色違いがあるんだ。どっちもやるよ」
「…………」
 なんということでしょう、二倍になってしまいました。
 色違いのふわふわタオルを手に、アリガトウゴザイマスとぎくしゃく返した。ふわっふわで吸水性はあまりよくなさそうだが、肌触りはよさそうだ。
「はは…これ見たら、御幸先輩のこと嫌でも思い出しそうですね……」
「毎日嫌でも思い出してね」
 そんな上機嫌な顔で言うことかな。ハンドルに両腕を乗せてもたれながら笑う顔は、屈託ない。大人みたいな格好で、いや実際御幸はすっかり大人の風格だけど、そうしてると俺らとなんも変わんないよなあとも思う。
「じゃあまたな」
 ひらひらと右手の先だけ動かす御幸に頭を下げて礼を言う。遠ざかる車を見送った。
 御幸一也マフラータオルは小さく折り畳んで名前が見えないようにして、とりあえず、うん。
 顔拭きにでもしよう。



◇◇◇



「おまっ…これどうしたんだよ」
 ガバッと手首を取られて持ち上げられる。なに、なんなんだよカネマール、目がマジだ怖ぇ。
 大学構内にあるパン屋の食事スペースで次の講義まで腹ごしらえをしていると、トレイを置いた金丸がどかりと俺の横に座りながら声を上げた。俺が珍しくっていうか初めて腕時計をしているせいか、なんとも目敏い奴だ。
「あーこれ、貰った」
「貰ったあ!?」
 な、なんでこんなに食い付いてくるんだ、さてはこの時計欲しかったのか、カネマール。
「男なら一つくらい持ってろって。なんかくれた」
「お、おま…おまえ…お前な…この時計、いくらするか知ってんのか…?」
 怖い怖い。目が血走ってるぞ金丸。その食い付きようにドン引きしている俺の手首を掴んだまま、時計をガン見している様子にただならぬものを感じて一万円くらい…? と恐々尋ねたら頭をはたかれた。いてぇ!
「あほか! これ下手すりゃ3桁いくぞ!? 百万レベルだからな!」
「そそっそんなに……!?」
 ひいいっ。なんか高そうだなと思ったけど、桁が違いすぎた…! なるほど、金丸の素っ頓狂な食い付き具合も納得のお値段だ…急激に右腕に重みがきた。
 何かの勘違いであってほしいが、金丸はギンギン目を見開いて時計を見つめている。これをくれた時御幸もあっさりしたものだったが、それ以上に俺のリアクションは薄かったな、と金丸の反応を見ながら思う。高価なものだけに、もうちょっと驚いたり喜んだりすれば御幸も嬉しかっただろうに。
「あー、御幸先輩? 相変わらずだなあ」
 そんな俺達の様子を微笑ましそうに眺めながら、東条がトレイを置いて笑った。二人ともコーヒーに軽食用のパンを乗せている。俺は肉が挟まったサンドイッチだ。
 大学構内にはこうした食事スペースが多くあって、パン屋も食堂もお洒落なカフェなんかも、いろんなバリエーションで存在している。在学中の学生は割引もされるし、すげーお得だ。
 ン百万するかもしれない腕時計をはめながら、数百円のサンドイッチとカフェオレを頼んでいる自分のちぐはぐさに混乱してきたが、あえて考えないことにしよう。
「ああ…そういやあの人、貢ぐ君だったな…」
 ミツグ君? あの人名前、カズヤじゃなかったっけ。
 ようやく手を放した金丸が横でぶつぶつ呟きながらホットコーヒーに口をつけた。改めて見れば、金丸も東条も左腕に腕時計をはめていた。あ、俺右腕にはめてるな。利き腕の関係かな。
「…なあ、なんでお前なんか好きなわけ? あの人レベルになりゃ、相手なんて選り取り見取りの遊び放題だろ。もしかしてやっべぇ弱みでも握ってんのか?」
 横からジトーと見つめられながら問われて、なんで俺がと突っ込んだ。失礼な奴だな、なんであんたこんなことしてんのかって、それはむしろ俺が聞きたいわ。
「まあまあ。御幸先輩にとって譲れないものを沢村が持っていた。それじゃないかな? 信二はほら、あれだろ。目がくりっとした可愛い子が好きで、美人系より可愛い系。家庭的で女の子らしい、でもドジっ子で目が離せない春乃ちゃんみたいな…」
 ごふ! とコーヒーを吹いた金丸がゲホゴホと勢いよく噎せた。きったねーなあ金丸、てか春乃って吉川?
 吉川がなんだと思ったけど金丸が今にも死にそうなくらい噎せているので、紙ナプキンを渡してやった。鼻からコーヒー垂れてるぞ。
「まあそうやっていくつかあるうちの、自分がいいなって思う要素は人それぞれで。御幸先輩の場合は多分…」
 すい、と右手を上げた東条が、人差し指を一本立てた。
 一番の、いち。たった一つの、いち。
 涙目の金丸と並んで、東条の指を追いかける。
 御幸一也の中の、いち。
「これだけ、なんじゃないかな?」
「あー、野球で投手なぁ…」
「シンプルだよね。信二、鼻声になってるけど大丈夫?」
「誰のせいだ!」
 だいじなもの。
 ふむふむと聞いていた俺は東条が揺らす指先をじいっと眺めた。相手をいいなと思う要素の、たった一個しかない御幸の少なすぎる選択肢。
 御幸が欲しがるたった一つ、つまりそれが俺だというのか。いやいやこの俺を見初めるとは、お目が高いな、御幸一也。わっはっは。
「身に付ける物を贈るって、独占欲の表れだよね」
 はっと我に返ったら、東条がすいすいと指先で教えてくれた。不相応な腕時計。御幸がくれたTシャツ。鞄。テーブルの上に置かれた財布でさえも、御幸が何かにつけて俺に渡したものだ。
 たまに俺でも知ってるブランドのロゴが入っていたりするものもあって、そういえばこの黒の市松模様の財布もよく見かけるブランドだ。最初に長財布を渡されて使いにくいと言えば、すぐさま二つ折りをプレゼントされた経緯を持つ。
 ちなみに今持ってる鞄も着ている黒Tもだ。なんで御幸からだと分かったんだ東条、骨骨のプリントされた黒Tなんて、俺が選ぶわけないと思ってのことだろうか。御幸のセンスって、いまいちよく分からないよな。
「……あー、お前ってちょいちょいブランドもんで固められてるよな…このTシャツもたっけぇぞ」
「えっ、この落書きみたいな骨骨ボーンが…!?」
「やっぱり知らなかったのかよ…それ一着ン十万すっからな」
「うっそ! マジかよ……」
 貰った時はうわー御幸センスねぇーとか思ってごめんなさい、俺の方が見る目なかったのか。ごめんなさい。てかTシャツに十万ってナニゴト。
「金丸はなんでそんな顔して詳しいんだ…」
「お前が知らなすぎるんだよ。知らずに貰ってるとか怖ぇわ。つーか顔は関係ねぇだろ」
「沢村の全身から、御幸先輩の匂いがするよね」
 なんとも凄いことを言われて、だばっと口の端からカフェオレが漏れた。
 うわきったねぇ! と横で金丸が引いてるけど、鼻から出してた奴に言われたくない。
「そういうことだろ? 大学にわざわざ車で乗りつけたり、あれもう俺のってあからさまなアピールだよね。周りに牽制っていうか、こいつ俺のですよ手ぇ出すなよって言ってるようなものだから」
「……東条、すごいな」
 金丸と二人、感嘆の声を上げて見つめる。東条のこのなんでも分かってる感、マジでかっけぇ。
「そうかな? そんなもんでしょ、恋なんて」
「うっ、眩しい…! さらっと恥ずかしげもなく恋だなんて言える東条、眩しい…!」
「こんな顔して東条は昔からモテるからな。恋愛関係のことはよく分かっておいでだぞ」
「あはは、信二も沢村も動物だからねー」
「どーいう意味だっつの」
「まあ信二の方がだいぶ繊細だけどね」
「おーおー、しっかし、そうは言うもののなんでかねぇ。あの人もなーんでわざわざこんな単細胞バカを…」
 お前野球やっててよかったな、と哀れっぽく言われるけど、この場合果たしてそうなのだろうか。いや、俺は野球をやってる御幸一也に出会えてよかったと思ってるし、正直俺の人生はあの人に会ったことで大きく変わったとも思ってる。
 あの時御幸一也に出会っていなければ、俺はここにはいなかった。何もないけど自然豊かな故郷の田舎で、平々凡々と暮らしていただろう。
「お前その内、車とかマンションとか貰うんじゃね? つーか俺ならその時計貰った時点で落ちるけどな」
「へぇ、信二は時計貰ったら御幸先輩と付き合うんだ」
「………………あ? ………いや、ちょっと……その想像は色々やべぇわ……」
 一体何を想像したのか、顔を逸らした金丸は蒼白だ。繊細っていうか、妄想逞しいな。
 右腕に巻き付いた時計を持ち上げて眺める。ぴかぴかの高級腕時計は俺なんかには到底似合わない代物だ、外してしまおうかな。
 東条の説明は分かり易かったけど、いまいち腑に落ちないのは、御幸一也がどうしてこんなことを続けているのかの理由についてだ。俺を見初めるとは大したもんだと胸を張りながら、でもきっとそうじゃない。
 ……そうじゃ、ないんだよなあ。
「あれはまあ、一種のゲーム感覚だからな」
 げんなりと右腕を下ろす。二人の視線を感じながら肉の挟まったサンドイッチにかぶり付いた。甘辛ダレにマヨネーズ、昨日食べた舌が溶けるような高級肉とはまるで違っても俺はこの味が好きだし、普通に旨いと思う。
「はあ? ゲームだあ?」
「え、いやいや沢村、あれほどあからさまなアピールはないと思うんだけど…」
「あー、なんていうか昔から御幸先輩って俺を揶揄って遊ぶのが大好きな人なんだよ。んで、そういうのにも全力で楽しむ人っつーか」
 金丸と東条が何やらアイコンタクトをしていたが、咀嚼したサンドイッチをカフェオレで流し込む俺だけはちゃんと真実を知っている。
 だってそうでなければおかしいのだ。
 忙しい身であっただろうに俺の引退後、現れた御幸は確かに好きだと告白してくれたが、俺が大学に入ってしばらくした頃は一度も連絡を寄越さなかった。
 ほぼ一年間。一年もの間、一度もだ。
 好きだと言われ困惑している内に急に放り出されて、そしてまた突然現れた。空白の一年間。
 思い出したように現れた時、あの男は実に晴れ晴れしく笑っていた。こっちの気も知らず能天気に笑いながらベタな花束まで持って、スーツ姿で、愕然と硬直している俺の前に、あろうことか膝をついて。
 プロ野球選手という環境のせいだろうか、多大な精神的ストレスだろうか、大丈夫かなと本気で御幸を心配したものだが、そうやって強いストレスに晒されていると人間は解離性のなんとかで自我を保っていると本で読んだ。まさにこれだ! と思った。
 御幸のあれは精神的ストレスの緩和剤となっているところも大きいのではないかと検討をつけ、その頃には早々と一軍定着で更に過酷な環境に身を置いた頃だったことを思い出して、全てに合点がいったのだった。
「……いや、それはさすがに御幸先輩が不憫だよ沢村…」
「そんな理由でほいほいたっけぇブランドもん与えねぇだろ。それなりの下心ってやつだろうが」
「甘いぞカネマール。あの人の契約金凄かっただろ、乗ってる車も凄いんだぞ。なんでもじゃぶじゃぶ金が入ってくるらしいから、金銭感覚はすでにおかしくなってんのかもしれない」
「どこ情報だよ。どうせどっかのワイドショーネタだろ。そんなんでン百万する高級腕時計買ってたまるか」
「……やっぱりこれは返した方がいいよな」
 金丸の関心はやはりそこに行き着くらしい。
 御幸め、こんな高価なものまで買い与えるとは、金持ちの道楽ってやつか。まったく無駄遣いしやがって。
「まあまあ、せっかくプレゼントされたんだし、素直に貰っておけばいいんじゃない? 返されたって御幸先輩も困るだろうし、何より悲しむよ」
「……悲しむかな?」
「うん。それにほら、いざとなれば売っちゃえばいいんだし」
「何気にお前ひどい奴だな…笑顔の悪魔か。そんなら俺に寄越せっつの」
 ったく、と肘をついたままコーヒーを飲む金丸に、はっと閃く。そうだな、物の価値をしっかり理解している金丸は、この場合適任かもしれない。
「これ金丸にあげてもいいか、今度御幸に聞いてみるな」
「絶対やめろよ!」
 間髪入れずに拒否した金丸の悲鳴が店内に響き渡った。
 注目されたのは、言わずもがな。




「あっはっはっはっは!」
「…………」
 なんかすげー笑ってる。上機嫌に笑ってる。
 何がそんなにツボなのか、御幸は俺の貢ぐ君って言われてましたけどあんたいつから名前変えたんすか発言にさっきから爆笑中だ。ひーひー涙まで流してるから、俺は若干引いている。
「あは、ははは…っあー、マジうける」
「…………何がそんなにツボなんすか」
「いやいや、確かにそうだなと思ってさ」
 はーもうお前最高、とかなんとか言いながら涙を拭った御幸は、いまだ発作に見舞われて時折ぶふふっと吹き出しながら肩を震わせている。いっそ怖いくらいうけている。
 時刻は夜の十一時を回ろうとしている遅い時間帯だ。今夜はナイトゲームがあったため球場からそのまま来たものの、延長もあって遅くなったんだとか。
 いつもの場所に車を停めて、車体に凭れ掛かっていた御幸に駆け寄ったのは少し前だ。今夜はここでちょっと喋って終わりだろう、そもそも試合の後でよく来れんなと、俺はいっそ呆れてしまう。
「でもお前、全然なびかないから。半分は当てつけな」
「当てつけって何に?」
「んー? 俺をここまで振り続ける沢村クンに対して」
「……ん、んんん?」
「はは、じゃあ今日はぁ、これをやろう」
 ポケットに手を入れて何かを探っている御幸にはっとする。まさか、車のキーを取り出すんじゃないだろうか。金丸の言葉を思い出してひっと身を引いた。
「な、なんすか。俺車とか貰ってもまだ免許ないんで、困りますけど!」
「ん? 車欲しいの? 車種なに? 今度見に行くか」
 なんでそうジュース飲みたいの? 買ってやろうか、みたいなノリで財布を出そうとするんだこの人は。
「あんたが言うとしゃれにならん! 欲しくねーし、車なら御幸先輩が乗せてくれるから必要ないだろ」
「うん? うん、そーだなあ」
 何やら嬉しそうににこにこしている。今日はあれだな、試合に勝ってハイになってるんだろうか、すげー上機嫌だ。やっぱり俺は引き気味だ。
「ほら。試合のチケット」
 ひらりと取り出したチケットを二枚渡されて、反射的に受け取った。……試合のチケット?
「誰か誘っておいで。あ、でもお前女とか誘うなよ〜」
「え、うわっ、うん! すげぇ、やった!」
 野球を一緒に見に行く女友達なんていなかったが、ぶんぶん頭を振って頷いた。やべぇ、すげー嬉しい。だってこれ、御幸の出てる試合見られるんだよな、すげぇ!
「お、喜んだな。こんなんでいーのか」
「こんなんでって、試合のチケットなんてふつー貰えないし! げ、何これしかも一列目って書いてあるんすけどっ?」
「せっかくなら近くで見てほしいから。ほんとはちょっと後ろの方が、ゲーム全体がよく見えるんだけどな。ここならマウンドもよく見えるだろ」
「うわーうわーすっげぇぇ! あざっす! 絶対見に行くんでしっかり活躍してくださいよ!」
「はっはっはー、誰に言ってんの? するに決まってんだろ」
 強気な発言をにやにや口にしながら、何やら後部座席を開けて紙袋を取り出した御幸が、それを俺に渡してくる。
「……なんすかこれ」
 ユニフォーム、キャップ、チケットホルダーにスティックバルーン、写真付きうちわ。もちろんMIYUKIの文字入りグッズがたんまり詰め込まれたそれは、これ着てこれ持って、応援に来てね、ってことらしい。俺どんだけ御幸のファンだと思われるんだろう。
「…………」
「ユニフォームと帽子にサインしといたから。オークションに出したりすんなよー」
「…………しませんけど」
 野球の観戦チケットは素直に嬉しかったが、この格好で球場に行くのはちょっと。しかもサイン入りとか、熱狂的なファンの人に俺、刺されないか?
 悶々といろんな想像と戦っている俺の様子を眺めながら、御幸はポケットに両手を入れて静かに笑っている。
 妙に静かになったなとふと顔を上げてみると、さっきまでハイテンションに笑っていた顔が急に心あらずの調子で、眠そうにぼんやりと笑っていた。……つまり、見た目通り眠いらしい。
 もしかしてさっきのおかしなテンションは眠かったせいもあるんだろうか。子供みたいだな。
「……なんか眠そうっすね」
「ん? んー、うん。ちょっと眠い」
「……疲れてんなら無理して来なくていーっすよ。事故ったらどうするんですか」
 目をしょぼしょぼさせながら車にもたれて、今にも眠ってしまいそうな姿にさすがに心配になる。途中で事故にでも遭ったらどうするんだ。
「んー、だってお前…会いに来なかったら俺のことなんか、すぐ忘れちゃうだろ。そんなのやだよ」
「そ…そんなすぐ忘れるわけないだろ。プロなんだから、疲れを取るのも仕事だろ!」
「うわ、沢村に正論言われた」
「あのなあ〜〜! 俺は心配して!」
 頬が熱くなるのは不可抗力だ、俺に忘れられないように疲れていてもこうして車を飛ばしてやって来るのかと思ったら、妙に胸の奥がざわざわした。
 顔の赤みを誤魔化すように応援グッズの詰まった紙袋でばしばし叩く俺に、御幸は楽しそうだ。
「はは、分かってるよ。ありがとうな、嬉しい。その勢いでちゅーでもしてくれたら疲れも吹き飛ぶのになあ」
「するかバカ!」
 つれないなー、とけらけら笑う顔はちっとも残念そうじゃない。最初から分かっての軽口だ。俺もそうだと知っているので、いつものようにわざとらしく怒ってみせる。いつものじゃれ合いだ。
「んじゃ、そろそろ帰るよ。明日も練習頑張れよ」
 ふあ〜と大欠伸をしながら体を起こした御幸は、すでにうつらうつらしているけど大丈夫なんだろうか。マジで事故ったりしないだろうかと心配になって見つめている俺に、当の本人は相変わらずのんきなものだ。
「……ちゃんと安全運転で帰って下さいよ」
「うん。分かってるって」
 伸びてきた右手に頭をなでなでされる。屈辱的のような、褒められてるみたいで嬉しいような。
 いつも葛藤しながら結局嬉しさの方が勝ってしまうのは、昔からの刷り込みってやつだろう。褒めてほしくて褒められたくて必死だった高校生の頃の俺は、きっと御幸にこうしてほしかったんだろうなと思う。念願叶ってよかったな、俺! とは絶対に思わないけどな。
 なでなでされるのに身を任せていると、不意におでこにちゅっと柔らかく口付けられた。
「………ッ!?」
「これくらいは許してよ。おやすみ」
 どさくさに紛れてもう一度、今度はほっぺにちゅーまでされた。ふに、と柔らかい感触を押し当てられて固まる俺の頭を撫でて車に乗り込んだ顔は、にこやかだ。
 窓を開けて手を振りながら、おやすみ〜と笑う。
 なんて奴。なんて奴だ。
「……っみ、み、御幸一也め〜〜〜!」
 頭突きをかましたかったが一歩遅かった。走り出した車をふるふる震えながら見送る俺の顔は真っ赤だろう、見なくたってこんだけ熱くなってれば分かる。
 あの男、大事なものを盗んでいきました。
 おでことほっぺにちゅーという、俺の初ちゅーを。
 あっさりと。
 あんの野郎、御幸一也め。許すまじ!





3.『御幸マニアができるまで』



『――さあ! 勝負所でこれほど頼りになる選手は他にいませんね! 先日も試合を覆す満塁ホームランを放った御幸選手が打席に入ります』
『あー、球場の歓声が変わりましたねぇ。相変わらず女性人気が高い選手ですねぇ』
『なんでも選手が試合前に行った握手会には、女性ファンが殺到して列が大変な長さだったとか』
『いやぁ〜さすがですねぇ、やはり女性はイケメンが好きですか、羨ましいかぎりですよ』
『あはは、そうですねぇ、加えてあのピンチの場面での一打! 男の私でも痺れる勝負強さ! さあ、注目の御幸の一打席目は……外に大きく外れてボール!』

 ゆるやかな笑みを浮かべた御幸が防具を外して打席に入るだけで、球場からは女性の高い声が上がる。
 自然体に構えて、頭の中を目まぐるしく働かせながら配球を読み、打つ。
 昔から変わらない左打席、自信に溢れたふてぶてしいまでのオーラ。
 唇を軽く尖らせて振り抜く、勢いのあるスイング。
 ドンピシャとはいかないまでもタイミングを外された球をうまくバットの先でさばいた打球は、綺麗に空いた二遊間を抜けて瞬く間に三塁、二塁までもがホームに帰ってくる。試合の終盤、勝ち越しの2点タイムリーヒット。膠着した流れを打ち壊した。
 一塁に進んだ御幸はエルボーを外しながら、ちょっと甘かったな〜みたいな顔で笑っている。その顔がアップされるのはテレビ側の思惑か。
 肩にかけたタオルを両手で掴んだまま、寮の食堂で流れる野球中継は本日も御幸の所属する球団の試合だ。まったくもって、いついかなる時でも御幸一也は俺の生活圏に踏み込んできて、むむむ、と球場の盛り上がりを耳に流しながらリードを取る姿を眺めた。
 御幸一也タオルを両手で広げた女性ファンがアップされる。あーあれ俺が押し付けられ…貰ったタオルだ。今肩に引っ掛けてんのもMIYUKIのロゴ入りタオルだ。これは隅にちょろっと名前が入ってるだけのピンク色だから難なく使えているが、さすがにあれだけでかでかと主張されてると使うのは恥ずかしい。
「いやいや今のはボールっしょ。読みが浅かったなあミユッキー」
「それがあそこ抜けるかね」
「結果的にラッキーってやつだな」
「そういえば沢村青道だったよな。御幸と同じとこだろ」
 食堂でテレビを観ていた先輩が顔を巡らせながら俺を見上げる。この手の会話は過去何度もしてきたので、俺の返答も慣れたものだ。
「一個上の先輩だったんで、バッテリー組んでました」
「うお、マジか!」
「なあなあ、やっぱ野球選手って女子アナとコンパしまくってんの? ミユッキーの奴すっげぇ遊んでそうな顔してるよなあ」
「さあ〜どうなんですかねぇ」
 女子アナに声はかけられてましたけど、と胸の内で呟いてささっとその場を離れる。濡れた髪からはまだ水滴がぽろぽろ落ちてきて、部屋に戻りながら不意に後ろから頭をぐいと押されるマボロシを見た。
 高校生の頃の俺もよく濡れた髪をそのままに歩いていて、御幸に見つかっては呆れられていたっけ。
『風邪ひくぞ』
 ばーか。ゆるやかに笑いながら通り越していく顔は悪戯っ子のようでいて、保護者のようでもあったような気がする。投手なんてみんなあの人にとっては、手のかかる飼い犬みたいなものだったのかもしれない。
 大学の寮は青心寮とは違い、一人部屋を与えられている。プライバシーの保たれた部屋の中は机とベッドだけでもういっぱいになってしまうような狭さだが、一部屋三人で使っていた高校時代を思えば天国だ。わしわしと髪を拭きながらベッドに腰かけた。
 いつも少しだけ口角の上がった唇と、さりげなく向けられる眼差しの柔らかさ。9割くらい馬鹿にされて揶揄われて遊ばれてばかりだったが、試合になるとどこまでも頼りになるキャプテンで、要の主砲で。
 俺の人生を、根こそぎ変えた男。
「……それがなんであんな風になったものか…」
 自分の魅力がオソロシイ、と茶化してみても笑えない。
 いつの間にか部屋の中は御幸から貰ったもので溢れ返っていて、この枕カバーも水族館に売っていそうな抱き枕だってそうだ。机の隅っこに置かれた、見るからにお洒落な硝子瓶に入った香水に至るまで。
 もちろんそれだけじゃなく、寝間着代わりのこのトレーナーにスウェット、タオルだって手荒れ防止のハンドクリームと、至る所に御幸の気配で溢れている。
 あんまり取り出したくはない応援グッズが詰め込まれた紙袋も、机の下に押し込んである。
 節操なく贈られた物に一貫性はない。手あたり次第プレゼントしているといった印象だ。プロの世界であんなに華々しく活躍してきゃーきゃー言われてるくせに、どこまでも不器用な男だなと思う。
 冗談のような、執拗なような。
 しかし冗談にしては手が込みすぎているし、とは言えあれが本気だというのならやり方がめちゃくちゃだ。
 ふっと頭の中に幕が下りるように意識が閉じる。
 難しいことを考えるのは苦手だ。抱き枕を頭に敷きながら、ベッドにごろりと横になる。髪を濡らしたまま寝るなって怒られそう。
 ぎゅっと顔をしかめながら思い返す。そう、あれは俺が大学に入学して少し経った頃。
 御幸が俺の前から急に消えた、一年間という空白期間の、ちょっと前のことだ。



***



「だから! 何度も言ってますけど、俺はゲイじゃないんですけど!?」
「俺だってそうだよ」
「じゃあなんで男の俺にす、す、好きとか言ってくるんですか、毎回毎回飽きもせず!」
「そんなの好きだからに決まってるだろ」
 お前馬鹿だな、馬鹿なの? あ、馬鹿だったな、とその顔が哀れっぽく俺を見ていたのでぐうの音も出ない。仮にも好きだという相手に、その態度はないんじゃないだろうか。
 会う度に何かしら物を持ってくる御幸は今と少しも変わらず、そして今日は指輪まで用意されていたからさすがにドン引いた。シンプルな白銀のリングを何故か当たり前のように左手薬指にはめてくる御幸はどこまで本気なのか、その顔は俺の反応を見て楽しそうでもあったから、きっと揶揄っていたんだと思う。
 いや、そうでなければさすがにおかしいって。人の指に勝手に指輪をはめてくるのは、絶対おかしいって。
 ブランド物のタオル、ネクタイ、香水、ありとあらゆるものを俺に与える御幸に最初こそすっげー嬉しいやったー、と軽率に喜んでいた俺だが、これでもかと続けばさすがに常識が警告を鳴らし始める。
「俺はっ、だから、女の子と付き合いたいんですよ!」
 何故か自信満々に自分を選ぶと疑わないらしい男に告げてみたら、その顔がはっきりと動揺を示した。
 しまった、と瞬時に思ったのは、この人でもそんな顔をするんだと、そう思ったからだ。
 御幸が怯んだため、何度か言い聞かせるタイミングで使うことになったその言葉は、半分嘘で半分本気だったと思う。大学生にもなればそれなりにみんな彼女がいて、漫画の中でいろんな恋愛を見てきた俺にとってもちょっと羨ましいな、と思ったりもした。若気の至りってやつです。
 何度目かの付き合うなら女の子がいい発言に、御幸が低い声で「分かった」と言った時は、ようやく不毛な恋を諦めてくれるのかとほっとした。
 俺にとって唯一無二の存在である御幸一也は大切な存在で、だからこそ俺にとっては、そのままの御幸一也でいてほしかったのだ。
「それでお前の気がすむなら。付き合ってみればいいよ」
 目が怖いし声も怖い。静かな迫力に怯む俺に、御幸は尚も続ける。
「でも、男と付き合うのは駄目。許さない」
「は、はあ…?」
「絶対許さない」
 その言葉を最後にあんなにしつこかった御幸は一年間全く連絡を寄越さず、俺の前から綺麗さっぱり姿を消すこととなる。
 俺はというと、拍子抜けしたようなほっとしたような、曖昧な感情に相変わらず翻弄されながら、新しい環境で野球漬けの日々を送ったり関係を築いたり、だけど結局、彼女は一人もできなかった。
 変な呪いをかけられて、散々だ。
 御幸からぱったりと連絡がなくなってからずっと俺はあの人の動向が気になって気になって、気になって。
 もしかしてどっか悪くしたのか、怪我して入院とかしてるのかと心配をよそに、どんどん試合の出場を増やしていく姿をテレビで見かけるようになって、なんだ、俺のことはもういいのかよ、なんて理不尽な腹立ちまで感じるようになってしまった。
 御幸が好きだなんて言わなければ、こんなにも気にならなかった。御幸一也の記事は全部読んだし、試合内容も書き記したし、何よりメディアにぐんぐん取り上げられていく様子を、息を詰めながら見つめ続けた。
 気付けばすっかり御幸マニアの出来上がり。元々の調べ癖を発揮して、プロ野球選手御幸一也のことで知らないことはないんだぜ、なんでも聞いてくれよって感じに詳しくなってしまった。
 気付いた時には遅かった。
 それも全部御幸の手の内だったら怖いなと思いながら、もしもそうだとしたら計画通りだよ。
 会わない間、俺はすっかり御幸マニアに成り下がってしまったのだから。
 しかしそうやって御幸の影を追いかける日々の中、突如として俺がそうなってしまう元凶が再び現れた。
『よう、沢村』
 一年の空白をまったく感じさせないどころか、軽いノリに絶句した。
 俺はあんたに変な呪いをかけられて誰かとお付き合いすることだってできなかったし、御幸マニアにもなってしまったし、それなのに能天気に俺の前に現れて今度はなんの用だよ、と気持ちはすっかりささくれ立っていた。
『久しぶり。元気にしてたか?』
 あの時、泣きそうだったなんて知られたら死んでしまう。
 嬉しかった。泣きそうなくらい嬉しかったなんて、絶対に言ってやらない。
 久々に会った御幸は相変わらず上等なスーツを着て花束まで抱えて、地面に膝をついてにこやかに笑っていた。本格的な手の込んだ冗談に怯みながら、またこうして会えたことが嬉しいと思った俺も、きっとどうかしてしまっていたんだろう。
 そうでなければおかしい。
 もしかしてそれも、若気の至りってやつだったのかな。



 そんなこんながあって現在に至るわけだが、その時に悟ったことがある。薄々感じ取っていた違和感の正体はこれだったのだ。
 御幸は俺のことを好きなのかもしれないが、それはきっと思い通りにならない俺だから、こんなに目をかけているのだろう。
 まるでコントのような求愛活動とべったべたな愛の言葉は冗談にも取れるし、思い通りにならない俺は退屈しのぎにはもってこいだ。御幸の趣味はちょっとどうにもこう、あれだ。
 ……きっと、どうせまた、例えば俺が御幸の気持ちに応えたとしたら。
 ぽっかりと空いた、切ない時間を思う。
 また突然突き放されて一人になるかもしれない、あんな思いをするのかもしれない。御幸のことばかり調べ回って、腹が立ったり不意に寂しくなったり。
 振り回されるあんな思いはもう、懲り懲りだ。



 ◇◇◇



 アルプスだと思う。山脈だ。
 うーん、……槍ヶ岳? ちなみに偉大なる我が地元長野は、登山者のメッカであると言っても過言ではない。
「御幸の奴、面白いことになってるって?」
 ほかほか湯気を上げるどんぶりに高く高く山になった大盛りもやしラーメンを目の前にして、口の端からおっと、涎が垂れそうだ。危ない危ない。その素敵なお姿はまるで地元の山々を思い出すにふさわしい。両手を合わせて拝んでおこう。
 目の前には春市のお兄さんが、俺の隣には倉持先輩がテーブルに着いていて、同じように山になったどんぶりをじっと見つめている。ああ、早く食べたい。
「聞いてる? 沢村」
「うひゃい! 聞いてまっす!」
「で、御幸の奴面白いことになってるって?」
 もう一度繰り返したお兄さんが笑う。俺の意識は目の前のラーメンに夢中だったが、待てを言い渡されているので大人しく待ての姿勢である。
「炒飯お待ちー」
 ドンドンドン、と愛想のない声で店の大将が更に山盛り炒飯をテーブルに追加する。狭いテーブルはもういっぱいだ。ぐうう、と腹が鳴った。なんて香しい匂い。
 ここは倉持先輩とお兄さんが通う大学から近い場所にある運動部御用達のラーメン屋で、安い、うまい、メガ盛り、の三拍子を揃えた素晴らしいお店だ。来るのは二度目だけど、早くも店のファンである。
 倉持先輩と同じジャージ姿のお兄さんが、ぱきりと割り箸を割ってほれほれと俺に見せ付けながら笑っている。お前が話すまでお預けだよ? ってことらしい。
 面白いこと。面白いこと…大変なことになっている気はするので頷いてみた。
 どこから情報を仕入れてきたのか、俺を呼び出したお兄さんは久しぶりーの挨拶もそこそこにズバリ切り出してきて、何故それを知ってるんすか、と俺を震撼させたのがついさっきだ。
「情報源は金丸に東条だ」
「んなあっ…倉持先輩にも話してるんすか!」
「俺は御幸本人からも聞いてるけどなー。沢村が好きそうな服教えてとか、よく連絡してくんだよ、あいつ」
「……服…あーっ、もしかしてあの骨骨ボーンとかっすか!? あんたのセンスかあれは!」
「ひゃはは、かっこいいだろ?」
「あのもじゃもじゃした変なTシャツとかも!?」
「あ? そりゃ多分、御幸の好きなバンドのライブTシャツだろ」
 口の利き方、と横からヘッドロックをかまされてばしばし腕を叩く。不明瞭な部分は多いが、謎が解けた!
 うぬぬと唸っている俺にうえ〜不細工、と揶揄う倉持先輩は絶対面白がっている。たまになんだこれと思うような御幸からの貰い物は、全部この人の仕業だったのか。
「で?」
 高校生の頃に戻ったようにじゃれ合っていると、目の前に座るお兄さんから鶴の一声が飛んでくる。倉持先輩はささっと席に戻ってにやにや笑いで事の成り行きを完全に楽しんでいるらしい。
「ほらほら。洗いざらい話しな? もうネタは上がってるんだからさ」
「……」
 何故だろう。不意に今いる場所が取調室になったような気がして、びびっと背筋が伸びた。
 取り調べ中の定番はかつ丼だった気がするけど、
 ……ラーメンも出るんだっけ?



「へー、そんな面白いことに…じゃなくて、なってたんだ。ばっかだねぇ」
 待てを解除されて思いきりラーメンにがっつく俺の話を聞き終えたお兄さんは、けらけらと楽しそうに笑っている。当事者の俺は笑い事じゃないっすよ、とぐいーっと水を煽る。
 ラーメンうまい。ずるずると麺をすすりながら豚骨スープを流し込んで、炒飯を掻き込んで、またスープで流し込む。餃子があればもっと最高だけど、夕飯前だしこれくらいで我慢しておこう。
 熱い物を食べている時の常で、ずびびっと鼻をすすった。みんな他人事だと思って楽しんでるな。
「でも沢村も満更でもないでしょ? そんなに御幸の匂いさせてるんだから」
「同じこと東条にも言われたんすけど、なんなんすかね、それ。俺ってそんなに御幸の匂いしてるんですか?」
 香水とか残り香ってやつだろうか。くんくん自分の腕を鼻に押し当てて嗅いでみるけど、全然分からない。
「だってお前が身に着けてるものなんて、ほとんどぜーんぶ御幸だろ? そのえんじのタオルも財布もスニーカーも、有名ブランドだ。生意気だね」
「…………」
 見る人が見ればすぐに分かってしまうものらしい。
 確かにこれは御幸がくれたもので、俺はいつも使っていて、そこから御幸の匂いがしていると言うのなら確かにそうなのかもしれない。
 ……だって! いらないって言っても押し付けてくるし、捨ててもいいからと言われてじゃあ捨てますね、と言えるほど図太くもない。大体いらないなら捨てろとは何を考えているんだ、大金稼いでるからって調子に乗りやがって、御幸め。
 あと、……それに、ほら。
 俺が身に着けてると、すげぇ嬉しそうにするから。あんな顔を見たら、無下にもできなくなるのだ。仕方ないから喜ぶ顔を見てやろうと思ってしまうのだ。
「凄ぇ時計も貰ったんだろ? 金丸が興奮してたぞ」
「あれは封印しましたんで!」
 とは言え、ン百万の時計なんてそうそう付けていられるわけもなく、大事に机の引き出しの中ににしまい込んでいる。付けるとしたら御幸と会う時とか、御幸に会う時とか、……御幸に会う時とか。
「一発ヤらせてあげたら落ち着くんじゃない?」
「ぶふーっ! な、な、なあああ…っ!」
「きったねぇ! もやし飛ばすなバカ村!」
 なんだこれ、前にもこんなことあったなデジャヴ? とゴホゴホしている俺に、お兄さんはぺろりとラーメンを平らげて相変わらずけらけら笑っている。
 や、やらせてあげたらって、やら……それさらっと言っちゃうことじゃないですよね…!
「だってさあ、今の御幸なんて発情期の犬みたいなもんだろ? 一発ヤれば落ち着くよ」
「ちょ、ちょっと…ちょっとそれは……っ」
「いーじゃん、減るもんじゃなし。一回抱かれて終わりなら、お前も悩むことないだろ?」
「いやいや減る! 確実に俺の大事なものが! 減りますけど!?」
「あはは、一回も二回も変わんないって。三回目にはハマってるかもよ?」
「しかも増えてる!」
 こんな場所でなんてことを言うんだ、や、や、ヤらせてあげたらって、つまりそれは御幸が俺を、こう……
「って、うわあああああ想像するな俺…!」
「したんだ。できるんだ」
「できません!」
「いやいや。今確実に御幸に抱かれただろ、お前」
 カーッと熱が噴き出す勢いで真っ赤になった俺は気付けば立ち上がって叫んでいたらしい。座れ座れと横からジャージの裾を引っ張られて、すとんと座り込む。
 うう、お兄さんが変なこと言うから変な想像しかけた。大体俺も御幸も男同士だし、そんな、そんなのは……
 そこではたと気付く。そういえばこっそり部内で回されるAVものの中に、誰かが悪ノリして男同士のAVを紛れ込ませていたという珍妙な事件があった。
 俺らのキャプテンはとても男らしくかっこいい人で、俺あの人になら抱かれてもいいわ〜と冗談で言っている連中もいるくらいだ。
 ……え? 俺が気付かなかっただけで、男同士のそういうのって、わりと普通なのか?
「……亮さん、パンクしますって」
「素直な奴だねえ」
 ぐるぐる目を回している俺に、倉持先輩が戻ってこーいとばしんばしん背中を叩く。はっ危ない、このまま意識を失いかけるところだった。それくらい衝撃だった。
「まあそれは置いといて。あの御幸がそんなに必死になってるなんて、カワイイところもあるじゃん」
「間違った方向に全力出してて、イタイと紙一重って感じですけどね…あ、噂をすれば」
 店の端っこの方に置かれたテレビでは、丁度夕方の番組内で御幸の球団を取り上げていたらしい。試合のダイジェストとインタビューが流れ出して、スポサン姿の御幸が映された。
「おーおー、すっかりスターになっちまいやがって」
 面白くなさそうに、椅子に肘を乗せた倉持先輩が言う。
 ほんとにその通りですね。
 今ここで、お兄さんや倉持先輩達とラーメンを食べている席で、もしも御幸がいたらと想像した。こんなふうにテレビの中で見かけるんじゃなくて、例えば俺と同じ指定のジャージを着て、このテーブルに一緒に座って、ラーメンを食べている御幸の姿。
 むう、と勝手に口が拗ねる。ぶんぶん首を振って追い出した。
 起こらなかった未来の話は、虚しいだけだ。
「ほらほら沢村、お前の旦那が出てるよ〜」
 頬付えをついたお兄さんが楽しそうに言う。残りの炒飯を勢いよく掻き込んで、カララン! とレンゲを皿に置いた。ごちそーさんでした!
「旦那は俺ですけど! 御幸はキャッチャー、女房役!」
「何億と稼ぐ甲斐性ある嫁で羨ましいよ」
「…っだーかーらー…っ」
 ちらちらテレビを盗み見る俺ににこやかに笑ったままお兄さんが揶揄う。悩み相談をするわけではなかったが、面白おかしくネタを提供してしまったことには落ち込みたい。俺はわりと本気で、御幸のあの行動を落ち着かせるにはどうしたらいいのかと考えているのに。
『一発ヤらせてあげたら落ち着くんじゃない?』
「…………」
 あんまりなアドバイスだ。
 しばらく黙ったまま御幸のインタビューを眺めていると、不意にスマホが震え出した。メッセージが届いたらしい、御幸一也、と名前が表示されているのを見てぎょっとする。
 な、なんで? とテレビとスマホを交互に眺めるけど、そういえばあれ、生放送じゃないんだっけ。なんてタイミングのいいことだ。
「御幸?」
「ななっ、なんで分かるんすか」
「そんな顔してたから」
 そんな顔ってどんな顔だろう。メッセージはいつものように夕飯食べに行くぞと簡潔だ。あれだけ凄いことするわりに、メッセージにハートマークが付いたことがないのが御幸らしい。
 えーと、なになに。来週から遠征に入るから、その前に…
『……というわけで、来週から五日間の遠征に入られるわけですが、敵地での活躍も期待しています!』
『ありがとうございます。頑張ってきます』
『では、ファンに向けて一言お願いします』
『皆さんの応援がいつも大きな力です。これからも応援よろしくお願いします』
「相変わらずのテンプレート」
「外面いいっすもんね、あいつ。ておい、沢村どうした」
「どっどうもしませんけど!」
 おどおどしながらスマホを急いでしまい込む。分かっている。自覚している。顔が熱いということは、それだけ赤くなっているということだ。
「……お前、何をそんなに赤くなって…」
「わーっ、言わないでつかーさい!」
 胡乱気な顔の二人にぶんぶんと首を振った。
 不意打ちだ。いつも素っ気ない簡潔な文字だけメッセージのくせに、あの野郎。
 心臓がばくんと音を立ててドクドクとざわつき出す。

『飯行こう。今度何食べたい?』
『来週から遠征入るから、できればその前に』


『会いたい。お前のパワー、ちょうだい』





4.『お前って、彼女いたんじゃなかったっけ?』



 御幸が連れて行ってくれる店はいつも芸能人がいたり個室だったりとどこも高級な店で、一流選手はみんな一流の店にしか行かないのかと思ったことがある。
 確かに普段食べられないような美味しい物ばかりだったけど、俺は普通にラーメンも好きだし、大学のサンドイッチも好きだ。
 いつも御幸が店を決めてくれるのには、理由がある。
 たまには安上がりの店でと入ったバーガーショップでは女子高生に囲まれた御幸がファンサービスを行うことになり、そのまた後日入ったファミレスでは子供に囲まれてサインを強請られ、果てはそのお母さん方に写真を求められたりと、これまたファンサービスをすることになってしまった。
 嫌がってうんざりしているかと思いきや、まあ仕事の一環だしな、と苦笑する顔は責任ある大人のそれだった。
 またある時は突然金丸から電話がかかってきて、なんだと思えば真剣な声で『今すぐそこを離れろ』という物騒な指令を受けた。
『SNSに写真上げられてっぞ。場所特定されたら騒ぎになる』
 まだ食べかけだったカレーを泣く泣く諦めて、そうやって御幸の手を掴んで店を飛び出したこともある。
 俺が御幸にここに行きたい、ここにしましょうと決めた店は何故かことごとく人に囲まれて身バレするというハプニングに見舞われるため、大人しく御幸が決めてくれるお店に連れて行ってもらうことになったのは、それからすぐだった。
 いくら人気商売だとは言え、せっかくプライベートな時間を過ごしている時にファンサービスをすることになってしまったら申し訳ない。御幸はしょうがない、と困ったように肩を竦めて慣れないなりにファンサービスを行って、その姿が余計に俺を居たたまれなくさせた。
 そうそうバレねーだろ、バレても騒がれないって。
 と本人が言うからすっかり油断してしまっていたが、すっげぇ簡単にバレてましたので、俺はもう御幸の言葉は信じないことにしている。
 そして今日は某都内の高級焼き肉店の個室で二人、向かい合わせでジュージューと肉を焼いている。
 ジャケットをハンガーにかけてVネックシャツ姿の御幸はラフなのに何故かとてもいい感じにキマっている。
 俺は悩んだ末に、御幸がくれたクレヨン描きのもじゃもじゃしたナメクジプリントのへんてこなシャツを着ていて、腕時計も香水もつけてみた。
 断じて。断じて御幸の会いたいメッセージに絆されたわけじゃない。パワーちょうだい、とかちょっと可愛いじゃないかとか思ってない。
 なんとなく、なんとなくですよ。
 でも開口一番車に乗り込んだ俺に、御幸はうっと顔をしかめて『お前それどうしたの』と信じられないって顔をした。あれは喜んでいたんだろうか。照れ隠し?
『香水でもこぼしたのか』
『こぼした? 付けてみただけですけど。いや、なんか、ほら! 付ける機会なかったんで、なんとなく!』
『あ、……あ〜〜〜〜〜あれか……』
『……いい匂いっすね。俺これ好きです…』
『あ、うん…そう…よかったね………』
 ぼそぼそ口にした御幸の声が聞き取れずに首を傾げたら、何故か突如として香水講座が始まった。香水のなんたるかも詳しく話していた。
 なんでも香水は脈打つところ、太い血管の通った手首や首筋にワンプッシュほど、皮膚の内側からほんのり香るくらいがいいらしい。
 俺はふんふんと横に座って聞きながら御幸が腕時計に気付くのを待って、ようやく気付いてくれた時は嬉しいような恥ずかしいような、なんともむず痒い気持ちになった。
 御幸は思った通り、すげー子供みたいな顔をして笑う。嬉しそうな、ころっと表情が甘いケーキにでもなってしまったみたいな。
 やっぱり今日はこのコーディネートで間違ってなかったんだな。御幸が喜ぶ顔を見たいとか、別に思ってもないけど。断じて違いますけどね。
 今日は個室にしような、といつも大体個室を使ってるくせにわざわざなんだろうと思っていたら、網の上にオシャレにカモフラージュされた換気扇の付いた焼肉店に連れて行かれた。そういえば俺は焼肉を食べたかったんだっけ。この前は鉄板焼きに連れて行かれたもんな。
「ビール飲めば? あ、ここワインもうまかったよ」
 えらく上機嫌ににこにこしている。
 やっぱり俺の格好かな。そうだろうな。御幸は分かりやすいから、俺にだって感情の幅がよく分かる。
 上品な木製のおひつから白米を茶碗によそってくれた御幸は、しゃもじ片手にいい旦那さんみたいだった。間違えた、御幸はキャッチャーだから嫁の方だ。
 不意に連想ゲームのようにお兄さんの顔が浮かんできて、慌てて左手を振って掻き消した。
 ちなみに今日の俺は、いつもの俺とはだいぶ違うのである。御幸仕様に固めているからってわけじゃない。確固たる意志を持って相対している。
 あと少しの勇気を貰うためにアルコールの力を借りよう、と勧められるままグラスビールを一杯貰った。御幸は運転があるから当然飲めないので、健全に烏龍茶だ。
 あらかた肉を堪能して、のんびり空気が和んだ時が狙い目だ。
 ……さあ! 行くぞ!



「御幸先輩は、俺と付き合いたいんですか!」
「え? うん。付き合いたい」
 思いの他あっさり頷かれて、ぐうと押し黙る。
 怯むな。勢いで行くぞ。
「じゃあ、付き合って何したいとかあるんですかっ、た、例えば俺がこここ恋人になったとして!」
「そりゃ…うーん。まあ色々あるけど…なんだよ急に」
「それって今とどう違うんですか?」
 ズバリ切り込んだ俺に、向かい側に座る御幸はぱちりと瞬きをした。そんなあどけない顔をされると、必死な自分との温度差があからさまだ。
「こうして頻繁に会って、一緒にいて、飯食って話したり…なんか変わるんですか?」
「……うーん…あー……」
「お、俺とえろいことがしたいんですか」
 つまり付き合いたいというのは、ただ会って飯を食って話すだけじゃなく、あれしたいとかこれしたいとかつまりはそういうことっすか。あんたの思う恋人の定義とは、一体どんなものなんだ。
 さすがに一発やれば落ち着くんですかとは言えなかった。御幸は動きを止めてじっと俺を見ている。
 俺の真意を探っているのかもしれない、視線を繋げたまま見つめあっている時間がやけに長いものに感じられた。飴色の、柔らかい眼差しがすうっと細まる。
「それ聞いて、どうすんの?」
 なんとも感情のない声が返ってきた。
 面白くなさそうにグラスを持ち上げて烏龍茶を揺らす。動くものになんとなく目がいってしまう俺も同じように目を向けたまま、忘れていた瞬きを取り戻した。
「俺がはいそうですって言ったら、お前ドン引きすんの? それともやらせてくれんの?」
「ぶふっ…!」
 や、やら…やらせてくれんのって、やっぱり御幸の目的ってそれなのか。そこなのか。そうなるのか…!
 俺が御幸の思い通りにならないからいつも高い物を奢ってくれて、物までくれて、そんでつまり一発やれたら終わりってやつなのか。
「やっ! やっやっ…ひっでぇ! あんた変態か!」
「変態? なんで。好きな子に触りたいとかキスしたいとか、セックスしたいとか。当たり前だろ」
「…っ」
「引くなよ。傷付く」
 ははっといつものように声を上げて笑ってるけど、すぐに御幸の肩が下がった。はあ、と溜息まで吐いて。
 じわじわと耳の先まで熱い。きっと俺の顔、真っ赤だ。
 御幸が目を逸らして溜息を吐いた理由はなんなんだろう。俺の反応に呆れたのか、それともコイツ童貞くさいなって呆れたのか、どっちにしても呆れられたのか、俺は。
 かくいうあんたはどーなんすか、と言いたいのを堪える。俺のこと好き好き言うけど、ちゃっかり裏では遊んでんじゃないのかとか、だってあんたすげぇ綺麗な人からモテるじゃないかとか、だって、あの時だって一度も連絡寄越さなかったのはそっちじゃないかとか。
 ……結局こんなもの、あんたにとっちゃゲームみたいなものなんだろう、とか。
 俺の思考はいつも同じところをループして、気持ちの行き場を失う。悶々と考え込む俺の頭を、前から伸びてきた大きな手がぐりぐりと撫でた。
「こらこら、そんな顔すんな」
「……御幸先輩の言う好きって、なんなんですか……」
 掻き乱される前髪越しにぼやいたら、うっすらと御幸が笑う。相変わらず飄々と読めない顔だ、達観してるというか、自分を見せないというか。
 さあ、とおどけて肩を竦めるのも全部、この人の本心をうまく隠してしまう。狡いなと思う。
 結局いろんなことが曖昧なまま、財布からカードを引き抜いて会計を済ませた御幸にごちそうさまです、とお礼を言って店を後にした。
 先輩だし、金の使いどころも他にないし、俺がしたいから、みたいなことを言って以前うやむやにされたが、やっぱりこうして頻繁に奢られっ放しはどうなんだろう、いや、男として。人間として?
 俺のことが好きだと言っている相手に毎回奢らせるって、やっぱどう考えてもよくないよな、と唸る。後輩特権は、一体どこまで有効なんだろうか。
「あのー、御幸先輩…」
「車回してくるから、ちょっと待ってて」
「あの! あのですね! 俺こーいうのやっぱりもう!」
 ぼんやりと夜に浮かび上がる店の前、さっさと歩き出そうとした御幸を引き止めたら、ぽんと肩に手を置かれた。勢いを殺されたところにふわ、と唇が押し当てられる。
 …ん? ほっぺに、ちゅー?
 唖然と固まる俺の肩に乗った右手が、ぽんぽん、と動いて離れた。呆然とその背中を見送って、はっと我に返った。触れられた頬をがばっと手の平で覆う。
 んなっ、い、今、ほっぺにチューした…!
 外でいきなり何すんだときょろきょろ辺りを見回すけど、他に人影はない。あの人ほんっと危機感ねぇな。こんなところマスコミに見られたらどーすんだ、と俺の心配をよそに横付けされた車に、渋面を作ったまま急いで乗り込んだ。
 乗り込む様子もじっと見られている。まるで俺の様子を窺うみたいに、黙ったまま。その顔はあれだろ、試合中相手の出方を考えてる時の顔だ。涼しい顔して目まぐるしく頭を働かせている、御幸の頭の中は今、どんなことでいっぱいになっているんだろう。
 シートベルトを締めたのを確認して動き出した車の中、シートに凭れてちらちらと横顔を窺った。
「さっきの…」
「……」
「さっきの」
 夜の中を泳ぐように、すいすいと車が進む。
 柔らかなDJの声の後、すぐに流れ出した音楽は古い映画のサントラからだという、異国の歌声だ。どこかで聞いたことがあるような気もするけど、覚えていない。
「……怒ってんの?」
「お、怒ってはないですけど。外だったし、あんた有名人なんだから気を付けないとダメじゃないっすか」
 ああ、と鼻を鳴らすように、つまらなそうに相槌を打たれる。違う、そうじゃなくて。気付けば大事な部分をうやむやにされた気がする。くそー、これが手か?
「見られないとこだったら、していいってこと?」
「それは…」
 いや、だから。そうじゃなくて。
 ゆっくりと赤信号で車が停車する。御幸はいつも安全運転だ。停まる時だって変に圧力を感じたことはない。
 しん、と車内に静寂が落ちる。音楽がかかってるから音がないわけではないはずなのに、世界中から音の概念が消えてしまったみたいな静寂だった。
 赤信号で停まった車内、不意に動いた気配に顔を向けたら、横からいきなり被さるようなキスをされた。
「…っ」
 唇に押し当てられた感触にびっくりして目を見開くと、眼鏡の奥、目を閉じた瞼が近すぎる距離で見えた。
 フロントガラスの向こうの、光と逆光。
 夜に沈んだ端正な顔が、そっと離れる。真剣な目が俺を見ていた。
 今。くちびる、に。
「……え」
 くちびるに。
 呆然と瞬きもできずにいると、ふっと両目を伏せた顔がまた距離を詰めて唇を塞がれた。ゆっくりと重なった唇の、微かな凹凸まで分かる。吸われる。塞がれる。
 ……え、やばい。待って、俺今、キスされてる?
 ようやく自分の身に起こっている状況を認識した瞬間、パーッ! と後ろから鳴らされたけたたましいクラクションの音に心臓が潰されるような心地で体が竦みあがった。
 いつの間にか信号は青になっていて、後続の車がクラクションで促している。び…びびった。
 無防備なところに車のクラクションは心臓に悪い。
 体を起こした御幸は何も言わずに静かに車を発進させた。焦っている様子も、慌てている様子もない。俺はシートの上でこんなにも冷や汗をかいているというのに。
 ドッドッと心臓の音、デカすぎて御幸に聞こえてるんじゃないかと心配になる。だから反応が遅れに遅れた。
「な…なに…ちょっと今、お、俺に…っ」
「ごめん。なんかつい」
「なんかついって! き、キスしていいなんて、俺言ってない…! は、初めてだったのに…っ!」
 なんてことだ、ファーストキスをたった今奪われた!
 愕然と頭を抱えて嘆く俺に、俺の大事な初めてをあっさりと奪っていった男はへえ、と相変わらず気の抜けた声。この態度…! うううくっそおお、ゆ、許すまじ…っ。
 唇を手の甲で押さえたままじわじわ耳の先まで熱くなる。きす、きすされた。ほっぺにちゅーとかいうレベルじゃない、口にされた…っ。
「初めて…か」
「なんですか! バカにしてるんだろっ」
「してねぇよ。お前…彼女いたんじゃなかったっけ」
 え、と勢いを殺されて素に戻った。俺、彼女いたことあったっけ? とぽかんとした後で、そういえば以前男と付き合うんじゃなくて女の子と付き合いたいと言ったことがあることに気付いた。
 御幸があっさりいいよ、と頷いて姿を消した、あの一年間。
 御幸の中で、俺は彼女がいたことになっていたのか。
「キス、しなかったの」
 前を向いたまま、なんとなく気怠そうに御幸が呟く。右手一本でハンドルを扱う横顔を見て、膝に目を落とした。
 そうだ、あの時俺はこれで彼女ができると思ったのだ。
 でも、できなかった。
 どうしても誰かの顔が浮かんできて、駄目だった。
「し…してないですよ…手だって繋いだことないのに」
 どう説明したものかと悩んだ末にしどろもどろ呟いた。そんな俺を見てふっ、と笑う御幸の声から力が抜けている。ほら、絶対バカにしてる。
「お前さあ、ほんとに付き合ってた? それ」
「……っだ、って…誰といてもあんたの顔がちらついて、全然うまくいかなかった」
 これは真実だ。誰かと付き合おうと思っても御幸の顔が浮かんできて、結局誰とも付き合えなかった。
 あれは罪悪感だったのだろうか。それとももっと別の何かだったのか、分からないけど。
「……俺?」
「そうだよ、あんたのことばっか思い出した。なのにあんたは俺を放ったらかしにして、一年も連絡一つ寄越さなくて、だからすげームカついて…っ」
 思い出したらマジで腹が立ってきた。むかむかしながら恨み言がこぼれ落ちて、だから、ええとなんだっけ。急に不自然な沈黙が流れる。
 いや違うな、これじゃまるで御幸に放置されたことを怒ってるみたいだ。俺はいきなりキスしてきたことを怒ってるんじゃなかったっけ?
 あれ、もしかしなくても間違えた? と我に返る俺に、御幸が少しだけ笑った。
「俺のこと好きになった?」
「なんっで! 今の話でそうなる! ならねぇよ!」
「ならない? なんで?」
「そ、…んなの、そーだろ…っ」
「好きになってよ」
 ぐっと言葉に詰まる。横顔を向けたまま、淡々と。
 いつもと同じ言葉なのに、いつもと同じじゃない。
「好きになれよ。大事にするし、俺、すげぇ甘やかすよ? だから」
 怖いほど一途な。
「俺を好きになってよ。……お願い」
 唇が、わななく。狡い。なんて狡い、お願いだ。
 かあっ、と顔に血が上る。あつい。なんで、なんで。
 心臓うるさい。うるさいってば。ドッドッと鼓動が暴れ出す。今までだって何度も言われただろ。なんで今更、こんな。
「な…ならない…絶対、ならない……」
 必死に絞り出した声は、みっともなく掠れていた。長い長い沈黙の後、小さな溜息と笑い声が聞こえてくる。
「落ちねぇなあ、ほーんと。これで何敗目だっけ? 連敗記録更新中だな」
 困ったように茶化しながら言われて、それでもあんた諦めないじゃないか、とぼやきたくなった。自分なら落とせると言いたげなその自信はどっからくるんだ。
 触れた唇がやけに熱い。初めて触れた他人の唇は柔らかくて、距離の近さに驚いた。
 キスを、してしまった。
 触れたのは唇と、吐息と。
 ぎゅうう、と目を閉じて膝の上に置いた両手を握り締める。顔が熱い。心臓が痛い。
 するりと心の中にまで触れてきた。こんなの反則だ。
 やばい、まずい。このままじゃ俺、きっと御幸のペースに流される。
 その夜俺は、眠れなかった。



***



 大事なものを奪っていきました。
 今度は唇を。
 体は許しても唇だけは愛する人にしか許さない健気な娼婦の話を思い出した。それくらい唇へのキスは大事な大事なもので、まあ確かに運動部のノリでじゃんけんに負けたらキスをする、なんて罰ゲームがあったりもするけど、唇へのキスは本来そうやって大切にすべき、とても神聖なものである。
 それをあろうことか、あんなにもあっさり奪われることになるとは。
 ……すげぇ、柔らかかった。
 想像していたものよりずっとずっと柔らかくて、ぼんやりと唇に触れてみる。
 ……すげぇ、柔らかかったな。御幸の、唇……
「…………うおおおお…っ」
 込み上げてくる衝動に身悶えながら、必死に顔を枕に押し付けてバタバタ暴れる。やばい、心臓やばい。今度会う時どんな顔すればいいんだ。
 当たり前のように次会うことを想像している自分は、一体この先御幸とどうなりたいんだろう…ってそうじゃない、そうじゃないだろう俺。
 これはもう本格的にまずい、ほっぺにちゅーならまだしも、唇へのキスは冗談にできない部類だ。これは可及的速やかなる修正が必要になったぞと、頭の中がぐるぐる掻き回されて、目が回ってきた。
「おいさわむらー入るぞー」
 ノックと同時に扉が開いて、まったくノックの意味を無視した金丸が部屋の中に入って来る。俺はベッドに俯せになって枕の下に両腕を突っ込んだまま、死んだ魚のような目でその姿を目で追った。
 金丸とは高校一年からの付き合いで、気付けば長い付き合いになる。大学が一緒なのも何かの縁だろう、きっとこの先大人になっても続いていく縁なのだと思う、と言うと金丸は嫌そうな顔をするが、照れ隠しだよ、と東条は笑っていた。
「なに、お前もう寝てんの?」
「寝てない。考え事……かねまる……」
 むくりと体を起こして地を這うような声で呟いたら、げっと目敏く気付いた金丸は俺が何か口にする前にびしりと片手を向けた。
 意思表示は、限りなくノーである。
「ってまだなんも言ってねぇのに!」
「言うな! すっげぇメンドクサイ匂いがする! どうせあの人絡みだろ、いいから俺を巻き込むな!」
「うぬぬぬぬ……っ」
 金丸は東条と違って決して気軽に御幸の名前を口にしない。御幸の固有名称は常にあの人だ、名前すら呼ぶのが怖いって、どんだけ恐れられてるんだ。
「まぁた高級なんたらとか奢ってもらってきたんだろ。大体お前もさあ、好きとか言われてんのにほいほいその気もねーのに付いて行くなっつの」
「その気って、御幸相手に何をその気になれば」
「おいおいマジかよ」
 巻き込むなと言いながら、俺がしょんぼりしていたらガシガシ頭を掻きながらも話を聞いてくれる金丸はやっぱりいい奴で、どっかりと椅子に座って足を組んだ。その拍子に足元に押し込んでいた紙袋を蹴飛ばしてしまったらしい、なんだ? と覗き込んでひいいっと急に青ざめた。
「お前…っその気ねーとか言いながらめちゃくちゃファンじゃねーか! なんだこの応援グッズの数は!」
「あ、それ御幸が俺に押し付けたやつだから」
「自分で自分のグッズを…!? マジかよ!」
 すいませんっした、と礼儀正しく机の下に押し込んだ金丸は、すでに疲れて切ってぐったりしている。なんとなく申し訳ないが、いや、ちょっと待て。
 はっと気付いて枕をぶん投げる。さすがはいい反射神経だな、あっさり受け止められてしまった。
「そういえばカネマール! お兄さんと倉持先輩に逐一御幸のこと報告してんだろ、ネタは上がってんだからな!」
「あー? ……ああ、あれか…」
 お返しとばかりに思いっきり顔面に投げ付けられた。自分のことは棚上げだが、不意打ちなんて卑怯な。
「さわむらぁ」
「なんだよ! てぇいっ、くらえ!」
「……小湊先輩には気を付けろよ」
 またもや枕攻撃をあっさり受け取った金丸が、何やら苦い顔でぼやいた。きょとんとする俺を見て立ち上がると、思いきりぼふんと頭に枕を押し付けられる。重ね重ね、不意打ちとは卑怯な奴め。
「はあ? おにーさんが、何?」
「ただの勘」
「あ、おい。なんか用事があったんじゃねぇの?」
「ああ、東条とバット振るからお前も来ないかと思って呼びにきただけ。まあなんつーか、お前バカだから用心しろよ」
 自主練か、俺もたまには一緒にバット振ってみようかな、とベットから足を下ろした。
 御幸は遠征中で遠い場所にいるし、俺も一人になると悶々と考えなくてもいいことまで考え出すし。
「……そのタオル持って行くのかよ」
「ん? 金丸も使う?」
「いい。いらん」
 MIYUKIタオルを肩に引っ掛けて後を付いて行く俺を眺めて胡乱気な顔をする金丸は、溜息を吐きながらお前はほんと…ぶつぶつぼやいた。
「もうさあ、観念して付き合えば?」
「それはギャグで言ってんのか」
「お前はギャグにしたいんだもんなあ?」
 何気なく言われた言葉が不意に刺さった。ん、あれ?
 今、なんでこんなに俺、刺さった?
「……?」
 首を傾げながら心臓のあたりを押さえる。
「無理ならハッキリしろよ。いつまでも振り回してないで」
「……振り回されてるのは俺の方だろ」
「じゃあさっさとお前もカノジョ作れ。あーいや、作んなくていい。それはそれでムカツク」
 どっちだよ、と突っ込みながらタオルを握り締める。
 ちくり。まるで魚の骨が、喉に引っ掛かったみたいだと思った。






5.『俺に、キスして?』



 なんてことだ、金丸は預言者だったのか。
 早くも自動修正の流れがきた?
 いやいやつまりこれは神様がくれた一大チャンスってやつか。そうなんだろうな。目の前にぶら下げられたクモの糸は神の助けだ。ほーら掴まりなさい、と言っている。助けてあげるよって微笑んでいる。
 だってお前、そうしてほしかったんだもんな?
 望んでいたんだもんな?
「ねえ! 沢村って彼女いる?」
 高校在学中にモテ期を経験しているせいか、なんとなくそうだろうなっていう空気は分かるようになっていた俺はすぐにぴんときた。
 さりげなく、でも少しの情報も漏らさないように窺われる視線は熱っぽくちょっとだけ怯えていて、だけどそれを知られまいとしてだろうか、興味がないのかあるのかどっちつかずの思わせぶりな態度に揺れている。
 講義が同じで何度か喋ったことのある子だった。はきはきと喋る、明るい髪のショートカットが似合う子。
「彼女、はいないけど…」
「じゃあ好きな人は?」
 うおおおお、これってあれだな、あれだよな…!
 え、と口にしたままかあっと顔が赤くなる。モテ期を経験しているとは言え、こういうことに関して耐性があまりない俺は告白されてもどうしたらいいのか分からずに、しどろもどろしてしまうことが多かった。
 階段を下りているところを呼び止められてしまったため、振り向いた俺は階段の上にいた子と距離を置いて視線を合わせる。窓ガラスからは日の光が差し込んでいて、まるで後光が射してるみたいで目を細めた。
 おお、まるで漫画のワンシーンのようだ。
「沢村は彼女欲しくない?」
「ほ、欲しく、なくはない、っすけど!」
「じゃあ私はどうかな? 沢村の彼女に。前から沢村のこといいなって思ってたんだ」
「はっ、へっ? お、俺っ?」
「返事はゆっくりでいいから! じゃあね! 急に呼び止めちゃってごめんねっ、ばいばい!」
 ズダダダダッと勢いよく横を駆け下りていくその子のほっそりとした背中を呆然と見送って、ドキドキしたままべしんと自分の頬を叩く。うわー、やっぱりか! またもやモテ期到来か、俺!
 しかも多分、可愛い。顔も小さくていつも笑ってて、金丸あたりは絶対可愛いって言うような子だ。
 や…やった! 彼女ができる!
 カネマール、お前が彼女を作れと言ったら本当に女の子が告白をしてくれたぞ、お前は預言者だったんだな。
 人並に付き合うだのなんだの、そういう話をちらほら耳にする度に、正直いいなあと仄かな憧れがあった。少女漫画読んでると疑似恋愛してるような気にもなるし、甘酸っぱくていいよな、とかちょっと思ったりもして。
 恋って、いいな。恋してみたい。彼女欲しい。
 だからつまりこれは、俺には大チャンスであるのだ。
 なんたって憧れの彼女ができるかもしれないのだ。あんなことやこんなことができるかもしれないのだ。
 てわけで御幸先輩、さーせん!
 俺、彼女ができました!
 とうとう表立ったノーと言える理由もできるのだ!
 俺の頭の中では幸福の鐘がリンゴロ響き渡り、意気揚々と満面の笑みで幸せ絶頂夢気分、を味わってもおかしくないはずだったのだが。
「沢村ぁ! ぼけっとすんな、怪我してぇのか!」
「っ、さーせん!」
「なんだその腑抜けたピッチングは! やる気あんのかお前は!」
「あります! すいませんぼーっとしてました!」
「さーわーむーらー!」
 何故か万事うまくいかず、怒鳴られまくって怒られまくって、しまいにはブルペンからも追い出されてしまった。悲惨としか言いようのない状態だった。
 さすがに見かねた金丸が駆け寄ってきてどうしたんだよと心配してくれたけど、自分でもよく分からない大不調だったせいで『わはは、変なもんでも食ったのかな!』と空元気で返しておいた。
 走れば何かに躓いて転ぶし、練習終わりには下着一枚で部室を出ようとして慌てて止められたりと、自分でも何がなんだか分からないほどの集中力のなさだった。
 浮かれてるせいか? こんなことで浮かれて野球の練習までおろそかになってしまったのかとわなわなしていれば、そうでもなかったらしい。
「おっまえ、顔すげー強張ってて怖ぇぞ」
「沢村、何か困ったことでもあったの? 大丈夫?」
「……」
 困ったことなんて一つもない。だって、告白されて彼女ができるなんて幸せの絶頂じゃないか、万事うまくいきすぎて、我ながら幸せすぎて怖いってやつだ。
「泣きそうな顔、してるよ?」
 困ったように東条が言う。泣きそう。泣きそう? もしかして俺、嬉し泣きするくらいハッピーってこと?
 俺めっちゃ幸せになるんで、御幸先輩も祝福して下さい。そんでさっさと女子アナを恋人にして、そのツテでゲンコちゃんと会わせて下さい。あ、でも俺は彼女が一番なんで、そこんとこよろしくお願いしますよ!
 大不調のまま練習を終えて寮に戻って自主練をしてもちっとも身に入らなくて、そんな時は無理矢理体を痛め付けるんじゃなく休息が必要だよ、と東条の優しい声に宥められて、結局早めの就寝に付くことにした。
 何かあったのかと言われて、聞いてくれカネマール、なんと彼女ができそうなんだ! と鼻息荒く自慢して回りたいくらいだったが、それもできずにとぼとぼ肩を落として部屋に戻った。もしかしたら知らぬ間に風邪でも引いたのかもしれない。さっさと寝よう、と抱き枕を引き寄せてベッドの上でぐずぐずしていると、枕元に置いたスマホが光った。
 着信の名前は御幸一也。なんというタイミングでかけてくるんだ。
 車の中のあの一件以来、御幸はすぐ遠征に出かけたり俺も練習試合があったりと時間が合わず、メッセージのやり取りや電話で話したりはしたが、まだ一度も会ってはいない。会いたいとか思ってないけど、と言い訳がましく胸の内で唸る。
 キスしたことだって忘れるくらい、あれから俺と御幸はいつも通り、普段通りだ。時間ってのはそうやっていろんなことを流して、うやむやにして、時にはいろんな傷だって癒すのだろう。
 彼女ができればキスもするし手も繋ぐしエッチなことだってできるのだ。御幸とじゃない、あんなふうに不意打ちじゃない、ちゃんと女の子と。
 御幸一也じゃない、女の子と。
 出るか出まいか迷った末、勢いよく体を起こして通話ボタンをスワイプする。
 よし! 大きく息を吸い込んだ。
 こんばんは、幸せ者の沢村でっす!
「………………もしもし」
『うわ、くらっ』
 勢いよく元気にはきはきと出たはずだったが、何故か今にも死にそうな声が出てしまった。御幸もあまりの暗さに驚いている。
『え? 何、沢村? お前どうしたの?』
「…………沢村ですけど、お疲れ様です」
『あー、お疲れ…って、なんかあったのか?』
 御幸の声が物凄く優しい。労わるような、よしよしするような、完全に保護者モードだ。
 そしたらもう駄目だった。全部駄目だった。
 急に泣きそうになって、ぶわっと体中の熱が膨れ上がるような気がした。声、変じゃないかな、俺。
 息も胸も、ぎゅうぎゅうに詰まる。
「あ……たと、いうか…なんと、言いますか……」
『……うん?』
 もだもだと呟く先を絶対に促さない。静かに、どこまでも、きっといつまででも俺が話すまで待つ姿勢だ。ほんとこーいうとこ、昔から狡い。
 すぐ先輩の顔をして俺を安心させる。実際先輩なんだけどさ。普段あれだけ自分勝手炸裂のくせに、こんな時だけあの頃、俺がいつも追いかけていた御幸モードに戻るんだ。ちくしょう。
「こくはく…を、されて。俺の彼女にどうかって、今日。何度か喋ったことある子で、明るい元気な子で」
 不自然なほど静まり返ったスマホに、あれ? とぼそぼそ呟いていた声が止まる。
「御幸先輩?」
『あ、あー、わり…それで? お前なんて答えたの』
「……返事はまだ、ゆっくりでいいからって。そのまま走ってどっか行っちゃって、保留です」
『うん…うん、そっか……』
 ほっとした声に、無性に悲しくなった。
 なんでだろう。彼女ができましたって意気揚々と報告するんじゃなかったのか、俺。彼女ができちゃいました、御幸先輩さーせん! だから早くあんたも俺なんか揶揄ってないで他の人と幸せになって下さい。俺なんかに時間を割いてないで、ちゃんともっと相応しい人とまともな恋愛をするべきなんだからって。
 サヨウナラって。
 そう笑って元気に言うつもりだったのに。そしたらきっとまた御幸は俺のことなんか忘れて、連絡だってしてこなくて、その内熱愛発覚とかスクープされるんだ。
 御幸一也、清純派女子アナマンション宅へ連日深夜のお泊まりデート、とか詰めが甘いことしてさ。
 それがきっと、この世界で一番正しい姿だ。
 ……なのになんで、こんなに苦しくなるんだろう?
 泣きそうになるんだろう。御幸の顔を思い出したら、声を聞いたら、もう、駄目だった。
 手放したくないって、……どこかで思ってしまった。
『沢村、今から外出られる? そろそろ門限だけど平気?』
 まるで包み込むような優しい声が、そっと耳をくすぐった。甘やかす声だ。甘やかそうと、俺をおいでおいでと手招いているから、どうしようもなく傾きたくなる。
 ああ、会いたいな、と思った。
 ずっと会っていないせいもあったんだろう。無性に御幸に会いたいと思った。
『俺、今からそっち行くから』
「へっ? 今から?」
 慌てて机の上の時計を見たら、時刻は十時を回ろうとしている。いや、確かに会いたいなとは思ったけど、ほんとに会いたいわけじゃなくて、なんていうかこれはあれだ、なんだろう、ほら、あれだ。
「いやいやいや、御幸先輩だって門限あるだろっ、てか、そっちのが厳しいって前言ってたじゃないっすか!」
『うん、でもだって、お前泣きそうなんだもん。放っておけないだろ?』
「泣いてないから!」
『着いたら電話する』
 ちょっと待った! と呼び止める前に一方的に切られてしまった。急いでかけ直しても出るつもりはないのか一向に繋がらないし、メッセージに既読もつかない。
 前言撤回だ、やっぱり御幸は御幸だ。なんて自己中なやつだ、とばすばす抱き枕を叩いた後で慌ててベッドから降りる。スマホを掴んで部屋を出た。
 なんだよ、バカ野郎。こんな時ばっかり優しくて、そんなのもう、こっちが参るだろ。
 いつも御幸が車を停める場所まで向かった。
 今から来ると言うのだから時間はきっとかかるだろう、だけど部屋でじっと待っていられず、ここで待つことにした。
 じんじんと心臓が痛い。さっきまでのどんよりとした不安定な気分じゃない、泣きそうなくらい熱くなって、どうしたらいいのか分からなくて、秋の夜空を見上げながらとりとめもなく御幸のことを考えた。
 ふらふらと振り子時計みたいに心が揺れている。困ったな。どうしようもないな、俺。
 ぐし、と目を擦る。泣いてない。泣いてないけど、泣きそうだった。鼻の奥がツンとした。
 真っ暗な夜の中、ここに向かっている御幸を思うと愛しいような呆れるような、そんな気持ちでそわそわした。
 気付きたくなかったのに、あっという間に気付かされる。なんだよ、もう。ちくしょう。
 彼女とか、ほんとはどうでもいいんじゃないか。
 俺の頭の中、御幸のことしかないじゃないか。



 それから一時間もかからない内に見慣れた車が夜を引き裂いて現れ、俺は何も言わずに助手席のドアを勝手に開けて乗り込んだ。
 御幸には俺の姿が丁度死角にでもなって見えなかったのか、乗り込んだ俺を見てびくっと体を揺らしながらスマホ片手に驚いている。
「びっくりした、なんだ、外で待ってたの」
「……だってあんたが来るって言うからっ」
「あれ、なんか怒ってる?」
「怒ってない。御幸がバカだって呆れてるだけ」
「怒ってんじゃん。あ、ほら、これ」
 緩やかにエンジンのかかった車内、ラジオからはジャズっぽい音楽が流れている。ぎりぎりまで抑えられた音量のせいでそれは微かに空気に交ざり込んで、車内という閉ざされた空間のせいか、余計に情緒深く聞こえてくる。
 後部座席に手を伸ばしてがさがさと何かを引っ張り寄せた御幸が、白い袋を俺の膝に乗せた。
「ん。あげる」
「これ、プリン…? ってちょっと、何個買ってきたんすか、すげぇ量のプリンが入ってるけど!」
「何が好きか分かんなかったから、とりあえずコンビニ寄って全種類買ってきた。元気出るかなって」
「あ…りがとございます……」
 きゅんとしてしまったのは仕方がない。心臓が震えあがるほどのトキメキを覚えてしまった。こんなの漫画の中でしかありえないと思ってたのに、ほんとに心臓がきゅんとするんだな。
 狙ってやったわけでもなさそうな、気まずそうな、ぶっきらぼうな口調で言われてますますウッとした。じわじわ顔が熱くなる。本当に全種類買ってきたんだろう、袋の中には様々なプリンが詰め込まれていた。
「泣いてた?」
 ハンドルに両手を乗せながら、じっと見つめてくる御幸にむうっとする。
「だから、泣いてませんってば」
「でもさっき電話した時、ちょっと泣きそうだったろ」
「それは…」
 御幸が。優しくするから。
 本人にそんなこと言えるわけもなく黙り込んだら、わしわしと頭を撫でられた。慰めてくれているらしい。実際慰められてるんだろうな、こんな夜更けに突然来てくれたし、途中コンビニでプリンまで買ってきてくれたし。
 あんまりじろじろ見つめてくるから居心地が悪い。うろうろと視線を彷徨わせながらプリン食っていーっすか、と場を繋いでみたけど、俺はこんなにのんきにプリンを食ってていいんだろうか。寮の門限は大丈夫なんだろうか。
 ぺりぺりと包装を剥いてスプーンで掬う。シンプルなジャージープリン。とろける卵のまろやかさと優しい甘さが、染みるほどうまい。するすると舌の上で溶けていく。
 御幸が俺に向ける甘さみたいに、とろとろだ。
「御幸先輩も食べますか?」
「いや、俺甘いものは…あー、じゃあ一口ちょーだい」
 ん、と体を近付けて口を開ける御幸に、これはあーんしてってことかなと恐る恐るプリンを掬う。その間も御幸の目は俺をまっすぐに見つめてくるから、俺もその両目から視線が逸らせない。
 プリンを食べるだけでなんでこんなにきりっとした顔なんだっと怯えて躊躇っている俺の手から容器を取り上げた御幸が、何故かスプーンまで奪って俺の口元に向けた。
「はい、あーん」
 有無を言わさぬ物言いに、素直に口を開ける。
 なんだこれ介護かな、と疑問に思いながら一口ずつプリンを貰う。御幸は次々俺の口にプリンを運びながら気紛れに自分の口にも入れて、うえ、あっま、と顔をしかめた。そういえば甘い物、そんなに得意じゃなかったっけ。
 甘い物は落ち込んだ時にはとてもいい働きをしてくれるらしい。ぺろりと平らげた容器を処分してくれる御幸が、なんかそういうことを言っていた。
「甘い物食べるとセロトニンが出るんだよ。幸せホルモンってやつな」
 だからこんなに買ってきてくれたんだろうか。
 なんで告白されて泣きそうだったのかとか、肝心なところには触れないまま、御幸とぽつぽつ他愛のないことを話した。
 ふと時計を見れば0時を回りそうではっとする。俺らは自主練してましたとか言い訳出来るけど、御幸はどうなんだろう。プロの寮生活って、今後の立場にも影響するんじゃないだろうか。
 じゃあそろそろ、と言おうとして、御幸が無言になっているのに気付いた。口元に手を当てて何か考え込んでいる横顔は夜の暗さに沈んでいたけど、彫りの深い顔立ちが夜目にも分かった。
 目が合う。眼鏡の奥の両目がうっすらと光っていたような気がする。優しい飴色の、御幸の目。
「ん、……む」
 ゆっくりと体を寄せた御幸が、俺の唇を塞いだ。
 シートに押し付けるようにキスをされて、驚いて目を見開く。こんなこと、つい最近もあったぞ。
「ん、ちょ、ちょっと……」
 ぐいぐい顔を手の平で押しやると、むにむに肌の感触に触れて強くは出られない。ずれた眼鏡を邪魔そうに抜き取った御幸が、俺の手を掴んで引き剥がしながら、今度は強引に顔を傾けて口付けてくる。
「…っ」
「……俺に何されたか、もう忘れたのか?」
 驚きに目を丸くする俺を見つめる御幸の両目はやっぱり夜の中にいても光を帯びていて、息を飲んだ。
 優しく優しく甘やかされていたせいで、急にこんなこと言われても訳が分からなくなる。混乱している俺の唇にちゅ…と触れる唇は、それでも最後まで優しくて、何を言われているのか、されているのかも曖昧だと言ったら、この男は呆れるのだろうか。
「またこーいうことされるって、……思わなかった?」
 キスはやまない。ちゅ、ちゅ、と音を立てながら軽く啄まれて、時折吐息で囁かれる。
「ん? ……警戒しなかったの?」
 触れて、啄んで、吸われて。
 ちらと俺を見た御幸が鼻をすり寄せるように甘えて、それからちゅく……と濡れた唇を深く重ね合わせる。
 またこうされるって思わなかったのか、思ってたのか、どっちなんだろう。でも、嫌ではないのだ。あの時だって、今だって。
 嫌じゃないから、とても困ってるんじゃないか。どうしたらいいのか、分からないんじゃないか。
 まるで唇を丁寧に味わっているみたいだ。柔らかく食べられてるみたいだと思う。
 眉を顰めて、は、と俺も時折湿った吐息をこぼす。それを御幸に見られていることに気付いて、ますます体の芯が熱を帯びるような気がした。
「沢村、……目、開けて」
 微かに震える瞼を持ち上げると、すぐ目の前に端正な顔があった。唇を触れ合わせていたくらいだから当たり前だ。
「……なあ、キスして」
 誘われるまま、とうとう自分から唇を押し付けてしまったのは、流されたのか自分の意思だったのか分からない。一度触れてしまえば後はもうがらがらと崩れ落ちるだけだと、どうして気付かなかったんだろう。
 もしかして俺は気付いていながら、そうしたかったのだろうか。
「ん……んぅ……」
 なんでだろう。こうして唇に触れているだけなのに、大事なものに触れている気がする。お湯の中にいるみたいに、頭も体も火照ってじんわりと痺れ出す。
 触れるだけのもどかしさ、焦れったさに徐々に雑になる俺の口付けを受けていた御幸は、一度体を離して大きく息を吐いた。
「……は」
 唇を舌で舐め取りながら、こぼれ落とされた吐息が色っぽくてどきりとする。車内はおかしな空気に包まれて、このままドアを開けて出て行くことだってできたはずなのに。ドクドクと鳴り出す心臓と、じわじわ熱くなる体が、それを望んでいないことを知る。
 呆然としている俺を見つめる目の色が変わった。熱っぽく欲情している目だと、本能で気付いてぞくりと背筋に電流が走った。
 ゆっくりと体を揺らした御幸の顔が近付く。
「……噛み付くなよ」
 う、わ……。
 吐息で囁かれた意味がすぐに分かった。
 深く口付けられた唇の隙間を割った舌が、ぬるる、と容赦なく入り込んできて動き回る。咄嗟に噛み付きたくなって思い止まったのは、先に忠告があったからだ。
「っ、む、ぅン……っ」
 べ、べろ…舌がっ……か、からみついて…っ
「……手は、こっち。ほら、ぎゅってして……」
 無意識にうろうろ動いていた手を掴まれて、ぐいっと自分の首に巻き付けた御幸の声は掠れている。
「ち、ちが…ンぅぅ…」
 これじゃまるで、御幸とキスをしたくてしてるみたいだ。
 だけど体は素直に太い首に両腕でしがみついて、閉じられないまま口を開けて濡れた舌を受け入れてる。ぎゅっと巻き付けた腕はしがみつく場所を与えられた分貪欲だ。ますます密着する体が、シートの上でもどかしげに絡み付く。
「ふ、ん……ん……」
 どうしよう、きもち……。どろ、と思考が溶ける。は、は、と吐息まで絡み付かせながら舌をねぶられ、唾液をたっぷりと絡めてぬるぬる動かされると、しがみつく手に力が入ってますます御幸の体を引き寄せてしまう。
 溢れた唾液が混ざり合う。口の端から垂れ落ちた。
「ぁ……あァ……」
 物凄く焦れったく引き抜かれて、だらしのない声が漏れた。じくじく熱さで溶け出した理性が、まだ抜かないでほしいと思った。体中がひりひりと訴えている。
 御幸の押し殺したような湿った吐息が頬に触れて、ぞくぞくと深い場所も一緒になって刺激されてしまう。
「……だめだよ」
「んっ…」
 まるで、奪うように。太い腕が俺の体を狭い場所で引き寄せながら、骨が軋むほどの強さで縋り付いてきた。
「だめ。沢村、……付き合わないで」
 切ない懇願は、今にも泣き出しそうだった。
「お願い。うんって言って。誰とも付き合わないって言って」
「……み、ゆき」
「さわむら、好きだ。誰にもやりたくない」
 俺が頷くまで御幸の手が緩むことはなかった。
 怖いくらいの真っ直ぐさで好きだと囁かれて、心臓が竦み上がる。
 ……俺の。間違いなく俺の大事なものは、きっともう、この人の手の中だ。
「キスして」
「……ぁ…」
「舌、さっきみたいに入れて。俺に」
「……っ」
 注がれて、注がれて、溢れるような愛を一身に受けて、それなしではもう生きられなくなってしまうような。
「も……だめ、むり…」
「大丈夫だから…な? ほら…」
「だめ、だって、こんなの、もう、マジで…」
 広い背中に俺も縋り付く。泣きそうになりながら目の前の唇に触れた。御幸の唇の形はもう覚えてしまった、柔らかさも、あたたかさも、舌の甘さも。
 駄目だって、分かってるのに。
 舌を差し込んだら、すぐに絡め取られて痺れるほど柔らかく吸われた。ぞっと腰が抜け落ちそう。きもちいい。
 どうしよう、もう脳までふやけてしまいそうだ。
 こんなキスを、させるなんて。
 御幸はそんな窒息しそうなほどの思いを、何度でも俺に覚えさせる。



***



 ばしゃばしゃと洗面所で顔を洗い終えて、はふ、と息を吐いた。
 寝ぼけ眼の寮生達が一人二人と現れて同じように顔を洗う中、タオルを口に押し付けたままぼけっと突っ立っていると金丸に尻をどつかれた。
「何ぼーっとしてんだよ、まだ寝てんじゃねぇのか」
「……金丸」
「あ?」
「俺は…俺はダメな奴だ…とてもダメな奴なんだ……」
「お、おお? 朝からどうした」
「もうダメだっ、無理かもしれないぃぃ!」
「なっ、なんだよ急に、だからっどうしたんだよ! お前昨日から変だぞ!」
 がばっとその場に蹲ってちょっぴり涙目になる。
 駄目なんだ、俺、絶対壊れた。
 そうだ、昨日からずっとおかしい。心臓はずっと緊張したみたいにドキドキしてるし顔は熱いし、自分の体なのにふわふわしてて、自分の体じゃないみたいだ。
 何度も何度も、気を抜くと思い出す。口の中に入ってきた御幸の舌の感触も、どんなふうに動かされたのかも、どんな顔で俺を見ていたのかも。
 うまく俺をその気にさせてあまつさえキスまでさせた男は、覚えていろと言わんばかりの傲慢さと優しさで俺をすっかり陥落させた。
 あんまりしつこくキスされるから、今もまだ唇がじんじんと熱っぽく腫れている気がする。舌の感覚だっておかしい。
 御幸も、そうなんだろうか。
 俺と同じようにその唇に、キスした感触を残したままなんだろうか。ぼんやりと口を開けたまま、とろんと焦点が甘くなる。キスしたことばかり思い出してる。
 暴れ出す心臓が痛くて苦しい。ぎゅううと胸のあたり、Tシャツを掴んでしばらく蹲った後、今度は勢いよく立ち上がった。
「だあ〜〜もう! このままじゃダメだ!」
「だから何がだよ、一人で自己完結すんじゃねぇよっ」
 朝練が始まるまで待てない。今すぐ走り込んでくたくたになってしまいたい。
 御幸のことばかり思う自分に戦慄しながら、だあっと走り出していた。
 ずっとドキドキしてる。御幸のことを思うと、泣きそうなくらい心臓が熱くなる。
 こんなに俺の中をいっぱいにする御幸に思い付く限りの悪態を付きながら、ぐいぐいと唇を拭った。
 感触が消えない。怖いくらい覚え込まされた。
 俺の中、どこもかしこも御幸の匂いだらけだ。





「――ごめん!」
 がばっと勢いよく腰を折って頭を下げると、昨日俺に告白をしてくれた子は驚いたように身を引いた。しまった、勢いを付けすぎた。
 明るいショートカットの似合う可愛い子。こんな子が彼女だったら、きっと毎日幸せなんだろうなと思う。
「え…っと…やっぱり私じゃダメだったかな…」
「そんなことない!」
 今度は勢いよく体を起こしてびっくりさせてしまったらしい、びくっと後ずさった姿に、慌ててごめんと謝った。昔からオーバーリアクションだと言われてきたことを思い出して、落ち着け、と深く深く深呼吸する。
 何度経験しても、告白を断る時は凄く胸が痛い。
「じゃあ、やっぱり好きな子が…」
「…え、好きな子?」
 ふわっと頭に浮かんだのは御幸の顔だった。な、なんで御幸の顔がっ。わたわた慌てて掻き消すように首を振って追い出した。
「違う! す、好きっていうか好かれてるっていうか!な、なんか…あ〜〜もう、なんていうか……こんなはずじゃなくて…ほんと、こんなはずじゃ、なくて…」
 うう、と口を覆って俯いた。焦りすぎて汗まで出てきた俺の挙動不審な姿に何を思ったのか、小さく笑われてそろりと顔を上げる。
「好きなんだね」
「……いや、うん……いや……」
「好きなんだよ。誰か気になってるんでしょう?」
「う……ううう…んんんん……っ」
 素直にうんと言えない、言いたくない、でも気になっているのは事実で、ああ、もう、なんだろう。気持ちがばらばら、半分こにでもなったみたいだ。
 だけど微笑んで俺を見つめる女の子に不誠実な態度は取りたくないから、しおしおと肩を落としたままうん、と観念した。
「好きかどうかはよく分からないけど、嫌いになれないし、多分俺も…」
 ――沢村。誰にもやりたくない。
 必死な、熱を帯びた、泣きそうな声がぼんやりと蘇る。
「俺も…あの人のこと、誰にもやりたくないんだと、……思う」
 多分これが精一杯。顔が熱い。額に汗が浮かんでくるのを感じながらしどろもどろ呟いたら、その子は呆れたり怒ったりもせずに、少しだけ寂しそうに笑ってくれた。
「誰にもやりたくないって、その人の特別になりたいってことだよ。私は、恋だと思うな」
「………そう、なのかな」
「自信持って大丈夫だよ。沢村は誰よりかっこいいもん」
「……ありがとう」
「その人と、うまくいくといいね」
 そして逆に励まされてしまった。困ったように見つめる俺に、最後まで笑顔を絶やさずに。
 恋する女の子は、なんて健気で強いんだろう。
「これからも、話しかけていい? このまま気まずくなっちゃうのは寂しいから…」
「っあ、当たり前だろ! 絶対話しかけるし、話しかけてくださいっ。こちらこそよろしくお願いしまっす!」
「よかった。ありがとう」
 じゃあこれからもよろしくね、と手を振って笑った女の子に同じように手を振り返して見送った後、あーあ、と空を見上げて溜息を吐いた。
 とてもいい子だった。あんなにいい子が彼女になってくれそうだったのに、自分でその縁を切ってしまった。
 何してるんだろうな、俺。
「……誰にもやりたく、ない……」
 御幸は元々大事な存在として俺の中にいたから、それがどういう意味なのかまでは、ちゃんとした自覚もなかったんだと思う。
 御幸から逃げ続けて、でも金丸が言ったみたいにほいほい呼ばれれば付いて行って、女の子の告白を断って、御幸とキスしたことばかり思い出すなんて。これはもう、見て見ぬふりができないところに進んでしまったのではないだろうか。
 こんなはずじゃなかった、と項垂れるのは、どんな思いから生まれるものなんだろう。こんなはずじゃなかった。
 いつから俺の頭の中に、心の中に、御幸はいたんだろうとふと思ってから、気付く。
「……はは、いつからとか……」
 そんなの、一番最初からだ。
 出会ったあの日からずっとだ。
 ……バカだな、俺。

 御幸は最初から、俺の中にいたんじゃないか。






6.『本気だからだよ』



 あ、なあんか嫌な予感。
 さわさわと浮足立ったような密かなざわめきが、正門前から漂っているのを肌で感じる。
「えー、ちょっと何?」
「凄い高級車に乗った男が、誰か待ってんだけどさぁ」
「ねぇあれって、もしかして……」
 ……なんだろうこのデジャヴ。やっぱりちょっと前にもこんなことがあったぞ、と顔をしかめながら正門を出たら、案の定見慣れた黒の4WD高級車が堂々と大学の前に横付けされていた。
 腕を組んで俯いている顔は前髪と黒っぽいサングラスに隠れてよく見えないが、遠目にもその高い鼻梁や鍛え上げられた肉体がその男の持つスペックの高さを匂わせていて、特に女子の視線を独り占めしている。
 大学の前にわざわざ車でやってくるのは、俺のってアピールを周りにしたいから、と東条が言ってたっけ。
 御幸は一体誰に向かって、なんのアピールがしたいというのだろう。
 行きたくない、でも行きたい、行かなくては、の三拍子にぐぎぎと苛まれながら、重たい足取りで向かった。
 すでに数名には「沢村の連れじゃん?」とひそひそされているようだけど、俺と御幸は一体どんな関係に見えているのか問い詰めてみたい。
 珍しく御幸は、俺に気付いていなかったらしい。横に立ってようやくはっと顔を上げるまで『ただもんじゃないオーラ』を垂れ流しながら注目を浴び続けていた。
「……あ、よう」
「……うっす」
「……えーと…オフだろ? 乗って」
 いやだから、なんでうちの大学野球部のオフ日をあんたが把握してんすか、と突っ込みたかったけど、今だかつてない居心地の悪い空気に負けて、早々に車に乗り込んだ。
 御幸とこうして顔を合わせるのは、あの夜以来だった。
 つまり、とても気まずい。
 意識しまくって気まずい。
 空気が重い。そうかあ、空気って重さがあったのか!
 おうう…と嘆きながらシートベルトをして、外からじろじろ中を覗き込むように突き刺さる視線から逃げるようにシートに体を預けた。
「……っ」
 だらり、と冷や汗が垂れ落ちる。
 うわ、これ全然駄目だ。落ち着くはずが生々しく思い出されるアレヤコレヤで、ちっとも冷静になれやしない。
 御幸がエンジンをかけて車を発進させても、俺はひたすらこのシートで行われた不埒なあの夜の出来事を思い出して固まってしまった。
 御幸もそうなんだろうか。さっきから一言も喋らないし、車内の空気はどんどん死んでいく。
 酸素。酸素を下さい。このままじゃ窒息しそう。
「え、と…御幸先輩…」
 ん、と短く返されたが、続く言葉を失ってしまった俺はまた黙り込む。御幸もちらと俺を見ただけで先を促さない。
 こんなに会話が続かないことは出会ってから初めてのことで、ずきずきと心臓が落ち着かない。まるで永遠にも似た時間の中で意識が遠のきかけていると、何も言わずに車は高層ホテルのエントランスへと入って行った。
 ん、んんんん…?
 当たり前のように車で正面玄関に乗り付けた御幸に唖然としていると、ホテルスタッフが礼儀正しく一礼した後「こんにちは。ご予約のお名前は」と話し出して、御幸もそれに淀みなく答えているところを見ると、どうやら予め予約をしていたらしい。
 ほて、……ホテル?
「では御幸様、お車をお預かり致します」
「お願いします。沢村、何してんの、降りるぞ」
「……」
 ほらほらと促される間も、俺の顔からは音を立てて血の気が引いていく。え、ホテル来て何すんの?
 まさか御幸、ここで俺と一発や……
 さーっと青ざめる俺に、御幸は怪訝そうな顔でふらふらしている体を支えながらホテルへと入って行く。
 安っぽさが少しも見られないような高級ホテルの中は、目が眩むほどの吹き抜けの天井と、まばゆいシャンデリア。
 明らかにマダムっぽい人やスーツを着た上品な大人がロビーを歩き、ソファには海外の人達が優雅にお茶を飲みながら談笑している。そういえば、御幸の格好も今日はフォーマル系だ。
 ネクタイまでは締めていないがジャケット姿で、俺はただの大学生ルック、キャラクタークマとか大炎上とかプリントされた服ではなかっただけましだろうか。かろうじて綺麗目な服装でよかった。
 ……だからっ、こういう場違いなところにいきなり連れて来られても、困るんですけど!
「って、俺前からそう言ってるだろ…!」
 おほほほ、うふふふ、みたいな空気の中で大声を出すのも憚られ、声を抑えてひそひそ文句を言うけど御幸は俺の肩を抱いたままどこ吹く風だ。
 サングラスを外してすぐ眼鏡になっていたから、今日は度付きのサングラスをかけていたらしい。ってそんなのどうでもいい。黒縁眼鏡の奥の目が、意外そうに瞬きながら俺を見た。
「お前ってそういう人目とか気にするタイプだっけ?」
「それなりにな! それに、恥かくのはあんたの方なんだぞっ」
「え? 俺?」
 ぽーん、と柔らかな音と共に豪奢なエレベーターの扉が開く。そこかしこにホテルスタッフが礼儀正しく在中している中、エレベーターボーイに階を告げた御幸はすぐにまた俺に目を向けた。近い。肩を抱かれているから、自然と顔が近い。
 勝手に俺の目は御幸の唇に向かってしまって、かあっと耳の先まで熱くなった。急いで目を逸らす。
「はは、そういうことか。変なとこ気にするんだな、そんなこと思ったこともないけど」
 俺の言いたいことをようやく分かってくれたらしい。釣り合わない人間を連れていたら笑われるのは御幸の方だぞ、と言っても本人は飄々と笑うだけだ。御幸はもうそれだけの世界にいて、普段行く店だって俺には敷居が高すぎるというのに、御幸はお構いなしだ。
 悶々としている間にエレベーターは目的の階へと到着した。ひぃっと躊躇う俺の肩を抱いたまま御幸はずかずかと歩いて行って、もう駄目だ、部屋に連れ込まれて一発やられて捨てられるんだ、とじたばたする俺は顔面蒼白に加えて涙目だ。
 隙を見て逃げなくては…! て、あれ?
 酷く焦っていたせいか、周りが少しも見えていなかった。するりと肩から手を放した御幸がテーブルに着く。ん、テーブル?
 気付けば周りに誰もいない。どうやら個室のようだ。
 狸に化かされたような心地で俺も促されるままテーブルに着くと、ほら、とメニューを渡される。
「や、焼肉…?」
「この前は、その…悪かったよ」
「へ?」
「っだから、好きなもん好きなだけ食え! ここすっげー旨いって教えてもらったから、その…罪滅ぼし的な、あれ…だから…」
 ぼそぼそとぶっきらぼうに呟いた御幸の顔はバツが悪そうだ。きょとんとその様子を正面から見ながら、へなへなと力が抜けていく。
 あ、あああああっ…そういうことか!
 ホテルの部屋に連れ込まれるかと戦慄したが、ホテルの中のお店、に連れて来られたらしい。あーもうくっそ、紛らわしいな! ほっとしたら理不尽な腹立たしさが込み上げてきた。先に言えっつーの!
 ここは一体何階なんだろう、個室の窓から見える夜景に今頃気付いて驚いた。すげぇ綺麗だし、すげぇ高い。
 御幸も訪れるのは初めてだと言う。なんでも球団の人に美味しいお店だと教えてもらったのだそうだ。プロ野球選手って、やっぱり普段からこういう店に来るんだろうな、と俺は不意に御幸の年俸を思い出した。そうでした、この人、億プレーヤーでしたっけ。
 恐ろしいくらい霜降りの肉が塊でやってきたり、この前連れて行かれた店も高そうだったし旨かったけど、それ以上に今日の店は美味しかった。
 肉を生で食べるのも驚いた。御幸も旨い旨いとばくばく食べていたから、俺の舌に間違いはないだろう。
 最初こそ気まずく会話も続かなかったが、美味しいものを食べている時、人は自然と心を開くものだ。この世の中にこんなにも旨いものがあるのかと驚くレベルなのだから、すでに緊張と警戒はゆるっゆるだ。
「お前、告白断ったの?」
 だからいきなり前触れもなく言われた言葉に、ちょっとだけ詰まった。
「う、お、お断りしましたけどっ」
「あ、ああ、そう…」
 あからさまに御幸がほっとするのを見て、そわそわ目が泳いだ。だから、もっとポーカーフェイスを。あんた分かりやすいんだってば。
 ふっと御幸から硬さが抜けていく。もしかして御幸は、俺が告白を断ったかどうか心配して言葉少な目だったんだろうか。
 ……無理矢理キスしたこととか、どうでもよくて?
 なんとなく引っ掛かった。こんな店に連れてきて罪滅ぼしと言うくらいだから、どうでもよくはないだろうけど、俺が告白を断ったと聞いた御幸の顔は明らかににこにこと、ようやくいつもの調子が戻ってきたと言わんばかりだ。
 罪滅ぼし。俺が口にできないような高い物を奢ってやるからごめんな、忘れろよ、的な?
 ……なんだろう。俺、何がこんなに引っ掛かってるんだろう。急にもやもやと胸の中に溜まっていく感情は、御幸に対するいつもの反発心だったのか。
「……御幸先輩って、俺と一発やったら落ち着くんですか?」
「……は?」
 カラーン。御幸の持っていた箸がテーブルの上に落ちて、漫画みたいな音を立てた。
「って、前にも言ってましたよね。俺、とある人にもそう言われたんですけど」
「とある人って…それ、亮さんか?」
 テーブルの上を転がった箸を拾い上げながら、露骨に嫌そうな顔をする御幸には気付かなかった。喋り出したら止まらなくて、どうしてこんなに低い声が出るのかも自分では分からなくて、ただ、なんか。
 なんか、こう。
「そりゃ、まあ…好きなら、そーだろ」
 その時のコンディションとか、タイミングとか。普段は流せてしまうようなことが、不意に心に引っ掛かる時はある。言い方とか、雰囲気とか。
 多分今はその時だったのだと思う。元々御幸に対して俺は昔から反発心の塊で、事あるごとに噛み付いてしまう癖があって、それはまあ意地悪されたり、揶揄われてばかりだったからだけど…つまり、俺はその時、とても腹が立ったのだ。
 腹が立ったし、多分ちょっと、悲しかった。
 俺はずっとあの夜のことが忘れられなくて、女の子に告白されても御幸の顔が浮かんだらもう駄目で、ずっとずっと、体も心もおかしくなってて。
 なのに御幸はいつもこっちの都合はお構いなしに、自分勝手に物事を進めたがる。
「なあ、それよりさ」
 タイミグは最悪。
 前に乗り出すように笑いかけてきた御幸に、ふつりと何かが切れる音がした。
「御幸先輩は、ほんとに俺のこと好きなんすか?」
 え? と目を真ん丸にして驚いている御幸は、あどけないほどにきょとんとしている。
「俺があんたのものにならないから、プライドのために執着してるだけじゃないんすか?」
「おいおい、なんだよ急に…」
「どーせ俺が頷いたらすぐ飽きるんだろ。コンプリート、とか言ってにやっと笑って、一発やれたら俺が御幸のものになると思って、だから…っ」
 徐々に早口になる様子に、さすがの御幸も困惑しているらしい。ぽかんとした顔がますます俺の心をざらざらと刺激するなんて、考えてもみないのだろう。
 大学の正面に車で乗りつけたり、高価なブランド物を節操なしに与えたり、御幸はいつだって自分勝手に自分の好きなように振る舞ってばかりだ。
 俺の気持ちなんて、知りもしないで。
「そんなの、……冗談じゃねぇっすよ」
 そんなことのために、絆されてたまるか。
 喉から絞り出した声は自分の声じゃないみたいに嗄れていた。御幸はしばらくそんな俺を見つめた後、右手を額に押し当てて深い深い溜息を吐いた。
「お前なあ…ずっと俺のこと、そんな風に思ってたの?」
「……だって、そういうことだろ」
「たかがプライドのためだけに、何年も何年も振られ続けて、それでも片思いなんかしねーよ。ましてや男に。こんな四年も」
「じゃあ、なんでなんすか。手の込んだ嫌がらせっすか」
「――本気だからだよ!」
 急に大きな声を出されて、びくりと体が椅子の上で跳ね上がった。
「本気だからっ、お前以外他に誰も欲しくねぇから、お前が欲しいから! しょうがねぇだろっ、欲しいんだよ、どうしても! これで満足かよっ!」
 今度は俺が驚いて困惑する番だった。御幸の剣幕に声も出せない。さっきまであんなに笑っていたのに、荒々しく声を絞り出す御幸の声は、なんでだろう。
 酷く怒っているのに、酷く、悲しそうだった。
 ああ、……多分俺が、傷付けたんだ。
「だから何年も何年もこーしてのこのこ馬鹿みたいに現れて、馬鹿みたいに本気で口説いてんじゃねーか…っ」
 いつも飄々としている御幸が、こんなに感情を剥き出しにするなんて。
 見開いたままの目に、痛々しく息を乱す御幸の姿が映る。激情を無理矢理押さえ込みながら、ゆっくりと前髪を掻き上げてくそ、と口の中で呟く声も掠れていた。
「あーもう……くそかっこ悪ぃ…」
 しん、とテーブルの上に沈黙が落ちた。
「い、…一年も…放ったらかしにしてたくせに…」
 俺の声、震えてなかっただろうか。
 御幸が怒っているのが怖かったんじゃない。傷付けたことに驚いて、剥き出しにされた感情に混乱した。
 ちらと俺を一瞬見た御幸が、眼鏡を押し上げながらああ、と疲れた声で、面倒臭そうに吐き捨てた。
「あれは、お前が女と付き合いたいって言うからだろ」
「なんだよ、それ」
「付き合ったんだろ? よかったじゃん」
「…っだから、なんだよ、それ!」
 いきなり人の前から姿を消したあの空白期間。御幸はそんなふうに思って俺の前からいなくなったのか。なんで。なんで、そんなことができるんだよ。そんなに冷たい声が出せるんだよ。
 ぐらぐらと腹の底が煮えているみたいだ。怒っていたのか、悔しかったのか、なんだろう。
 俺も、悲しい。
 御幸が傷付いたみたいに、よく分からないまま、俺だって傷付いた。
「本気で好きならどんな手使っても手に入れんのが男だろ! それをみすみす他の奴に渡すなんて、やっぱり御幸が本気じゃないからだ…!」
 部屋の中が、驚くほど一瞬で静寂に包まれた。
 凍り付いた空気が真上から降ってくる。完全に頭に血が上っていた俺は急に冷静になった。
 御幸は黙ったまま動かない。じっと額に手を当てて何を考えているんだろう、だけどその肩からは、頑なな緊張だけが伝わってくる。
「み、みゆき…?」
「お前…それ、どういう意味で言ってるか分かってんの」
 ゆっくりと顔を上げた目と視線が交わる。暗い瞳。
 ごっそりと現れた、それは数年越しの恨みつらみ。
 無意識にぞっとした。怖い、と本能的に体が委縮する。
「どんな手使っても? それ、俺が使っていいの」
「え…な、なに…」
 立ち上がった御幸にぎくりと体を竦ませる。殴られるはずもないのに目の前から感じる深い哀愁のような怒気に身を竦ませていると、急に御幸が部屋を出て行ってしまった。
 呆気に取られて見送った背中に、物凄く焦った。
 え、もしかして怒って帰った? ど、どうしよう、こんなところで一人取り残されても困る。
 うろうろとしばらくどうしたらいいものか迷っていると、しばらくして御幸がまた突然部屋に戻ってきて俺の腕を掴んだ。何がなんだか分からない。
「来いよ」
「え、え、何、なんすか」
「うるさい黙って」
「だっ、黙れるか! 何すんだよっ」
「部屋取ったから移動する」
 無理矢理腰を抱えるようにずるずると引きずられて、さすがによく訓練されているスタッフでさえも何事かとこちらを注目している。ひっそりと告げられた声に足をもつれさせながら、素っ頓狂な声が漏れた。
「部屋って、なんで!?」
「ホテルに部屋取ったら、やることなんか一つだろ。今から抱く。無理矢理俺のものにする」
「ちょ…! はああっ? そんなんであんたのものになるかっ、馬鹿か!」
「なる。できる。する」
 有無を言わさずぐんっと力強く引き寄せられて向かった先は、本当にホテルの部屋だった。
 カードキーでロックを解除して部屋の中に押し込まれるまで、御幸は俺の腰にがっちり腕を回して抵抗を抑え込んで、いつになく強引に扱われた。
 部屋に入ってすぐ、さすがは高級ホテルなだけはある夜景が目の前に広がっていたけど、それどころじゃない。夜景そっちのけでベッドに突き飛ばされて、すぐに御幸が上に覆いかぶさってくる。
 や…やばい。まずい。どうしよう本気だ。
 ジョーダンだよ、ばーか。いつもみたいに揶揄って笑う御幸の姿を想像してみたけど、現実はそう甘くはなかった。
 ふかふかなベッドの上、焦ってじたばたと暴れる俺の上に跨った御幸は、ジャケットを脱ぎ捨てて噛み付くように口付けてくる。
「まっ…うそ、んんぅ………っ」
「暴れんな、……舌噛むぞ」
「ん、んん〜〜〜っ……」
 押し退けようと暴れる手が御幸の眼鏡に触れたのに気付いて慌てて引っ込める。万が一目に当たって怪我をしたら、と咄嗟に思った俺の抵抗が緩んだ隙に、御幸は無理矢理舌を押し込んで呼吸ごと奪うように俺を貪った。
 熱く、痺れるようなねっとりとした感触をまだ俺の体は覚えていて、あの夜の甘い切なさが蘇ってくる。
 何度も何度も角度を変えながら深くなるキスに、駄目だと分かっているのに応えてしまう。
 強引なくせに御幸が俺に与えるキスはとろとろに柔らかくて、自然と力が抜けるのだ。気持ちよくてうっとりと夢中になる。どうしよう、これ、だめ…こんなに優しくされたら、やめられない。
 いっそ、もっと酷く乱暴にされたら、抵抗できたのに。
「……腕、こっち」
「はっ、ぁ……みゆき、待って」
 ふにゃふにゃと力の抜けた腕を掴まれてぐいっと持ち上げられる。御幸の首に持っていかれた腕は条件反射に巻き付いて、唾液の繋がった唇がひっそりと呟いた。
「……だめ。もう、四年も待った」
「ん…ぅ」
 熱の加えられた生クリームみたいにじんわりと溶け出した思考で、嫌だ、とむずがるような声が漏れた。恥ずかしいほどに上擦った吐息で鼻を鳴らすと、ぎゅっと首にしがみ付いて力を込める。
「こ…ここじゃ、むり…っ」
「…ん…なんで?」
 だって、ベッドの上は色々まずい。
 しがみ付いたまま首を振る俺に、御幸はどこまでも優しく強引だ。
「ほら、して? ……できんだろ?」
「ぁ…」
 首筋を舐められて、耳に直接吐息を吹き込まれて、ぞくぞくと体中に震えが走った。むずむず腰を揺らす俺に跨っている御幸の体が重い。
 押し退けるはずが更に強くしがみ付いてしまうのは、何かに掴まっていないと流されるのが怖かったからだろうか。どうしよう、また、……あの夜みたいに。
「……ん、ほら」
 唇にちゅっと音を立てられたら、ふらふらと吸い寄せられるように、そのまま自分から押し付けてしまう。
「ん…っん、……ンぅぅ…」
「ん…かわい…」
「も…みゆき」
 ぐいぐい顔を近付けて続きを強請ってしまう俺に、御幸の声が掠れた。
「……かわいい…すき…」
 深い、深いところに、ねっとりと落ちていくような。
 何度も混じり合った唾液を飲まされて、飲み込めなかった唾液は頬を伝ってシーツに落ちて、とろんと目の焦点が甘くなる。
 御幸の声が泣きそうだから、まるで俺が酷いことをしているような気になってくる。ごめんって言いたくて、涙が出そうで、舌を動かしながらいろんな感情を分け合った。
 散々口の中を蹂躙して舌を引き抜いた御幸は、肩で息を吐きながら俺を見下ろして、ごくりと喉を鳴らした。
 いろんなところがどろどろに混ざり合ったせいで、目の前がくらくらする。
 浴びるほどの愛がそこにはあった。
 怖い。……本気だ。
 本気で、御幸は俺を欲しがってる。
 じんわりと冷たいものが走り抜ける。怯えと、恐怖と、訳が分からない。こんなふうに御幸を怒らせるつもりはなかった。悲しませるつもりはなかった。
 俺は、だって。……だって。
「……っ沢村……」
 は、と息を吐いた御幸が両手を俺の体の横に付いて、ゆっくりと体を前に倒すように膝で起き上がった。
 顔を横に向けて視線を逸らすと、地を這うような低い低い声で呟く。
「……ごめん。もうしないから、とりあえずちょっと、俺……トイレ」
「へ…?」
 今まで乗っていた重みがなくなると、すぐにベッドを揺らしながら御幸が立ち上がって、トイレの個室へと入って行く。ぱたん、と音を立てて扉が閉まった。
 呆然とその様子を眺めていた俺は一人取り残されたベッドの上、ようやく我に返る。
「………え?」
 え、待って。待った。この状況でいきなりトイレで何してるのかって、それってつまり。
 ひ、一人で、やって……?
「う……」
 うわああああああ…!
 カーッと顔から火が出るかと思ったのは、うっかり想像しかけたからだ。耳を澄ましてもそれらしい声とか音は聞こえない…って、な、なに考えてんだ俺のばか…っ。
 しばらくした後で、ザーザーと水を流す音が聞こえた。手を洗う音が止んでしばらく沈黙が続き、勢いよくばんっ! とドアが開く。
 びくっと体を揺らしながら一目散に起き上がった。
 御幸はふらりと生気を失った人のようにどんよりとした負のオーラを漂わせながら、呆然と固まっている俺を見て、脱ぎ捨てたジャケットを拾い上げた。
 思いっきり顔を逸らして、その姿は少しだけ震えていたような気がするけど、気のせいだろうか。あまりのショックに、本人でさえ前後不覚に陥っている状態なのかもしれない。
「……さわむら」
「は、……はい……」
「わり…俺、頭冷やすから…ほんと、ごめん…ちょっと俺今、物凄く死にたい……」
 そうでしょうね……。
 と他人事のように冷静に思う。人間は許容範囲を超えると冷静になるものらしい。
 いやだって、もし俺が御幸の立場だったら、確かに死にたくなると思います。いっそこの窓を突き破って飛び降りてしまいたいくらいには。
 この世の不幸を全て背負ったような姿でらしくなく地の底まで落ちている御幸は、のろのろと財布を取り出すと中から無造作に現金をびらりと取り出した。
 じっとりと黙り込んでいる間に万札を引き抜いた御幸が、ベッドの上にそっと置いて項垂れた。
 なんだこれ。ホテルのベッドの上に万札って、ちょっと、どういうシチュエーションなんすか。
「ここ、泊まって帰っていいから…」
「………は、い?」
「ごめん…朝一にでも、帰りはタクシー使って、これで払って。部屋代も先に済ませてあるから、お前はそのまま帰って大丈夫だから……」
「か…帰るんすかっ?」
 じゃあ…と相変わらず暗い声でふらふらドアに向かった背中を咄嗟に呼び止めたら、ぴたりと御幸の動きが止まった。まるでロボットみたいにぎくしゃくと、相当混乱しているのが伝わってきて、それを見つめる俺は逆に少しだけ冷静になってしまった。
「なんで? なんで帰んの?」
 なんでも何も。鬼か、俺は。
 御幸がトイレで何をしていたのかって、それはつまり自分でたった今抜いたってことで、そんな醜態を晒してしまった自分に居たたまれずあんなどよどよとしたオーラを背負ってる中で、呼び止めるとか。我ながら鬼以外の何ものでもない。
「……今日は、帰るよ。俺、自分でも何するか分からないから……」
 結局のところ、御幸は無理矢理俺を抱くつもりはなかったのだろうか。自分のものにすると言いながら帰ろうとする御幸にかける言葉を今度こそ失っていると、さっと身を翻した体が突然ずかずかと戻って来た。
 え、え、と混乱している俺のところまで近付くと、両手をベッドに付いて、ぐいっと伸び上がるようにしながらちゅうっと唇を塞がれた。
「…んぅっ?」
「……ごめん」
 体を起こした御幸は、今度こそ振り向かなかった。
 ぱたん、と静かにドアが閉まると、部屋の中に一人取り残された俺の気配だけがその場にぽつんと転がる。
 呆然と硬直していた体がぐらりと傾いで、横向きのままぼす、とベッドに落ちた。
 ぐるぐる目が回る。頭の中が酷い恐慌状態だ。顔が熱い。唇も、口の中も、御幸の匂いで、御幸の味でいっぱいだ。
「………え、……えええええ……?」
 自分の口から漏れた声は、困惑しきった涙声だった。
 耳の先まで熱い。心臓が今にも口から飛び出してきそうなくらい、今頃になって暴れ狂う。
 目まぐるしくいろんなことが一度にありすぎて、どうしたらいいのか分からない。眩暈がする。なんてことだ。
 ただ一つ、分かっているのは。
 ベッドの上に置かれた万札にますます混乱した。こんな大金をあっさりと財布に入れている御幸にもびっくりだが、それを置いて一人で帰ってしまった御幸にもびっくりだ。
 ぶるっと今頃、全身に震えが走った。
 御幸の本気に瞬きすらできなかった。
 死ぬほど驚いた。どうしよう、本当に、本気で。
「……っ」
 四年間も。
 俺はあの人に、ただただ、好かれているのだ。



◇◇◇



「かっ、かねまるー! かねまるうううう!」
 この世の終わりを嘆くような悲愴な声で金丸の名前を呼びながら部屋を連打したら、なんだなんだとドアを開けた金丸が俺の様子を見てげっと顔をしかめた。
 そのままドアを閉めようとするのを、必死になって阻止する俺と金丸の攻防戦が始まる。ドアがみしみしと音を立てた。
「嫌だ! ダメだ! 言うな! いいから俺を巻き込むなっつっただろ!」
「だ、だって、だって……っだって…!」
「だってじゃねぇ! 俺はお前と違って御幸先輩怖ぇんだよ!」
「なんで御幸のことだって決めつけるんだよ!」
「じゃあ違うのかよっ」
「そっ、そうだけど……っ」
「ほらみろ!」
 今の今まで頑なに名前を呼ばなかった金丸だが、俺の動揺が伝染してしまったのかはっきりと名前を呼んで青ざめながら叫び返す。
 物凄い嫌がりようだ。いや、この場合、怖がりようだ?
 やっぱり金丸は御幸が苦手なのか、とそのただならぬ姿に俺も少なからず動揺してしまう。
 なんだなんだ、と早朝から騒ぎ立てる俺の様子に寮生達が寝ぼけ顔で部屋から顔を出した。真っ先に起きてきたのは寮長で、俺は慌てて駆け寄ると直角に頭を下げた。
「おいそこ、朝っぱらから何を騒いで…」
「おはようございます! すいませんっした! 昨日は連絡もせずに無断外泊をしました!」
「なんだ、沢村か。連絡なら貰ったぞ」
「はっ、へ? だ、誰にっ?」
「……お前、高校時代の先輩のところに行って終電無くして帰れないんじゃなかったのか?」
 怪訝な顔で言い返されて、ぽかんと口を開けたままがくがくと頷いた。よく分からなかったが、御幸が何やらカモフラージュをしてくれたらしい。
 機械的にうんうんと頷く俺を見て不審そうな顔をする寮長に、頭をべしんと叩かれた。
「とは言え、届け出のない外泊はペナルティものだぞ。お前はしばらくみんなの雑用係だ」
「謹んでお受けしまっす!」
「あと今日中に反省文十枚。それから」
「はっ」
「朝は静かに。何時だと思ってるんだ、そんなに元気が有り余ってんなら走って来い!」
「喜んで!」
 びしりと敬礼をして脱兎のごとく走り出す。体中から熱が噴き出して荒れているみたいに落ち着かなくて、走っていろと言われる方が今の俺には有り難い。
 だあっと早速駆け出した俺に、まだ半分眠っている寮生達が目を擦りながら、大欠伸をしながらドアを閉めた。金丸にも閉められた。薄情な奴め。
 東条は眠そうな顔で心配してくれたけど、なんとなく金丸みたいに言えなかった。
 聡い東条を前にして、自分の何かをはっきりと暴かれるのが、多分俺は、怖かったんだと思う。




 後に俺はこれを御幸事件と名付けて、人生の根幹というか世界の均衡というか、つまりはそういう大事な大事な根っこの部分を木っ端微塵に粉砕されたものとして、自分の中で一人語り継ぐことになった。
 大袈裟に言うとそんな感じだ。
 一体どこから噂を聞き付けたのか、恐らくまた金丸東条あたりか……倉持先輩から絶妙なタイミングで連絡がきたと思ったら『集合』の二文字で呼び出しを受けた。
 ほくそ笑んでいるお兄さんの顔が目に浮かぶようだ。
 御幸のおかげで無断外泊をかろうじて免れた俺は、粛々と雑用や掃除をこなし、真面目に授業にも取り組んで朝は誰よりも早くグラウンドへ、夜は誰よりも遅くグラウンドに、と品行方正な生活を続けて、なんとか挽回に次ぐ挽回で、元の生活を取り戻しつつあった。
 御幸を怒らせると、本気で怖い。
 それは高校の時から知っていたのに、まったく学習しない俺はとことん間抜けだ。
 あの日、今にも死にそうな顔で帰って行った御幸に、残ったタクシー代どうしたらいいですか、と俺も震える指でメッセージを送ってみた。
 丸一日返ってこなかったメッセージの返信は簡潔だった。『全部やる』
 施しを受けるほど落ちぶれてはおりませんけど! と無駄な反発心を覚えながら、いっそ本当に全部使ってやろうかとも思ったが、それもできなかった。
 仕方なく買ってきた封筒に残った現金を入れて封をすると、鍵のかかる机の引き出しにしまい込んだ。
 机の中にも、御幸から貰ったものが鎮座している。
 小さな箱が大小並べて大事に置いてある中、一つは金丸が目をギラギラさせて見つめていた高級腕時計と、それから。
 手の平に納まってしまうくらいの小さな黒い箱。
 ベルベット素材の、高級感を醸し出すリングケース。蓋を開けると、中には白銀色のリングが上品に光る。
 勝手に人の薬指にはめてきた時、御幸は子供みたいな顔で笑っていた。俺は揶揄われていると思ってバカ御幸と怒ったものだが、今思えばあれだって、御幸にとっては大真面目なことだったのだろうか。
 大事に大事に、鍵付きの机の奥の方に眠らせておいた箱を取り出してみた。指輪まで持ってくるとは思わなかったが、きっとこれも高価なものなんだろう。
 そっと指先でひと撫でする。ばかだな、と思う。
 なんでだろう。
 涙が出そうだった。




◇◇◇



「で? とうとう御幸とヤったの?」
「…………」
 お兄さんの直球がドスドスとボディブローのように効いてくる。
 一体何をどう聞いたらそうなるんだろうと思いながら、ハルイチクンハオゲンキデスカ、と話を逸らしたら、つまらなそうにどすんと手刀を頭に受けた。痛い。
 春市はお兄さんや倉持先輩と同じ大学を選ばずに、別の大学へと進学してしまったので滅多に会えない。相変わらず元気でやってるみたいだよ、と話に聞く度に、春っちも頑張っているんだなあ、俺も頑張らなくてはと思える友がいるのは、とてもいいことだ。
「はいはい、話を逸らさない。で、御幸とヤったの?」
「やってません!」
 未遂だ、とは心の中で付け加える。
 ホテルの部屋に押し込まれて凄いキスはされて御幸はあれだったけど……どうやらそこまでの情報はお兄さんでも知らなかったようだ。ていうか、この人は一体誰から、どこからこの手の話を聞いてくるんだろう。
 さすがの俺も御幸とあんなキスをしたことまでは金丸にも東条にも話していないというのに、にこにこ笑うお兄さんはなんでもお見通しだよオーラを漂わせていて身構えた。
 呼び出しを食らった俺は相変わらず尋問でもされている心地で、斜めがけした大学指定のエナメルバッグを抱え直す。
 お兄さんも倉持先輩も俺と同じくジャージ姿にバッグを持った部活帰りルックだ。時間が取れずに練習後、二人の大学まで急いでやってきた俺をどうぞ褒めてください。
「なぁんだ、まだヤってないの? 相変わらずへたれな奴だねぇ」
「お兄さん、絶対面白がってるでしょ」
 大袈裟に肩を竦めた姿に、俺はうううと泣きそうな声で、実際本当に涙目でぶるぶる震え出した。
 倉持先輩は相変わらずお兄さんの隣で、肘まで袖を捲り上げた両手をポケットに入れたまま事の成り行きを見守るスタンスだ。
 なーに泣いてんだばーか、と尻を蹴られたが、痛くなかったので慰められたと思う。
「今日もラーメン行くか?」
「……いや、いいっす。今日は山盛りもやしラーメンを食べる気分でもないので…」
「あらら。珍しく落ち込んでるね、沢村」
「お兄さんが俺をイジメるから!」
「ええー? 御幸ほどお前のこと虐めてはないだろ?」
「う……っ」
「往生際の悪いお前でも、そろそろ観念したんじゃない?」
 そろそろ観念。
 どうしてみんな、そんなに簡単に言うんだろう。お兄さんだって金丸だって、あっさりと付き合えばいいじゃんって顔をする。東条も倉持先輩もきっとそう思ってる。
 頑なに拒む俺の方がおかしいのか? なんて思えるくらい、どうしてみんなそんなに友好的なんだろうか。
 俺と御幸はそもそも男同士だし、御幸はすっかりスター街道まっしぐらだというのに。
「だって沢村、お前も御幸のこと好きだろ?」
 答えはあまりにも気軽に返された。
 ぽかんとする俺に、お兄さんも倉持先輩も今更何言ってんだこいつ、みたいな顔で見ている。
「だっ…なんっ、なんで……っ」
「むしろまだ付き合ってないことに驚いてるくらいだよ。御幸の慎重さも、ここまでくれば筋金入りだよねぇ」
「あいつ、野球以外はダメダメっすからね」
「まあ相手が沢村なら、尚更か」
「い、いやいや、ま、待って、待った、なんなんすかそれ……っな、なんでそんな話に…!」
「ほらまだこんなこと言ってる」
「お前さあ、御幸が好きとか言ってんの全部冗談だと思ってたんだって? 報われねーなあほんと…」
「放っといたら一生このまんまだろうね」
「だから、ちょっと! 待ってつかーさいっ!」
 混乱している間に二人の会話はどんどん続いていく。
 俺だけが置いてきぼりだ、呆然としているのは当事者の俺だけで、どうしてこんなにお兄さんも倉持先輩も平気な顔をしているんだろう。
「俺…っ俺は、そんなつもりは……っいだっ」
 ずびし、とまたお兄さんから手刀を食らった。意味が分からないまま頭を押さえて混乱する。
 なに、なんなんだ、俺だけがなんでこんなに何も知らないんだ。俺のことなのに。
「まったくしょうがないなあ。まだ途中なんだけど」
「……え?」
「これ見てもお前、同じセリフが言える?」
 ぶつぶつ独り言ちながら渡されたのは、号外、と派手に書かれた一枚の記事だった。
『御幸一也、熱愛発覚! お相手は朝の番組でお馴染みの清楚系美女!』
 バットを振り抜いて空を見上げながら笑う顔はまるでスポーツ新聞の一面さながらで、その隣にはいつだったか連れられて行ったお店で御幸のファンだと声をかけてきたアナウンサーの美女が、天使の微笑みを浮かべていた。
「……っ」
 それぞれ別の場所で撮られた写真を合わせて並べているだけだったが、後ろから頭を思いっきり強く殴り付けられた心地で目の前が真っ暗になる。足元がすっぽ抜けるような急激な落下感に、酷い眩暈がした。
 お兄さんが何か言っているのは分かるのに、ぐわんぐわんと鈍く揺れる脳が言葉を認識しない。水の底で誰かが話しているのを聞いているみたいだ。
「……うっわ…」
 俺の手元を覗き込んだ倉持先輩が、呆れたような声を上げるのだって。
 ほーら見ろ。混乱と困惑の中でぐらぐら揺れながら、強がって必死に笑う俺が心の中で繰り返す。
 知ってるし。知ってたし。これが世界の正しい姿で、正しい在り方だろ?
 そんなの、最初から俺は知ってるんだ。
 御幸が俺を好きだと言うことの方がおかしかったんだ。ようやく正された。 これが普通の世界だ。オカエリ、オハヨウ、正しい世界。
 …………俺が、そう、望んだ。
 笑おうとして失敗した。おめでとうございます、さっすがイケ捕様はやりますなあ、なんて思うだけならいくらでも笑えた。だけどいざ本当に笑おうとしたら頬が引きつって、情けないほど笑えなかった。
 嘘ばっかり。嘘ばっかりだ。
『嘘じゃねーよ』
 柔らかく笑う声がぽつんと蘇る。あれはいつのことだっただろう。あんなに優しくそう言った。笑って、目を細めて、キスしたくせに。
 あんな目で。あんなキスまで、俺に。したくせに。
「……っんの」
 くっそおおお、あんのやろお!
 持っていた号外を両手でぐしゃぐしゃにする。込み上げてくる腹立たしさと苛立ちともどかしさに、ぱんぱんに膨らんだ心が弾け飛びそうだった。
「お、おいっ、沢村っ?」
「……っ行く!」
「どこにだよ!?」
 気付けば走り出していた。
 ばか御幸ばか御幸、と呪詛のように繰り返す。そうでなければやってられっか。なんだよこの記事、全然笑えない。祝福なんてもっての他だ、ふざっけんな。
 人をこんなに散々振り回したくせに、勝手に熱愛だなんてスクープされてんじゃねぇよ。
「……っ取り戻しに!」
 焦りを帯びた声に走りながら叫び返す。無意識に飛び出た言葉に絶句したのは、倉持先輩の方だった。
 なんだそれ。自分で言ったくせに混乱する。
 全部全部御幸が悪い、御幸のせいだ、とぐっと唇を噛み締めて走った。そうでもしないと今にも涙がこぼれ落ちそうだった。
 ばか御幸、ばか御幸、……バカ御幸!





7.『人生最期の日まで』



『お客様のおかけになった電話番号は、現在電波の届かないところにおられるか、電源が入っていない為…』

 無機質な音声が繰り返す。最後まで聞かずに通話を終えて、何度目かの溜息を吐く。
「…………」
 つ、繋がらねぇ…!
 電車を乗り継いで目的地に急ぐ間に何度もかけてみたが、無情にも御幸の携帯は電源が切られている状態らしい。
 そんなことにさえまるで御幸から放り出されたような居たたまれない気持ちになった。俺が拒絶されているわけでもないのに避けられているような気持ちは、この不安定な精神状態のせいだろうか。
 自分はしっかりしている、まともだと思っているが、何も考えずこんなところまで来てしまったということは、……やっぱりちょっとおかしいのかもしれない。
 今日はデーゲームだったから試合はとっくに終わっているはずだ。明日もホーム試合だから移動しているわけもないだろうに、さっきから御幸と連絡が取れずに段々焦れてくる。
 どうしよう、すんなりと着いてしまった…。
 俺は隠れ御幸マニアなので、御幸の球団寮がどこにあるかも当然知っていて、行き方だって交通費だって把握している。
 挙動不審にうろうろする俺の目の前には、選手待ちしないでマナーを守ろう、と注意書きされた看板が警備員のようにすらりと立ちはだかっていて、その向こうには御幸が所属する球団の寮が見えている。坂の上に建てられた四階建ての寮は、見た感じ白い学校みたいだ。
 物々しく厳重にガードマン達が取り囲んでいるのかと思ったが、あっさり入り込めそうなオープン具合にこのまま忍び込んでしまおうかとも考えたが、さすがにそれは常識的に考えてまずい。警察に通報されて、野球部に迷惑がかかるのは避けたい。
 フェンスに囲まれた駐車場には見るからに高級車と分かる車がずらりと停まっていて、御幸の車は、と探してみれば、それらしき車を向こう側に発見した。
 多分あれだと思うけど、ナンバープレートまで確認したことはなかったからいまいち確信が持てない。駐車場に入って確認しようかとも思ったが、周りには民家もたくさんあって普通に犬の散歩をしている人だっている。さすがに躊躇してしまった。
 寮の中にいるはずなのにさっきから一向に電源が入らないということは、自主練でもしているのだろうか。
 しっかりと握り締められた号外はぐしゃぐしゃになっていて、勢い込んでこんなところまで来たけど俺は何を言うつもりなんだろうと、急に冷静になった。
 御幸は俺を揶揄いながら、裏ではちゃっかり美人女子アナをゲットしていて、ひどい。さいてい。よしこれだ、これでいこう。
 普段は選手を一目見ようとファンが覗いているのかもしれない、到着した直後は物見遊山で訪れていたらしい若い夫婦や女の子達がいたが、日が落ちるにつれて誰もいなくなってしまった。
 まさに今の俺、たった一人でこんなところをうろついて、誰がどう見たって不審者だろう。
 気付けば辺りは暗くなっている。充電が心許ない、ますます心細さに拍車がかかる。御幸のいる寮は目の前にあるのに、踏み出せないここは最初から住む世界が違うんだよと、世界から言われているみたいだった。
 ――カァ。カァ。
 カラスが鳴いている。
 お家に帰ろうと鳴いている。
 赤い夕焼けと青い夜の混ざり合う時間、徐々に輪郭が乏しくなる世界の中、市道を走る車は何度も見かけるのに、なんでこんなに独りぼっちなんだと不安になった。
 涙が出そうになって、ぐいぐい両目を拭う。
 らしくないな。何をこんなに弱気になってるんだろう、たかが御幸が熱愛スクープされたくらいで落ち込むな。
 駐車場のフェンスに背中を預けて直接座り込むと、皺だらけになってしまった号外をゆっくりと伸ばしてみた。
 寮に灯りがともる。ここは夜に沈んだ暗がりだ。薄暗い中御幸と女子アナの写真を眺めていると、なんてお似合いな二人だろうと思う。
 柔らかく、平和な、世界の幸せそのものみたいに。
 夕飯の匂いが風に乗ってきた。そういや俺も腹減ったなあと思う。俺らの寮でもそろそろ夕飯の時間だろう、御幸は今、何をしてるんだろう。
 蹲るように膝を抱えて顔を伏せた。
 傷付いた動物が身を守るように、体を小さくして。
 なんでだろう。御幸が俺から離れていくことは正しいと知っていたはずなのに、心臓の奥の方がひりひりする。まるで酷い怪我でもしたみたいに。
 悲しくて、寂しくて、どうしよう。
 声も出ない。
 今の俺じゃもう、御幸の名前も呼べない。





 気付けばそのまま膝を抱えて眠ってしまったらしい。
 ゆさゆさと揺らされてはっとすれば、暗がりの中、がっしりとした体格のトレーニングウェアを着た選手らしき人が二人、俺を見下ろしていた。
「大丈夫? 具合でも悪いの?」
「あ…いや、俺は…」
「こんな時間まで誰か出待ちか?」
「もう遅いし、帰った方がいいよ。野球少年」
 ぱちぱち瞬きを繰り返す俺の言いたいことが分かったのだろう、すいと視線を向けられた先には、大学指定のエナメルバック。そういえば大学指定のジャージも着ている。知っている人が見れば俺がどこの人間か、すぐに分かってしまうんだろう。
「S大の野球部?」
「えっと、はい。そうです、すいません寝ちゃって」
「誰か会いたい人がいたの?」
 会いたい人が。
 慌てて立ち上がろうとした時に不意に問われて、寝起きで気が緩んでいたせいもあるんだろう。堪える暇もなく込み上げてきた熱が、驚くほど簡単に両目からぼろりとこぼれ落ちた。
「えっ?」
 ボロボロと涙が溢れる。ダムの決壊みたいに、どんどんこぼれ落ちてどうしようもない。
 寮生らしき二人組は突然泣き出した俺に顔を見合わせてぎょっとしている。
「おいおい、どうした野球少年」
 会いたい人が。
 ……会いたい人が、います。
「…っいたい、……あいたいぃ……っ」
 我ながら子供っぽい泣き方だなと途方に暮れる。わああと声を上げながら鼻水まで垂らして泣き出すなんて、大学生にもなってみっともない。
「あ、会いたい…今会わないとだ、だめなのに〜〜〜っ」
「え、ええー、そんなに?」
「そんなにファンなの? 誰?」
「み、みゆき……御幸に、あい、会いたい」
 今会わなかったら、絶対後悔する。
 だからこんなところまで来てしまった。御幸と連絡一つ取れないのに、帰ることもできずに蹲ったまま、俺はなんて情けないんだろうと後ろ向きなことばかり思う。
 ぐしぐし涙を拭っている俺に、相変わらずおろおろと二人は心配してくれている。不審者にしか見えない俺を放っておく選択肢だってあったはずなのに、なんていい人達なんだろう。
 御幸はこんなにいい人達と一緒に暮らしているんだなと、新しい一面を知って嬉しくて、また泣けてきた。
「あー、御幸かぁ。あいつあんまファンサービス自らする奴じゃないからなぁ」
「多分ここで出待ちしてるのも嫌がりそうだよな」
「うっうっ…うううう……っ」
 違うんです、俺はただの御幸ファンじゃないんです、知り合いなんです、とどうしてだろう、言えなかった。情けないやら惨めやら、どんどん感情がごちゃ混ぜになってきて自分でも何がこんなに悲しいのか分からないまま泣いていると、しゃがみ込んだ二人が一生懸命俺を慰めてくれる。
 小学生の子供に接するように、その声は優しく労わりに溢れていて、俺はなんとか発作のような泣き方を落ち着かせてぐいぐい腕で涙を拭った。
「なんかワケありか?」
「まあまあ野球少年、泣くな泣くな。いいことだってあるから。御幸に会いたきゃ球場行けばいいよ。な?」
 わしわしと頭を撫でられて、咄嗟に頷いてしまった。
「一人で帰れるか? 駅までの道、分かる?」
「かえれます…ありがと、ございます」
「うんうん、じゃあな、ばいばい。気を付けて帰れよ」
 気のいい二人組がそうやってちらちらと俺を気にしながらも駐車場を抜けて階段を上っていく間、ようやく跳ね上げていた肩も落ち着いて大きく深呼吸する。
 我ながら酷い鼻声だ。でも、一気に泣いたらちょっとスッキリしたかも。
 ずびび、と鼻をすする。辺りはすっかり暗くなっていたけど、感情を吐き出したせいか気持ちは妙に晴れやかだった。
 どうしても今日会わないと駄目だ、と思っていたけど、別にそう意固地になる必要もないのかもしれないな、と思い直す。
 しばらくその場でぼんやりして、そろそろ帰ろうかと立ち上がった瞬間、それまで沈黙を貫いていたスマホが急にブーブーとポケットの中で激しく動き出して飛び上がった。
 慌てて取り出してみると、震えるスマホは着信を告げていて、そこには御幸一也の名前が表示されている。なんでこのタイミングでかかってくるんだ。
「…っ」
 引っ込んだはずの涙が急激に溢れてきて、また頬をこぼれ落ちる。今日の俺は随分と泣き虫だ。
 でもだめだ、こんなんじゃ出られるわけがない。こんなに泣いてる声で応答したら、絶対変に思われる。
 あれだけ御幸からの連絡を待っていたにも関わらず、タイミングが悪すぎて呆然と立ち尽くした。結局俺は御幸に会って何を言うつもりだったのだろう。そこからかよ、と自分に突っ込みたい気分だ。
 微かにばたつく音が、不意に遠くの方で聞こえた。
 勢いよく走ってくる音に驚いて辺りを見回すと、バタバタと忙しない足音と一緒に聞き慣れた声が、夜の中で必死に俺を呼んだ。
「…っ沢村!」
 走って来た御幸がはあはあと肩で大きく息を吐いている。驚いて固まっている俺の前、首元の大きく開いたラフなTシャツ姿で、とっくに寛いでいた様子だ。
「やっぱりお前か! なんでここに…っ」
 それはこっちの台詞だと思ったが、もしかしてさっきの二人組だろうか。俺が外にいることを、御幸に知らせてくれたのかもしれない。こんな時は余計に人の優しさが心に染みる。
 俺でなければ御幸は出てこなかった。いつだってそうだった、俺が呼ばなくたって御幸は眠気を押さえ付けてでも会いに来てくれた。
 こんなに想われていた。大事にされていた。
 ……俺はちゃんと、いろんなものを受け取っていたのに。
「え? 泣いてる? なんで?」
 ああ、御幸だ。本物だ。
 息を吸い込んだら、ひゅっと喉が鳴った。
「……って、……った」
「え?」
 ぐしゃぐしゃの号外記事を、ばん! と胸元に叩き付ける。ぐいぐいと押し付けるそれを、御幸は困惑気に引き抜いて広げて確認している。
「俺のこと好きって、言った!」
「は……? え、なにこれ。誰がこんな悪戯を」
「キスも、あんなキスも、したっ、くせに…っ」
 正しい姿。正しい世界。正しいカタチ。
 なぁ、でも、それが正しいって、誰が決めた?
「ひ、人のこと散々好きにっ、させたくせに…っ!」
 間違ってる、正しくない、だからそれは駄目だって、誰が俺にそれを言える?
 正しいものなんて、自分の中に一つあればよかった。
 御幸が俺を好きだと言ってくれたみたいに、たった一つあれば、それでよかったんだ。
「バカ御幸! へんたい! 奇人! センスゼロっ!」
「ちょ、なんで悪口…っておい、落ち着けって、沢村」
「あんたは、あんたはなぁ…! この先もずっと俺だけ見てればいーんだよっ!」
 目移りなんかするな、俺を放っておくな、正直な感情はいつもそれだけを望んでいた。
「好きって、……っ好きって言えよ、ばかやろおっ」
 だからちゃんと聞こえるように言え。
 世界中に響き渡るような大声でもう一度俺に言え。
 何度も何度も、言えったら、言え!
「……っ」
 嵐のような力でいきなり抱き竦められた。げほ、と咳き込むほど、骨が軋むほど、がむしゃらに。
 突然のことにひぐっと変な声が出る。反射的に身じろいだら、少しも放さないと言わんばかりにまた強く抱き竦められた。
「……あーもう、ほんとお前……ばか」
 無理矢理押さえ付けられた胸板は厚くて、ぎゅうぎゅうに抱き締めてくる腕も逞しい。しっかりと戦う体に鍛え抜かれた御幸の腕の中、ぐっと唇を噛み締めて両腕を回した。背中に巻き付けた腕で、手加減なんてする必要もなくしがみ付いた。
 御幸が俺に覚え込ませた。
「ううっ、御幸のあほ…っ好きって、ちゃんと好きって、い…言えばかぁ…っう、ううう…っ」
「ばぁかはお前だ……好きだって、言ってるだろ。何度振られても俺は好きだって言うよ。この先もずっと」
 宥めるように御幸の声が優しく優しく言い聞かせる。愛しくてたまらないと言わんばかりに頭を撫でられて、俺はまだこの人のたった一つでいられているのだろうかと涙でぼやけた頭で思う。
 どんなに突き放したって酷いことを言っても、御幸は俺の側にいる。いつしか安心していたのは俺の方で、我儘で子供っぽい俺を、それでもちゃんと見てくれた。
 好きだと言ってくれた。
 ひく、と喉が鳴った。熱い腕の中、そのあまりの心地よさに足元からどろどろに溶けていきそうだ。
 御幸はまだ俺のものなんだろうか。俺のものだと言ってもいいんだろうか。シャツに顔を埋めるように息を吸い込む。泣きそうなくらい、御幸の匂いがした。
 俺からも御幸の匂いがしているんだろうか。
「好きだよ沢村…お前も、俺が好きだろ?」
 だから、どうしていつもそんなに自信満々なんですか。
 こんな時なのに笑いたくなる。
 ああ、そうだ。御幸は少しも変わらないのだ。





 送るからちょっと待ってて、と手を繋がれて駐車場の中まで入って行くと、やっぱり検討を付けていた通り黒の4WD高級車は御幸の車だった。
 動くなよ、と言い聞かせた御幸が急いで階段を上がっていく。泣きすぎてぼんやりと痺れた頭は寝起きみたいに重たくて、ばたばたと寮まで向かう姿を見て必死だなあ、と他人事のように思った。
 御幸はいつも俺の前ではかっこつけたがるから、それがとても奇妙な姿であっても本人は大真面目にかっこつけていると思っているから、あんなに脇目も振らず一生懸命な姿は新鮮だ。
 しばらくその場で待たされていると、車のキーや財布を手にした御幸が戻ってきた。
 車に乗り込んでようやくほ、と安堵の溜息が漏れる。いつのまにか慣れ親しんだシートにしっとりと包まれて、じんじんと熱い瞼を閉じた。
 泣くのってこんなに体力を消耗するものなのか。感情全部表に吐き出すような泣き方は、物凄いエネルギーを使うらしい、体が鉛を付けたみたいに重たい。
 静かにエンジンのかかる音を聞いていると、ふわりと横から口付けられた。
「…っ」
 びっくりして押しやる。その腕を掴まれて、あっさりと動きを封じ込まれる。見開いた目には御幸の顔が映っていて、すぐにまた強引に唇を塞がれた。
「ん、んんん〜〜っ……」
 ちょっとちょっと! この人、ここがどこだか分かってんの。関係者だらけの寮のすぐ目の前で、誰が見てるかも分からない野ざらしの駐車場だ。
 ぐいぐい覆いかぶさる体を押し退けるように肩を押したら、大きく開いた襟元から覗く首筋や鎖骨に触れる。その肌の生々しさにびくりと躊躇した。
「すげ、しょっぱい」
 ちゅう、と柔らかく吸って離れた御幸の唇は相変わらずぽってりと厚くて、その唇を舌で舐め取る仕草に、体の芯をズクリと刺激される。
 俺だって人のことは言えないが、御幸の行動はそれ以上にとても軽率だ。そんなにやんちゃしていいんすかと突っ込みたいけど、「なあ、手繋ごう」と言われたら一気に毒気を抜かれてしまった。
「……片手で運転なんて、危なくないんすか」
「大丈夫。俺いつも安全運転なの、知ってるだろ?」
 よく知ってます。
 すぐに分厚い肉刺だらけの捕手の手が、躊躇っている俺の右手を捕まえにくる。握り込まれて、ぎゅう、と力を込められて、うろうろと感情まで一緒に迷子になりそうなのは、その握り方が指を絡めて繋ぐような恋人繋ぎだったからだ。
 おずおずと握り返したら、強く握り返される。御幸は前を向いたまま右手一本でハンドルを扱いながら、危なげもなく運転をしている。
 この手はなんて大きく、あたたかいのだろう。
 車の中で手を繋ぐなんて、恥ずかしいような居たたまれないような、だけどずっとこうしていたかったような、こうしていたいような。流れ込んでくる体温を感じながらぐすん、と鼻をすすった。
 窓の外の景色は見慣れないものばかりだ。そうか。高校を卒業してからずっと御幸はこの町のこの場所で、毎日一生懸命自分と戦いながら、暮らしていたんだな。
「あれな、亮さんの悪戯だから」
「……号外?」
「うん。つーかお前もあんないかにもなやつ信じるか? はは、それだけショックだったの?」
 俺がここまで来るきっかけとなった号外は、確かに御幸の言う通り、ただの悪戯だった。
 どこかの新聞や雑誌、もしくはプリントアウトされた二人の写真を切り抜いて貼り付けただけ、文字だって手書きのあまりにお粗末するぎる出来栄えに、改めて向き合ってみれば絶句しかない。どうしてあんなにショックを受けたのか、そういえば倉持先輩も絶句していたけど、あれは『なんだこのくっだんねーイタズラは』の表情だったんだろうか。俺はそれどころじゃなかったけど。
 人間というものは、きっと自分が見たいものを見てしまう生き物であるらしい。こんな現実見たかったわけじゃないけど、思い込みって凄い。
 御幸は笑ってるけど俺は笑い事じゃなかった。
 見た瞬間、体中の体温が突き上がるように上昇した。
「……だって御幸は、俺のなのに…」
 その記事に怒っていたのか、悔しかったのか、悲しかったのか。かっと膨れ上がった熱に突き動かされるようにしてそう思った。
 この男は俺のなのに。俺のものなのに。
 建前も強がりも全て消えてなくなった。恋は盲目とは、よく言ったものだと思う。
「だから…取り戻しに行かなきゃって…思って……」
 俺は何を言ってるんだろう。
 急に理性が戻ってきた。かあっと頬が燃えるように熱い。ほんと、何を言ってるんだ。バカか俺は。
 御幸は黙って前を向いたまま、うおおおと必死に顔を逸らす俺を茶化すこともない。いつもだったら揶揄いながら弄ってきそうなものを、こんな時ばかり意味深な沈黙を貫くからやめてもらいたい。
 走っている車の中に逃げ場はなくて、今の俺の呟きが聞こえていない可能はどれくらいだろうと絶望的な数値を出しながら、ふと気付く。
「……あれ。御幸先輩、顔赤い」
「……うるさいよ」
「え? 照れてる? まさか照れてるんですか?」
 思いがけない反応に驚いた。丁度向かいから走って来た車のヘッドライトに照らされた顔はバツが悪そうななんとも情けない顔をしていて、その耳が赤くなっているのは俺の見間違いではなかったんだろう。
「だから、うるさいって」
 ……うわ。ちらと目線を寄越されて心臓が飛び上がった。ドドッと乱れた心拍がそのまま早鐘を打ち出して、むずむずと頬が緩む。たったこれだけのことで照れてる御幸。やばい、新鮮。すげぇかわいい。
 繋いだ手をゆっくり持ち上げると、そのまま左手で包むようにそっと口付けた。大事な大事なものに、自分からキスをする。
 びく、と反応した様子が唇や両手から伝わる。嘘みたいだ。勝手にあんな凄いキスをしてくるくせに、たったこれだけのことで驚くなんて、ますますかわいい。
 そのくせ窺った横顔は相変わらず澄ましていて、狡い奴だと思う。
 指先も、手の平も、人よりずっと腫れ上がるように太くなった皮膚を大事に握り込んだまますりすりと頬ずりして、ちゅ、ちゅ、と何度も口付けていると、調子に乗るなとばかりに御幸の手がようやく動いた。
 硬い指の腹で唇をくすぐられて、うわっと手を遠ざける俺に含み笑いを漏らしている。この野郎。
 お返しに、その指を口に含んでやった。
 舌を絡めるなんてさすがの御幸も想定外だったらしい。くっと息を詰めた音をすぐ隣で聞きながら、悦に入って指の股から爪にかけて舌を動かして、軽く甘噛みしながらンっと吸い上げる。
 まるで、舌を絡めたキスでもしてるみたいに。
 頬の内側を、舌の裏側をくすぐられる。ぬるぬると口の中で動く指に翻弄されてちゅるりと抜き出したら、溢れた唾液が御幸の指をぐっしょりと濡らしていた。
 口の中が熱い。ごく、と喉を鳴らして唾液を飲み込むと、まだ濡れていない中指を口に含んで、同じように舐め回してみた。
 可愛い反応が見たくて始めた悪戯は、すっかり御幸を参らせたらしい。
「……あー、くそ……もう…」
 唸るようにぐるぐると喉を鳴らす様子を見て仄かに喜ぶ。いつも自信に満ち溢れた男の余裕のない姿は、俺にはたまらなく麻薬みたいだ。
 無言で車を運転していた御幸が、何も言わずに横道にそれた。暗くなって誰もいなくなった広い公園の駐車場はがらんと寂しがっていて、その奥に車を乗り入れてサイドブレーキを引く。
 停まった車に何事かと思っている俺のシートを無理矢理倒した御幸が、何も言わずに伸し掛かってきてあっという間に唇を貪られる。
 指の代わりに舌を含まされた。捏ね回すような動きに、舌がもつれて、だめだ。少しも喋れない。
「んぅ、……んぅ…」
「……ばか。煽るお前が悪い…」
 言い分はもっともかもしれないが、相変わらず強引だ。一生懸命肩を押しやろうにもびくともしない体はもぞもぞと動いて、しまいには俺に乗り上げるようにシートを移動してきた。
 完全にスイッチが入ってしまったらしい御幸の息は熱っぽく荒れている。余裕のない顔を見たいと思ったが、本当に余裕がなさそうな目の色を前にすると、ぞく、と体の奥が竦んだ。
 何度も何度も口付けられ、目の前が赤く滲んでいく。ひらひらと舌先を遊ばせながら音を立てて絡めて、唾液が口の端を伝うほど静かに、深く、激しく。
「はっ、…ぁ…」
 きもちいい。御幸とするキスはぐちゃぐちゃで、頭の奥がぼうっとして、たまらない気持ちにさせられる。
「ん、……あっ…?」
 キスに夢中になっていると、不意に体の中心をするりと撫で上げられて腰が跳ね上がった。首筋を舐め回しながらあっという間にジャージをずり下ろされて、下着の中に手を入れられた。うわ、なんで。
「うわわっ…ちょ、待っ…どこ触ってんすかっ」
「濡れてるな。すげ、可愛い」
「い、言うな…ばか…っあ、あ……っ」
「ん…ほら、足上げろ」
 無理矢理下着ごと膝下まで下げられて、一気に片手で器用に足首から抜かれてしまう。両足を割られ、御幸の腰を挟むように縫い止められたら身動きもできなくなってしまった。
 あまりの早業に成すがままの俺の口を塞いだ御幸は、きっと文句を黙殺したのだろう。効果的で卑怯だ。その間も右手は緩やかに俺を刺激し続けて、ごつごつした手に包まれて扱かれたら呆気なくイってしまいそうだ。
 丸裸にされている気分だった。御幸の手が滑るのは俺の先走りで濡れてるからで、しっかりと勃っているのも触られるのが気持ちいいからで。
「ぁ、ぁ…で、出る、みゆき、出る…っ」
「ん……いいよ。手に出して」
「…っ、ぁ、シート汚れ、る…っ」
「いいよ…ほら、イけって」
「よ、よくね……っあ、あぁ……だ、め…っ」
 必死に堪えて首を振る俺に、御幸は容赦しない。敏感なくびれを指で擦られて、音を立てながら先端ばかりを弄ってくる。男同士だからどこをどう触れば気持ちいいか分かり切っている弄り方だ。じわりと汗が滲む。
 ちゅっちゅっと濡れた水音を上げる御幸の指にあっという間にイかされて、結局俺は御幸の手の中で出してしまった。こんな、車の中で、外は人気のない駐車場で真っ暗だとは言え、ほとんど外だというのになんてことだ。
 脱力する俺に、御幸は飽きもせず口付けてくる。ねっとりと深く、柔らかく貪るキスに朦朧と応えながら舌を絡めて、ふと腹に押し付けられた熱さに目を見開いた。
「ん、んん…っ」
「はは、気付いた? 俺もこんなんなっちゃった…」
「んっ…」
 熱っぽく囁かれる声にぞくりと目を細める俺の腹に、ゆるゆるといつの間にか御幸の熱が擦り付けられている。完全に勃起したそれをうっかり見てしまったばかりに急に冷静になってしまったのは運が悪かった。
 ……で、でか…っ。
 サイズもそうだけど、他人の勃起した状態のそれなんて早々見る機会もない。AVを回し見たことはあっても、見るのは女性の体ばかりで男の状態など目にも入らないものだ。でも、今、目の前にあるのはまさに臨戦態勢にまで勃ち上がった男のそれで、急に何をしているのか冷静に自分の状況を把握した。
 お、俺はここで何をして。いや、何をされてるんだ?
「み――みゆき、あ、あの」
「俺のも、……触って。お願い…」
 自分がたった今されたことを思えば、それが多少強引だったとは言え拒むのは気が引ける。窮屈な体勢で動きの取りづらい中、御幸が俺の上で自分の性器を右手で弄っている姿に、耳の先まで熱くなってきた。
 そうか、御幸もこうやってするんだ。
 いやそうだけど。そうなんだけど、俺もするし分かってるけど、なんかやっぱりこれは、照れる…!
 手を掴まれて下に持っていかれる。俺だってサイズ的にはそんなに小さくもないのに、そんな俺でも御幸とは比べたくないなと手に触れるサイズを確認しながら思う。
 あの夜、ホテルのベッドの上で。
 御幸は無理矢理することだってできたのに、こんな状態を押さえ付けて一人トイレに籠ったのだろうかとふと思い出した。
「……ん、なに?」
「なんであの時…ひとりで、したんですか」
 あの時? と目を瞬かせた御幸は、ああ、とすぐにバツが悪そうな顔で笑った。こんな時に何を言ってるんだと我ながら思ったが、御幸は俺の手を掴んで動かしながらこめかみに唇を押し付けてもぞもぞと息を吐く。う、それ、すげぇくすぐったい。
「そこはまあ、……察して。今より状況は悪かったし、マジで嫌われると思ったから。俺も頭に血が上ってたから…ほんと、ごめん…」
 謝ってほしかったわけじゃないけど、結局謝罪をさせてしまった。項垂れる御幸の肩にぐりぐりと顔を押し付けて、俺もごめんと一生懸命訴える。
 しっとりと熱くなった首筋に鼻を押し付けながら舌で舐め取ると、塩っぽい汗の味がした。
「……は、きもち……」
 握り込んだ手は緊張と困惑で震えているような気がするし、うまくやれてる自信もないけど、うっとりと呟かれてほっとした。
 左手に納まりきれないほどの生々しい熱をなんとか刺激していると、物欲しそうに御幸が俺の両足を抱え上げて腰を揺らし始める。
 ぬるぬると押し付けられる熱はまだ半分くらい勃起したままの俺に擦り付けられて、雰囲気にも酔っているせいかすぐにまた元気を取り戻してしまった。若い。俺、まだ若いから、仕方ないんです。
 何度もぶつかるようなキスをして、お互いの手を濡らしながら扱き合って、車の中の温度が徐々に上がっていく。射精が近付けばもう場所がどうとか当たり前のことも考えられなくなるのが、男の悲しき性だ。
「はぁ、あ…あ…御幸、おれ、だめ…」
「沢村、はーはーしてる…気持ちいの? かわいー……」
「んん…ま、また出る……っ」
「ん、俺も。…ね、このまま手に出していい…?」
 御幸が俺の左手を掴んで腰を揺らしてイクのを、先にイってしまった俺はぼんやりとした熱っぽさの中で感じていた。
 抜きっこしたばかりの熱が触れ合う。なんでだろう、俺も御幸も、たった今イったばかりなのに萎えるどころか全然治まらなくて、体の奥で熱を燻らせているみたいにもどかしい。じりじりと静かに燃やされてるみたいだ。
 焦れったさに身じろいだら、御幸も同じ気持ちだったのかもしれない。腰を揺らしながら溜息のような艶っぽい息を耳元で吐いた。ぞわぞわと眉が頼りなく下がるのが分かる。
 たったこれだけの刺激にも今は体が敏感になっていて、全力で快感を拾い上げてるみたいだ。
「はは…全然おさまんねぇな」
「あ、あ…なに、なんか…っ」
「んー…指入れてるだけだよ」
 どこに指入れてんだと思うけど、朦朧と霞がかった思考が生クリームみたいに掻き回されて、思うように文句も言えない。
「だめかな…こんなとこじゃさすがに…」
 独り言ちながら、御幸の指は奥まで入り込んできて掻き回すように動き回る。濡れそぼった指はあっさりと中に馴染んで、抜き差しされる動きにひうっと喉が反った。
「は、は…う〜〜っ、これ、なに…何して…っ」
「足、もう少し上げて」
「んっん……なに、あ…!」
「ここ…入るかなって……」
「ひぅぅ…! な、なんかへん…っ」
「ん、ここ?」
 くうっと押される場所に妙にむず痒い熱を刺激される。シートの上で両足を開かされたまま、後ろに回っている御幸の指は好き放題だ。こんなとこに指を入れられてるのに、俺はなんで文句も言わずに好きにさせてるんだろうと思うけど、さすがに立て続けに二回もイかされたばかりでは思うように体も動かない。
 俺が反応を示す場所ばかり刺激される。なんかされて、なんか変なのは分かるのに、これが一体なんなのか分からなくて混乱する。
 御幸の太い指は、さっきから俺の中を弄り回してねっとりと動いている。
「あっあう、いやだ…! そこ、だめ…っ」
 何度目かの強い刺激にばたばたと暴れると、ごんごん頭がぶつかった。ぶつかるのは痛いけど、でもそれより指でされてるところがおかしくてそれどころじゃない。
「あー、こらこら…あんま動くと頭ぶつけるから」
「み、みゆき……そこやだって……っ」
「……ここ?」
「ひ…ぁ…!」
 左手で頭を戻されながらぐっと折り曲げた指で中をかりかりと刺激されると、小刻みに体が震え出す。なんだこれ、どうしよう、なんか、だめだ、変な声が出る。自分の中に、自分じゃどうしようもない部分があるのが分かる。
「気持ちいい? 柔らかくなってきた」
「ぁ、あう……」
 なんだか、とても大切なものを今、奪われているような気がするんだけど。どろどろにされていると思う。
 丁寧に丁寧に指を動かす御幸は、仰け反る俺の顎や喉に口付けながら、二本に増やした指で抜き差しを繰り返している。
 はくはくと息が漏れた。勝手に腰が揺れて、御幸の指をくわえ込んだまま、うんうんと甘えた声が出た。
「…あー…、……いれてぇ」
 はあ、と熱っぽく囁かれた独り言にぎょっとした。
 無言で見つめ合っている最中でも、御幸の指は奥まで埋まってぐるりと動き回る。いれたい。入れたい?
「うっ、ン……い、いれるって……」
 どこに。ここに? 何を。……な、ナニを?
「……っ」
「あー、怯えんな怯えんな。無理矢理突っ込んだりしねえよ。怪我させたくないし、ローションもゴムもないから」
 御幸の口からゴムとか聞くと、生々しい。こんな生々しいことしておきながら、なんだけど。
「じゃあゆび…指、もう抜けって…」
 散々弄り回されて、中もじんじんしてきてまずい。眉を垂れ下げたまま、枯れてきた唾を必死に飲み込んだ。
「そこ、ぁ、へんになりそ…だから、もう……」
「へんって、……どんな?」
「あ、あっ、ばかっ、なんで奥まで入れ…っ」
「はは…すげ、中あちぃ…」
 熱い、俺も熱い。額にびっしょりと汗が浮かんでる。
 はーはーと必死に息を吸う俺の後ろを散々弄り回す御幸のこめかみからも、汗が伝って落ちた。
「も…なんでまだ、指…んん…」
 いつも静かな飴色の目が、熱を湛えてじっと俺を見ている。観察されているようで居心地が悪いのに目が逸らせないのは、その視線の強さのせいだろうか。
「あー…そーいやワセリン…乗せてたな…」
 独り言ちた御幸が指を引き抜いた。ちょ、なんでいきなり…っ。びくびくと爪先を揺らしながら息を詰める。何故かあれだけ抜いてほしいと思っていた場所が、熱っぽく痺れて物足りなさを覚えるのはなんでだろう。
 御幸は起き上がって後ろのシートをごそごそ探っているから、そんな俺の変化に気付いていないようでほっとした。うっかり妙なことを口走ってしまいそうだったのを寸前で堪えながら、なんとか自由になった体をぐったりとシートに預けて、はあ……と息を吐いたら、深く艶めかしい吐息が耳に届いてぎょっとした。
「…………」
 今の、俺の?
 窓にかかるほど上がった自分の左足にもはたと気付く。上のジャージはまくり上げられて上半身も露出してるし、腰から下は脱がされて裸だ。下腹は出したものでぬるついてるし、弄られた場所はありえないほどにじんじんしている。
 途中で放り出されたみたいに、じわじわと物足りなさに疼いてる。
 あられもない自分の姿に気付いてうわっと両足を急いで下ろした。御幸の体を挟んだままだから閉じられないのがあれだ。汗に濡れた革のシートが滑る。
 熱い。窓も曇ってるくらい、車内の温度は急激に上がって、何をしているのか冷静に突き付けてくる。今頃になって羞恥に唸っていると、御幸が青い容器の蓋をかぱっと開けているのが見えた。
 手の平に納まってしまうほどの丸い容器の中身を、指で大きく掬い取る。両足を開かれ何事もなく再開された行為は、だけど先ほどとは明らかに様子がおかしい。
「……っ? あ、うあ…やっ!」
 なんか、にゅるってしたのが入ってきた…っ。
「ひ、くぁ……あ……っ」
「うわ、すげぇ滑るな」
「は、は、み、御幸それ……っ、ぁ…!」
「ワセリンな。あー……柔らかい。すげ、ぐっちゃぐちゃだな…」
 さっきまでの比にならないくらい、御幸の太い指がスムーズに動き回る。
 何度か容器からワセリンだというそれを手に取って後ろに塗り込むように動き回った指に、とうとうあられもない声が漏れるまで時間はかからなかった。
 だって、直接体の中を触られてるみたいで。触ってもないのに前は勃ってくるし、後ろは御幸が言う通りぐちゃぐちゃにされてるし。
 汗が流れ落ちる。俺のこめかみから、御幸の顎先から。
 感じたことのない刺激に震える両手で必死に御幸の肩を押しやっても、ビクともしない。体格の差は歴然で、どんどん訳も分からず暴かれていくのが本能的に怖いと思う。
 肩で汗を拭った御幸がようやく指を引き抜くと、びくびくと抱え上げられた爪先が揺れた。
 ぼんやりと視界が滲んでるのは涙が止まらないせいだ。苦しくも痛くもないのに、心まで掻き回されてるみたいで、涙が溢れてしょうがない。
「……んっ、うぅ…」
 ようやく終わりかとほっとしたのも束の間、御幸が眼鏡の真ん中を押し上げて深い溜息を吐きながら囁いた。
「さわむら……ここ、もう入りそう…いれていい?」
 俺の腰を掴んで引き寄せる。更に体を折り曲げるように抱え上げられて、息を整えている間に押し当てられた御幸の熱は今にも弾けそうなくらい硬い。
「う、ゃ……入れんのだめ、って…ゴム…ご、ゴムないから無理って、言った」
 頭の芯まで掻き回されて朦朧としながら、御幸がさっき呟いていたのを思い出して口にしてみるけど、大丈夫、と何故か得意げに言われた。ゴムがどうとか本当はよく分かっていなかったが、ごそごそと取り出された正方形のそれにようやく合点がいった。セーフティセックス。挿入時のエチケット。
「財布ん中に入れてるの思い出したから、ヘイキ」
「ちょっと待て、なんで財布の中…っ」
 それ一体誰と使う予定だったんだと問い詰めたい。絶対御幸、俺以外ともやってる。絶対やってるだろ。
 俺の意見を聞かずに勝手に封を開けた御幸の右手が俺の視界から消えて、何やらごそごそ動いているのはゴムをつけているからだろう。盛大に流されている自覚をしながら、だけど本当に嫌だったらもっと前に拒絶しているなとも冷静に思う。
 つまり俺は認めたくはないが、御幸にこのまま突っ込まれてもいいかなって、ちょっとは思っているのだ。
「…って、そんなの、むり…入ん、ねぇ」
「うん…力抜いてろよ」
「ちが、み、みゆき…っ」
「大丈夫、大丈夫…」
 言われなくても、もうどこにも力なんて入らない。
 どろどろに溶かされた思考でうっうっと鼻をすすっていると、御幸がゆっくりと腰を埋めてくる。
「あ……うそ…」
 狭い場所を無理矢理開いて入ってくる熱に、ひぐっと喉が反った。
「ぁ…っあ、うう……」
「は、きつ……」
 だめ、だめだ、入る。入ってくる…っ。
 涙が溢れた。仰け反る体にズンッと深く入り込んできた熱が、俺の体を容赦なく貫いた。
「…………っ!」
 あ、と掠れた声が漏れる。必死に仰け反った体が震えて、何度か中を突き上げて奥まで入ってきた御幸がふー、と大きく息を吐くのが聞こえてくる。
 声も出せないくらいの衝撃に唇を震わせていると、ゆるゆると腰を揺らされた。小刻みに動かす度に繋がった場所からずぷずぷと音が上がる。痛いのか熱いのかも分からない、ただ、圧迫感に息ができない。御幸が中にいる。
「んー…ほら、……入っただろ?」
 文句とかいろいろ言いたいのに、声が出せない。
 はーはーと必死に息を紡ぐ俺に、御幸は汗に濡れた顔をほころばせた。ちくしょう、なんて幸せそうな顔してるんだよ。怒るに怒れなくなるじゃないか。
 見つめ合って、何度もキスをする。眼鏡が邪魔だなと思う俺の声が聞こえたわけでもないだろうに、自分の顔から無造作に引き抜いた御幸のしっとりとした肌が鼻や頬に触れる。緊張で冷たくなった体に熱が戻るまで、何度も何度も、呆れるほどキスは続いた。
「あ…ぅ…う……っ」
 ず、ず、とゆっくり腰を動かされると苦しい。貫かれてる場所が自分の体じゃないみたいだ。御幸の体は重いし熱いし、逃げ場のないシートの上でその腕をばしばしと叩いてやった。
「あー……はは、お前体柔らかくてよかった…怪我させてるとこだった…どっか、痛くないか?」
「んぅぅ……っ」
 無理矢理両足を抱え上げられても確かに平気だ。ぐっと腰を沈めて体重をかけられても、熱くて苦しいけど痛くはない。一生懸命頷く俺を見て御幸が笑う。
 なんて綺麗に笑うんだろうと、暗闇に慣れてきた目で惚れ惚れとした。
 抜き差しを繰り返されて、ゆさゆさとその度に車も一緒に揺れている。御幸は何度か車の天井に頭をぶつけて、いて、と痛がりながらも動きを止めない。
 不審車両とかなんとかで警察に見つかってライトでも当てられたら最悪だと思うのに、俺の口から漏れるのは掠れた喘ぎ声ばかりだ。
 こんなことする御幸が悪いと全部御幸のせいにしてみるけど、多分俺の声は御幸に抜き差しされる度に酷く感じてぐずぐずに濡れているから、きっと絶対俺も共犯だ。
 御幸が気持ちよさそうだから、俺の体が勝手に喜ぶのだ。なんだ、もう、べた惚れじゃん。
 悔しかったので必死に目を開けて、きもちいいですか、と聞いてみた。すぐにきもちいい、と熱っぽく返される。
「ぁ、ほん、と…? きもち、いい…?」
「うん……声、出ちゃいそ…」
 頭を撫でられながら甘えた声で言われて、ぎゅっと下腹に力が入る。御幸がうっと呻いたのは、無意識にそこを締め付けられたせいだろう。
 熱い。体の奥も、御幸から落ちてくる汗も、シートの上を緩慢に滑る俺の体も。
「もっとこうしてたいけど…もう、限界だな……」
 ゆるゆると腰を動かしながら御幸が言う。俺は口を開けたまま、必死に息を吸いながら涙でぼやけたその顔を見ていた。
 俺も同じことを思った。狭くて窮屈で、熱くて苦しいのに、まだ終わってほしくなくて、こうしていたくて。
 イきたいのに、まだイきたくない。
 うまく呂律が回らなくて俺も、と伝えられないまま、御幸の右手に先に射精を促され、後ろを突かれながらイクという世にも稀な経験をしてしまった。
 一人で手を使ってイク時とは比べ物にならないほどの衝撃に、自分でも聞いたことのないような声が出た。
「ク……やべ……っん……っ…」
 何度か俺の中で腰を振った御幸も、すぐにイったらしい。最後は小刻みに打ち付けられてガクガクと揺らされる振動の中、壮絶なほど艶めかしい呻き声を漏らした御幸の体がびくりと大きく震えた。
 はあはあとお互い汗びっしょりのままシートにぐったりと倒れ込む。ねっとりとした甘い蜂蜜の中にでも落とされたような、体中、頭の中までも、なんとも言えないとろけ具合だ。
 じんわりと熱い快楽を静かに貪りながら、御幸が俺の体を抱き締める。肩に顔を伏せているので表情まで見えないのが惜しいな、とぼんやりと思った。
「……さわむら、すき…」
 すんなりと俺の中に入ってきた告白は、今までだって何度も聞いていたはずなのに。散々好きにされた後でなら、こんなにも甘やかな気持ちで素直に返せるらしい。
 ずず、と鼻をすすりながら俺も、と呟いたら、ゆっくりと体を起こした御幸が笑っていた。
「はは…お前ねぇ」
「……なんすか」
「なんでもないよ。……なあ、沢村。俺と付き合って」
 子供っぽく甘えた声で、御幸が言う。そういえば昔、初めて告白をされた時、御幸は真剣な目で俺を見ていた。
「……どこに?」
 その時のことを思い出していたせいか、勝手に口からこぼれ落ちた。
 御幸も気付いたのだろう、なんだろう。変だな。
 まるであの時のやり直しだ。お互い見つめ合ったまま笑いそうになる。
 御幸は目を細めて俺の濡れた前髪を整えながら、そっと声を潜めて告げた。
「……俺の人生、最期の日まで」
 そのままぐっと押し潰された。まだ火照った体に腕を回しながら、幸せって凄いな、と震えそうになりながら思う。今、俺、世界一無敵かも。
 はー、と息を吐いて抱き締める。体中どこもかしこも熱くて、御幸の匂いでいっぱいだ。
「御幸せんぱい……」
「ん?」
「……重い」
「うん。ごめんね」
 でもそんな御幸が、困ったことに、俺も大好きだ。



***



 俺は御幸に大事なものを奪われ続ける人生なのかもしれない。
 気付けば体ごと奪われて、半分夢でも見てるんじゃないのかと思うくらい現実感の乏しいまま寮まで送ってくれた御幸は、いつもの場所じゃなく寮のど真ん前に横付けして、足元をふらつかせる俺を軽々と肩に担ぎ上げた。いわゆる、お米様抱っこというやつだ。
 イヤダイヤダとバタつく体を米俵のように無理矢理抑え込んで寮の中へとずかずか入って行った御幸に、ざわりとその場の空気が一変したのが肌で分かった。
 野球関係者で御幸の名前を知らない者はいない。
 こう見えて御幸は俺らの世界のほんの一握りの勝ち組で、つまり憧れと羨望の対象なのだ。いつか自分もこうなりたい、こうなってやる、と思われる側の、スター選手なのだ。
 そんな憧れて憧れてやまない世界に身を置く住人が突然現れたのだから、寮中が大騒ぎになったのも仕方ない。
 騒ぎを聞き付けて慌てて寮長が走ってきても、さすがは御幸だった。飄々と愛想良く挨拶までして、こいつ俺の高校ん時の後輩なんですけど、しごいてやったらへばって立てなくしちゃったんで責任持って送ってきました、と言いくるめ、騒がせたお詫びに今度差し入れしますね、契約してもらってるメーカーから色々貰えるんで寄付できると思います、と付け加えた。
 大人って狡いよな。年は一つしか違わないけど、持っているものの大きさを痛感する。
 御幸に立てなくされたのは事実だったので、俺はふぬぬと顔を伏せてひとまず羞恥とじろじろ突き刺さる好奇の視線に耐えながら、御幸の背中に爪を立てて密かな反撃をしていた。
 そんな中、ぱかっと口を開けて呆然としている金丸と東条とすれ違った。気付いた御幸が気さくに笑いかけると、二人は姿勢を伸ばしてお久しぶりです! と声を張り上げていたけど、俺はぶらぶら運ばれるまま挨拶もできずに部屋へと連行されてしまった。
 その一連の出来事により、俺と御幸は今でも交流を重ねる高校時代から仲良しの先輩後輩バッテリー、という認識となり、ああ、だから大学に迎えに来たりしてんだな、と目撃していた一部の人間は納得したらしい。
 俺がブランド物を持っているのも、御幸からのお下がりかなんかだろうってことになったようだ。意外とみんな見てないようで、見ているものなんだな。
 よかったな、御幸。
 変な人認定は、なんとか逃れられたらしいっすよ。
「今日はもう風呂入って寝ちゃえよ。あー、できれば中もちゃんと洗って。べとべとだろ」
「だっ誰のせいで〜〜〜っ」
「はいはい、俺のせいです。責任持って洗ってやりたいけど、さすがに寮生活じゃなあ」
 そんなに優しく扱わなくても壊れたりしないのに、御幸はまるで俺の体を柔らかい何かみたいにそうっとベッドに下ろしてわしわしと頭を撫でた。至る所に置いてある御幸からの贈り物をぐるりと見回して、満足そうににこにこしているのは気付かなかったことにしてやろう。なんて素直な男なんだ。
「あっ、そ、それはっ」
 ふと御幸が手を伸ばしたものに気付いてがばっと身を起こす。体が自由になっていたら飛び上がって奪い取って背中にでも隠してしまいたいくらいだったが、すでにそれは御幸の手の中だ。
 この前引き出しを開けた時にうっかり机の上に出しっ放しにしていたリングケース。一目で高級品だと分かるベルベット素材のケースを開けた御幸が、中のリングを見てふは、と笑った。
 自分で贈ったくせに、なんて顔をするんだろう。
 俺の方が恥ずかしくて真っ赤になる。ぼすっと枕に顔を伏せて、うううと唸り声を上げた。ああ、もう、不覚。だってまさかこの部屋に御幸が来るとは思わないじゃないか。
「これ、捨てられたのかと思ってた」
「……捨てるわけ、ないだろ……」
「うん。よかった」
 声に喜びや嬉しさが滲んでいる御幸は相変わらず素直な男で、いそいそとベッドに腰かけると俺の頭をよしよしと撫でた。
 撫でられるのは好きだ。御幸に褒められると、俺はすぐにうっとりぐずぐずになってしまう。
 ごろりと体をひっくり返されて仰向けにされると、うやうやしく左手を取られた。うわ、と思ったけど、仕方なく好きにさせてやることにした。今から御幸は、とんでもなく恥ずかしいことを俺にする。
 思った通り、俺の左手の薬指に白銀のリングをするりと通した御幸は、その手を持ち上げてそっと口付けた。
 誓いのキスを指先に。手の甲に。
 伏せられた睫毛の長さや、日に焼けた整った顔をじっと見つめた。胸が苦しくなるくらい、綺麗な顔をした男だと思った。
 恥ずかしいことをした御幸はそっと両目を開けて俺を見下ろすと、子供みたいな顔で小さく笑った。俺の反応を待ってるみたいで、なんかちょっとかわいい。
「……お付き合い、してください?」
 言い方だって、なんだそれって思うくらい。
 かあっと体中が熱を持つ。
 震えそうになる手をぐっと握り締めて、色々迷った末に頷いたら、御幸はこぼれんばかりの笑顔でやった、と呟いた。
「嬉しい。ほんと……はあ…長かった〜」
「あれだけ自信満々だったくせに」
「ばっかお前、俺がどれだけ必死だったと思ってんの」
「あんなことしておいて、よく言う…っ」
「はは、それは、ほら。ごめん」
 上機嫌に左手に指を絡めた御幸が、うきうきとその手を揺らしながら笑っている。本当はまだこうしていちゃいちゃしていたかったが、……いちゃいちゃ? い、いや、別にそんなことしてないけど…っ、一緒にいたいなとも思ったけど、部屋の外ではきっと聞き耳を立てながらみんな御幸が出てくるのを待ち構えているのだろう。
「それじゃ、またな。連絡する」
 汗の引いた髪を掻き回されながら、御幸がちゅっと額に口付ける。寮の部屋に御幸がいるなんてやっぱり摩訶不思議な光景だなと目に焼き付けながら、じんわりと熱い体を持て余し気味に見送った。
 部屋を出て行く際の、笑顔のまま最後まで俺を見つめる視線の甘さに、どろどろに溶けていきそうだ。
 ドアの外ではどよどよとした騒ぎが聞こえる。みんな興味津々に御幸に話しかけているんだろう、普段テレビを観ながら悪態を付いている先輩達だって、きっと本人を目の前にしたらころっと態度を変えているに違いない。
 そんな喧噪を微かに耳にしながら、どさりと枕に顔を埋めて息を吐く。じんじんと御幸を受け入れた場所が熱くて、ぬるついたまま、嫌でも思い出す行為に勝手に心臓が暴れ出した。
 左手には相変わらず不相応な指輪が上品な輝きを放っていて、むずむずと頬がむず痒い。
 あ、だめだな、と枕に擦り寄りながら思う。
 今頃ドキドキするな。照れるな。
 さっきまでここにいた御幸の顔を思い出して、心臓が嘘みたいにきゅんとした。なんだなんだ、少女漫画の主人公か、俺は。

 観念しよう。
 俺はとっくに、御幸にべた惚れなのだ。




◇◇◇




「ほーらね? 俺の言った通り、一発ヤれば落ち着いただろ?」
 だから、なんで、どっからそういう情報持ってくるんですか、と俺は今日もお兄さんの事情聴取を受けながら思う。
 細い目を更にきゅうと細めて笑う顔には悪意の欠片も感じられない、楽しそうではあるけれど倉持先輩みたいに胸焼けしているようにも見えない。ちなみに金丸も同じように胸焼けした顔をしながら、東条はにこにこと笑って『よかったねー』と言ってくれた。
 そんなわけで沢村栄純、この度めでたく無事に、御幸一也とお付き合いすることとなりました。
 みんなが言うように、ようやく観念させられました。
「うう…落ち着くどころかその……」
 もにょもにょ口の中で呟きながら、赤くなる顔を伏せて隠した。
 落ち着くどころか、二人になるとすぐにしたがるんですけど。むしろ加速している気がするんですけど。
 思い出すのはアレヤコレヤで、この前だってキスだけって言ったのに結局止められなくなって、車の後部座席に引っ張り込まれていたしてしまったばかりだ。
 どんどん爛れていく…! と頭を抱えても、俺も御幸もまだ付き合いたてで止める術を持たないのが駄目なんだと思う。
 特に御幸は長年の片思いがようやく実を結んだためか、幸せオーラが全開でそれはそれは試合も絶好調。
 つまり、最近いつもテンションが高い。
 やたらとにこにこしてるから更に人気が増しているのが、ちょっと俺的には複雑ですけど。
「あー、なるほどね。思春期真っ只中で止まってたか。あいつの初恋十七ん時だから、かれこれ四年越し? 沢村もよく焦らしたもんだよねぇ」
「……ていうかお兄さん、前から思ってたんすけど、どっからそういうネタ仕入れてくるんすか…」
「ふふん」
 応えてくれる気はないらしい。俺は赤くなった顔を両手でバシバシ叩きながら、あ、と立ち上がった。
「みーゆきー!」
 きょろりと顔を巡らせた御幸が、俺に気付いて笑った。
 ぶんぶん両手を振る俺に片手を上げて返したスポサン姿の御幸は、ユニフォームを着た戦闘モードだ。
 ちゃんとスタメンに選ばれてよかったよかった。せっかくチケット貰ったのに御幸が出てなかったら、意味がないもんな。
「よお。来てくれてありがとな」
「しっかり活躍して下さいよ! 本日も連勝記録更新、期待してますんで!」
「はっはっはー、任せとけって」
 まだ試合が始まる前の球場は人もまばらで、ちょっとしたイベントなんかも行われていて和やかなムードだ。
 一列目の席は選手との距離も近い。
 見下ろす御幸はいつものようににこにことだらしなく顔が緩んでいて、いつにも増して子供っぽく見える。
 俺はちゃんとMIYUKIユニフォームを着てロゴ入りタオルも持って、でかでかと顔写真付きのうちわまで持って、恥ずかしいほどに完全なる御幸仕様だ。ちなみに応援歌も振り付けもばっちりだ。
 あ、あとで御幸の選手弁当も買ってやろう。嫌々ながらもお前のりのりじゃん、とお兄さんに突っ込まれたのは内緒だ。
「そういえばお前、誰誘って来た……の……」
 へら〜と笑っていた御幸がふと俺の隣に顔を巡らせて、笑ったままギクリと体を硬直させた。
 ぶわっと汗までかいて時を止めた。
「みゆき〜」
 ひらひらとお兄さんが手を振る。ちなみにサイン入り帽子はお貸ししているので、お兄さんが被っている。
「全打席ホームラン期待してるよ〜」
「……っ」
 御幸は一気に顔を引きつらせると、ははは、と空笑いしながらぎくしゃく頭を下げた。なんだろう、久しぶりの再会でびっくりしたのかな。
 金丸か倉持先輩あたりを誘ってくると思っていたのか、御幸はちらちらとお兄さんを見ては挙動不審だ。
「わざわざ時間割いて来てやったんだから、しっかり仕事してよね」
「がっ…頑張ります…………」
「ホームランホームラン、みゆっきーぃ」
「へー、お兄さん歌えるんすか?」
「まあこれくらいはね」
「じゃあ俺も! ホームランホームラン、みゆっきー! わはは、楽しい!」
 球場の空気に早くもあてられてわくわく目を輝かせる俺に、御幸は微笑ましそうだがすぐにころりと顔を引きつらせて両手でばしんと自分の頬を叩いた。 さっき俺が自分でしたみたいに、そういえば恋人同士は似てくるというが、ほんとだなあとその姿を見ながらこっそり笑ってしまった。
 俺と御幸は高校時代からバッテリーを組んでいたからすっかり息も合っている。お前どんどん御幸に似てきたな…とそう言えば倉持先輩にも言われたことがあったっけ。
 気合を入れて背中を向けた御幸は、心なしか肩を下げて頭を掻いて、バツが悪そうにも見える。
「んふふ。驚いてた驚いてた」
 お兄さんはころころと笑いながらとても愉快そうだ。
「そういえば、春っちは元気っすか?」
「お前、俺に会うといつもそれだね。たまには自分から連絡してやんなよ」
「してますよ、ちゃんと!」
「降谷には?」
「この前二軍の試合でボコボコにされたって連絡きたんで、喝入れときました」
「御幸とはリーグが違うから、直接対決が見られないのが残念だよねー」
 ぺらぺらとお喋りをしている間に試合の時間がやってきたらしい。相手チームが先攻だ、キャッチボールを始めた姿を眺める。
 御幸は今日もマスクを付けてミットを構える。
 その広く大きな背中はどっしりとホームを守る、頼りになる背中だ。
 よーく、知っている。何度あの背中に助けられたことか。頼もしく見つめたことか。
 憧れのような、夢見るような目で見つめ続けていると、俺の顔を覗き込んだお兄さんが笑った。
「お前のその顔さぁ」
「……はあ」
「ほんと、恋してますって言ってるみたいだよね」
 え、と目を丸くする。俺ずっとそんな顔してたんだろうか、それともお兄さんの冗談だろうか。
「俺みたいなのに付け込まれないよう、用心しときな?」
 含み笑いで囁いたお兄さんの声は、球場の歓声に掻き消され、楽し気にころころと舞い上がっていった。





0.『その者、ご用心につき。』



 藁にも縋る思いとは、きっと、こういうことを言うのだろう。

「御幸って沢村のこと好きなんだろ?」
 クリス先輩達三年生が卒業をすぐそこに控えたまだ肌寒い春先のこと、職員室からの帰りにばったり出くわした亮さんが、挨拶するよりも先にさらりと口にした。
 反応が遅れた。
 しまったと思ったが、完全に不意打ちだった。
「は…?」
「あ、久しぶり〜」
「………お……お久しぶりです……」
「御幸って沢村が好きなんだろ?」
 ガッ! と自分よりもだいぶ小柄な亮さんの腕を掴み上げると、無礼を承知でずるずる柱の陰に引きずり込む。
 後からどんな報復があろうとも、こんな誰が聞いてるかも分からない職員室のど真ん前で話されるよりはましだ。俺の顔は必死だったはず。
「ちょっと何すんだよ、お前に壁ドンされる趣味はないんだけど」
「壁ドン? 壁ドンってなんですか、ってそれよりさっきの」
「え? お前知らないの? 世界的大ブームの壁ドンを? 沢村がよく読んでる少女漫画でも息をするのと同じくらいの鉄板だよ? 沢村もうっとりしながら壁ドンされてみたーい誰かしてくんねーかなーとか言ってるだろ、えー、御幸知らないの?」
「………そ、そう……なんですか……?」
 それは知らなかった。沢村もされてみたいって、マジか。そわりと反応する俺を見上げて、亮さんは実に爽やかな笑顔で頷いた。
「うん。今度してあげな? お前の株もグーンと上がっちゃうよ、そのまま御幸センパイかっこいい〜って好きになっちゃうかもね」
「…………」
 すげぇな壁ドン。しっかり心に刻みながら、いや違うまて、それどころじゃない、と気を取り直す。狙ったわけじゃないけど勝手に低い声が出た。
「……あの、ところでさっきのは、どういう」
「あー、あれね。お前片思い拗らせてるだろ? まあ相手は沢村だし仕方ないけどさ。てゆうか沢村を選ぶあたり、とことん野球バカな奴だねぇ、お前も」
「…………」
「安心しなよ、俺の他には誰も気付いてないから。多分」
 一番知られてはいけない人に知られてしまった。
 なんでだ。人知れずひっそりと持ち続けていた思いを、なんで知られてしまったのか。
 ふらりと意識を失いかけそうな俺を気の毒そうに見上げた亮さんは、実に気遣わしげな顔で、優しささえ滲ませている。それほど今の俺は可哀想な存在に見えたのだろうか。
「知ってると思うけど、沢村もお前に負けず劣らずの超野球バカで、加えてあれだ。色恋沙汰にはこれっぽっちも気付かないだろうね。つまりお前の気持ちに気付くことは、未来永劫有り得ないってことだ」
 分かってはいたが、ズバズバ指摘されると結構傷付く。
 俺も大概野球バカだが、そんな俺と同じくらい野球を愛している天然バカに心をごっそりと持っていかれてしまったと自覚した時から覚悟はしていたが、未来永劫有り得ない、と言われるとさすがに気が遠くなりそう。
「……い、いや、ちょっと何を言っているのか…お、俺は別に沢村のことをそんな目で見てるわけでは、決して」
「そんな挙動不審ですっげぇ汗かいて否定しても意味ないから。御幸はさ、それでいいの?」
「いいも何も、俺は」
 最初からどうにかなりたいと、どうにかしたいと思っているわけじゃないのだ。
 自分の中にぽっかりと生まれた気持ちに名前が付いて、勝手に育って、胸の奥の奥にひっそりと残ったまま、ただ捨てることもできずにいるだけだ。
 例えばこの気持ちを沢村に向けたとしても動揺させるだけで、なんの結果も得られない。信頼してくれているあいつを、悪戯に掻き乱すだけだ。
「じゃあ、沢村に彼女ができてもいいんだ? 指くわえて見てるだけなんだ?」
 ぐっと言葉に詰まる。嫌だ。それは嫌だ。
 理性ではどうしようもない部分が一斉に反発する。嫌だ。誰かのものになんて、したくない。
「相手が男でも?」
「は? 男…?」
「沢村の相手が女だとは限らないじゃない? もしかしたらこの先男と付き合うことあるかもしれない。それでもお前は指をくわえて…」
「っ冗談じゃない! 男なんかに触らせませんよ!」
 なんだそれ、冗談じゃねぇ。
 女なら仕方ないで諦めがつくことでも、男相手にそれはない。大事に大事にしてきたんだ、傷付かないよう傷付けないよう、汚してしまわないように。
 それを横から掻っ攫われたんじゃたまったものじゃない、それなら俺のものにする。
 はっと我に返る。やべぇ、だからここ、人目につく場所なんだって。迂闊なこと言って誰かに聞かれでもしたら、それこそ最悪だ。
 つい激昂してしまった自分の堪え性のなさが気まずい。どんより沈黙する俺を、亮さんの右手が締め上げた。正確には俺のネクタイを掴んで引き寄せながら、まるで悪魔みたいに優しげに囁く。
「ようやく本音出したね。そんなお前にはこれをやろう」
「な、なに…」
「恋のハウツー本。沢村対策。欲しいだろ?」
 すちゃり、と取り出されたのは明らかに、どう見ても、手作り感満載のそれだった。コピー用紙を折り曲げてホッチキスで止めただけの、味もそっけもないものだった。
 眼前に突き付けられて黙り込む。
 沢村対策のハウツー本って、なに。
「お前達二人のことをよーく知る俺からのアドバイスだよ。これ見てしっかり勉強実行しな?」
「…………」
 胡散臭さマックスのそれを無条件で押し付けられて、これは揶揄われてるんじゃないかとようやく気付いた。
 忘れたのか俺。相手は亮さんだ。
「まあまあ、俺に任せておけばだぁいじょうぶだって。とりあえず、さっさと告っておいで」
「ちょ、アドバイスも何もないじゃないっすか! いきなりそんなことして動揺させんのが一番嫌なんですよ、今後の投球に影響でも出たら…!」
「気の長い話だねぇ。まあいーけど。それなら沢村の引退まで待って実行しなよ。その間これ、ちゃんと頭に入れておいてよ?」
 恋のハウツー本。
 野球ハウツーなら腐るほど読んできたし、今まで読んだものは全て頭に入っている。
「沢村を取られたくないだろ?」
 天使のような声で、悪魔の囁きがした。
 答えなんて一択だ。誰にもやりたくない。
 葛藤の末、項垂れて頷く以外なかった。
 亮さんの元々細い目が楽しそうにきゅうと細まったのを、項垂れてしまった俺が気付くわけもなかったけど。
「じゃあ始めようか。俺とお前で沢村攻略といこう」
「……マジでやるんですか」
「往生際が悪いねぇ。やらずに後悔するくらいなら思い切りやって後悔する方がいいだろ? 俺だってそうだよ」
 だってそっちの方が楽しいから、とのちに続く言葉だが、その時の俺はのろのろと言葉巧みに頷かされた。確かにその通りだと思ったのだ。
 やらなかった後悔と全て出し切った後悔とでは、意味が違ってくる。
「じゃあ手始めに。沢村が引退したら会いにきてストレートかつ大胆に告んなよ。花束持ってスーツ着て膝をついて、笑顔だともっといいね」
「いや、はは。それはちょっと…」
「ん? お前俺の言うこと信用できないの?」
「………か、考えておきます……」
「よろしい。んで、押した後にはしっかりと引く。これ恋愛の鉄則ね」
「…………はあ」
「あーすっげぇおもしろ…楽しみだねぇ」
 恋は人を変えるというが、普段張り巡らせている警戒心を解かれた時点で、俺はもう普通ではなかったのだろう。
 さあ、後戻りはできないよ。
 優しく甘く、亮さんが囁く。

『好きなんだろ? 沢村を誰にもやりたくないだろ?』
『男に持ってかれるかもしれないよ』
『御幸はやらずに後悔するタイプ?』
『沢村が欲しいだろ?』

 ――欲しい。
 俺は沢村が、欲しい。

 悪魔ってのは、一見天使の顔をしているもんだ。
 誰の言葉だっただろう。
 倉持だったかな。






    『その恋に、ご用心』




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