正月休みが明けた1月の半ば、みょうじなまえはほどけかけたマフラーを巻き直すのももどかしく歩道を走っていた。公道で全力疾走などはさすがにしないが、小走りよりも速く道を抜けていく。正門をくぐり、目的の教室まで急ぐ。息が上がったまま教室に入って室内を見渡すと、普段より幾分か人数が少ないような気がする。
 なまえが深く息を吸い込み呼吸を落ち着けていると、こちらに手を上げて合図をくれる人物と目が合った。いつもこの講義を一緒に受けているひと学年上の先輩かつゼミ仲間の降谷零だ。
「おはようございます」
「おはよう」
 近くに行けば、降谷は机に置いてあったノート類を移動させて場所を開けてくれる。礼を言ってその隣に座った。慌てていたため装着していたままだった耳当てとマフラーを外し、やっと一息つく。
「今日は遅かったな。1限延長したのか?」
 尋ねてきつつも、降谷はなまえの防寒具を見て訝しげに首を傾げる。
「いえ、1限は休講だったんですけど電車が遅れちゃって……」
早めに出てきてたのでよかったです、と苦笑気味に返す。手首を返して腕時計を見ると授業開始10分前だった。普段は1限が毎回早く終わるため、10分前に到着すると遅く感じるが、十分余裕だと言えるだろう。
「降谷さんは今日2限からでしたよね? 電車遅れてませんでした?」
「俺はレポートやりたくて1限に来てたからな、大丈夫だった」
 降谷がそう言いつつ一瞬手元に視線を落とし、開いていた文庫本を閉じてカバンにしまった。なんとなくその動作を目で追っていたが、はっとしてノートや教科書を取り出す。走ったことと暖房が効いた教室の温度によって体が余計な熱を持ったためか、ぼんやりとしてしまう。
 意識を飛ばさないように気をつけなくてはと肝に銘じ、しばらくしてから授業開始のチャイムより少し遅れて教室に入ってきた教授へと視線を向けた。


 2限の講義が終わり、昼休み。教授の都合で普段よりもだいぶ早く終わったことをうれしく思いつつ、机の上の荷物を片付けながらなまえは降谷を見た。
「降谷さん、今日はお弁当ですか?」
「いや、持ってきてない。学食か購買にしようかと思ってたけど……みょうじは?」
 マフラーを手にかけた降谷が立ち上がる。なまえも荷物を持って腰を上げ、降谷に続いて教室を出る。
「私も今日はお弁当じゃないです。降谷さんが買うなら私もそうしようかなぁ」
「めずらしいな、みょうじが弁当じゃないの」
「なんか温かいもの食べたくて。降谷さんは最近買うの多いですね」
「まあ、寒いしな」
 せっかくなら温まるものが食べたい、と言う降谷に頷いて同意する。ゆったりとした歩調で行く場所が決まらないまま流れに沿って足を進める。
「どうしましょうね」
「寒いけど、外行ってもいいかもな」
 学食は昼前でも混んでいるし、なまえ降谷も3限は空いているためゆっくりできる。
「そうですね、外で食べたいです! あとはおいしいコーヒーが飲めればそれで」
「じゃあそうしよう」
 そうと決まれば早かった。二人はさっそく正門へ足を向ける。すると、どこに行こうかと話し合いながら外に出たところで、自分と連れ立った相手の名前が背後から呼ばれた。
「なまえー! 零さん!」
 なまえと降谷が同時に振り返ると、二人と同じゼミに所属している仁科奈緒美が笑顔で駆け寄ってきた。後ろには同じゼミ生の保科大輔もいる。奈緒美はなまえと同じ2年生、大輔は降谷と同じ3年生だ。
「お疲れさまでーす」
「お疲れー」
 奈緒美と大輔の緩いあいさつに降谷は苦笑気味にお疲れと返す。
 なまえはそんな彼らのやり取りを見つつ、内心で首を傾げた。仁科と保科で名前は似ているが、二人は休み時間に会うほど仲が良かっただろうか。奈緒美はなまえと気の合う友人でもあるため、大輔の話題にあまり触れたことがないというのは不思議に思う。もしかしたら偶然会ったのだろうか。
 すると降谷も同じように考えたのか、意外だというような色味を含んだ声で言う。
「二人が一緒にいるの、めずらしいな。大輔とナオ、仲良かったか?」
 大輔は降谷の言葉を受け、ふざけた声色をつくって笑った。
「零ひっでーなぁ。俺たち仲良いよなぁ、ナオ」
「仲良いっすよねー! 零さんひどいなー」
奈緒美が大輔に向かって握った手を突き出し、大輔のこぶしと合わせた。
「いえーい!」二人の声が重なって響く。大変楽しそうである。
「まあ、ほんとはゼミの打ち合わせなんだけどな」
「あ、そっか……。ナオさんと大輔さん、同じグループですもんね」
 所属するゼミにはなまえたちを含めて20人の学生が入っており、5人ずつのグループに分かれて毎回発表することになっている。来週の発表担当は奈緒美たちの班だ。
 ちなみに班分けはくじ引きで決められているのだが、前期ではなまえは大輔と、奈緒美は降谷と同じグループで、今期は奇しくも奈緒美と大輔、なまえと降谷という組み合わせでそれぞれ同じグループに振り分けられている。
「つーか気になってたんだけど、なまえはなんでナオのことさん付けで呼んでんの?」
ふと思い出したように大輔が問いを投げかける。
「えーと、気がついたらそうなってました……ね?」
 なまえが同意を求めて大輔の隣に視線を移せば、奈緒美が頷いてから首を傾けた。
「ほんと、不思議だよねー。いつからだろ?」
「けど私のナオさん呼びはさん付けっていうよりは愛称みたいなものですから」
「へぇー。あーでも確かにそんな感じだよなぁ」
「なんでですかね?」と奈緒美が降谷を見る。
「知るわけないだろ」
 降谷はおかしそうに眉を下げて柔らかく笑い返す。すると奈緒美は思いついたように手を打った。ぱん、と無駄にいい音がその場に鳴り響く。
「あ、じゃあなまえの降谷さん呼びも愛称ってこと! じゃない?」
「それは違うんじゃないか……?」
そう言って降谷が首を傾げた。なまえも彼に追随しつつ首をひねる。
「うーん、なんか違う。違うっていうか私、ふつうに名字にさん付けしてるだけだよ?」
「じゃあ零さんのみょうじっていうのは愛称?」
「どちらかといえば呼称だな」
 なんだか言葉遊びのようになってきた。
 するとそこでなまえたちのやり取りを見ていた大輔がかぶりを振って会話に割り込んできた。
「なんか、かってーよ! いや、仲良いし砕けてるのはわかるけど、呼び方が堅ぇよ! 零となまえ以外ゼミメンバーみんな名前で呼び合ってんのになんで二人だけ名字?」
「ほんっと、私も気になるんですけど。なんで二人とも名字呼びなんです?」
 なまえと降谷を交互に見た奈緒美に、なまえは首を傾げつつ口を開く。
「えっと……慣習……?」
 なまえの答えに対し、降谷はわざとらしく冷めた目を向けた。そして「そんなに歴史はないな」とにべもなく一刀両断する。
そんな二人を見た奈緒美が提案した。
「じゃあ今日からお互いに名前呼びしてみるってどうですか?」
 はい、どーぞ、と軽く続けられたその言葉に渋々というように、二人は訝るような視線を交わしつつ名前を呼ぶ。
「……なまえ?」
「……零さん?」
呼び合ったあと、一瞬の間ののち、けしかけた大輔と奈緒美から笑い声が上がった。
「なんで溝ができるんだよ!」
「ちょっ、他人感がすごい! 謎すぎる!」
「大輔さん、やっぱりこの二人が今から名前呼びも違和感ありません?」
「はは、それもそうだな!」
「あ、っていうかこんなことしてる時間ないですよ!」
「やべ」
 話題を振った側の二人はさも楽しげに盛り上がって好き放題言い、言うだけ言ったかと思えばそれじゃあそろそろ、とあっさり去っていった。
「……嵐だな」
「ほんとですね……」
 残された二人は苦笑を重ね、なんとなく置いていかれたような状態になったことに釈然としないまま昼食をとるために大学を後にした。
 気を取り直し、なにを食べようかと話しながら歩いていたところで降谷の携帯が鳴る。なまえはどうぞと視線で促して降谷が携帯を開くのをなんとなく見つめた。するとすぐに降谷は「あ」と声を漏らしてなまえを見た。
「みょうじ、4限休講になったらしい」
 4限はなまえも降谷と同じ講義を取っていた。
「あ、え、そうなんですか?」
意外な一言に目をしばたかせていると降谷が友人からだろう、休講の旨を伝える文が載った画面を見せてくれた。
「あー、でも補講は嫌だなぁ……」
「だな……。あと、今日はどうする?」
携帯をしまった降谷が問いかける。なまえは肩にかけた鞄を持ち直しつつ言葉を返す。
「降谷さんはどうします? 個人的には降谷さんがよければなにか食べて帰りたいなーって感じです」
「じゃあせっかくだし食べに行くか」
そう笑った降谷になまえが大きく頷き返し、二人はなにを食べるかさっそく考え始めた。
「冬といえばお鍋とかですかね?」
「温まるよな」
「けどこの辺にそんなお店ありますかねー」
「なさそうだな……。時間もあるし移動するか?」
「わー、そうしましょう!」
 道の端で立ち止まり、携帯を開きつつ顔を突き合わせて店を決める。すぐに予約が取れそうだったため降谷が電話をかけてから移動し電車に乗り込んだ。
 店に到着すれば予定よりも幾分か時間が早かったもののすぐに席へ案内され、注文を済ませれば30分ほどで頼んだものが運ばれてくる。やけどに注意するよう促す店員になまえは降谷とそろって笑みを返し、さっそくテーブルにある箸を二つ手に取って片方を降谷に手渡した。
 なまえは降谷からの礼を半分聞き流しつつ、鍋に向き合う。
「わー、おいしそう! いただきます」
「いただきます」
 なまえは器に移したうちから白菜を口へ運ぶ。トマトベースの鍋のため、口に入れた瞬間にほんのりとした甘みが広がった。
「おいしいー、幸せー」
「おいしいな」
「ですねー。降谷さんのは豆乳ベースですか?」
「ああ。みょうじ、食べるか?」
「あ、ください! 降谷さんもこっちどうぞ」
 空いている器に取り分けて渡しながらふと、先ほど奈緒美たちに指摘された名前の呼び方について思い出した。
きっとなまえにとっても降谷にとっても名前は単なる記号でしかないからこそ、いい意味でこだわらずにいられるのだろう。
 自分たちが名前の呼び方を変えたところで距離が縮まるわけではないし、そもそもこれ以上縮めるというほどの距離もない。呼び方がどうであれ、なまえと降谷は親しいのだと胸を張って言えることは間違いなかった。もちろん、声を大にして言えるかというと気 恥ずかしいため、また別問題ではあるが。
 なまえがそんなことを考えていると不意に降谷と目が合い、どちらからともなく視線で笑みを交わす。それは親しい友人同士でしか共有できないであろう、他愛ない楽しさを含んだものだ。
「おいしいです」
「ほんと、おいしいな」
 降谷に対して言うともなしにつぶやいた言葉は拾われて返される。
 ただそれだけのことにすぐそばにある幸せを改めて感じ、なまえはその温かさをゆっくりと噛みしめた。


ホワイト・エレファント