「……モールス符号、ですか?」
 少しの沈黙。それから、ふわりと空気が緩む。
「正解」
 よくできましたというような笑みで降谷が言った。
 二つの記号で表すことができてミステリの定番でもあるモールス符号だ。有名なものはSOSの「・・・―――・・・」だろう。もともとは航海中の船舶が難破し救助を求める際に使われていた信号だったが、現在では転じて救助を求める一般事項にも使われる。
「……ほんとうに、ほんとうに、意地が悪いですねこの問題!」
 モールス符号とわかっても、単語がわかるわけがない。職業柄必須とされる場合を除けばむしろ理解できる降谷のような人が少数派だろう。熱心なミステリマニアにはわかる人も多いのかもしれないが、なまえは小説に関しては推理も嫌いではないが読んで楽しむ派である。
「ほんとうにね。意地が悪いというか、解かせる気がなさそうだな」
「……景品に期待が高まりますね」
 遠い目をしてなまえがつぶやけば、降谷は「棒読みだなぁ」と苦笑した。
「答え、なんだったんですか?」
「”talk”だったよ」
「日本語ですらない……」
 この会場の中にモールス符号、しかもを欧文のものを暗記している人は何人いるのだろう。少なくとも、近くの席で頭を抱えている二人組は違うようだ。
 とりあえず気を取り直して紙をもう一度じっくりと見ることにする。
「えーと、全部答え出ましたよね? 合わせると……」
 なまえが熟考の姿勢に入ったのを降谷は静かに見守っている。
 Q1がtalk、Q2がTO、Q3がKing & Ace、つまりTalk to King & Aceということか。KingとAceは13と1。11人の中で名前に数字が入っているのは一水だ。仁科も数字といえばそうかもしれないが、ここでは関係がない。Aceは一水のことだろう。Kingはおそらく13ではなく、王様のほうの意味。ということは、王木のことか。王木と一水に話しかけろという意味、で合っているのだろうか。
「ええと……」
「わかった?」
「たぶん」
 自信なく返すと、降谷はそればっかりだなぁとのんびり笑った。
「答えは?」
「……王木さんと一水さんに、話しかける……?」
 降谷はじっとなまえの目を見つめ、一度まばたきをした。
「……惜しい」
 もう少し、と励ますように付け加えられる。降谷の手が持ち上げられ、きれいに整えられた人差し指の爪先がとん、と紙上の一部分を示した。Q3のAnswer:□&□と書かれた箇所だ。
「ううんー?」
 集中してその場所を睥睨する。気になるのが四角の空欄だ。答えを書くスペースが小さい。ということは頭文字のKとAを当てはめることになる。答えを書き込むとすれば、K&Aだ。KとA。いやAnswerとわざわざ表記されているのだから英語のはず。
「…………あ」
「わかった?」
「た、たぶん……」
 小さく息を吸い込んで答えを口にする。降谷の表情をそっと窺えば。
「……うん、正解」
 やっとここまでたどり着いた。
「はぁー……。いや、でもこれ、モールス信号の解ける人ってそんなにいます……?」
「あまりいないんじゃないかな……」
 知らない間にモールス信号の暗記が常識という世界になっていなかったようで安心する。
「……ですよね」
 もしかしてモールス信号では、いやでも覚えてないし、などと小声で相談している二人組になまえは心の中で合掌した。これは解けなくても仕方がない。悔しいだろうけど。
「まあ、一息入れようか」
「そうですね」
 ひとまず謎解きは置いておき、コーヒーを飲みながらゆっくりして、それからほかの人たちと談笑でもしようということで落ち着いた。




 降谷との会話が途切れたところで周囲に視線をやると、よく知った顔が並び立ちおしゃべりに興じていることに気づいた。幹事でもある神田毬と栗幅有菜だ。
 神田と栗幅はなまえのひとつ上の学年、つまり降谷と同い年だ。神田が小柄で髪型はショートカットの癖毛、栗幅がすらりと背が高く髪はストレートでロングと対照的だが、二人は雰囲気がどことなく似ており、もともと仲が良かったとなまえは記憶している。
 神田と栗幅とともに降谷と興味のある分野がかぶっていたようでよく話していたし、なまえもずいぶんと世話になった先輩たちだ。
「毬、有菜」
 降谷が先に声をかけた。同時に二人の視線がこちらへ向き、彼女たちは喜色と驚愕を混ぜた表情を浮かべた。
「うわ、零!」
「うわ、久しぶりー」
「うわって、ひどいな」
 降谷の苦笑はさらりと受け流された。なまえも気にせず二人へ軽く会釈をする。
「毬さん、有菜さん、お久しぶりです」
「なまえちゃんも久しぶり!」
「二人とも全然雰囲気変わってないねー」
「それは二人もだと思うけど」
「このメンバーで発表のときあったよねー」
「懐かしいですね」
 ひとしきり思い出話で盛り上がる。今までほとんど同窓会には出ていなかったが、こうして仲の良かった人たちと話せるのはなかなか楽しい。在学時の思い出から今の職業まで全員が一通り話したところで、不意に話題が変えられた。
「……もしかしてなまえちゃんと零、謎解き中?」
 会話の切れ目に栗幅が降谷の持つ封筒に視線をやってからいたずらっぽく首を傾げた。
「そうなんです」
「どう? 難しいでしょ?」
 ふふ、と神田が笑う。降谷はそれに少し呆れたような表情をつくってみせた。
「これ、解き方がわかっても答えにたどり着けない人が多そうだけど?」
「お。ということは解けたのかな?」
「一応は」
 降谷はそう短く答え、一拍置いてから口を開いた。
「答えは、Talk to Kanda、つまり神田毬に話しかける」
 K&Aは、K and A、つなげて読むとKanda。幹事たちが全員名札をつけているのは、企画のためというのがいちばんの理由なのかもしれない。図らずも熱意を再確認してしまった。
「うっふふふふ、だいせいかーい!」
 神田は小声で叫ぶという器用なことをしてみせて満面の笑みを浮かべ、これを差し上げよう、と芝居がかった声色で持っていた鞄から封筒を差し出した。
「毬さん、これは……?」
「問題の続きでーす」
 にっこりときれいな笑顔でなまえにそれを手渡し、楽しそうに栗幅と顔を見合わせた。
「え」
「まだあるのか……?」
「この企画、みんなかなり熱を入れていたからねぇ。同窓会より謎解きがメインじゃないのって思うくらいには」
「有菜の言うことは真に受けちゃだめだからね。会場も吟味したんだから。ここすごいの、最初に設備の説明はしたと思うけど、リラクゼーションルームも利用できるし、だれでもパウダールームでヘアアイロンとかドライヤーも使えるの。結構こだわったんだよ?」
 熱弁する神田は少しばかり幼く見える。同じようなことを思ったのか、降谷は彼女を見て口元をほころばせた。栗幅は神田に呆れつつもやさしげに微笑んだあと、なまえと降谷へ視線を合わせてから楽しげにまばたきをして話題を変えた。
「確かに設備もすごいんだけど、料理もすごくおいしいんだよ。もう食べた?」
「いえ、まだ」
「なくなる前にぜひ食べていってね」
「そうするよ」
「謎解きもがんばって!」
 手を振ってくれた二人に同じように返し、降谷となまえはその場を離れた。
「……ずいぶん凝ってるんだな」
「……ほんとうに」
 それ以上言葉が出なかったのは申し訳ないけど、ちゃんと楽しんでいるから許してほしい。



「降谷さん、私お腹空きました。降谷さんもなにか食べませんか?」
 ちょうど目の前を通過した、見知らぬ人が持っていた皿にはおいしそうなキッシュ・ロレーヌ。頭を使ったり話したりと濃密な時間を過ごしたからか、空腹感を覚える。
「そうだね。食べようか」
 なまえと同じものを視線で追っていた降谷も同意し、二人はビュッフェテーブルへと足を向けた。
「サラダもおいしそう。あ、ローストビーフ……トマトもいいなぁ。あ、チキンもおいしそう」
「デザートの計算も忘れずにね」
「降谷さんこそ」
 わいわい言い合いながら皿に料理を盛りつけていく。降谷が取っていたキャベツのマリネがおいしそうだったのでなまえも自分の皿に少量を乗せた。和洋中なんでもそろっているから目移りしてしまう。
 なまえは迷いつつ食べるものを取捨選択し、2回目にあのローストビーフを食べようと固く心に誓ってトレーの端に新しいドリンクを追加してから降谷とともに席に着いた。
 いただきますと手を合わせ、食べながら会話を交わす。どうやら降谷の職場では最近チョコレートがはやっているらしい。
「チョコレート流行発祥の地は?」
「壮大に聞こえる表現だな……。俺の隣のデスクだよ」
 とても近い。
「最近、彼女にチョコレートブームが来ているらしくてほぼ毎日お裾分けっていって両隣に配ってくれて、それがおいしくてね」
「チョコレートは人生を豊かにします」
 すばらしい隣人ではありませんか、となまえが真面目な声色をつくれば、降谷はこらえきれず吹き出した。
「はは、その言い方おもしろい。……それで、彼女の両隣……俺ともうひとりもチョコレートにはまって買い込んで各々両隣にお裾分けをしたら、その輪がどんどん広がっていってね」
「降谷さんほぼ源流じゃないですかー」
「はは。近くのコンビニのチョコレートコーナーが充実しているからつい試したくなるんだよ」
 チョコレートを極めつつある降谷におすすめのものを訊いてみると、彼は携帯を取り出して画像フォルダを開いていくつか写真を見せてくれた。画面の8割ほどがチョコレートのパッケージで埋まっていたのはきっと気のせいではない。
「チョコレート専門店のものがおいしいのはもちろんですけど、コンビニで売っているのも侮れませんよねぇ。今度おすすめの買ってみます」
「ぜひ職場で広げてきてくれたまえ」
 わざとらしく大仰な口調になってみせた降谷も大元の彼女に劣らずなかなか熱心なチョコレート信者であると思う。そして思いのほかチョコレートの話題で盛り上がった。
 2回目に取りに行った分の料理も消費して、今度はデザートを盛りつけた皿をテーブルに運ぶ。降谷もなまえと入れ替わりにデザートを持ってきて席に着いたところでようやくチョコレート談義に区切りがついた。
「降谷さん、それは?」
「ババロアだよ。あとはチーズケーキとモンブラン。みょうじはなににしたの?」
「いちごタルトとゼリーとマカロンです」
 そっちもおいしそうと互いに言いつつ、新しく持ってきたコーヒーを飲んでひと息つく。
「おいしかったー。……降谷さん、こっちの中身も確認してみません?」
「そうだね。見てみようか」
 降谷の返答を聞き、なまえは神田から渡された封筒を開けた。中には先ほどと同じ形の小さく厚い紙が2枚と、三つ折りにされたA4のコピー用紙が1枚入っている。
 小さいほうの紙から見てみる。左上にQ2と書かれており、隣には『The Wild Swan』とあった。その下部には問題文らしきものが書かれている。ただし、文章がお行儀よく並んでいるわけではない。アルファベットが大きさや角度もぐちゃぐちゃに、単語を分解して上から適当にばらまいたかのような配置がされている。大文字は三つのみ。AとCとH。ほかはすべて小文字だ。f、e、o、t、k、d、i、h、r、r、n、iが紙面を飛び跳ねている。

 次にQ1と書かれているものをテーブルの真ん中に置く。こちらも先ほど同様小さな紙だ。
『Q1.7目と9目のウサギにさようなら。
 GHEIREMENASERIHCAHRA』
 よくわからない。降谷が小さな紙2枚を手に取って眺めているのを一瞥し、なまえは続けてA4の紙を広げた。そこには問題番号は振られておらず、ただひたすらに似たような文章が羅列されていた。書き込めるようにしているのか、行間は広めにとられているため読みづらいとは感じない。下部には長方形の空欄が等間隔に13個あり、左上の最初の欄にはアオと書かれている。そして空欄の間に右方向を指した矢印が並んでいる。
 問題文は以下の通りだった。
『アオウサギはアズキウサギをつかまえた。アオウサギにつかまえられたウサギはスナイロウサギをつかまえた。スナイロウサギはモエギウサギをつかまえた。ミドリウサギをつかまえたウサギはアズキウサギにつかまえられたウサギがつかまえたウサギにつかまえられた。スナイロウサギにつかまえられたウサギはミドリウサギをつかまえたウサギをつかまえた。ミドリウサギがつかまえたウサギはサンガツウサギをつかまえた。サンガツウサギにつかまえられたウサギはルリイロウサギをつかまえた。シロウサギはアイイロウサギにつかまえられたウサギにつかまえられた。アイイロウサギはサンガツウサギをつかまえた。アイイロウサギをつかまえたウサギはハイイロウサギにつかまえられ、ミドリウサギをつかまえたウサギはスナイロウサギにつかまえられたウサギにつかまえられた。コガネウサギはサンガツウサギにつかまえられたウサギがつかまえたウサギにつかまった。クリイロウサギをつかまえたウサギはシロウサギにつかまえられたウサギにつかまえられた。インディゴウサギはルリイロウサギにつかまえられたウサギがつかまえたウサギにつかまえられた。フジイロウサギはコガネウサギにつかまえられたウサギがつかまえたウサギにつかまえられた。』
 どうやら下の解答欄へウサギの色を順に書き込んでいけばいいようだ。
 頭を使うというよりは機械的な作業と目の運動が求められる問題に見える。なかなか時間がかかりそうだ。気後れするとは言わないが、思わず素直な感想が口をついて出た。
「うわぁ、ウサギ」
「え、ウサギ?」
 降谷が持っていた紙から顔を上げた。なまえが問題を見せると、なるほどと苦笑する。
「時間がかかりそうな問題だな」
「……これを解かないとなにもできませんよね……」
 紙を降谷にも見えるような角度でテーブルに置き、降谷が二つの正方形の紙を恥に寄せたのを横目で確認しつつ手帳と万年筆を取り出す。
「これもそれぞれ解いて答え合わせ、ですかね?」
「せっかくだからそうしようか」
 なまえに倣い降谷がボールペンを片手に手帳を開いたところで沈黙が落ちた。


ホワイト・エレファント