「なまえー、おはよ!」
「青ちゃん! おはようー」
 昼休み、2限が早く終わった青子が学食の席を取ってなまえを待っていた。
「待たせちゃってごめんね」
 言いながらなまえが座ると、気にしないでというように首を振った青子が入れ替わりに財布を片手に持って立ち上がる。
「青子学食だけど、なまえは?」
「私はお弁当だよ」
「そっか、じゃあ買ってきちゃうね。荷物よろしく!」
「はーい」
 いってらっしゃい、と手を振って青子を見送ってからなまえは鞄から弁当と携帯を取り出した。弁当はテーブルの上に置き、手に取った携帯の液晶画面をスワイプしてロックを解除すると、メッセージが1件。そのアプリを開けば10分ほど前に青子から届いていた席の場所を教える内容だったため、トーク画面を開いて既読だけつける。他には特に連絡は入っていなかった。
 なまえはアプリを閉じるとインターネットに接続し、14時30分に東都大学の最寄り駅に到着する電車を調べる。テーブルに携帯を置いて出発駅と到着駅の入力していると、青子が戻ってきた。
「お待たせー。何か調べてるの?」
「おかえりー。電車の時間だよ。今日東都行くから」
 いちばん早く着く検索結果を保存しながらなまえは青子に顔を向けて答えた。
「あ、そっかなまえ今日は向こう行くのかー。4限だっけ?」
「うん」
 じゃあ食べよっか、と青子が嬉しそうにフォークを手に取って言う。
「いただきます!」
「いただきます」
 昼食をとりながらおしゃべりに興じるのは青子にとってもなまえにとっても高校から変わらない光景であるが、話題はいくら話しても尽きることがない。くるくると移り変わっては流れるように二人の唇から言葉がこぼれていく。
 昼食を終えて食器などを下げると、青子はそうだ、と思い出したように鞄を探り、ポーチを机の上に置いた。
「青ちゃん、新しいポーチ買ったんだね」
 以前使っていたオレンジのストライプが入っていたシンプルなものと違い、春夏らしいさわやかな白地の布に青い花柄の入ったポーチになっている。
「あ、うん。そうなのー。つい買っちゃった。けどね、見せたいのはこっち」
 青子ははにかむと、ポーチの中から小さな何かを取り出した。
「……マニキュア?」
「そうなの! 綺麗でしょ? 青子も久しぶりにやってみようと思って」
 青子に手のひらに乗っているのは、ラメ入りのマリンブルーの液体が入った小瓶だった。
「綺麗でしょー、この色! ひと目惚れして買ったの」
「うん、似合いそう。青子、だもんね」
「ふふふ、そうだよ。青子、だから」
 誕生月からとったという青子の名は美しいとなまえは思っていた。名前に色が入っているためか、青子は青系統の色を好む。そして、そのような系統の色は青子の肌や顔立ちによく似合う。
「塗ってこなかったの?」
「昨日忘れちゃって」
 そう言いながら、青子はガラス瓶のキャップを開けた。なまえがさり気なくあたりを見ると、近くの席に座っている人はあまりおらず、食事をしている人も少なかったためまあいいか、と判断する。
青子ははけに青色を取ると、左手の親指から色を付け始めた。みるみるうちに片手がマリンブルーに染まり、なまえがじっと視線を注いでいるとすぐに右手も海色になっていく。
「よし、これでいいかな!」
 乾ききっていない爪をどこにもぶつけないよう、ネイルポリッシュを塗り終えたばかりの手で慎重にキャップを閉めて青子は満足気に微笑んだ。なまえはほっと息をついて青子の指先を見つめる。
「すごいねー……。私、青ちゃんみたいに綺麗に塗るとか全然できないよー」
 感心してまじまじと青子の爪に施されたマリンブルーに視線を合わせていると、青子はなまえを見てころころと笑いながら小瓶を仕舞う。
「なまえはネイルに関して不器用すぎなの!」
 反論できない、となまえが項垂れれば青子は笑顔を崩さないまま飲み物に口を付けた。
「けどなまえはそれ以外はそんな不器用じゃないし、ネイルなら快斗にやってもらえるでしょー?」
「うーん……それは喜んでいいのかな?」
「まあまあ、細かいことは気にしない気にしない!」
 青子はおもしろそうに笑ってから、話題を逸らすように爪の先にそっと手を触れて乾いたかどうか確認している。なまえはそんな愛らしい青子の動作に思わず口元を綻ばせ、青子に倣うように飲み物を含んだ。

 ◇

 なまえは3限が入っているという青子と食堂前で別れ、時間は早いが東都大学へと向かう。
最寄り駅に到着すると東都大学の近くにあるカフェに入り本を読んで時間をつぶし、3限の終わる5分ほど前にその店を出る。なまえは講義の行われる教室に着くと、真っ先に快斗の姿を探した。するとすぐに見慣れた快斗の横顔がなまえの視界に入り、なまえは快斗の方へと歩み寄る。
「快斗」
「お、なまえ」
 友人と話している快斗に控え目に声をかければ、快斗とその友人たちはぱっと顔を上げて笑顔を見せた。
「あ、ええと、こんにちは」
 一方的に見覚えのある4人の友人たちに内心で戸惑いつつもなまえは軽く会釈と挨拶をして笑みを浮かべた。そのまま快斗をちらりと見れば、なまえの戸惑いを察した快斗がすぐにその4人の紹介をする。
「この4人はオレと同期で同じゼミ入ってる友達」
 快斗の言葉を受けて女子二人が最初に名乗り、続いて男子二人も自己紹介をした。
「で、この子が快斗の彼女?」
 スポーツマンタイプの男子が興味津々といった様子で快斗に尋ねると、快斗は友人に苦笑しつつ肯定する。
「快斗の彼女で、なまえって言います」
 なまえが名乗ると、4人は口々によろしくと言って笑顔を見せる。素敵な人たちだ、となまえは思った。なまえがこちらこそ、と返せばひとりが快斗となまえの付き合い始めたきっかけを訊いてきた。
「え、えっと……」
「ほら、もういいだろ? 早くしないと次の授業遅れるぞ」
 答えあぐねていると快斗が助け舟を出した。質問を重ねる4人に向かってあと5分で授業が始まることを告げ、次の教室に移動するように催促する。4人はそれぞれ携帯や腕時計を見ると本当だ、急がないと、などと言って残念そうになまえに手を振って教室から去っていった。
「賑やかだね」
「まあな」
「あと私ショートカットの子すごく好み。かわいい」
「言うと思った」
 なまえと快斗は顔を見合わせて笑った。
「あ、そういえば青ちゃんがね、マリンブルーっていうのかな。綺麗なマニキュア塗ってたの」
「へえ? まあ青子、そういう色の似合うよな」
「うん、だよね! 画像もあるよ」
 これ、と言ってなまえは帰り際に撮らせてもらっていた写真を開き、携帯を快斗に手渡す。
「あとね、快斗」
「ん?」
 画像を見終えた快斗がなまえに携帯を返し、なんだというように視線でその続きを促した。
「明日、快斗の家行ってもいい?」
 唐突な提案に快斗は少し驚いたが、それはあまり表には出さずに返事をする。
「いいよ」
「ありがとう」
 じゃあ、と快斗が時間を決めようとしたところでチャイムが鳴ると同時に教授が教室に入ってきたため会話は中断された。なまえと快斗は口をつぐみ、黒板へと顔を向ける。講義はすぐに始まった。
ノートを取っていると、不意になまえの視界に快斗の手が入る。丁寧に切りそろえられた爪と、整った指。指が美しい人は素敵だ、となまえは思う。なまえの中指の先は、いまだにまっさらなままだ。なまえはそっと瞼を下して静かに息を吐いた。真ん中だけ色のない左手をぎゅっと握り、目を開ける。
 どうしようもなく間抜けななまえの左手は、快斗の美しい手と並ぶとひどく滑稽だろうという他人事のような考えを頭から追い出し、なまえは思考を切り替えるようにシャーペンを持ち直し、教授の言葉に耳を傾けた。

解けた魔法と生み出す手