なまえは会社のデスクの前でほっと息をついた。急ぎの仕事を終えた彼女は定時も過ぎているため帰宅の準備をしようとパソコンの電源を落とす。
 なまえの勤めるセキュリティ会社はふだん忙しい反面、定時上がりを推奨する動きにある。そのため午後6時を半分以上回った現在では多くの社員が仕事を終わらせていた。もちろんなまえもそのうちのひとりである。
 なまえはパソコンの画面を見続けたせいで疲れた目を閉じ、数秒かけて開いてから帰り支度に取りかかる。ずっと同じ体勢でいたからか、立ち上がると頭から腰まで凝り固まっている感覚がした。
 今日は特に何も予定を入れていないから簡単にごはんを作って好きなことをしよう、となまえはひそかに決める。ここ最近はストーカー被害や引っ越しなどで忙しかったため、ゆっくり過ごせる金曜日など久しぶりだった。
 資料を届けに行く仕事が残っているという同僚にお先にとあいさつをしてエレベーターに乗り込む。キーボードを叩く音や電話の呼び出し音という仕事から遮蔽された空間に入ると、自覚していなかった疲れがどっと押し寄せてきた。
 なまえは冷えた手を自身の額に当ててエレベーターを降りた。
会社を出たところでタイミングよく携帯が電話の着信を告げた。画面には安室透と表示されている。なまえはなんの用事だろうかと内心で首を傾げつつ液晶画面に指を滑らせ、ロックを解除して通話ボタンをタップした。
「もしもし? みょうじですが……安室さん、ですか?」
『はい、安室です。こんばんは』
「こんばんは」
 安室の声とともに町中のざわめきが聞こえてくる。繁華街にでもいるのだろうか。なまえがそんなことを考えながら要件を聞こうとしたとき安室が口を開いた。
『みょうじさん、仕事は終わりました?』
「え? ええ、はい。今終わってちょうど会社を出たところです」
 それはタイミングがよかったと笑い、安室がひと呼吸おいてから続ける。
『突然なんですが、もしなまえさんの都合がよければこれから夕飯でも食べに行きませんか?』
 唐突な提案になまえは一瞬息を詰まらせた。しかしそれを安室に悟られないよう感動詞をつないで間を持たせ、予定を頭の中で振り返るように見せかける。
「ええと、大丈夫です。ぜひご一緒させてください」
 なまえに断る理由はない。動揺を隠してすぐに返事をすれば安室が電話の向こうで小さく笑った気配がした。待ち合わせる時間と場所を決めてから通話を終了し、なまえは電車に乗るため駅へ向かう。
 なまえは待ち合わせに決めた駅前で予定通り安室と落ち合うと近くの店に入った。完全個室となっている店のため、店員に案内された席に着けば喧騒からは切り離され、ほどよいざわめきに包まれる。
 ファーストドリンクを注文し、それを待っている間、二人は無言だった。なまえは安室が口を開かないのをいいことにひとり自分の考えに浸る。
安室から電話を受けたときに、いや、連絡先を訊かれたときにはすでに、利用されるのではないかと思っていた。
 安室透は降谷零である。それはなまえの中でだけではなく絶対的な事実だった。そして彼はなまえの勤め先はもちろんのこと、なまえの友人の職業も知っている。
 なまえが降谷零と知り合ったのは大学1年のころだ。出会ってからともに過ごした年月は決して長くないが、彼は頭の回転が速く優秀で世渡りもうまい人物だったと確言できる。ひとつ学年が違うため降谷となまえが大学で一緒に学んだのは三年間であり、実際に会ったり話したりした時間はもっと短い。降谷が卒業したあとも、連絡こそ取っていたものの会った回数は数えるほどしかない。それも3年も経たないうちに途絶え、音信不通になった。
「失礼いたします」
 声ののち店員が顔を見せ、お待たせいたしましたという言葉とともに頼んでいた飲み物をテーブルに置く。それに続けて店員は追加の注文を訊き、なまえと安室がそれぞれ適当なものを頼むと下がっていった。
 二人の間には再び沈黙が下りる。なまえはもう一度意識を思考の底に沈める。
 降谷の卒業後の進路は本人から聞いていたし、なまえの就職先も内定祝いと称して二人で食事に行ったときに話した。そのときになまえと同学年で降谷と面識のある友人らのことも話題に上っている。
 そして、安室透は現在探偵という立場にあり、降谷零はかつて警察学校を卒業後に警視庁に在籍していた。そのことは何を意味しているのか。安室透と名乗っているのはなぜなのか。なまえが大学時代の後輩にあたることを小五郎たちに伏せた理由はなんなのか。
 連絡が途絶え、消息が不明なだけでは思い至らなかったが、再会したことでいくつか考えられることはある。しかしその考えから続く安室がなまえと接触する理由はいずれにしろ「利用すること」ただひとつだ。
 もちろんひと口に利用と言っても、情報という明確なものから人脈という曖昧なものまでさまざまある。安室がどれを求めているのかなまえにはわからないが、少なくともなまえやなまえの友人は安室とは畑が違うから多方面に人脈を広げられることは間違いないだろう。
「みょうじさん、お疲れですか?」
 不意に飛び込んできた声になまえははっと顔を上げた。安室と目が合う。彼はなまえを窺って微かに首を傾けた。
「あ、いえ。すみません、考え事をしてしまって……」
 かぶりを振って否定の意を示し、ごまかすようにグラスに口をつける。冷たい液体を申し訳程度に流し込んだなまえはグラスを置くと話題を変えた。
「そういえば、安室さんは毛利さんたちと夕食とかよく行かれるんですか?」
「いえ、そんなには多くないです。むしろポアロに来ていただくことの方が多いですね」
 小五郎たちはポアロでアルバイトをしている安室の同僚の女性とも仲が良く、たびたび店に足を運んでいるらしい。安室から見た小五郎たちの姿はなまえが依頼人として訪れて触れた彼らと少し違っており、話を聞くことは面白い。
 安室となまえは運ばれてきた料理を食べつつ共通の話題で会話を続ける。
 なまえは安室の話を聞きながら頭の中で考えを巡らせた。なぜ彼はなまえの仕事について触れないのか。友人について尋ねてこないのか。情報でも人脈でも、以前親しかった相手だ。いくらでも踏み込めるはずなのに。
 そこまで考えてなまえはもう一度グラスにくちびるを触れさせた。「親しかった」のだ。そう、確かになまえは降谷と親しかった。しかしそれは過去の話であり、なまえにとっての降谷が変わらなくてもその逆が同じとは限らないのだ。なまえの知る降谷零は友人を簡単に切り捨てるような人間ではないが、年月は人を変容させる。
 安室透と名乗り性格を変えたところまではつくったものだとしても、彼の奥から感じられる性質のようなものが変わらずにあったとしても、安室透の「過去」に分類されるなまえが彼の中でどう扱われるのか。
 なまえは内心で自嘲した。
 結局のところ、なまえは期待をしない方へ考えを傾けて自己保身に走っているだけだ。自覚はしている。ただ、そうしないと自分にとってつらい事実に直面したときに冷静でいられない。冷静でいられなくなるくらい、降谷はなまえの中で大切なのだ。
 大学に在学中からなまえにとって降谷は尊敬する相手であると同時に馬が合う人物であり、単に先輩というくくりでは表せない特別な人だった。降谷と連絡が取れなくなってからの5年はだんだんと彼の影は薄くなり思い出すことも少なくなったが、再会してしまえばかつてともに過ごした日々は残酷なほど鮮やかに脳裏に浮かんでくる。
 彼に無関心でいられることがいちばん苦しい。無関心でさえなければもうそれで十分だと、わだかまりなく思えてしまえればいいのに。
「みょうじさん、何か飲みますか?」
 ほぼ同じタイミングで二人のグラスが空になったため、安室がなまえにも見えるようにメニューを広げて問いかける。
 会話が途切れることなく続いているため、二人とも食べ進めるよりも飲み物が減るペースの方が速い。なまえはアルコールに弱くはないが強くもないから、食べ物をあまり入れないまま2杯目を飲み終えた今、すでに酔いが回っている感覚がする。本来であれば飲む量を控えるべきなのかもしれないが、今日は飲みたい気分だった。
「じゃあ私、これ頼みます」
 安室もメニューに目を走らせすぐに頼むものを決めると店員を呼び、二人は各々注文をした。数分もすれば別の店員が新しいグラスを届けに来た。空になったものと交換し、空いた皿も手に持つと店員は丁寧に頭を下げてから去っていった。
 二つのグラスだけが残されたテーブルをなんとなく見渡してから、なまえは手元に自分の飲み物を引き寄せ淡く白みがかった液体を口に含む。
「みょうじさん、お酒は強いんですか?」
「私は……うーん、弱くはないですけど強くもないと思います。飲むのは好きなんですけどね」
 みょうじが苦笑気味に言えば、安室は自身の持っているグラスに口をつけてから言葉を返す。
「けどみょうじさんが飲んでいるホワイト・レディって、結構アルコール度数高いですよね?」
「あ……はい。けど、ちょっと飲みたくて」
 なまえはグラスを持ち上げたまま縁越しに安室へ微笑み、乳白色へ視線を向ける。平静を装っているが、気を抜くとふらついてしまいそうだった。
「大丈夫ですか?」
 なまえがぼんやりとしていたため安室は声に心配だという色を織り交ぜて尋ねたが、なまえ本人は大丈夫だと返してホワイト・レディをひと口含む。柔らかい言い方だが話を切るようなタイミングでのなまえの返答に安室は一度口をつぐんだ。
 なまえは酔いと勢いに任せるように、その合間に言葉を挟む。
「安室さんは、毛利さんに弟子入りしているけど、一応独立した探偵さんなんですよね?」
「ええ、そうですよ」
 確認するなまえの口調に不思議そうな顔をしつつ安室は頷き返す。なまえは小さく息を吸って口を開いた。
「じゃあ、探偵なら」
 二人の視線が正面から絡む。
「私のこと、利用してみせてくださいよ、ねぇ、安室さん」
 ふわりと軽い口調で言ってみせたなまえは誰に向けるともなしにほっと力が抜けたような緩い笑みを浮かべた。しかしその目にはうっすらと膜が張っている。
 なまえは困ったように微笑んだ安室にふっと口元を綻ばせる。そして「なーんて。冗談ですよ」とふざけた声色で付け足し、グラスの中身をすべて飲み干した。
 なぜ彼はなまえの仕事や友人について踏み込んで訊いてこないのだろう。探偵だというのなら、偽名を使っているのなら、理由のわからない優しさよりも、もっとわかりやすい「利用される立場」でいた方が踏ん切りがつくのに。
 安室のグラスも空になったためどちらからともなく席を立った。会計を済ませて店を出ると、二人は並んで駅の方面へ歩き出す。安室もなまえも自宅が歩ける距離にあるため電車には乗らずに大通りに出た。
 他愛ない会話を交わしながら夜道を歩くのは、まるでなまえと安室の二人が気心の知れた友人であるような距離感にさせる。なまえは体温とは反対に冷静な頭でそんなことを思った。
「あ、すみません」
なまえがつまずいてふらつくと、安室が腕を掴んで転ばないように支えてくれる。礼を言おうと顔を上げると、安室は少し困ったような表情をのぞかせて眉をひそめつつなまえを見た。だいぶ酔っていると見抜かれてしまったらしく、安室がなまえの自宅まで送るか送らないかで押し問答になり、結局安室の家の方面もなまえと同じだというので安室に付き添われる形で帰宅することになった。
「送ってくださってありがとうございます」
 なまえは自宅のマンションの部屋の前まで来ると安室に頭を下げると、ふらりと身体が揺れた。家に着いたことで気が抜けたのか、力が入らずドアにもたれかかってしまう。まだ頬が熱を持っていた。
 今なら責任転嫁ができる。アルコールのせいだと言ってしまえる。なまえは俯き加減で口を開いた。
「降谷さん」
 なまえと向かい合って立つ彼は何も言わない。目の前の彼に呼びかけたはずの名前は宙に浮かんで消えた。
「……降谷さん」
 私のこと、利用してみせてくださいよ、ねぇ、降谷さん。そう言いたかった。
 なまえはただ静かに泣いて立ち尽くす。なまえの前にいる彼は無言を貫き、店にいたときとは違って気まずい沈黙が続く。泣いたせいで痛みを訴えるなまえの頭は、しかし鈍らずに動いている。
「安室さん」
 涙を拭ってから視線を上げ、目を合わせて名前を呼ぶ。
「はい」
 安室は普段と変わらぬ様子で返事をした。
なまえはぐっと奥歯を噛みしめてから息をそっと吐き、詫びの言葉を口にする。
「引き留めてしまってすみません」
「いいえ、お気になさらず。酔いは醒めましたか?」
 何事もなかったかのように安室が答え、なまえもふだんと同じ佇まいで通して礼を言う。
 どこか遠くでサイレンが鳴るのを頭の片隅で聞きながら、なまえは安室と視線を合わせたまま口元で笑みを形づくった。
「それじゃあおやすみなさい」
「おやすみなさい」
 安室は以前と同じように柔らかく目を細めてあいさつを返すと、踵をめぐらせて帰っていく。
 なまえは安室の背中が遠くなるまで見送ってから家へ入った。そして電気もつけないままリビングに荷物を置き、深閑とした室内で物思いに沈む。
 涙をこぼしたからか、頭痛はあるが意識は研ぎ澄まされていた。なまえははっきりとした頭で先ほどのやり取りを反芻する。
 彼が「降谷」という呼びかけに応じなかったのは、嘘をつきたくなかったからだと解釈してもいいのだろうか。けれど嘘をつきたくなかったとしても、それは誰の、何に対する優しさなのだろうか。
 なまえには、どうやってもわからない。人の考えなんて、ましてやずっと離れていた相手の思っていることなんて。
「わからないですよ、ほんと」
 涙が一筋、なまえの頬を伝った。降谷にぶつけられずに飲み込んだ感情は、内側からなまえに突き刺さる。
 震えた声でつぶやかれた彼女の言葉は誰にも知られることなく静寂に立ち消えた。



 昨晩から今朝方まで降り続いていた雨は止んだが、空は雲に覆われ鉛色をしている。
 なまえは仕事を終えて会社を出たその足で米花駅方面に向かっていた。空模様が気になり、電車に乗り込むと携帯からインターネットに接続して天気予報の画面を開く。予報では深夜から雨が降るらしい。
 なまえはこれから安室と食事に行く約束をしていた。夕食を一緒にどうかと誘ったのはなまえの方からだった。昨晩のうちに安室と連絡を取って待ち合わせの場所と時間を決め、店も予約した。
 しかし、いくら親しげな会話をかわそうと、なまえはいまだに安室との距離を測りあぐねていた。
 安室が誘いを断らないということは、なまえとの縁を切らなくていいと思っているのだろうか。安室の意図ははっきりと掴めないが、それでもなまえはできる限り彼に近づいてみたかった。



 なまえと安室が入った店は酒と料理の質が高く、雰囲気もよかった。
 店の空気がそうさせたのか、それともなまえが無意識に個人的な話題を避けていたからか、相手の懐に踏み込むような会話はなく他愛ない話に花を咲かせた。
 2時間ほどで店を出たなまえと安室は以前と同じように歩いて帰ることにした。
 なまえは安室と並んで歩きながら話を続ける一方、頭の片隅ですっかり酔いが回ってしまったことをぼんやりと意識する。アルコールを摂取すると顔が赤くなってしまうのはいつものことだが、身体を支えるのに気を回さなければならないほど酔うのは久しぶりだった。
 気を抜くとすぐに足元がおぼつかなくなりそうで、なまえは安室にそのことを悟られないように意識して歩く。
しかし前回のこともあってか安室はなまえの状態も考えも看破していたらしい。さりげなく歩調を緩める安室に気づき、なまえは内心で哀情めいた苦笑を浮かべた。見抜かれたところでふらついたり転んだりといった醜態をさらすつもりはないが、その気遣いには頭が下がる思いだった。
 しばらく歩いたところでなまえの住むマンションに到着した。エントランスを抜けてエレベーターに乗り込むと、箱の中で稼働音が妙に大きく響いた。
 エレベーターを降り、廊下に出た安室はなまえの半歩後ろを歩く。斜め前を歩く彼女の足取りはしっかりとしていたため安室は心なしかほっとする。
 しかし安室の安堵をよそに、部屋の前まで来た途端になまえの張りつめていた緊張の糸が切れた。なまえは鍵を取り出し鍵穴に差し込もうとしたが、力が入らずに手から落としてしまう。それを拾うために屈もうとすれば身体が傾いて転びそうになった。
「大丈夫ですか?」
 咄嗟に安室がなまえを支えたため転倒することは免れたが、なまえは道すがら気を張っていたためか、それともアルコールが抜けていないせいか、彼に身体を半分預ける形で虚脱している。
「すみません……」
 謝るなまえに気にしないよう返した安室が落ちていた鍵を拾い上げ、彼女の代わりにドアを開けた。
「部屋、入りますよ?」
「はい」
 安室はなまえに断りを入れ、彼女を支えたまま玄関に立った。なまえは安室に腕をとられてリビングまで歩く。
 なまえをソファーに座らせた安室は彼女に水を飲むかと尋ねた。なまえがお願いしますと返せば、安室は頷いてから「開けますね」と彼女の許可を取りキッチンの棚のグラスに手を伸ばした。
 なまえは緩慢な動きで体勢を変え、彼の背中を見ながら口を開く。
「水は冷蔵庫に……」
 安室はそれだけ聞くと冷蔵庫から2リットルのペットボトルを取り出し、グラスに注ぐとソファーに気だるげに腰かけるなまえに渡した。
「すみません、ありがとうございます」
 なまえは受け取ったグラスに口をつける。ひんやりとした液体がのどを湿らせていくのを感じ、ほっと息を吐いた。
 冷たい温度がほてった身体に心地いい。ほんのり甘く感じる水をさらにひと口含む。
 重くない沈黙と安室の優しさになんだか無性に泣いてしまいそうになり、なまえは込み上げてくるものを押しとどめるようにグラスに残った水を飲み干した。しかしその努力も虚しく、彼女の涙腺は決壊し涙が頬を伝う。
 安室が俯いて泣くなまえの手からグラスをそっと取り上げてテーブルの上に置いた。なまえは安室の動作を目で追ってから視線を爪先に向ける。手の甲に冷たい雫が落ちた。
 この人の前では泣いてばかりだとなまえは遠くなった日々を霞がかった頭で思い出す。ゼミでの発表に失敗してしまったときも、勉強がうまくいかずに思い悩んだときも、泣きながら彼に話を聞いてもらった。本当に泣いてばかりで笑ってしまいそうだ。
 けれど、泣くところを見られても、弱いところは知られたくなかった。いまなまえがさらしているのは、伝えたい気持ちではなく隠しておきたかった弱い部分だ。
「私、泣いてばっかりですね。すみません」
 立ったままの安室の首元を見上げて口を開く。視線を合わせることはできなかった。
「いえ、大丈夫ですよ」
 穏やかに言って首を振る目の前の彼は、なまえがなぜ泣いているのかわかっているのだろうか。置いていかれた側の気持ちを理解しているのだろうか。降谷零ならなまえの心を見透かして苦笑しながら知っていると言うかもしれない。しかし、安室透はどうだろうか。
 なまえは降谷零のことならわかるが、安室透のことは知らない。
「それじゃあ、僕はそろそろ帰りますね」
 口を開いた彼になまえが呼びかける。
「……降谷さん」
 呼びかけられた相手のはずの彼は表情を変えずになまえを一瞥する。そして何事もなかったかのようにもう一度「帰りますね」と言って背中を見せた。
「降谷さん」
 なまえはソファーから身体を離して立ち上がり、再び彼の名を口にする。安室ではなく降谷に話しかけているのだと確認するように繰り返された名前には、しかし誰も言葉を返さない。
 なまえは今までの安室との会話を思い出した。そして、ずっと考えていたことは合っているのだと彼の背中を見つめながら確信を深める。
 なまえがどうやっても知ることができないことは、彼が安室透を名乗り、降谷零としてなまえと話さないその理由だけだった。しかし、それ以外ならわかっている。
 彼の行動の意味を、意図を、考えた。彼の感情や気持ちを織り込んだうえで推測することならできた。そしていまの立場の危うさも。
 本来であればきっと、降谷零を知るみょうじなまえが安室透と会うことはなかったのだろう。しかし、会ってしまった。出会うべきでなかったのに、ここでこうしている。彼が知らないうちに姿を消してしまう可能性は十分にある。そしてそれはなまえがひどく恐れていることでもあった。
「いかないでください。降谷さん、おいていかないでください」
 彼女の手が彼の袖口を掴んだ。
 なまえはもう降谷に置いていかれたくなかった。親しい相手と突然連絡が取れなくなり、ショックを受けた。時が流れ思い出すことも少なくなったその記憶は、しかしいまでも不意に顔を出してはなまえの心に小さな傷を残していく。
 もう何も言わずに消えていってほしくなかった。せめて、もし再び離れようとするのなら明確な答えがほしかった。
確かになまえは彼のすべては知らない。けれど、知らないで笑って過ごすより、苦しくても傷ついても真実を知っている方がずっといい。
 いまこの人と離れてしまえば、もう二度と会えなくなってしまうかもしれない。そうなればなまえに彼を知ることはできなくなる。
 離れたくない、消えてほしくない。降谷に対して願うなまえは彼の、「降谷零」としての答えがほしかった。
 しかし、なまえが呼びかけるのは降谷零ではない。
「……安室さん」
 裾を掴むなまえの手をそっと外した彼が振り返った。
 降谷零はなまえに応えない代わりに嘘もつかない。彼は存在しているが、ここにはいない・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ のだ。安室透としてこの場にいる降谷としては、なまえに何も言えないのだ。
 しかし、言い換えれば安室としては返事ができるということでもある。さらに換言すれば、「彼」に対して正しい認識をしているなまえにとって、安室としての言葉は降谷としてのそれになり得るのだ。
 だからなまえは安室透に対して口を開く。いま何かを言えば「安室透」だけの言葉でなくなることを知っている安室に、積み重ねてきた年数分の澱を吐き出すように科白を舌へ乗せる。
「安室さん、行かないでください」
 それがどういう意味を含んだ言葉かなんて知っている。いや、そうなることを建前で飾ったなまえは望んでいる。
 一瞬の間、彼の目に宿った色は困惑と驚嘆が織り交ざったものだった。なまえには彼が感じたことが正確にわかった。
 降谷が知っているなまえは、その位置づけが色恋から外れるような相手に対してつなぎとめるための手段にこんなことはしない。彼のその認識は正しい。彼自身もそれを知っているし、なまえもわかっていた。
 つまり、降谷が知っていると悟っていながらなまえは選択をしたのだ。降谷もなまえも友人と簡単に身体をつなげるような性質を持ち合わせていないということも承知で、互いにそれをわかっていると知ったうえで引き止めることを選んだのだ。
 ただの降谷零であればすぐになまえの言葉を退けたであろう。いや、このような事態にはならなかったはずだ。しかし、この場にいるのは安室透としての降谷であり、それをわかったうえで安室透に興味を持っているという建前で降谷に対峙するなまえだけだ。もしも安室がここ立ち去ってしまえば、それは確かに安室透の拒絶の返事ではあるが、同時に降谷としてもなまえと会わないと告げることと同じだ。
 なまえの選択は彼女の、そしてもし彼が受け入れれば彼自身の価値観やルールに触れるものである。
 親しい友人であり尊敬する先輩であった降谷をつなぎとめていたいという意思はなまえにとってそれらに抵触しても貫き通すべきものであったが、それは彼女と近い感性や価値観を持つ彼に対して彼女の存在が大切であればあるほど重い決断を迫ることになる。
 その残酷さを知りながら、なまえはそれでもまっすぐに彼を見た。
「安室さん」
 なまえが求めているのは安室透であると、降谷零という人物ではないと、明確に声に出す。
 安室が拒絶するのなら、もう二度と会わないという決意の表れということになるのだろう。それが彼の本心なら、真実なら、そうすることを選んだ理由を聞かせてもらえさえすればなまえは引き下がる。
 しかし、なまえはどこかで確信に近い期待をしていた。なまえが表面上どうふるまおうと本質的なところが変わっていないのと同じで、降谷の素地となっているような部分は昔のまま残っている。そして、なまえと降谷は考え方が似ているからこそ親しくなったのだ。
 きっと彼は逡巡し、躊躇したことがそのまま振り切れない気持ちであるという自覚を持つ。そしてなまえが彼に対して少しでも躊躇してくれるのなら曖昧なままでもいいから彼の答えが出るまでそばにいたいと思っていることを悟るはずだ。
 なまえは自身が持つ降谷に対しての友愛を押し殺し、代わりに安室へ恋情を抱いていると偽った。そしてそれは自分の中のルールを破りその価値観に抵触することになってもかつて友人であり先輩であった降谷をつなぎとめていたいと口にすることと同義だ。
 その重さを一切違えることなく理解するだろう降谷は、希望や期待を打ち捨てずにいるなまえの心情までを察し、受け入れるはずだ。
「……安室さん。お願いですから、行かないでください……」
 互いを理解したうえでの追い打ちのような言葉は、はっきりとした意味を持ったまま安室のもとに届いた。
 安室が何か言いたげな瞳を刹那の間伏せてからなまえを見やる。
「どこにも行きませんから、泣かないでください」
 その口調は安室のものだった。しかし、向けられた言葉の裏にあるのは紛れもない降谷の返答だ。
 ふらふらと吸い寄せられるように抱きついて、降谷さん、降谷さんとうわごとのようにつぶやきながら縋りついて泣いた。
 いまだけはその名前で呼ぶことを許してほしい。
 近くにいることを受け入れられた喜びと同時に、虚無感に似た重圧がのしかかり、なまえを押しつぶそうとしていた。
 名前は記号である。しかし、名前には誰かと過ごした思い出や感情が伴っているのだ。ただの記号だと簡単に放ることなどできはしない。
 頬に手を添えられ、涙を拭われる。熱い頬に触れる少し低い体温が心地いい。涙をこぼしたまま降谷を見上げて名前を呼べば、彼の整った顔に微かに苦しそうな表情が浮かぶ。苦悩を滲ませた彼は、しかしこの場にとどまった。彼は自身の手で退路を断ったのだということをなまえは正しく理解した。
「安室さん」
 口に出せず飲んだ言葉も、抱え込んだ秘密も、燻っている感情も、ひとつ残らず抱え込むしかない。自ら望んだことを破り捨てて忘れるなど、決してしてはいけない。それがなまえの選んだ道であり、彼に対して誠実であることだから。
 瞼が重い。呼吸が苦しい。この痛みは代償だ。甘んじて受け入れよう。
 なまえは少しの間目を伏せ、それからすべてを飲み込むようにぐっと瞼を下ろして安室の首に腕を回した。


ホワイト・エレファント