日曜日の午前、黒羽快斗はみょうじなまえの家に来ていた。その日もいつも通りにそれぞれが好きな本や雑誌を読み、ビスケットを齧りながらときおり会話を交えて過ごしていた。
「快斗、今日は何時までいるの?」
「んー、3時くらいには出たいかな」
「了解ー。ねぇ、帰る前に爪、やってほしいんだけど……。いい?」
「いいよ。どうせなら今やるか?」
「うん」
 ベッドの側面に背中を預けていた快斗が立ち上がり、机の上の小瓶をひとつ手に取った。容器のやらでとろとろ揺れる液体をはけに付け、快斗はなまえの手を持ち上げた。テーブル越しに向かい合い、快斗は多すぎないよう、少なすぎないよう、器用に量を調節しながら爪に色を乗せていく。なまえは快斗の真剣なまなざしと、その視線が注がれる自身の爪を交互に見つめながら静かに待ち続ける。
「はい、完成」
 最後になまえの左手の小指の爪に桜色を施した快斗は、そう言ってマニキュアを元の位置に戻した。
「ありがとう」
 なまえは礼を言い、早く乾かすために手をひらひらと動かす。
もともとの手先の器用さなのか、マジシャンたるためにそれが磨かれた故か。快斗はなまえよりもずっとうまくマニキュアを塗れるし、ネイルアートもとても上手だった。
むらなく均一に、はみ出さず丁寧な動きで色を飾っていく快斗の手つきがなまえは好きだった。爪に息を吹きかけて乾かしながらなまえの視線はじっと桜色を捉える。厚みも、光沢も、すべてが美しい。快斗の手によって整えられた爪の形はその美しさを一層際立たせている。
「ほんとうに、きれい」
 ゆっくりと声を発し、なまえは爪越しに快斗を見る。
「別に、特別なことはなんもしてないけど」
「ううん。本当にすごい。綺麗。私、自分じゃ絶対できない」
 幸せそうに口元を綻ばせるなまえを、快斗は目を細めて見つめた。
「その色、なまえに似合ってるよな」
 それは紛れもなく快斗の本心だった。
 なまえは快斗の言葉にきょとんとした表情をしたが、その意味を理解した次の瞬間には破願した。

         *

 快斗と淹れ直した紅茶を飲みながら雑誌をめくっているとき、なまえはふと思い出したように顔を上げて隣を見た。
「そういえば快斗、このあと何あるの?」
「ああ、ちょっとな」
 触れてほしくない話題なのだと分かる微笑を浮かべた快斗に、なまえは気まずくならないような相槌を打ち、笑ってみせる。
 快斗がずっと何かを隠していることになまえは気付いていた。しかしそれはなまえを積極的に騙そうとするようなものではなかったし、傷付けるためのものでもなかったということを、なまえは知っていた。それがなんなのか、どういう類のものなのか、なまえは何も知らなかったが、快斗のことだけは知っていた。
 なまえが快斗について知っていることはたくさんある。たとえば、快斗はなまえのことをとても大切に思っているということ、それをなまえが知っているということも知っているだろう。また、なまえが同じように快斗を思っていることを、快斗は誰よりも理解している。
 快斗には世界で活躍するマジシャンになるという夢がある。それを夢だけで終わらせないような実力も。なまえにも見えないところで努力していることがいくつもあるのだろう。それも、なまえは知っていた。
「快斗」
「ん?」
 なまえが続けようとした言葉の先も、その真意も、快斗はなぜかなまえと視線が交わった瞬間に分かってしまった。
「別れようか」
「……………………そうだなぁ」
 快斗もまた、別れようか、となまえの言葉を繰り返した。
 なまえも快斗も互いの気持ちは分かっていた。大切な存在だった。今もとても好きだと思っている。
「私って、必要はないでしょ?」
 なまえは小さく笑ってそう言っておどけてみせた。なまえは確かに快斗に愛されていたし、その感情は代用で賄えるものではなかった。けれど、それでもなまえという恋人の存在は必要がなかったという事実は残ってしまう。原因を作ったのはなまえでも快斗でもない。ただそれはそこにあっただけだ。
「オレも、必要ではないんだよな」
 少しも違うことなくなまえの言葉の意味を汲み取った快斗は自嘲した。好きだった、けれど恋人として必要ではなかった。互いが心に余裕のない状態でその括りはむしろ、二人のつながりを危うくさせるものになり兼ねなかった。
 快斗にはどうしてもなまえに言えない事情がある。なまえには支えられていた。しかしそれは、快斗の中の大切な存在のひとりとしてのことだった。それはなまえにとっての快斗が、なまえを構成するひとりだということと同じだ。
「本当にね、快斗のこと、好きなんだけど。でもたぶん、私、今は心に余裕がないから。どうしても必要だっていうのじゃない限り、大変なのかなって」
 支離滅裂な話ではいけないとは思ったが、なまえにはこれ以上適切な言葉が見つけられなかった。
「オレも気持ちが変わったわけじゃないけど、余裕ないんだよな……」
 恋人としての互いは必要がなかった。「どうしても」という必要性がなかった。それは決して代用できるという意味ではなかったが、それでも唯一無二になれないという絶対的事実が残る。それは数年間付き合い続けている中ではじめて直視したことであり、また二人が常に心のどこかで感じていたことだった。
「快斗、もうすぐ3時だよ」
 なまえは話題を逸らすように時間を告げた。
「……あー、もうそんな時間か」
「そろそろ帰る?」
「そうする」
 素直にうなずいた快斗は鞄を持って立ち上がる。なまえは快斗を促すように部屋のドアを開け、玄関まで誘導した。
 扉を開け、玄関からでた快斗の背中をじっと見つめた。遠くからでも分かる、見慣れた立ち姿。プロのマジシャンになるという夢を掲げ、ひたむきに努力し続けるその姿を、なまえは誰よりも近くで応援してきた。
 なぜか、悲しみはまだ襲ってこなかった。いつものようになまえが見送って、快斗が手を振ってから笑顔を見せて去っていく。
 なんという感情なのか、なまえにはわからない何かが押し寄せてきて、それが唇からこぼれ出た。
「唯一無二になれないのって、寂しいことなのかもね」
 背中に投げかけられた言葉に、快斗は振り返り、小さく口元を微笑ませて返事をした。そうしていつも通りに帰っていく。
「そうだな」
 唯一無二がいいというわけではない。絶対的に必要ではなかったが、それでもなまえの存在は快斗にとって、快斗の存在はなまえにとって、他とは一線を画すものではあったのだ。
 なまえは自分の唇から発せられた言葉に目を伏せた。こんなに冷たく響かせるつもりなどなかったというのに。なまえは静かに扉を閉めて部屋に戻った。
 青子には告げられないだろう、となまえは思う。すれ違いでもなく、気持ちが離れたわけでもなく、いつでも会える距離にいる。それなのに離れることにしたなどと、恋人としての唯一無二を互いに感じられなかったなどと、なまえと快斗の大切で優しい友人に、どう言えるというのか。
 なまえは壁に背中を預け、膝を抱えて目を閉じる。真っ暗な瞼の裏に、快斗とのやり取りが何度もよみがえっていた。

色褪せない記憶を抱いて