彼女を乗せた車は信号に捕まることもなく進んでいき、景色はあっという間に流れていく。
車のハンドルを握る安室透の横顔を一瞥すると、なまえはもう一度車窓から外へ視線をやった。そしてぼんやりと今までの経緯を思い出す。
毛利探偵事務所を訪れたのは、いまから1週間ほど前のことだった。
そこに至ることとなった発端は、仕事で遅くなったときの帰り道で誰かの視線を感じたことだった。なまえは1ヶ月ほど前から夜道で後をつけられている気がしていたのだが、もちろんそれだけであったら気のせいで済んでいただろう。
探偵事務所を訪ねることとなった直接的な決定要因は2週間ほど前の出来事にあった。なまえの自宅のポストに無理矢理開けようとした痕跡が見つかったのだ。
幸い何か取られることはなかったのだが、代わりのようにポストには『いつも見てるよ』と書かれたメモがあった。その出来事により、なまえが感じた視線や気配は気のせいではなかったと証明されることとなったの だ。
視線を感じた日時の記録を取っているノートに不審なメモが入っていたことを書き加えてからなまえがマンションの管理人に報告へ行けば、付近で同じようにポストが荒らされるような被害が数ヶ月前から続いているらしいと教えられ、最近は女性を狙った犯罪が起きているから気をつけるようにとの忠告も受けた。
なまえの後をつけていた人物にマンションだけでなく部屋番号や名前まで知られているとなると不安が大きい。しかし、実害はないため警察に相談しても動いてもらうことは難しいだろうと思われた。そこでなまえは迷った末、思いきって名探偵と名高い毛利小五郎に相談を持ちかけることにしたのだ。
約束した日に毛利探偵事務所を訪ねると、まず小五郎が迎え出てくれた。そして小五郎はなまえと名刺を交換し、その場にいた人たちの紹介をしてくれた。小五郎の娘で空手が得意な高校生の蘭と、同居しているという小学生・江戸川コナン、そして小五郎の一番弟子で自身も探偵だという安室透の3人だ。
はじめましてとあいさつをすれば、それぞれから愛想のいい笑顔を返された。そこでなまえははっとした。実は以前に町中で小五郎を見かけたことがあるのだが、そのときに一緒にいた人たちだと思い至ったのだ。そして同時に、以前不思議な組み合わせだと思っていた人たちの関係性がわかり、一緒にいたことが腑に落ちた。
自己紹介が終わると、なまえは小五郎に前もって電話で告げていた概要に加えて隙間を埋めるように詳しいことを訊かれた。そして話がまとまると彼は大きく頷き、悠然として口を開いた。
「この名探偵・毛利小五郎にお任せください!」
そんな彼の心強い言葉とともに、正式に依頼を引き受けてもらうことが確定した。
しかし、有名な探偵だけに顔が知られているため、自宅で盗聴器などを調べるとき以外はまず安室がなまえの周辺を探り小五郎へ伝えるという形がとられることになった。
そして事件は依頼から7日目、犯人が捕まったことで解決した。
仕事終わりのなまえが駅から自宅までの道を歩いている途中で犯人が姿を現し、なまえに暴行を加えようとしたところを小五郎たちによって捕らえられたのだ。
その事件の犯人は無差別に目をつけた女性を襲っており、連日小五郎に護衛をしてもらっていたなまえには幸い被害がなかったが、すでに複数の女性を強姦していたという。近所で起きていた郵便物を荒らしていたのも女性が襲われていたのもこの本人の仕業だったとなまえはあとで教えられた。
小五郎が犯人を捕らえ、警察に引き渡したのが午後7時過ぎのこと。なまえは事件について警察から話を聞かれるも、小五郎が便宜を図ってくれたおかげでその場でストーカー被害の記録をまとめたノートを証拠として渡すことと数時間ほど拘束されることのみで済んだ。
しかし小五郎はなまえが慣れない事件で疲れただろうし気分を変えるために一緒に夕食でもどうかと誘うところまで気を回してくれた。近くに遅くまで開いている店があるというので、なまえはその厚意に甘えることにした。そして明日が休日のため遅くても構わないという蘭、コナン、安室も同席し、計5人での遅い夕食となったのだ。
店に到着すると小五郎はさっそく酒を飲み始め、見ている側が驚くペースでグラスを開けていく。あっという間に酔っ払ってしまった小五郎にため息をつきながら、蘭は「父がご迷惑をおかけしてすみません」と頭を下げた。
なまえが気にしなくても大丈夫だと伝えれば、蘭はすまなそうに微笑む。その言動から彼女の優しい性格や責任感の強さが垣間見えた。
しかし、蘭の気はそこでは休まらなかった。というのも、日付を越し閉店時間が過ぎても小五郎が半分眠っているような状態で酔いが醒めないままだったため、すでに終電を逃していたなまえは安室とともに小五郎と蘭、コナンを自宅まで送り届けることとなったからだ。
「安室さんもなまえさんも……本当にすみません……!」
蘭は自宅に到着するや否や、二人に向かって平身低頭して謝った。安室は車で来ているため大丈夫だと言うが、蘭の申し訳なさそうな表情は変わらなかった。
「けど……なまえさんの家、遠いですよね?」
「タクシーで帰るから気にしないで大丈夫だよ」 「じゃあタクシー代、払います。家まで送ってもらいましたし」
なまえが乗ろうとしていた最終電車の出発時刻は店を出る前に過ぎていたため、蘭はそう言って財布を取り出そうとした。
なまえは蘭にあまり気に病まないようにとやんわりとした口調で断りの言葉を返したのだが、彼女は納得しかねるといった表情だった。
「それじゃあ、代わりというわけではありませんが……」
そこで安室がさりげなく口を挟み、自分は車で来ているからなまえを自宅まで送り届けようと言ってなまえに助け舟を出した。
なまえはそこまでしてもらってもいいのか戸惑ったが、さすがに自宅までの距離を考えると懐が痛む。安室の提案はなまえにとって渡りに船だと思い「お願いします」と頭を下げたのだ。
車は走り出してから30分ほどでなまえのマンションに到着した。運転していた安室は彼女が手で示した場所に車を止める。
「送っていただいてしまってすみません。ありがとうございます」
なまえは安室の方へ顔を向け、そう言って頭を下げた。
「いいえ、お気になさらず。こんな時間に一人で帰るのは危ないでしょう。解決したとはいえ、事件に巻き込まれていたわけですし」
安室は相手を委縮させないような柔らかな微笑みとともに首を振る。彼女はそれにほっと笑い返すと、あ、とシートベルトを外した手をそのままに思い出したように声を漏らす。
「お茶くらいなら出せるので、もしよかったら上がっていきませんか?」
送っていただいたので、少しですがお礼代わりに。彼女の遠慮がちな申し出に彼が口を開く。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
安室はそう返して頷いた。
二人は車を降り、なまえの部屋へと向かう。さすがに午前2時近くになると生活音は聞こえてこない。静かな空気に感化されたようになまえと安室の会話がふつりと途切れる。なまえは少ない動作で鍵を開け、安室を室内へと招き入れた。
「お邪魔します」
「どうぞ。散らかっていて申し訳ないですけど……」
家に誰かを招くのはいつ以来だろうか、と考えながらなまえはリビングのソファーに座るよう安室に勧めた。
「すぐに用意しますね」
そう安室に告げ、なまえはコーヒーメーカーをセットする。コーヒーが出来るまでの間に玉子とキューカンバー、2種類のサンドイッチを手早く作り、ひと口大に切って皿に盛りつけた。サンドイッチを作っている間にコーヒーが出来上がる。
淹れたてのコーヒーをマグカップに注ぎ、サンドイッチと一緒にトレーに載せてダイニングのテーブルへ運ぶ。
「安室さん、お待たせしてしまってすみません。どうぞ」
ダイニングの椅子を勧め、安室にマグカップを手渡す。ふわりと漂うコーヒーの香りが心地いい。
「よかったら召し上がってください」
「ありがとうございます。いただきますね」
ぎこちなさがいまだ残る中、二人は向かい合ってコーヒーに口をつける。
なまえはサンドイッチに手を伸ばしながら、さりげなく安室の方を見やった。事件などで疲れているはずだが、彼の表情や振る舞いからは疲労した様子は窺えない。
安室も小五郎同様に探偵であるから隙を見せないようにしているだろうか。もしくは彼本来の気質のようなものからきているのかもしれない。
「安室さんもお疲れのところ、本当にすみません」
「いいんですよ。僕もこうしてご馳走になっているわけですし」
安室は笑って言い、ところで、と話題を変えた。
「引っ越しするんですよね? 結構片付いてますけど……」
「あ、はい。実は来週引っ越すんです」
最低限の荷物は残しているが、おおかたはまとめ終わっているため段ボールが多い。積み上がった段ボールたちに目を向けたなまえにつられるように安室も視線を動かした。
「前から決めていたんですけど、事件も解決したのでちょうどよかったです。あ、ポアロも近くなりますよ」
安室のバイト先を挙げてみせれば、安室は人当たりのいい笑みを浮かべてそうなんですかと頷いた。
安室透はどんな話題にも耳を傾けておざなりな態度など決してしない。所謂好青年なのだろう、となまえは安室を窺いながら思う。現になまえを自宅まで送り届け、とりとめのない話にも付き合っている。
しかし、となまえの中に別の考えが頭をもたげる。
人について言動の裏を読み詮索しすぎるのはよくない癖だとは思いつつも、なまえは安室と会話を続けながら頭の片隅で思考を巡らせた。
「ごちそうさまでした。コーヒーもサンドイッチもおいしかったです」
二人の皿とマグカップが空になったタイミングで安室がなまえに礼を言う。なまえはそれとなしに時計に目をやり、少しばかり後悔する。安室を無理に引き留めたつもりはないが、時間が時間のため余計な負担をかけてしまったかもしれない。
ご馳走してもらったから食器を洗いますと申し出た安室からはその厚意だけを受け取ることにする。
それではそろそろ、と腰を上げた安室を玄関先まで見送った。
「それじゃあみょうじさん、お邪魔しました」
安室が会釈をしてドアノブに手をかける。彼の後ろ姿を見ると、並んで歩いたときよりも背が高いように感じた。少し長めの髪がうなじで微かに揺れている。鍵の回る音が控えめに、しかし閑静とした室内では響いた。
「……降谷さん」
開きかけたドアが閉じられる。
「降谷さん」
この空間にいるのはみょうじなまえと安室透の二人だけだ。呼びかけたのはなまえで、安室はドアノブに触れる自身の手元に視線を落したまま反応しない。
「……降谷さん……」
しばらくの間があった後、再びなまえが言葉を紡ぐ。なまえは震えた声で誰かを呼ぶ。しかし、それに応える人間はいなかった。
頬に伝う雫の冷たさを感じながら、なまえは一度目を閉じた。そしてゆっくりとまばたきをしてから浅く息を吸う。
「……おやすみなさい、安室さん」
なまえが安室に声をかけると同時にドアが開かれる。安室はなまえを振り向き、肩越しに微笑む。
「みょうじさんも、おやすみなさい」
あいさつを残して帰っていった彼の姿は分厚い扉によってなまえの視界から遮られた。なまえはしばらく見送った状態のまま立ち尽くしていたが、はっと気がつくと鍵をかけ直してリビングへ戻る。シンクに置いておいた食器を洗ってから脱衣所へ足を向けた。湯船にはつからずシャワーだけ浴びて髪を乾かす。
やるべきことをすべて済ませてからなまえは冷蔵庫で冷やしてあったワインとお気に入りのグラスを手に寝室へ向かった。
なぜ、彼は何も返してくれないのだろう。もし踏み込まれたくないのなら嘘をつけばいいのに、そうしなかったのはなぜだろう。なぜなまえのことを遠ざけなかったのだろう。
同じ言葉が繰り返し頭を巡る。けれど、いまは何も考えたくない。
なまえはコルクを抜き、グラスに淡い黄色の液体を注いでから流し込むようにワインを呷る。半分ほど飲んだところでむせてしまい、涙が出てきた。瞼を閉じて唇を噛む。
とめどなく溢れ出てくる水分を残らず消すためには、ワイン1本では到底足りそうにない。
新居に移ってから1週間。なまえは小五郎に先日の事件のお礼をするため、デパートで購入した菓子折りを手に毛利探偵事務所へと向かっていた。
5分ほど電車に揺られていれば、車内のアナウンスが米花駅に到着したことを告げる。土曜日の昼前の時間帯にもかかわらず人が多いのは米花町に学生が多いからだろうか。なまえは混みあった改札を抜け、広場で待ち合わせをする人の波を避けつつ大通りを道なりに進む。
そろそろ探偵事務所が見えてくるというところで不意に背中から声をかけられた。
「みょうじさん。こんばんは」
「え? あ……こんばんは」
振り返ったなまえの視界に入ったのは毛利小五郎の弟子だという安室透だった。今日はポアロのバイトはないのだろうかとなまえは内心で首を傾げつつ、安室も事務所に行くというので並んで歩く。どうやら安室は朝から探偵の仕事が入っていたため出かけていたらしく、ポアロのバイトは午後からのシフトになっているという。小五郎は言わずと知れた名探偵だから忙しいだろうと思っていたが、安室も安室で忙しそうだ。
探偵事務所の階段を上り安室に続いて室内に入れば、すでに小五郎が来客用のソファーに腰かけてなまえを待っていた。脇には小五郎の娘で高校生の蘭と、一緒に暮らしているという小学生のコナンが控えている。会釈とあいさつをすれば、小五郎だけでなく蘭とコナンもなまえに笑顔を返してくれた。
ストーカー調査の依頼に訪れたときから蘭とコナンがいることは知っていたため、菓子折りも小五郎と安室、蘭、コナンの分を考えて多めのものを買ってきている。よかったらみなさんで召し上がってくださいと言葉を添えて箱を手渡した。
蘭が淹れたコーヒーを全員で飲みながら事件の経過や他愛ないことを話し合っていれば、時間はあっという間に過ぎていく。普通に生きていれば会うことのないだろう人たちとの会話は存外楽しい。しかし、引っ越しの報告もできたためあまり長居せずそろそろ帰った方がいいだろう。そう思って会話が途切れたときを見計らって話を切り上げようとすると、なまえよりも早く安室が口を開いた。
「すみません。僕はそろそろバイトの時間なので、失礼しますね」
その言葉につられるように全員の目が時計に向く。その機に乗じてなまえは自分もそろそろ帰る旨を伝えた。すると、時間を確認した蘭がはっと表情を変える。どうやら友人との約束があったらしい。蘭は時間がぎりぎりだと慌てつつ、しかし丁寧になまえにあいさつをする。そして小五郎とコナンに二人で昼食を食べるように言い残してバッグを手に事務所を出ていった。
小五郎は急ぐ蘭の背中にわかったから気をつけて行くようにと声をかける。しかし、直後にはっと何かを思い出したようで、その表情は苦いものになった。小五郎の様子になまえら3人がどうしたのかと視線を向ければ、当人は気まずそうに口を開く。
「そういや、俺もこれから依頼人と会う約束があったと思ってなぁ……」
コナンからは不満げというよりは切なそうな声が上がる。
聞くと、コナンも友人との約束があり小五郎についていくことはできないらしい。しかし友人たちとの待ち合わせはそれぞれ食事を済ませてからの予定だというから、このままではコナンは昼抜きで夕飯まで過ごすことになりそうだ。
さすがにかわいそうだが小五郎も仕事のため直前に予定をずらすことは難しいだろう。それなら、となまえは遠慮がちに口を開いた。
「もしよかったら私、コナンくんと一緒にお昼ごはん食べに行ってきましょうか?」
「えっ、いいんですか?」
申し訳なさ半分、安心半分といった小五郎に笑んで頷き返す。
「はい。もともと外で食べていく予定だったので。もしコナンくんがよかったらですけど……」
どうかな? と言ってコナンの方を窺えば、その聡慧さの滲む目が笑った。
「なまえさんがいいなら行きたいな。おじさん、いい?」
「じゃあみょうじさん、お願いしてもいいですかね?」
「ええ、もちろんです」
なまえの返答を聞いた小五郎は礼を言って頭を下げる。その後にコナンを見下ろし、なまえに迷惑をかけないよう言い含める。コナンは「はーい」といい子の返事だ。
なまえが二人の微笑ましいやり取りに和んでいると、安室からせっかくなら昼食をポアロで食べていってはどうかとの提案なされた。なまえはコナンがよければぜひと言い、コナンもポアロで食べることに賛成のようだったので二人は安室とともに店に行くことにする。
「決まりだな。よし、じゃあ出るか」
小五郎に従って事務所を出て、戸締りの確認が終わるのを待ってから階段を下りる。駅の方へ行くという小五郎を3人で見送り、その背中が遠くなったところでなまえとコナンは安室に続いてポアロへ入った。安室はお好きな席へどうぞと笑ってから店の奥へ消えていく。
なまえは安室の背中に会釈と感謝の言葉をかけ、コナンと向かい合うように席に着いた。
二人がメニューを決めたタイミングでコナンと知り合いらしい女性店員がやってくる。なまえとコナンはそれぞれオムライスとパスタ、そして食後のドリンクを頼むと彼女は人懐こい笑顔で注文を受けてから立ち去った。
コナンに梓さんと呼ばれた彼女は大学生くらいだろうか。とてもかわいらしい店員さんだなぁと思いながらなんとなしにその後ろ姿を追えば、彼女はエプロンをつけて店の裏から出てきた安室に何か話しかけていた。
なまえが何気なく二人に視線をやっているのにつられたのかコナンも梓と安室の方をぼんやりと眺めていたが、ふと思い出したようになまえを呼んだ。
「あ。ねぇねぇ、なまえさん」
「ん? なぁに?」
ちょっと聞きたかったんだけどさ、と前置きしてからコナンはなまえに耳を寄せるようにジェスチャーで伝える。なまえがコナンの方に身体を寄せ、耳を近づけたところでコナンは抑えた声で質問をぶつけてきた。
コナンが口にした内容に身体が固まりかける。しかしなまえはそれを悟らせないように動揺を鎮め、ゆっくりと体勢を元に戻して首を傾げてみせた。
「コナンくんには、そう見えた?」
「え?」
不思議だと思っているように見えるだろう表情で微笑みつつ言葉を返せばコナンの利発そうな瞳は一転し、虚を衝かれたとでも言いたげな表情がのぞく。否定でも肯定でもない答えが意外だったのか、うまくはぐらかされると思っていなかったのか、もしかしたら賢い子だからなまえの反応から何か読み取れるはずだと考えて訊いたのかもしれない。しかし、いずれにしてもコナンの欲したものは得られなかっただろう。
コナンが何かを言い淀んでいると、安室が二人のテーブルにやってきた。安室は水の入ったグラスをなまえとコナンの前に、カトラリーケースをテーブルの中央に置いて微笑む。
「食事の方ももうすぐお持ちしますね」
「ありがとうございます」
「ありがとう、安室の兄ちゃん」
安室は二人の礼を受けると柔らかく目を細め、店員らしく会釈をして去っていく。彼の登場によって先ほどまでの空気は流された。
しばらくコナンの友人や小五郎、蘭の話などを聞いていれば、梓がオムライスとパスタをテーブルに運んでくる。なまえとコナンはいただきますと手を合わせ、さっそく食事に取りかかった。
会話を続けながら食べ進め、オムライスが最後のひと口になったところでなまえはふと気になったことを尋ねてみた。
「コナンくんは今日もみんなと会う予定なの?」
先ほど聞いたコナンの友人の中でも話題に挙がった頻度が高い少年探偵団を示して聞けば、パスタをフォークに巻きつけることに意識を注いでいたコナンはその手を止め、なまえの方を見てきょとんとした。その表情はなまえの目にとても幼く映り、つい口元を綻ばせてしまう。
どうやらコナンは手元に集中していたためなまえの言葉を咀嚼するのに時間がかかったらしい。一拍遅れてから頷くと、彼らとの待ち合わせ時間も合わせて教えてくれる。なまえがそれを受けて腕時計に視線を走らせれば、待ち合わせまではまだ十分に時間があった。
「じゃあ、デザートも頼む?」
「うん!」
どちらの皿も空になったため、それぞれデザートを注文してから食器を下げてもらう。
ストローに口をつけながらふと見渡せば、店内はなまえたちが来たときよりも人が増え賑わっている。ほどよいざわめきは心地いい。
やがてドリンクとともに運ばれてきたデザートを味わいながらなまえはパフェを食べるコナンに視線を向けた。生クリームを口の端につけていることに気づかずにいるコナンの姿が自然となまえの笑みを誘う。
コナンがパフェを食べきったところで生クリームがついていることを教え、スタンドから取り出したナプキンを差し出した。それを受け取ったコナンは礼を言って口を拭く。そして携帯で時間を確認すると椅子から立ち上がった。
「それじゃあ僕、そろそろ行くね」
「はーい。いってらっしゃい……あ、お金はいいよ。私におごらせて?」
小五郎から預かったから支払うと言ったコナンに首を振り、ごはんに付き合ってもらったのはこちらだから気にしないようにと言葉を重ねればコナンは素直に引き下がってありがとうと笑う。
「なまえさん、じゃあね」
「ええ、気をつけてね」
手を振ったコナンに同じように振り返し、その後ろ姿をぼんやりと目で追う。小さな背中はすぐには帰ろうとせず、注文が落ち着き手の空いていた安室のもとへと近寄った。
しゃがんだ安室との距離を詰めたコナンが両手を添えた口元を安室の耳に近づけて何かを言っている。
安室はコナンが一歩離れると楽しげに見える表情で目を細めて口を開いた。コナンはそれに言葉を返している。
二人が何を話しているのか気になるところだが、なまえの席からでは声は聞こえない。コナンと安室は数度言葉を交わすと会話を切り上げる。コナンはなまえにしたのと同じように安室に手を振り、今度こそ店を出ていった。
なまえは手持ち無沙汰になり、ひとりストローに口をつけて残りのコーヒーを飲み干す。そろそろ店を出ようかと考えたとき、安室がなまえのいるテーブルにやってきて飲み終えたものを新しいグラスと取り換えていった。
安室の「おごりです」という言葉とともに差し出されたアイスコーヒーの横にはコースターが添えられていた。そこには整った字で会計のときに連絡先を交換する旨が書かれている。
なまえはバッグからペンを取り出し、コースターを裏返して携帯の番号やアドレスを書き込んでいく。少し悩んでから自宅の住所を控えめに書き加えた。
不自然ではない程度に時間を置き、安室の手が空いているタイミングで席を立つ。レジに立った安室に伝票の裏にコースターを重ねて差し出せば、安室はさりげない動作でそれを受け取りポケットに入れた。そして接客用の笑顔を見せながらなまえに視線をやり、抑えた声を出す。
「さっき、彼に質問されたでしょう?」
唐突に抽象的な言葉で示されたが、安室が何について尋ねているのかは聞かなくてもわかる。なまえは向かい合う安室と同じように表情だけは柔らかく保ちながら返事をした。
「……はい」
なまえはコナンにぶつけられた質問と、悟らせないようはぐらかしたことを伝える。
「そうですか」
なまえに頷きを返した安室は、先ほどのコナンとのやり取りを思い出した。コナンが帰る前に、安室に放ったのは問いかけるような形をとった確信の言葉だった。
「ねぇ。安室の兄ちゃんって、なまえさんと前から知り合いだよね?」
コナンと目線を合わせた安室にぶつけられた質問は、今しがたなまえが言っていた内容と変わらないものだった。違うのは安室への言葉がなまえに向けられたものよりも断定的という点くらいだ。
安室はコナンに尋ねられたとき、否定も肯定もせずに訊き返した。
「どうしてそう思うんだい?」
安室の正体を知るコナンが踏み込もうとするのは、なまえが安室と同じ立場かどうかを確かめようとしたからだろうか。いや、それは違うと確信を得ているはずだ。
「さっき二人が事務所に来るときに一緒に歩いてたでしょ? 僕、たまたま窓から見てたんだ。無意識的にだと思うけど、並んでたときの距離感が友達みたいだったよ。それになまえさんと安室の兄ちゃんって年齢も近いよね?」
細かいところまでよく覚えているのがこの少年であるから、彼女が小五郎のもとへ依頼に来たときに言っていたプロフィールは頭に入っているはずだろう。安室はそう考えながらぼかすような口調で返答する。
「みょうじさんは確か、僕のひとつ下くらいじゃなかったかな?」
「……知り合い?」
コナンは安室の目をのぞき込んで尋ねた。安室はそれに笑って答えたのだった。
「コナンくんの推理と想像にお任せするよ」
腑に落ちないといった表情で、しかし安室の言葉には納得したような様子で帰っていったコナンの姿がまだ脳裏に残っている。
「彼のことは心配しなくても大丈夫ですよ」
口元は笑みをつくったまま固い響きの声でなまえに言い、安室は釣り銭とともに自分の連絡先を書いたメモを彼女の手に握らせた。
会釈をして店を出るなまえの背中に安室の店員らしいありがとうございましたという声がかかる。
ひとり帰路に就いたなまえは、自宅の鍵を閉めたのを確認するとリビングで立ったまま安室から渡されたメモを見つめた。
なまえの出身や職業や住所や交友関係について、安室は事件の依頼時に訊かれた必要事項や先ほど交換したメモを通して知っている。そしてなまえもまた、安室のことを同程度知っている。しかしそれは単なる属性にすぎず、安室透がどのような人物なのかまでは紙切れだけでは伝わらないし、彼がなぜ連絡先を交換しようと考えるに至ったのかなんてなまえには知る由もないのだ。
「ばかみたい」
無感動につぶやいた声も、口元に浮かべようとした笑みも形にならずかすれてしまう。視界が滲んでぼやける。
もしも彼が「安室透」ではなく「降谷零」だったのならなまえはその意図がわかったのかもしれないが、所詮それはあり得ないから言えることであるとなまえ自身が誰よりも知っていた。