椿時雨


キバナの彼女


げっと、思った。前方から歩いてくる、見知った男。引き返そうか逡巡する間に、向こうもこっちに気がついたらしい。わたしの姿を認めるや否や、怖い顔をしてこっちにやってきた。反射的に踵を返すと名前を呼ばれた。でも、無視。とにかく逃げようと足を前に出した瞬間、がしりと腕を掴まれた。

「どうしたんだ」
「なにが?」
「なんで泣いているんだ?」
「泣いてないよ」
「泣いてるだろ」
「泣いてないって」

引っ張られた腕が痛い。じんじんと掴まれたところが熱を持っている。かさ、と持っていた紙袋が音を立てた。ダンデがそっちを見る。急いで後ろに下げるけど、それがナックルにしかないお店のものだということはわかってしまったようだった。

「何か言われたのか」

誰に、とは言わない。そんなの1人しかいない。

「なにもないってば」

顔を見せない様に俯く。手を離してくれないダンデ。恥ずかしい。こんなところ見られたくなかった。
虫の声だけが夜道に響いている。何も話す気の無い私に、ダンデが口を開く気配がした。…お説教か、やだな。こういう時、ダンデに見つかるといつもそうだ。早く帰って、お酒でも飲んで、忘れたいのに。

「無理するな」

どきりと胸が跳ねて、息を飲む。予想外の言葉に、無理なんかしてないよ、とは言えなかった。

「悔しいとか、悲しいとか、そういう気持ちを無理に殺すことはない。それって素直な反応だろう?押し殺して苦しくなるなら吐き出した方がいい。俺はそう思うぜ」

なんで、わかるんだろう。ぱちりと瞬きして、目から押し出された涙が落ちる。
わかって、いる。理解してる。トップジムリーダー、それも幾つものスポンサーを背負っているとくれば忙しいことは百も承知だ。会いたい、とか、もっと一緒にいたい、とか、そんな我が儘を言ったことはない。今日だってそうだ。別の異性と2人で食事。スポンサーの娘がファンで、どうしてもって言われて断れなかったって。ごめんなって何度も言われた。だったらわたしもいいよ大丈夫って言うしかない。

「今日、誕生日だろ」

思わず顔を上げてしまった。ダンデは優しい顔でこっちを見つめている。

「伝えてやればいいのに。一緒にいたいって」
「…邪魔、したくない。仕事頑張ってる…から」

言いながらまた勝手に涙が出てきた。止まってくれない。
温厚な性格で努力家の彼だから、惹かれる人はたくさんいた。付き合っていることはごく一部の人しか知らない。だからちょっと女の人と歩いていればよく熱愛発覚なんてネットニュースになったりした。信じてなんかいない。だけど不安にはなった。いつか、愛想を尽かされるかもって。そうしてますますなにも言えなくなっていく。

「俺だったら恋人にこんな顔させないぜ」

涙を親指でくいっと拭って、そのまま頬に手が添えられる。不躾に見つめてくる瞳と視線が交わった。暗い夜道で、どうしてだかダンデの金色の瞳はきらきらと輝いている。太陽みたい。私が好きなあの人は、真っ青な空みたい。
ぐい、と目元を拭う。涙で月が滲んでいる。あーあ、ダンデを好きになればよかったとやけくそに言えば彼は笑った。

「乗り換えるか?」
「そうできたらいいのに」
「じゃあまずしっかり話し合わないとな」
「…うん」

ブル、とスマホが震えた。
待ち望んだ人のものだ。
渡されたのは、ナックルの名物のお菓子。並ばないと買えない人気店のもの。

「いいの?」
「仲直りに食べてくれ。甘いもの好きだろう」
「…ありがとう」


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