日曜日、住宅街には休日らしく子どもの声が響いていた。なまえは安室とともに土地勘の全くない場所を歩き進み、ある賃貸マンションへと入る。
 階段を上り、3階。角部屋のインターホンを鳴らすとすぐに女性の声が返ってくる。それは張りがなくか細い声だった。
「探偵の安室透です」
「助手のみょうじです」
 二人が名乗ると、か細い声はわずかに色味が通ったように明るくなる。控えめにドアが開かれ、中から顔を出したのは今回の依頼人・片山典子だった。トップスはクリーム色の薄手のニット。細身のパンツに包まれた足は形がいい。長い髪を後ろでひとつにまとめている彼女はシンプルな装いが似合う美人だった。
 典子は二人の姿を確認するとほっと相好を崩す。少しやつれているように見えるのは気のせいではないだろうが、彼女が笑うと空気がぱっと華やかになるようだ。
「お待ちしていました。どうぞ、上がってください」
 なまえと安室は心なしかうれしそうにする典子によってすぐにリビングへ通された。物は多いが整理されている部屋だ。背の高い本棚とひとり暮らしにしては大きいテレビに目を引かれるが、今回は安室が受けた依頼に同行しているためなまえは典子へ意識を向ける。
「では、本日はよろしくお願いいたします。今回は調査と報告をさせていただきますね」
「はい……よろしくお願いします」
 典子はいささか緊張した面持ちで頷いた。
 さて、なまえと安室の二人がこうして典子の家に来た経緯は以下の通りである。
 まず安室が依頼を受けたことから始まった。依頼人は片山典子。しかし、実際に安室のもとへ訪れたのは典子の兄・克典である。
 そもそも典子が安室という探偵のことを知ったのは兄経由であり、その兄・克典は妻から安室の評判を知ったという又聞きだった。聞くところによると、典子本人は安室が信頼のおける探偵という認識をはっきりとしているかも怪しいという。
 だだし、克典がひとりで相談をしに来た理由はそれだけではなかった。もちろんのこと本来であれば典子本人が依頼に訪れるはずであったが、克典が言うに、彼女は特に初対面の男性と一対一で話すことが苦手なことと、今回の相談に関係のある理由から克典が彼女の代わりに安室の探偵事務所へやってきたらしい。
 安室は動揺からかいささか言葉が不足しているような克典の説明を聞き、汲み取ったことを簡単にまとめてみる。
「……では、最近妹さんの周りで怪しい人物がうろついており、電話しているときの会話が漏れている可能性もあるということですね?」
 安室が確認をするように繰り返せば、克典は間違いありませんと頷いた。
「はい……この前も、妹と電話でこちらに一緒に来る相談をしていたのですが、妹から家を出ようとしたらまたマンションの周りを男がうろついていると言っていました」
「しかし、警察に届けられるほどの実害はないんですね?」
「はい。しかし、妹はすっかり元気をなくしてしまって……仕事にこそ行ってはいますが、それ以外は家から出ていないらしいんです」
 克典は眉を寄せて俯き加減で言った。典子とは歳が六つ離れているため、昔からけんかも少なく仲の良い兄妹だったのだ。
「それは心配ですね……。それでは、典子さんに決まった習慣などはありますか?」
「決まった習慣ですか……? あ、そういえば読書は好きでした。アガサ・クリスティーとかキャロラインなんとかとか……マーガレットやグレーという作家が好きだというようなことはよく言っていました。なので休日は、よく図書館に行くことがあったみたいです」
「なるほど……わかりました。私が典子さんのご自宅に直接行って調査する必要があるかと思いますが、典子さんにはご了承いただけますか?」
「それはもちろんです、よろしくお願いします」
「それと、ひとつ提案が」
 安室は指を1本立ててみせ、申し訳なさそうに目を伏せる克典の視線を引き上げた。克典と目が合ったことを確認するように頷き、安室は口を開く。
「知人に、信頼のおける女性がいます。その女性に私と同行してもらう……というのは、いかがでしょう? その方は同業者ではありませんが口が堅いので安心していただけるかと思います。もちろん追加の料金などもありません」
 そして安室がさらにそれに付け加える。彼の話に克典は驚き瞬かせたが、一拍おいて頷いた。
「はい、ぜひそれで、お願いします。妹を、よろしくお願いいたします」
 克典に深く頭を下げられた安室は、彼に提案した通りに手はずを整えた。
 なまえのもとへ依頼人の女性の自宅へ同行してほしいという旨の連絡が入ったのは、安室が依頼を受けた翌日だった。
 椅子に座り、典子と向き合った安室となまえは一度視線を交わしてから話を切り出した。
「さっそくですが、連絡していた通り、まず盗聴器を探したいのですが……部屋に立ち入ってもよろしいでしょうか?」
「はい……よろしくお願いします」
 典子が怯えと不安の織り交ざった表情をのぞかせまいと平静を装っているのは明らかだった。安室となまえは典子に安心させるように微笑みかけ、彼女の立ち合いのもとで盗聴器の設置場所を突き止めていく。
 典子の住むマンションはひとり暮らしとしては部屋数の多い2LDKだ。部屋は決して広くはないが、備え付けの家具があるため盗聴器を設置したらなかなか気づかれないだろう場所は案外多い。
 すべての盗聴器を回収し終え、再びリビングで典子と安室、なまえは向かい合った。
「各部屋にひとつずつと、リビングとダイニングから二つ、発見しました」
 ビニール袋にまとめられた盗聴器たちを見た典子は愕然とする。すぐれなかった顔色がから完全に血の気が引いた。二の腕をさするように動いた手は震えている。
「……大丈夫ですか?」
 気遣う二人の視線にはっとした典子はすみませんと気丈に笑ってみせようとした。
「驚いてしまって、すみません……ああ、お茶、お出しします……」
 典子は立ち上がろうとしたが、腰を浮かせると体がふらりと揺れた。貧血に近い状態なのだろう。
「片山さん。もしよろしければ、先に今回のストーカーについて説明を聞きませんか?」
 典子がはっと安室を見た。彼女は彼の言葉に一瞬瞳を揺らす。しかし、静かに息を吐くと覚悟を決めたように向かい合った安室となまえの目を見て頷いた。
「……わかりました。お願いします」
「それでは私から報告させていただきますが……その前にひとつだけお聞きしたいことがあります」
「……はい。なんでしょうか?」
 覚悟を決めたような典子になまえと安室の視線が集まる。典子は内心の怯えをごまかすためにぎゅっと両手を握り合わせ、まっすぐに探偵の目を見た。
「片山さんは、以前こちらに住んでいた人物をご存知ですか?」
「え? いえ……それが、なにか……?」
 今回の件となにか関係があるのだろうか。そんな典子の戸惑いには不安も混ざっている。それを察したなまえはできる限り彼女に気を張らせないよう、柔らかく微笑みかける。安室もなまえに同調し、心配しすぎなくても大丈夫ですよと頷いてみせた。典子は少し落ち着いたようで、二人の顔を見て話の続きを待つ。
「実は、あなたの前にこの部屋の住人だった方に話を聞いたんです。彼女もストーカー被害に会っていたようでした」
 典子が息を飲んだ。しかし話に水を差さないようにするためか、口を開かずに視線をテーブルへと向けている。
「……結論から言うと、典子さんにつきまとっている人間は以前こちらに住んでいた女性のストーカーと同一人物です。
 犯人は……。以前住んでいた方を仮にAさんとしましょうか。犯人はAさんにずっと付きまとっていたそうです。Aさんも典子さん同様、直接的な被害に遭ったわけではないのですが、何度か自宅に侵入されていました。これはあとからわかったことなんですけどね……。
 Aさんから聞いたところ、犯人はほとんど毎日のようにマンションの近くでうろついていたそうです。ただ、それが途絶えた時期がありました。Aさんは周囲にストーカーが現れなくなったタイミングを見計らって引っ越したそうです。典子さんはこの部屋が空いてすぐに入居されましたよね? そして、しばらくは盗聴されていたり周囲に怪しい人物がうろついたりすることはなかったのでしょう?
 実はその途絶えた時から半年ほど、犯人は海外出張に行っていました。国内にいないのなら、ストーカー行為は当然できませんよね。しかし、犯人は典子さんがこの部屋に住み始めてから5ヶ月後……なので、いまから1ヶ月ほど前ですね……帰国しました。
 犯人は再びこの部屋を盗聴して疑問に思ったはずです。ここに住んでいるのは本当にAさんなのかと。典子さんはよくご友人と電話で連絡を取られますよね? きっと声やしゃべり方に違和感を覚えたのでしょう。しかし、犯人はここに住んでいるのがAさんではないという確証が持てなかったんです。
 なぜなら……本当に偶然ですが、Aさんと典子さんは背格好と髪形がとても似ていたんです。ここは3階ですし、もし犯人が外から典子さんの姿を見かけたとしても、Aさんではないと断定はできなかったと思います。
 犯人は住んでいるのがAさんか確認しようとしたのでしょう。克典さんからうかがいましたが、典子さんは以前、何回か間違い電話を受けていましたよね? もしかしたらそれがストーカーなのかもしれないとおっしゃっていましたが、実際にそうだったのだと思います。盗聴ではなく、電話で声を確かめようとした犯人からのものだと推測されます……大丈夫ですか?」
「はい……大丈夫です、続けてください」
 気遣う視線に典子はこわばった表情ながら微笑み返す。
「では、続けさせていただきますね……。あとで詳細をお見せしますが、調査で判明した事実から考えて、犯人はまだ典子さんがAさんと別人だと確証を得ていない可能性が高いと思われます。
 しかし、犯人の意図が別人か確かめたいだけなのか、それ以外にもあるのかまでは断言できません。
 差し出がましいかもしれませんが……こちらの大家さんに相談したり引っ越しを考えたりということもが必要かと思います」
 ひと区切りがついた。典子はなにかを考え込んでいる様子だが、その姿は報告を聞く前よりは落ち着いているように見える。
「こちらが、今回の調査の報告書です」
 なまえが資料を取り出してテーブルに置くと、典子は遠慮がちに手を伸ばした。そこにあることを確認するだけという風にページをめくる。
 報告書を手で示し、先ほどの説明に補足をする。典子は黙って頷きながら聞いていた。
「ストーカーの素性はわかったので、引っ越すにしろしないにしろ、大家さんと相談してみてもいいかもしれませんね」
 最後に安室が言うと、典子はほっと口元を綻ばせた。
 姿が見えず、相手がわからない。正体が知れないことはそれだけで恐怖だ。しかし言い換えれば、相手がどこの誰かを特定できればその恐怖感は消える。そして相手を警戒し、自衛しやすくもなるのだ。
「ありがとうございます。依頼してよかったです。盗聴器も見つかったし、犯人がわかって少しほっとしました……いろいろ考えてみます。……本当にありがとうございました」
 典子は震える声で礼を言い、深く頭を下げた。なまえは安室と顔を見合わせ、安堵して微笑む。この調査によって少しでも彼女が安心したりなにか対策を取れるようになったりするのならよかった。
「まだ油断はできませんが、私も安心しました」
 安室がそう言って笑いかけると、典子はうるんだ目を細めた。最初の張りつめていた糸は、どうやら緩んでくれたらしい。
「……それでは私たちはそろそろ失礼させていただきますね」
 立ち上がり、二人が告げれば典子も椅子から腰を浮かす。
「はい。ありがとうございました」
 再び丁寧に頭を下げた彼女は、なまえと安室が靴を履いているうちに玄関の扉を開けてくれる。
「典子さん、今回の件でなにかありましたらいつでもご連絡くださいね」
 典子は先ほどよりも幾分か気持ちが楽になったのを感じながら、柔和な笑みを浮かべる彼女に笑みを返す。
「はい。本当にありがとうございました……安室さんのような素敵な探偵さんとみょうじさんみたいに優しい方に担当していただけて、本当によかったです」
「少しでもお力になれたなら私もよかったです」
 安室が言う。なまえが隣で頷くと、典子はまた目をうるませた。そして少しの逡巡ののちに口を開く。
「あの、最後にひとつだけ……いいですか?」
 迷いを含んでもなお美しく透き通る真摯な瞳がなまえと安室に向けられた。
 彼女の整った顔立ちにまっすぐに向き合うとつい引き込まれそうになる。なまえは一拍置いてから頷いた。
「はい……なんでしょうか?」
「兄が……お二人が来たときには絶対に素敵なことがある、と言っていたんです。素敵な方が来る、という言い回しではなくて、素敵なことがある、と。事件には直接関係しないけど、とてもいいことだと言っていました」
 言葉を選ぶ典子に、二人は目を見合わせた。なまえも安室も、その「素敵なこと」がなにかを知っている。
 安室と絡んだ視線をほどき、なまえは典子を見た。安室もなまえに倣い、彼女へ目を向けてから口を開く。
「お兄さんは、あとでわかるとおっしゃっていませんでしたか?」
 安室が口元へわずかな笑みを添え、微かに首を傾けた。
「え、はい……けど、具体的にはいつ頃わかるんですか? お二人はなにかご存知ですよね?」
 安室は微笑みを浮かべたまま答えない。なまえは意地が悪いと咎めるように安室を見たが、実際には彼と自分は同罪のため居心地はよくない。
「あの……」
 典子は困った表情でなまえを見た。安室は全くの他人事というわけではないのに気軽な調子で「いいんじゃないですか」と笑っている。
「……わかりました」
 よくわかった、いや、わかってはいた。安室が意地悪いのは、典子に対してではなくなまえに対してだけだ。彼を一瞥し、非難の意を示してからなまえは典子に笑いかけた。どうせあとでわかってしまうことだ。ただし、すべて口にするのには抵抗感がある。
「お教えします……。けど、詳しい説明はお兄さんから聞いていただく形でもよろしいですか?」
「え、ええ……はい」
 典子が不思議そうに目をしばたかせる間になまえは名刺を取り出して彼女に手渡す。
「えっ? あの、私もう名刺、いただきましたけど……?」
 典子は首を傾げて本当にわからないといった顔をする。しかし、手元に視線を落としてあっと声を上げた。
「ごめんなさい、あとはお兄さんから聞いてください。あと……もし典子さんがよろしければ、今度は個人的にお会いできるとうれしいです」
 唖然とする典子にそう告げ、なまえは安室の腕を軽く引いて帰ろうと促す。
「それでは、失礼いたします」
 頭を下げてから彼女に背中を向けて歩き出す。後ろから、彼女の「ありがとうございました、また連絡します!」という声を受けた。安室は小さく笑い声を漏らしてなまえを見やる。なまえはそんな安室に対しては気づかないふりを決め込み、一度だけ後ろを見て典子に手を振った。典子は笑顔で大きく手を振り返してくれた。



 なまえと安室は典子のマンションを後にすると駐車場へ向かう。駐車料金を支払うと安室はなまえを促して自身も車に乗り込み、しばらく走らせたところで口を開いた。
「……みょうじさんにもまだ、説明していないことがあります」
「え?」
「僕は典子さんが、男性が苦手だということしかちゃんと伝えていませんでしたよね?」
「え? ああ……」
 なまえは曖昧な言葉を返し、記憶を辿る。安室から、ある女性がストーカー被害に悩んでいること、彼女の家に盗聴器が仕掛けられているかもしれないことを聞いた。そして典子の自宅に行かなければならないが彼女は男性が苦手なために、少しでも安心してもらいたいから同行してほしいと言われて来たのだ。
 しかし安室の「だということしか」というのは、どういう意味だろうか。克典となにか話していたことがあったのだろうか。それとも、
「……それは、私が同行する理由が他にもあるということですか?」
 運転する安室の横顔に問いかける。
「……典子さんの部屋で、なにか気になったことはありますか?」
 安室はなまえの質問には答えず、疑問形で返した。
 典子の部屋で気になったこと。なまえが同行した理由になるようなことがあっただろうか。
「ヒントはないんですか?」
「ヒント……。そうですね、本棚でしょうか」
「本棚ですか?」
 なまえは典子の部屋を思い出す。確かに大きな本棚ではあったが、特に気になるような点はなかったように思うし、第一そこまで詳しく見ていない。訝るようななまえの視線を感じたのか、安室は一度小さく笑ってから口を開いた。
「ヒントというよりはほとんど答えですけど……」
 安室はそう前置きし、克典から聞いた典子の好きだという本の話を伝える。
 その話を聞きたなまえは内心で嘆息した。典子が好きな作家たち。そしてそれらの共通点。典子が初対面のなまえや男性の安室相手に好意的であった理由。そんなこと、聞かなければわからない。少なくともなまえは彼女の本棚を見ても気づけなかった。
「アガサ・クリスティーは言わずもがな。キャロラインではなくキャロリン……キャロリン・キーンで、マーガレットはマーガレット・サットン。グレーはコーデリア・グレイ……この人だけは作中の探偵ですね。なるほど……だから、を名乗ることになったんですね」
「そういうことです」
 安室はこともなげに頷いた。
 典子の趣味は読書で、その分野に疎い克典の耳に残るくらい繰り返して話すほど好きな作家がいるという。
 アガサ・クリスティーは自身の祖母をモデルにしたとされる老嬢探偵ミス・マープルを描いている。キャロリン・キーン、マーガレット・サットンはそれぞれ行動力抜群のナンシー・ドルーと気さくで心優しいジュディ・ボルトンという少女探偵が活躍するシリーズの作者。コーデリア・グレイはP・D・ジェイムズによって生み出された正義感が強く芯のある女性の探偵だ。
 そして共通点はミステリーかつ活躍する探偵たちが全員女性ということである。
 典子が克典に繰り返し好きだと言っていた作品はなまえも一通り読んだことのあるものであり、ミステリー好きならそのうちのひとりくらい名前だけでも知っているはずだ。
「……驚きました」
 なまえが不満を滲ませつつも素直な感想を口にすると、隣でふわりと笑った気配がした。
 片山典子がみょうじなまえを「探偵の安室透」と、安室を「助手のみょうじ」と認識したのは二人がそれぞれ相手の名前を名乗ったからだ。
 なぜなまえたちがそうしたのか。それは、なまえ自身は自分が探偵を名乗ることで男性が苦手だという彼女が少しでも安心でききるからだと安室に言われ、納得していたからだ。
 しかし実際はそれだけが理由ではなかった。典子の男性への苦手意識と、女性の探偵への憧れ。被害にあって警戒心が高まっている彼女があっさりといえるほど二人を自宅へ通したのは、その二つがあったからだ。けれど、安室はなぜ前もってすべてを知らせなかったのだろう。その思いをぶつけるようになまえは安室を見やる。
 一方の安室はなまえからの視線を素知らぬ顔で受け流し、実のところ彼女自身も安室が黙っていた理由は察しているのではないかとその態度から見当をつける。
 安室が典子の男性への苦手意識しかなまえに伝えなかったのは、探偵だと偽るもうひとつの理由を知らせていれば彼女が典子に対して一方的に気まずい思いをすることがわかっていたからだ。
 安室は自分から視線を外して窓の外を見て考えをまとめている様子のなまえを一瞥した。なまえはやはり安室がなぜ初めからすべての理由を明かさなかったのかということを理解はしているのだろうが、安室に対して悪い意味ではなく認めたくない部分があるために不満があるというポーズをとっているのだろう。
 一通り考えをまとめたなまえが安室を見てなにかを言いかける。しかし、続きが口から出されることはなかった。安室はなまえの本心を見透かしているのだと隠していないため、なまえも取ってつけた「不満」は外すことにする。そしてやられた、という思いで安室に視線を投げた。
「みょうじさん、典子さんと話が合いそうでしたね」
「……そうですね」
 なまえに見られていることなど意にも介さない安室に対して吐き出したくなるため息を飲み込み、なまえは別れたばかりの典子の顔を思い出した。趣味の話をしたら、きっと意気投合していただろう。
「……けど、本当に大丈夫だったんですか?」
 わずかに取り外せなかったポーズと確認のために安室に問いかける。漠然とした質問になったがその意図は伝わり、安室からは明瞭な答えが返ってくる。
「大丈夫ですよ。お兄さんから許可はいただいていますし、典子さん自身もそういうことが大好きだと聞いていますから。あとで予定通りお兄さんの方から知らされるでしょう」
 典子の自宅を訪ねる前にも聞かされていたことを安室が繰り返した。なまえはその言葉を信じていないわけではないし、むしろ依頼人に不快感を与えかねないことを安室がするはずがないと思っている。なまえを探偵として同行させることを提案したときだけでなく、契約を結ぶ際にも契約内容や認識のすり合わせはしているだろうし、安室がそれを怠るなんてあり得ないとなまえは言い切れる。
 ただ、納得のいかない部分があるだけだ。単に気恥ずかしいからというのが理由だが、やはり典子の前でなまえが探偵ではないと知らせるつもりはなかったし、無理難題を持ち込まれたことに対しては頼られたうれしさもないとは言わないが唐突すぎると思う。
 しかし、安室はそこも見抜いたうえで笑っているのだからやはり口惜しい。彼の横顔に浮かぶ笑みを見つつ、持て余した言葉を口の中で転がす。
「またそうやって難しいこと振ってくるんですから、もう……」
 車内では存外大きく響いたその科白は、ともすれば過去に触れた失言のようにも取れる。あ、と固まりかけたなまえには気づかないふりをして安室は笑った。
「信頼している相手ではないと、こういうことは頼めないでしょう?」
 安室の口調はあっさりとしていた。しかし、そこに込められた気持ちは事実だとなまえは直感する。
 また、彼に掬い上げられた。
 じんわりと心が温かくなるのを感じながら、なまえは安室に倣って明るいトーンで言葉を返す。
「それはどうもありがとうございます。ただ、典子さん本人の前でばらすことになるとは思っていなかったのでとっても恥ずかしかったんですけどね?」
 今度こそ体面を保つことはやめ、照れ半分八つ当たり半分になったなまえに安室は「それはすみません」と謝りつつも悪びれない。
「私が典子さんとデートできるまでは許しませんよ?」
 なまえがわざとらしく笑顔をつくって首を傾げてみせれば、安室はちらりと隣に視線をやって言う。
「きっと、すぐにできますよ」
 そこでタイミングよくなまえの携帯が震えた。液晶画面をスワイプすると、どうやらパソコンのアドレスから転送されたメールがきているようだった。どこからだろうか、とメール画面を表示させた瞬間、なまえは驚きに思わず声を漏らす。メールの差出人は片山典子だった。
「……デート、来週中にも実現しそうです」
 なまえがそう告げると、安室は一瞬驚いた表情をのぞかせてから「本当にすぐでしたね」と言って楽しげな笑みをこぼす。
 なまえと典子が仲良くなれるようなきっかけを与えてくれた安室の気遣いとその目を細める優しげな表情に、なまえの中にあった無理難題を課されたことも気恥ずかしさも驚きもすべて溶けてしまう。
 なまえは柔らかな幸せを抱きながら、ふわりと力の抜けた笑顔を安室に返した。


ホワイト・エレファント