珍しく今日は誰とも会わなかったな、となまえは帰りの電車内で座って目を閉じながらそんなことを思った。木曜日の時間割では、人と会うことがほとんどない。ときどき知った顔を教室内や移動中に見かけることはあるが、話しかけるような距離にいないため結局認識するだけで終わってしまう。そのため、なまえにとって木曜日は静かな1日だった。
 なまえは携帯を取り出して、今日予約を入れている美容室の場所を確認しようとメールの受信ボックスを開く。インターネットから予約したためメールで詳細が送られてくるのだが、予約したメニューや場所の確認がしやすくなまえは気に入っていた。
 今回の美容室は初めて行く場所で、青子も通っており評判がいい店があると紹介されたところだ。カットとともに、おすすめだと言われたトリートメントとヘッドスパの予約をしたためなまえは今日を楽しみにしていた。美容室の最寄り駅で降り、なまえは先ほど確認した美容室へ向けて歩き出した。

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 その店は青子が何年も気に入って通っていると言っていただけあって、技術はもちろん接客もとても満足のいくものだった。
「ありがとうございました、お気をつけてお帰りください」
 なまえを担当したスタイリストの声に会釈を返して店を出た。いつもよりも指通りのよくなった髪に触れながらなまえは駅へと向かう。そのときだった。なまえの目が駅前の通りの車道越しに、こちら側へ歩いてくる集団の中に見慣れた人影を捉える。
数人で固まって歩くその中、快斗はいた。
 綺麗な黒髪を背中まで垂らした知的そうな雰囲気が漂う美人、ショートカットと笑顔が印象的な女性、いかにもスポーツをしていますといったようなさわやかそうな男性に、背の高い理系男子然とした人。女性二人が前を歩き、快斗は男性二人の間にいる。ロングヘアーの女性とスポーツマンに見える男性に、なまえはどこか見覚えがあった。ゆったりと話しながら歩くその5人にさり気なく視線を向けながらなまえは記憶を辿る。
 確か、快斗と同じゼミに所属している同学年の人たちだ。以前、快斗に写真を見せてもらったことがある。快斗は同学年が自分を含めて5人しかいないため仲が良いのだと言っていた。その言葉通り、なまえから見てもその雰囲気のよさが伝わってくるようだった。なまえはひとり小さく笑んで、駅に向かって足を速めた。
 電車に乗り込み、ほどよく空いている車両のドアにもたれかかって目を閉じる。持ち歩いている本の続きを読む気になれず、なまえは心の中でため息をついた。自宅の最寄り駅で降り、無性に甘いものが食べたくなったため帰り道にあるコンビニでガトーショコラを買う。
 家に着いたところで、なまえは部屋に荷物を置くと真っ先に風呂に入った。湯船には浸からずシャワーのみで済ませ、軽く髪を乾かし終えてから夕食をとる。
 夕食を終え、ざっと水で流した皿を食洗器に入れてからなまえは熱いコーヒーを淹れてガトーショコラを食べた。コーヒーの香りとガトーショコラのほろ苦く甘い味にほっと息をつく。疲れがたまっているのか体が重かったが、それが少しだけよくなった気がした。
 なまえはガトーショコラを食べ終えると、一口だけ残ったコーヒーも飲み干してからそれらを片付け、自室に戻る。
 明日の準備などを終え、あと寝るだけになったなまえは部屋の照明を落として一番小さな明りにした。ベッドにもぐり込み目を閉じる。
 頭に浮かんだのはなまえの友人たちだ。今日、偶然見かけた快斗は楽しそうだった。
なまえには言いづらいことも彼らには話せるのかもしれない、と思った。言わないということはなまえの存在を大切に思う表れでもあり、しかしなまえがいてもいなくても何かをやり遂げるという意志でもあった。
 快斗にとってなまえは欠けていい存在ではない。しかし、恋人としてのなまえは必要ではなかった。
 これから先、なまえと快斗の歩んでいく道は全く別のものになるだろう。そして今はそれぞれの道を歩むため、必要なものを見つめ、考えなくてはならないことがたくさんある。そして、その見つめる先は分かれ道に差しかかる前の今も別々の方向だ。
 恋人という存在を、快斗という、なまえという存在を、二人の中で形骸化させてしまうくらいならそうなる前にやめてしまいたかった。互いがそう思っていた。
 大切で、尊敬しているからこそ、愛こそあれ惰性で関係を続けてしまうことはできなかった。
 今もなまえは快斗のことを思っていた。しかし、恋人という関係を断ち切ったあの日、なまえは快斗に冷たい言葉を放ってしまった。快斗はどう感じただろうか。同じように唯一無二になれない寂しさやもどかしさを感じながら、諦めていたのだろうか。それとも彼のことを傷付けてしまっただろうか。
 今もなまえはいつだって快斗の隣に立つことができる。それは二人にとっては友人としてであるが、周りにとっては恋人としてと映るだろう。
 快斗はいつまでなまえのことを好きでいるだろうか。なまえはいつまで快斗のことを好きでいるだろうか。
 そして何も告げられていない青子は、なまえと快斗の葛藤を知らずに二人の幸せを願ってくれるのだろう、と思った。
 ひどく身勝手だと思った。なまえも快斗も、青子のためだと言い繕い、彼女が真実を知ってしまったときに傷を受けるその深さに目をつぶる。本当のことを告げないよう、悟られないようにするのだからと言い聞かせる。
 しかし、本当にひとりよがりなのは青子に真実を知られてしまうことだとなまえも快斗も違わずに理解していた。一度告げないと決めたことを覆すわけにはいかない。大切なのだからと言うのならば、彼女が知らなければ彼女にとってはその事実がないことと同じなのだから、貫かなくてはいけない。
 じわりと焦げ付くような痛みがなまえの胸に広がった。今日見た快斗の楽しそうな笑顔と日曜日の去り際に見せた微笑が交錯する。今さらそれを苦く思うなんて、どうしてしまったのだろう。昨日、なまえを気遣ってくれた快斗は、いつも通りだったじゃないか。なまえを大切だという目で見てくれていたじゃないか。二人でいる間はどうやっても友人でしかないのは確かに苦しい。けれど、形だけの関係に固執してもたれかかる方がもっと息苦しくてつらいだろう。
 わかっている。わかってはいるのだ。
 なまえはそっと目を開けて顔の前に左手をかざした。その真ん中だけが冷たく感じるのはきっとただの錯覚で、しかしどこかに存在している鋭く尖った何かがそう感じさせているのかもしれなかった。
 ゆらゆらとなまえの視界が揺れた。
 惰性で関係を続けていれば、きっと何かを失っていたはずだ。しかし数年間付き合い続けた彼との思い出の積み重ねを考えると、それがなくなるわけでもないのに別れてしまったという事実がなまえの上に重くのしかかってくる。
 なまえのもとに遅れてやってきた感情は、別れたあの日には襲ってこなかった悲しみだった。

悲しみよ、こんばんは