約束の土曜日、なまえは快斗に到着予定の時間を連絡してから出かける準備に取りかかっていた。着替えと化粧を済ませ、小ぶりな鞄に携帯と定期、財布などを入れて荷物をまとめる。最後になまえは机の上にまとめていたポーチを詰め込み、時計を確認し電車の時間に合わせて家を出た。快斗の自宅の最寄り駅に到着すると、まずなまえは快斗に連絡をした。
『今駅に着いたから、あと10分くらいで到着します』
『了解、待ってる
 気を付けて』
 すぐに返事があったのを確認し、トーク画面を閉じる。何度も足を運んでいる快斗の家は、意識しなくても勝手に足が動く。ぼんやりとなまえが歩くと気付けば快斗の家まで到着していた。
 インターホンを鳴らして着いたことを知らせれば、すぐに快斗がドアを開けてなまえを出迎える。いらっしゃい、お邪魔します、そのやり取りはいつも通りだ。
なまえは持ってきた手土産を快斗に手渡し、先に部屋に行っているようにと言う快斗に従って階段を上がった。通い慣れた部屋は、相変わらず整理されていてすっきりとしている。快斗らしいという感想は、なまえがこの部屋に来るたびに抱く。
「お待たせ」
 ローテーブルのわきに置かれたクッションを抱きしめて座っていれば、快斗がトレーにケーキと紅茶を乗せて戻ってきた。チョコレートタルトとフルーツタルトはなまえが贔屓にしているケーキ屋で購入してきたものだった。
「ううん。紅茶淹れてくれたの? ありがとー」
 目の前に置かれたいい香りを放つ紅茶のカップをさっそく手に取り、いただきますとつぶやいて口に含む。
「おいしい」
 なまえが思わずそう口にすると、快斗は紅茶を飲みながら目を細めた。
「母さんが前に買って置いてったの思い出してさ」
「あ、そうなんだね」
 忙しい身である快斗の母親となまえが話したことは数えるほどしかないが、なまえは彼女に対しいつも軽やかで明るい素敵な人、という印象を持っている。なまえちゃん、と微笑まれるとうれしかったなと最後に会った日のことを思い出す。
「それで?」
 と、唐突に快斗が口を開いた。先を促すような言葉になまえは一瞬、何を言われているのかわかりかねた。しかし次の瞬間には、柔らかい笑みを浮かべる快斗の目の奥の揺れる色が見えてしまい、快斗が何を言いたいもかまでなまえは正確に理解していた。
「あのね」
 失敗しちゃったの、となまえはうるんだ目で、しかし口元は微笑みの形を浮かべながらそう言った。快斗はその言葉の意味を捉えきることができずになまえを見つめ返す。
「これ」
 なまえはポーチから持ってきた桜色の液体が入った小瓶を取り出しテーブルに置くと、左手を快斗の前に伸ばして見せた。中心だけ色の抜け落ちた爪に二人の視線が注がれる。
「あとね、快斗」
 左手を戻し、両手をぎゅっと組むとなまえは滲んだ視界のまま口を開く。
「ん?」
「なに、隠してるの?」
 快斗は表情を変えず、ゆっくりとまばたきをしてなまえを見た。
「ねぇ、何を隠してるの、ねぇ、快斗」
 責めるでもなく、追い立てるのでもなく、ただ底にちらつく悲しみを隠すような声色でなまえは言葉を重ねる。答えてほしいわけではなかった。追い詰めたいわけでもなかった。なまえの唇が勝手に言葉を紡ぎだす。
「ごめんな、なまえ」
「……ううん。私こそ、ごめんね。快斗、好きだよ」
 わかっている。わかっているのだ。互いが思い合っていることも、尊重していることも、すべて。わかっているからこそ、恋人という言葉だけを残して形骸化させたくなかった。義務にしたくなかった。
 感情的に罵り合えば、嫌いになって別れることができたはずだし、割り切ってしまえば楽だったはずだ。しかしそんなことができるほど生半可な気持ちではなかったし、友人として尊敬すべき相手だったのだ。嫌いだと撥ね付けることで満足したくはなかった。
「わかってるよ。オレも、好きだよ」
「うん」
 ぽろり、一粒の涙がなまえの目からこぼれた。
「快斗、もし好きな人ができたら教えてね」
「ああ、教えるよ」
「うん」
「あと、もし恋愛する、余裕ができたら、教えてね」
「なまえも教えろよ」
「うん」
「あと、また、爪、やってね」
「いつでもやってやるよ」
「うん、あと、あとね、快斗」
「何?」
「快斗のこと、好きだよ」
「オレも好きだよ。だから、なまえはこういうの、うまくなんなくてもいいよ」
「うん」
 快斗は柔らかく笑ってなまえの左手を取った。反対の手には、小瓶のはけが握られている。丁寧な動作で淡い桜色が広がっていき、欠けていた中指の爪が再び春の色を施された。
「ありがとう」
「どういたしまして」
 快斗は目を細めて小さく微笑む。なまえは左手に添えられていた快斗の手をそっと握り返してから静かに離した。
 なまえの指先はこれからも快斗の美しい手によって、彩られてゆくのだろう。互いがそれを望む限り、ずっと。
 テーブルの上、柔らかい色の入った小瓶はいつもと変わらず、そのとろりとした液体を揺らして見守るように淡い光を放っていた。

指先の標本