はじめの一歩が踏み出せないまま

 彼のことが好きだった。どうしようもないくらい好きで、いつだって恋しいと心が叫んでいる。でも思いとは裏腹に言動は空回って、くちびるで紡いでみた「好き」はゆるりと空気に解ける。どうしようもないくらい、この気持ちは届けられない。
 なまえの視界には快斗と青子と二人がいて、なんだか騒がしく言い合いをしている。からかいつつ怒った表情をつくってみせているが、楽しそうだった。別に、なまえは青子に嫉妬しているわけではない。二人がお互いをただの幼馴染としてしか思っていないことくらい、恋愛対象として見ていないことくらい、彼女は知っていた。
 それでも切なさを覚える心は止められない。あの二人の輪の中に入りたいと思ってしまう。なまえも彼らの幼馴染だったら気にせずに話しかけられたかもしれない。もしこんなことを二人に冗談めかして言ってみれば、そんなバカなこと気にしないでと笑うのだろうとなまえは想像した。なまえは机に頬杖をついて顔を伏せ、ばかだなと自嘲した。だって、快斗のことを好きなのはずっと前から心の奥でちゃんと知っていたはずなのに。いままでなら何も気にせずに二人の輪に入れた。
「もしかして、快斗のこと好きだったりして!」
 ふざけながら楽しそうに笑う青子の声が、頭から離れない。彼の幼なじみから他意なく告げられた言葉は思いのほかなまえの心に刺さった。彼女が彼の幼なじみだからなのだろうか。つい昨日のことのはずが、長年言われ続けてきたことのように降り積もっていってなまえを動けなくさせる。きっと、いまさらになって自分がどれだけ快斗のことを好きなのかをちゃんと見つめてしまったからだ。
 見るともなしに黒板を眺めていれば、いつの間にか青子との会話を切り上げた快斗がなまえの机に向かってきた。体調が悪いのかと問いかけてくる彼に、なまえは綺麗に笑えただろうか。気にかけてくれたことをうれしいと思うのに一歩踏み出せない自分がもどかしい。
 どうして、こういうときに気づいてくれるのだろう。好きすぎてどうにかなってしまいそうだ。どうしようもないくらい、好きだった。しかし空回ってばかりのなまえの気持ちはどうしようもなく彼まで辿り着かない。彼といつも通りに過ごせたら、彼ともっと関係を進められたら。そんなことばかりが頭の中で浮かんでは消えた。




「大丈夫だよ?」
「大丈夫じゃないだろ」
 なまえの席までやってきた快斗に体調が悪いのかと聞かれ、特段不調を感じていないために問題ない旨返答したが、快斗は納得できないといった表情を隠さず小さく嘆息した。彼の手が彼女に伸ばされ腕に触れる。痛くはないが有無を言わせないような力で机越しに腕をぐいっと引かれてなまえが思わず立てば、保健室、と一言快斗が呟いた。
「え、でも」
「先生には青子が伝えとくから、行くぞ」
 そのまま半ば引きずられるように教室の扉まで腕を拘束されて来た。これでは具合が悪いかどうか訊いた意味がないのではないかと思いながらも、ほとんど反論なんてさせてくれないのに、腕も離さないままなのに、歩調はなまえに合わせてくれる彼に気づいてしまった彼女は余計になにも言えなくなった。
 なまえは快斗のやさしさに気づいてしまうのが嫌だった。快斗はなまえが彼の心配りに気づいたことを察して困ったような柔らかいような表情で笑うのだ。彼女はそれがたまらなく嫌だった。しかし、彼から向けられる厚意は心地よく、やさしくされるとうれしくなってしまう。
「わけわかんない……」
「どうかしたか?」
 思わず小さく漏らしてしまったなまえの声に快斗が問いかけたが、彼女は口角を上げてみせて「なんでもない」と答えた。
「なまえ、なにかあったのか?」
「ううん。そういうわけじゃないし、体調も別に平気だよ?」
「嘘つけ、顔色悪い」
 午後の授業が開始された時間帯の廊下は扉が閉めきられたことによって教室のざわめきから隔絶され、温度が下がったような独特な空気に染まっている。普段よりも声を落して話しているなまえと快斗だったが、慣れない静けさが広がっていることが、彼ら自身の声が空間に妙に響いて聞こえるような心地にさせる。
「うーん、そうかな」
「自覚なしか」
 快斗は首を捻るなまえに苦笑する。彼女はそのなかに柔らかな色を見つけ、その心臓がどきりと跳ねるのを自覚した。
「まぁ念のためってことで熱測って仮眠とろうぜ」
「ほんと、大丈夫なのにっ、あっ……!」
「おっと、大丈夫か?」
 気を抜いていたら階段に差しかかっていた。ぐらりと体が傾いたと思えば、先ほど席を立ったときよりもずっと強い力で快斗の手がなまえの左手首と右肩を支え、崩れた体勢を立て直す。落ちそうになったのとその距離の近さになまえの心臓はどきどきとうるさく音を立てる。
「……ったく、気をるけろよ?」
 そう言った快斗の表情は心配そうで、そのやさしさをまっすぐに受け止めてしまったなまえは思わず彼から目を逸らした。
「うん、ごめん。ありがと」
 まだ彼女の左手首は快斗に掴まれたままだった。快斗は何も言わず階段を下っていく。彼のその行動になまえはなにかを言おうと口を開きかけるも、適切な言葉が見つからず驚きと困惑は小さな吐息に変わった。そして一拍遅れて胸にじんわりと温かなものが広がる。彼に触れられていることがうれしくて、なまえはわずかに体を左へ寄せた。
 速くなっていく鼓動とは反対に頭は妙にぼんやりとしている。なまえは心拍数とともに体温が上がるのを自覚した。頬が、耳が、熱かった。こんな風にやさしくされるとうれしさに心臓が跳ねて、もっと好きになってしまうというあきらめに似た甘い痛みと焦燥が胸を打つ。
 失礼しますと形ばかり口にしてノックとともに保健室に足を踏み入れれば、室内は無人だった。快斗はなまえを合成皮革のソファーに座らせて体調不良者一覧の名簿になまえの名前を書き込んだ。その手入れされたきれいな手を見て、なまえは思わず両手を重ねて強く握った。ほんの少し前までつながれていた手。そして先ほどから続く沈黙に、以前であればそうと感じなかった緊張を覚えてしまい痛いくらい心臓がばくばく音を立てている。
「ほら、熱測って」
 快斗の促す声になまえは頷いて間延びした生返事をした。地面を見たままの視界に快斗の手と体温計が映り込む。
「なまえ?」
 訝しげな快斗の声になまえははっと顔を上げ、なぜ名前を呼ばれたのだろうと首を傾げれば、快斗はわざとらしく呆れたようにため息をついてから手、と言った。
「え? あっ……ごめん」
 快斗が差し出している体温計をぼんやり眺めてしまっていた。なまえは慌ててそれを受け取って謝罪をするも、快斗は心配そうに眉を下げる。
「やっぱり熱あるだろ、ぼーっとしてるし」
「や、でも微熱だよ……」
 少し体温が高いくらいじゃ熱とは言わないでしょ、と言い訳をしてみせれば、快斗は強情だもんなぁと笑い、普段、トランプや花を起用に扱う手を持ち上げ、なまえの前髪を梳いてから額に当てた。
「か、快斗?」
「んー、やっぱり熱あるな、熱い」
冷たいと感じた快斗のてのひらの体温が徐々になまえのものとなじんでいく。それでも少し温度の低い手が心地よくてどくりどくりと心臓が強く脈打った。
「取り敢えず一応熱測って、それからだな」
「うん」
 そっと額から離された手は、なまえの前髪をするりと撫でてから遠ざかっていく。なんとなく名残惜しくてその手を視線で追ってしまうのを出来るだけ抑えて、体温計を受け取った。「三十七度五分」ソファーに座るなまえに立ったまま向き合った快斗は難しい顔をして呟いた。
「微妙なとこだなー、保健医もいないし」
「うん……ねぇ、快斗、教室戻んなくていいの?」
「オレはいいの。それより寝とけって」
 ほら、と手招きされてベッドのカーテンを開いた快斗を慌てて追いかける。ベッドに横になってタオルケットを口元まで引き上げ快斗を窺う。彼は当然というように手近なパイプ椅子を引き寄せてベッド横に陣取っており立ち去る様子はない。
「快斗、サボり?」
「見張り」
 少しの間だけ傍にいてくれるらしい快斗にからかい調子で問えば、快斗もふざけ返す。ふたりの間に静けさが訪れた。空気が緩み、肩の力が抜けるような安心感を覚える沈黙だ。
「なまえ」
しかしそれは僅かな間だけだった。快斗の穏やかな声がなまえの耳朶を打つ。
「なぁに、快斗」耳によくなじむその声に、なまえは徐々に重くなってきた瞼を閉じる。
「おつかれ」
「なにが?」
 聞き返したつもりの言葉は音にならず、緩慢な動きもままならない口の中でほどけていく。徐々に意識は眠りへと誘われる。慈しむような彼の声に心が満たされると同時に胸が痛むほどの切なさを覚える。こめかみを流れた冷たさに涙がこぼれていることを認識すれば、ふわりと空気が動いてだれかのてのひらが祈るような誠実さをもって瞼に触れた。遅れて快斗が身に纏うどこか落ち着く柔軟剤の香りが掠める。やがてなまえは意識を完全に手放した。

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