今朝は携帯のアラームで目覚めた。
 1限から4限まで空きコマがないように講義を入れているなまえは軽い朝食をとりながら昼食用の弁当を作り、身支度を整えて家を出た。
 なまえの自宅から帝丹大学まではそう遠くなく、交通機関も利用しやすいため通学には苦労が少ない。同じ路線を利用している高校や大学の友人に偶然会ったり乗っている時間が長いために本を読んだりする時間ができるので、なまえは通学時間は嫌いではなかった。
 今日もいつも通り余裕を持って家を出たなまえは講義が始まる1時間前に教室に到着した。さすがに1時間も前となると人は誰もおらず、落ち着いて本の続きを読むことができる。1限のこの講義は知っている限り一緒に聴講するような友人は誰も取っていないため、なまえは教員が来るまで気になっていた本の続きをできるところまで読み進めた。
 1限の講義は出席を取らず、レジュメをインターネット上にアップするというタイプのものだ。前期が始まって3回目ともなると、出席が取られないうえ講義に出ずともレジュメがもらえるため、やる気のない学生はいなくなる。そのため講義は程よい緊張と静粛が保たれ、滞りなく進んだ。
 1限の講義が終了したところでなまえが携帯を確認すると、高校時代からの友人で、学部こそ違うが同じ大学に通い現在も親しくしている中森青子からメッセージがきていた。コミュニケーションアプリのアイコンをタップし、トーク画面を開くと青子がキャンパス内にあるカフェにいるということが分かった。
 なまえと青子は2限で同じ講義を取っているはずなのだが、どういうことだろうかと内心首を傾げながら読み進めれば、その講義が休講になったらしい。なるほど、と納得したなまえはすぐカフェに向かう旨を送信し、さっそく青子の待つカフェに足を向けた。
 人混みを抜け、目的地であるカフェに到着する。昼食をとるにはまだ早いせいか比較的空いていた。広い店内を見渡せば、すぐに青子の姿が目に入る。
「青子」
 なまえがそっと近付いていき、華奢な背中に声をかければ、手持ち無沙汰に携帯をいじっていた青子はぱっとなまえを振り向いて笑顔を見せた。
「なまえ! おはよう!」
「おはよう。お待たせー」
 青子が携帯をテーブルの上に置いた。それに倣ってなまえも手に持っていた携帯を伏せ置く。そのとき、青子の目はなまえの爪に施された色を捉えた。派手すぎず、かといって華やかさを損なわない、そんな色合いがそこにはあった。綺麗だな、と思いつつ青子はなまえに声をかけた。
「なまえ、お昼どうする?」
「うーん……もう少ししたら食べようかな。青ちゃんは?」
「青子もそうするつもり。飲み物は頼むよね?」
「うん。買いに行こうか」
「そうだね」
 言いながら、二人は携帯と財布を手に席を立つ。なまえはアイスコーヒーを、青子は抹茶ラテをそれぞれ頼み、グラスに入れられたそれらを持ってテーブルへ戻った。
「青ちゃんは今日、お昼どうするの?」
「青子はお弁当持ってきたよ。なまえは?」
「私もお弁当だよ」
 このカフェは広く、カフェで売っているもの以外も持ち込んで食べることができるようになっているため、なまえや青子は弁当を持参してよく利用している。
「たまに学食とかここのパスタとか食べたくなっちゃうんだけど、毎日だとちょっと……ってならない?」
「分かる!」
「だよね! けど青子、今度新作のパスタ食べようって狙ってるんだ」
「おいしそうだよね、あれ」
 最近新しく入った限定メニューのサーモンのクリームパスタを思い浮かべ、なまえは、そういえば青子はクリームパスタが好きだったなと思った。
 青子は抹茶ラテに口を付けておいしそうに笑い、ふと思い出したようにコーヒーの入ったグラスをストローで意味なくかき混ぜているなまえの手元を見た。
「青子? どうしたの?」
「あ、ごめん。爪、綺麗だなーって思って」
「ありがとう。この色、派手に浮かなくて好きなの」
 なまえは小さく笑ってそっと爪をなでた。
「青子、ネイルって苦手なんだよねー……はみ出しちゃう」
「私もだよー。これもやってもらったし」
「え? お店?」
 驚いた顔で爪を見つめた青子に、なまえは吹き出しそうになるのをこらえながら首を振る。
「違うよー、快斗だよ」
「えっそうなの!? 快斗ってホント器用だなぁー……」
 驚きと感嘆が混じった声色でなまえの指先を観察する青子に向けて片手を差し出しながら、なまえはコーヒーを一口すすった。
「快斗って青子ちゃんの彼氏?」
 唐突に、そんな声が割って入ってきた。なまえが知らない人だった。少し低く、落ち着いた声の持ち主の彼女は、長く伸ばした前髪を編み込み、髪をサイドですっきりまとめており、かわいい顔立ちをしている。青子の友人らしかった。
「あ。ノンちゃん。おはよう! あと、快斗は青子の幼なじみ」
「そうなの?」
 ぱちりと目をしばたかせた彼女は、次の瞬間にははっとしてなまえの方を向いた。
「あ、はじめまして。ノンちゃんです。よろしくね! 青子ちゃんと同じく経済学部です。学科は違うけど」
 彼女の茶目っ気に溢れた自己紹介に、なまえは思わず笑顔を浮かべながら自己紹介をし返す。
「私はみょうじなまえです。法学部だけど、青子とは高校からの友達です。こちらこそよろしくね」
「ノンちゃん、快斗はなまえの彼氏だよ!」
 名乗り終えた二人に向かい、青子がそう言った。
「あっ、そうだったの? 青子ちゃんの幼なじみでなまえちゃんの彼氏の快斗くん……? は、同じ高校なの?」
「うん。青子たち、三年間ずっと同じクラスだったんだよ」
「へー、すごいね! で、大学は?」
「快斗は東都だよ。けど単位互換制度ので帝丹の科目も何個か履修してるよ。ね、なまえ」
「うん。快斗も法学部だし興味のある分野が似てるから、一緒に取ってるの」
 そうなんだ、とうなずいて話を聞く彼女は羨ましそうな顔で口を開く。
「なんかそういうの、すごくいいね」
「そうかな……? ありがとう」
 軽い雪が降り積もるように、何かがなまえの心を静かに、そしてゆっくりと埋めていくようだった。悲しさに似ているはずのその感情は、決して悲しみではなく、ただ不思議な静けさをまとっていた。
「この爪も、快斗がやったんだって」
「そうなの。私、自分でやるとはみ出しちゃったりするから、いつもやってもらってたの」
「いい彼氏だね」
 にっこりと笑った彼女はそう言ってから、そろそろ行くねと去っていった。
「ノンちゃんって、かわいい子だね」
「うん。1年のとき、英語のクラスが一緒だったの」
 青子は一度そこで言葉を区切り、そういえば、と切り出した。
「快斗、元気? 時間全然合わなくて、最近見かけないんだよね」
「うん、元気だよ。……あ、そうだ。青ちゃんも一緒に企業経営の講義受けない?」
「企業経営?」
「そうなの。一応法系の科目なんだけど経済っぽいこともやるし、快斗も取ってるし、どう?」
 帝丹大学では東都大学など、近くのいくつかの大学と提携し、いくつかの講義が自由に履修でき、履修できるものは他大学の科目も単位として換算する単位互換制度を取っている。
 なまえは帝丹大学で開かれる企業経営という講義を履修しており、この講義は単位互換制度の科目のため東都大学に通っている黒羽快斗も取っているのだ。
「企業経営か……楽しそうかも。けど、青子も受けられるの?」
「うん。学部の縛りはないから大丈夫だよ。ちなみに明日の3限」
「空いてる! 受けたい! まだ登録期間だよね?」
「うん、確か今週中くらいじゃなかったかな? 大丈夫だと思うよ」
「じゃあ帰ったら登録する!」
 うれしそうに笑う青子になまえも笑顔を返しながら、三人で講義を受けるのは高校以来になるのだということに改めて思い至りはっとした。なまえが高校時代の友人でつながりがあるのは青子や快斗を除くと、そう多くはない。
 青子と同じ大学でよかったと思いながら、なまえは頬に垂れた髪を耳にかけ、ストローに口を付けた。

あなたの笑顔が好きよ