低気圧が続いているからか、なまえは朝起きたときから体が重く、頭は鈍い痛みを訴えていた。なまえは使う資料やファイルの中身などを確認しながら眠気を振り払うように深呼吸をした。それから携帯のロック画面を人さし指でスワイプして開き、時間割を確認した。2限と4限と5限。ひとつずつ講義に必要なものを確かめてから携帯を鞄に滑り込ませた。
 大学に到着し、まっすぐに教室に向かったなまえは適当な席を見つけて座り、鞄から5限のゼミで使う分厚い資料を取り出して目を通す。その分量に気が滅入りそうだった。しばらくして教員が到着し、レジュメが配布される。それを受け取ってざっと読み流しながら、なまえはため息をつきたくなるのをこらえて講義を始めた教授の方へ意識を向けた。
 2限の講義が終わったところでそのまま教室で昼食を済ませ、残りの昼休み時間と3限の空きコマは大学の図書館へ行って時間をつぶし4限を迎えた。なまえは4限の講義も普段通りこなし、疲れた体を引きずるようにゼミの教室に向かう。
 教室に入ればすでに同学年の2人が着席しており、挨拶を交わし合ってからなまえがいつもの席に着けばさっそく今回の議題についての話を振られた。
「なまえちゃんー、今日の内容重くない? 資料多いしかさばるし」
「そうだよね。読み込むの大変だった」
 なまえがうなずいて同意すれば、ポニーテールでさっぱりと髪をまとめた彼女は思い出したようにそういえば、と例の資料を鞄から引っ張り出して広げ始めた。
「ちょっと分かんないところがあってさー」
 言いながら、なまえともうひとりがその手元を覗き込むと、丸い爪が本文を指さした。三人で議論を重ねていると、ひとつ上の学年で分からないところがあると言い出した彼女と同じ班の人が教室に入ってきた。
「先輩、質問いいですか?」
 もうひとりがすかさず声をかける。緩いパーマをかけた先輩がなあに、と言って資料を覗き込む。4人で話し合っていれば、その間に続々と他のゼミのメンバーも到着し話し合いの輪に加わってくる。疑問を出したり意見を言い合ったりしているうちに、いつの間にかゼミの担当教員を含む全員がそろっており、ちょうど5限の始まる合図の鐘が鳴った。担当教員である竹林の声でそれぞれ着席し、ゼミが始まった。
 竹林先生と学生に呼ばれているこの教授がなまえの属するゼミの担当だが、竹林はそのゆったりとした話し方や物腰の柔らかさとは裏腹に、ゼミの内容はなかなか難しいうえ丹念な資料の読み込みなどを要求する。この竹林ゼミには18人が入っており、縦割りで3班に編成されて毎週ひとつの班が報告をし、それについてディベートするのが主な内容だ。
 なまえの属する3班は今回の報告の担当だった。班の中で決めた分担箇所のレジュメを、隣に座っている先輩が補足を付けながら読み上げていく。なまえはその声を聞きながら内心で重いため息をついた。ゼミ自体は嫌いじゃない。けれど資料を読み込み、要約をし、レジュメを作成しなければならないということがかなりなまえのストレスになっていた。
「……概要は以上です」
 先輩がそう締めてから、なまえの方をちらりと見た。なまえは小さくうなずいてそのあとを引き継ぐ。
「次に、1章の要点についての説明に入ります」
 用意してきたメモを読み上げながらなまえはそっと片手を側頭部に添える。頭の芯から鈍く痛みが訴えかけているようだった。なまえは自分の担当分を終え、次の班員に目で合図を送る。そうして6人全員がレジュメの説明をして40分ほどの報告が終わった。竹林の言葉でディベートに移行し、他の班からの質問や疑問点に報告を担当した3班が答えていくという形になる。
 議題について竹林が白熱した結果、ゼミは1時間以上の延長を経て解散となった。次週に報告を担当する班の進行具合を聞いている竹林を横目に、なまえは同じ班の同学年のひとりと並んで教室を出る。フレームの細いメガネをかけ、セミロングの髪を後ろでひとつにまとめた彼女とはこのゼミで知り合った。共通の友人などはいないため、自然と話題はゼミや講義へと集中する。すでに暗くなった空の下、二人で話しながら駅方面に向かい、路線が違う彼女とは改札前で手を振り合って別れた。
 階段を上ってホームにできた列の後ろに並び、1分ほど待てばなまえの自宅の方面の電車が到着するという聞き慣れたアナウンスが流れる。なまえは速度を落としてホームに滑り込んできた電車に乗り込み、乗客をたくさん飲み込んでから動き出したそのドアに背中を預けてこらえるように目を閉じた。

         *

 なまえが家へ帰宅したのは21時ごろだった。疲れ切って少しふらつきそうになる体をまっすぐに正し、なまえは自室に荷物を置いてすぐに風呂へ入りに行った。テキパキと入浴と肌の手入れを済ませ、髪も乾かし終えてからリビングに立ち寄って水分補給をする。のどは渇いていたいたが、不思議と食欲は湧いてこなかった。
 自室へと戻り明日の用意まで終えたなまえはベッドに腰かけ、ふと自分の爪に目をやった。薄く色付いている指先は淡くしっとりと存在を示している。それを見つめていたなまえは不意に立ち上がり、机の上に手を伸ばした。なまえの指が捉えたのは粘度のある透明な液体の入った小瓶だった。
 この桜色に染まった爪をできるだけ長く美しく保ちたいと思ったのだ。なまえは慎重な手付きでトップコートの小瓶のはけを持ち、右手の親指から慎重に塗っていく。右手をすべて終え、はけを逆の手に持ち替えて左手の指先を透明なトップコートで薄く塗りつぶす。すべての爪に透明なコーティングを施したところで、ふっと息を吹きかけて乾かした。
 はけの付いたキャップを締め、携帯をいじりながら完全に乾燥するのを待つ。そのとき突然、携帯が震えた。なまえはびくっとして携帯を握りしめ、慌ててメッセージが届いたアプリを開く。快斗からだろうか、と考えながら一番上のトーク画面を開けば、予想と反してゼミのメンバーから班全員に宛てたメッセージだった。
 指先で画面をタップし、次のゼミの予定についての意見を簡潔にまとめて送信する。なまえは電源ボタンを押して携帯のバックライトを消すと小さくため息をついた。
なまえは思考を切り替えるように、そろそろ乾いただろうかと両手に目をやる。そっと爪の表面をなぞってみれば、どうやら乾燥しているようで、つるつるとした感触が指に伝わる。なまえがほっとしたところで、それは突然視界に飛び込んできた。
「あ……」
 左手の中指の爪に、小さく細い線のような傷が付いていた。それはしかし、美しく完璧に覆われた中ではとても目立っていた。なまえはまた失敗してしまったと思った。じわりと滲んだ視界を振り払うように立ち上がり、机の引き出しにしまっていた除光液とコットンを手にする。
 せっかく他の爪は綺麗なのに、すべて落としてしまうのはもったいない気がした。けれど、この指だけ傷が付いているのはひどく目立ってしまう。落としてしまえ、となまえはコットンに液体を染み込ませる。
 まず左手の中指から桜色をはぎ取った。次になまえは小指の色を落とそうとした。そのとき、なまえの脳裏に、快斗がなまえの手を優しくとって丁寧に桜色を施してくれたときのことがよみがえった。できない。なまえの目から涙が落ちた。すべての色を落とそうとしたが、中指以外はできなかった。思い切って切り捨てられるほど浅くはないのだ。なまえを責めるように左手の中指だけがまっさらだった。

水曜日の憂鬱