なまえには、仕事で知り合い親しくしている女性がいる。彼女の名前は東海林里香。なまえとは六つ歳が離れているが、偶然にも出身高校が同じだったということがわかり意気投合、いまとなっては仕事の関係者というよりは友人のような存在だ。
 そして東海林里香は一児の母でもあった。子どもは薫といい、小学校に通う娘である。なまえも薫とは何度か顔を合わせたことがあるが、快活な里香と比べると物静かでずいぶんと大人びている賢い子だ。いつも里香が薫の髪をポニーテールに結い上げており、里香譲りの一重で大きな目とそのさらさらの髪がチャームポイントだ。
 里香は数年前に性格の不一致を理由に夫と離婚しており、現在は所謂母子家庭である。ルポライターを生業としている里香は多忙なようだが、親子仲は良好らしい。
 さて、そんな里香からある日「ある人物について調べたいが、どうすればいいか」という相談を受けた。なぜなまえに相談したのかと訊けば、本好きとミステリー好きが高じてなまえが一般人よりもその手の話に詳しいと思ったからだという。なまえはそれならば、と以前に事件を解決してくれた毛利小五郎を紹介した。
 そうして依頼のために小五郎のもとを訪れたのが先週のことだ。今回の調査結果の報告は里香が指定した毛利探偵事務所から近いデパート内で行われることになっていた。
 デパート2階にあるカフェの一角で小五郎と安室、里香が向かい合って座っている。里香の許可を得た安室は助手として同席しているらしい。
 里香に連れられてやってきた薫はなまえ、蘭、コナンとともに離れたテーブルについていた。小五郎たちがいる席からテーブルを二つはさんだ窓際の席で、店の入り口にいちばん近い場所だ。なまえと薫、蘭とコナンがそれぞれ並び、向かい合って座っている。ちょうどなまえと薫の側からは、小五郎たちの姿が見える。
 調査結果の報告が終わるまでの間、なまえ、薫、蘭、コナンの4人はデザートを食べて待っていた。
 初対面でこそないが、蘭たちとは仲が良いというわけでもないし、薫はなまえを除いた面子とは顔を合わせただけで話したこともないはずだ。それに薫は母親の方が気になるようで、他愛ない話をしながらも時折里香たちがいるテーブルへ視線を投げている。
 薫の落ち着かない様子に気づいたコナンが安心させるように口を開いた。
「そんなに心配しなくても、大丈夫だよ」
「………うん」
 薫は首を振ってコナンに答えた。柔らかそうな髪が耳からこぼれ落ちて薫の横顔を隠す。
 ふと、その薫の髪が目についた。いつも里香の手によってポニーテールにまとめている長い髪は背中に流れていた。切ってから時間が経っているのか毛先が痛んでいる。それにところどころ絡まったままだ。
 さりげなく手を伸ばして薫の細い髪を梳いてやれば、薫はなまえを見てにっこりとうれしそうに笑う。
 彼女は人見知りだが、なまえには心を許してくれているからかほかの人に対するよりも幾分か素直に表情が出るのだろう。
「ありがとう」
 礼を言う薫に頷き返せば、彼女はこちらを見て微笑ましいというような表情を浮かべている蘭とコナンと目を合わせてはにかんだ。薫はこの二人にも少し慣れてきたらしい。
 和やかな雰囲気は居心地がいいようで、薫は口数こそ少なかったが多少リラックスした様子でいる。
しばらく談笑をしていると、薫が再び里香たちのテーブルを気にし始めた。カフェに入ってからもう30分以上経っている。
「もうそろそろ終わるかな」
 カーディガンの裾に隠れていた腕時計を見やってなまえがつぶやくと、薫はその時計をしているなまえの手首を軽く引っ張った。隣へ視線をやれば、薫が口を開く。
「トイレ、行ってきてもいい?」
「ええ、大丈夫だよ。いってらっしゃい。お手洗いはあっちの方かな……」
 店の奥を視線で示せば、薫は頷いてなまえと目を合わせてからテーブルを離れた。
細い背中を見送ると小五郎たちのテーブルが目に入った。まだ話しているようで、もしかするとまだまだ時間がかかるかもしれない。
「二人とも、退屈じゃない? よかったらお店とか、見てきてもいいんですよ?」
 気負わせない口調でさりげなく蘭とコナンに尋ねれば、二人は大丈夫だと言って笑う。なまえが納得して頷けば、コナンが「あ」なにか思い出したように口を開いた。
「そういえばなまえさんって、どこの高校だったの? 東海林さんと同じ高校だったんだよね?」
「うん、里香さんとは同じ高校だよ。在籍時期はかぶらないけどね。あと、高校は都内だけど、ここからだとちょっと遠いかな」
「なまえさんって、いまでも高校の友達と会ったりするんですか?」
「たまにだけど、会ったりしますよ。蘭さんは学校の子とはよく遊びます?」
「はい! よく遊びに行きます。あ、けど、放課後に寄り道する方が多いです」
 確かになまえも高校のときは似たような感じだったと返せば、蘭は「やっぱりそうですよね」と笑う。そうやって話しながら待っていたが、薫はなかなか戻ってこない。
「薫ちゃん、遅いですね。どうしたんだろう」蘭がつぶやいた。
「具合でも悪いのかな?」
 コナンも心配そうに店の奥を見やる。
「ちょっと私、見てきますね」
 蘭に告げ、なまえは席を立った。小五郎たちのテーブルの横を通り過ぎて突き当りを曲がり、化粧室のドアを開ける。個室は4つあった。
なまえはすべての個室を確認し、足早に蘭たちのもとへ戻る。
「薫ちゃん、いませんでした」
「えっ」蘭が驚いた声を上げ、コナンは「外に出ちゃったのかな?」と首を巡らせ店内を見渡す。蘭も立ち上がり、コナンに倣うように店の中を見るも薫は見つからない。
「とりあえず、あちらに伝えてきますね」
 なまえは伝票と荷物を手に取り、里香たちがいるテーブルへ移動する。小五郎、里香、安室の視線を一斉に浴び、なまえは口ごもりそうになりつつもお話し中すみません、と断ってから急いで要件を告げた。説明している間に蘭とコナンもやってくる。
「あの子ったら、なんで……」
 なまえの話を聞き終えた里香が困惑と不安が入り混じった表情でつぶやく。
「里香さん、とりあえずこの辺りを探してみましょう」
 小五郎の提案に里香が首肯したため全員で店を出た。念のためと言ってコナンがカフェの店員に薫のことを尋ねたが空振りに終わる。
 里香は不安げな表情をのぞかせながら周囲に視線を走らせたが、日曜日ともなると客が多く、薫がいたとしてもその姿を捉えることは難しそうだ。
「館内放送もかけてもらいましょうか」と安室も辺りを見渡すが係員も見当たらない。
「ここで係の人を探すより、1階のカウンターまで行った方が早そうだよ」
「コナンくんの言う通り、そっちの方が確実かも……。里香さんが1階に行っている間、私たちは手分けして探しましょう」
 なまえが同意し、里香も納得したためさっそく二人ずつに分かれて薫を探し始める。里香と小五郎は1階へ行き、蘭とコナンは屋上から順番に階下を、なまえと安室がいまいる2階を確認してから薫が行きそうなところを回ることになった。
「薫ちゃんが行きそうな場所は?」
 安室の問いかけになまえは逡巡してから口を開く。
「おもちゃ売り場とか、あとは薫ちゃん、図鑑とかが好きみたいなので本屋さんとかだと思います」
 なまえの答えで行く場所が決まる。安室となまえはさっそく2階から薫を探していくことにした。
「さすがに日曜日だと混んでいますね」
 いつもより急いた歩調で館内を探しながら安室がなまえに聞かせるともなしにつぶやく。
 2階にも、おもちゃ売り場がある3階にも、本屋がある6階にも薫はいなかった。探している間に薫の特徴を知らせる館内放送がかかったが、見つかったという放送はまだ流れていない。
 時間が過ぎていくほどにじわじわと焦りが滲んでいく。
 なまえは軽く手首を押さえてから携帯を取り出し、液晶画面に指を滑らせた。薫がいなくなってからもう少しで30分が経とうとしていた。
「里香さんから連絡は?」
「いま確認しますね」
 アプリを開けば、ちょうど里香からメッセージが入ったところだった。里香たちは現在、
 3階を回り終え、4階を探しているところだという。
 蘭たちから連絡はないのだろうかと思ったが、なまえはもとより蘭とコナンの連絡先を知らないため確認のしようがない。そして聞くと安室のもとにもまだ二人からの連絡はないらしい。
「安室さん、もう一度2階も確認してみましょう」
 里香たちは2階を確認していないはずだ。先ほどなまえと安室は2階をすべて見て回ったが、薫も動き回っているだろうから絶対に見落としがないとは言い切れないし、なによりあのカフェに戻っている可能性が高い。
 安室も似たようなことを考えていたのか「そうですね」と首を振り、エスカレーターへ向かって歩き出す。
 気が急いたまま2階に戻り、順番に見て回る。なまえがカフェの方へ視線をやったとき、長い髪を揺らした少女の背中が目に入った。
「薫ちゃん!」
 探していた少女へ向かって声を張り、ぱっと振り向いた彼女のもとに駆け寄る。反動でなびく髪や細い肩がひどく儚げに見えて、胸が締めつけられる。
「大丈夫だった?」
 視線を合わせてしゃがみ込み、薫の両手を取る。薫はなまえの問いかけにこくんと頷いて小さく笑った。
「はい、2階にいます。カフェの前です」
 後ろで安室の声がした。立ち上がって振り向けば、里香に連絡を取っている彼の姿が目に入る。なまえは腕時計をはめ直してから手に持ったままの携帯をカバンにしまう。
 通話を終えた安室とその場で待機していると、すぐに里香が姿を見せた。
「薫……!」
 うっすらと涙を浮かべた里香が薫を抱きしめる。一同が安堵し、薫に寄り添って立ち上がった里香が頭を下げた。
「みなさん、ご迷惑をおかけしました。ありがとうございます」
「いやいや、薫ちゃんが見つかって本当によかったです」
 小五郎の一言に張りつめていた緊張の糸が解かれたのか、里香がほっと相好を崩した。
「娘さんも見つかったことですし、報告も終わっているのでこれで解散にしましょう」
「はい。毛利さん、本当にありがとうございます」
 小五郎から里香へ調査結果が入った封筒が手渡される。7人は混み合う館内をはぐれてしまわないように固まって歩き、デパートを出た。
「みなさん、ご迷惑をおかけしてしまって申し訳ございませんでした。本当にありがとうございました」
 もう一度深々と頭を下げ、里香は薫とともに帰っていく。去り際、薫が振り返ってなまえを見てふわりと目を細めた。並んで歩く二人の手はしっかりとつながれていた。
「そんじゃあ、俺たちも帰るか」
 里香たちの姿が見えなくなると、小五郎がそう切り出した。
 小五郎たちはなまえと同じく電車で帰るようだった。それなら駅まで同行しようかと考えていると、安室が「みょうじさん、よかったら車で送りますよ」と言ってくれたので厚意に甘えることにする。
「毛利さん、今回もありがとうございました。失礼します」
 視界の端で蘭が楽しげに微笑んでいることには気づかないふりをし、小五郎たちとあいさつを交わして別れる。最後に振り返った彼らに会釈をして手を振れば、3人の笑顔の隣でひらひら手が揺れた。
「車、取ってきますね。待っていてください」
 なまえとともに3人を見送っていた安室が、なぜかデパートの駐車場とは別の方向へ行こうとする。
「デパートに止めてないんですか?」
「ええ。混んでいたもので」
 苦笑をこぼし、安室が足早に雑踏へと消えていく。なまえは彼の後ろ姿を見送り、手持ち無沙汰に垂れた髪を耳にかける。
 ガードレールのそばに立ち、しばらく見るともなしに人の波を見つめていると不意に声をかけられた。
「なまえさん!」
 声のした方へ顔を向けると、コナンが小走りに駆け寄ってくる。
「どうしたの? 毛利さんたちは?」
「うん、ちょっとなまえさんに聞きたいことがあって……」
 小五郎と蘭にはあとで追いつくから先に歩いていてほしいと言って戻ってきたのだという。
「私に聞きたいことってなに?」
「薫ちゃんのことなんだけど……」
「薫ちゃんのこと?」
 コナンの聡明さがのぞく目を見返して続きを待つ。
「薫ちゃんがカフェを出るとき、必ず僕たちがいたテーブルを通ったはずだよね?」
「うん、そうだね」
 なまえたちがいたのは入口にいちばん近い席だったため必然的に出ていく人の姿が目に入ることになる。
「じゃあ、なんで僕たちだれも薫ちゃんが通ったことに気づかなかったのかな?」
「混んでたし、薫ちゃんくらいの背丈だと気づかないこともあるんじゃない?」
「確かに混んでたけど、待っている相手に気づかないことってなかなかないんじゃないかな?」
「うーん、それも一理あるけど、水掛け論になっちゃいそうだね」
「それもそうだね。じゃあ、もうひとついい?」
「いいよ。なぁに?」
 小学生、それも1年生相手に理解してもらうのには適切ではないだろう言葉は、しかし目の前の小学生には伝わっている。意図的に小難しい単語を出してみせたが、コナンはそれには気づいているだろうか。
「例えばだけど、もし薫ちゃんが懐いている相手が、迷子になったふりをして里香さんを心配させてみればいいってアドバイスして、トイレに隠れているように言ってたらどうなるかな?」
 なまえはゆっくりとまばたきをし、首を傾けてみせた。
「そこを通っていないのにいなくなった」コナンの声が告げる。
 決して大きくはないが、彼の声は確かな響きを持ってなまえの耳に届いた。
「薫ちゃんがトイレにいないか、確認しに行ったのはなまえさんだったよね」
「そうだね」
「それから、確認してみたけどいなかったって言ってたね」
「そうだね」
「本当はそこに薫ちゃんがいたのに」
 なまえはコナンの目を見つめ返し、くちびるに微笑みを形づくる。
「そうだね」
 コナンは確信を得たといった表情をした。
 一方で、なまえはコナンと相対しながら薫のことを考える。
 薫となまえはどこか似ていた。いまでこそ気さくで明るく初対面でも物怖じしないような性格を装っているが、なまえも薫と同じくらいの年齢のときは内向的でおびえていることを隠すことはできなかった。
 薫がなぜ自ら姿を消したのか、きっとコナンや蘭にも、小五郎や安室にも、そして薫の母である里香にもわからないだろう。察することができたとしても、きっとこの感覚は彼らにはなじまない。
 しかし、なまえには自身の幼少期と同じような雰囲気を持っている薫の不安が手に取るようにわかってしまった。
 里香の隠しきれない疲れ、結ばれないままの薫の髪。
 里香は仕事に追われる日々に辟易し、薫と離れたがっていた。そして薫はそれを敏感に感じ取っていた。
 もちろん、里香が心の底では薫を手放したくないと本気で思っていることはなまえにはわかっていた。わかってはいたが、いや、むしろそれを知っていたからこそ不安がる薫に迷わず手を貸すことができたのだ。
「ねぇ、なまえさん」
「うん? なぁに?」
「最後にひとつだけ、いいかな?」
「どうぞ」
 動機を確かめたいのだろうか。そう思いつつなまえはコナンの言葉を待つ。すると、ぶつけられた質問は予想外のものだった。
「なまえさんとゼロの兄ちゃんって、別に恋愛とかの関係じゃないよね?」
 なまえはコナンの聡明さが潜んだ瞳を見つめる。知っている目だ。コナンが名前を挙げた彼と同じく真相を見抜いてしまう目。
「もしいるとしたら、ゼロのお兄さんとはそうかもね」
「……じゃあ、安室の兄ちゃんとはどんな関係?」
「周りが自然に思うような関係かな」なまえは微笑んだまま返し、例えば恋愛感情があるとか。と言い添える。
「僕には二人が話してるとき、友達にしか見えなかったよ」
 じわりと侵食してくるなにかを振り払い、なまえは笑みを絶やさないまま真実と嘘が織り交ぜられた言葉を紡ぐ。
「そう見えた? けど、私は安室さんのこと、好きなのよ」
 コナンの目が物言いたげに揺れる。この少年はなにか掴んでいるのだろう。コナンは少なくとも、なまえと安室の関係については周囲が思っているものと違うと考えているはずだ。
「好きじゃなくちゃ、不自然でしょう?」
 コナンは口をつぐみ、複雑な思いを隠さないままなまえを見つめ返す。
 ちょうどそのとき、安室の乗った車がなまえたちの近くに速度を落として止められた。なまえは車の方へ軽く頭を下げ、コナンに向き直る。
「ほら、そろそろ行かないと、毛利さんたちに追いつけなくなっちゃうよ?」
「あ、うん……」
「気をつけて帰ってね」
 話し足りないと感じているのはコナンだけではない。しかし、その足りない部分はどちらにとっても安室の前で追及できる話ではなかった。
「……うん。ありがとう、なまえさん」
 コナンはなまえと安室の車の方へと手を振り、駆け足で去っていった。
「なにを話していたんですか?」
 コナンを見送ったなまえが助手席に乗り込むと、安室が車を走らせながら尋ねてきた。
「安室さんも探偵なんですから、当ててみてください」
 触れたくない話題もあったためはぐらかそうと笑って返せば、安室はわざとらしく肩をすくめてみせる。
「僕も、ということはコナンくんの推理は合っていたんですか?」
「私が真実を知っていてコナンくんが推理をした前提で話すんですね」
 どうやら安室は流されてはくれないらしい。合ってますけど、と科白を口の中で小さく転がせば、今度は彼が笑う番だった。
「ところで、みょうじさんの方には里香さんからなにか連絡はありましたか?」
「え?」
 あまりにも唐突すぎる質問である。コナンの推理についてはもう追及しないつもりなのだろうか。それになまえの方には、というのはどういう意味なのだろうか。
とりあえず携帯を取り出して連絡が入っているか確認するが、特になにもきていない。画面にロックをかけ、そのことを伝えれば安室はそうですか、と頷くだけで深く言及しようとしなかった。
 そして再び元の話題から話を逸らすように「そういえば、いま何時かわかりますか」と尋ねられたため、腑に落ちないまま腕時計に視線をやる。
「1時過ぎですけど……」
「なるほど」
 全くもってわけがわからない。なにをもってして「なるほど」なのだろう。怪訝な顔をしたなまえに、安室はなんなく言ってのけた。
「時計を聞かれたとき、携帯を持っていても咄嗟に腕時計を見る癖って、意外と抜けないものですよね」
「え?」
 ぴくり、無意識に指先が反応してしまう。安室はなまえの心境を知っているのか否か、淀みなく言葉を続ける。
「みょうじさんは薫ちゃんに腕時計を渡していたんですね、待ち合わせる時間を30分後と決めて。だから僕が里香さんから連絡があったかと聞く前に携帯を取り出していたんですね、時間を確認するために。
 しかも携帯を出す前、手首を返して腕時計を見るような動作をしかけていましたし、薫ちゃんを見つけたとき、手を握っていましたよね。あのときに時計を受け取ったんでしょう。僕が電話をしているときに時計をつければ完璧ですね」 
 ふつうに聞いていれば脈絡のない話だが、安室はなまえが仕組んだことと確信しているために構わず話している。すべて当たっていたため、なまえはあきらめとも困惑ともつかない笑みをこぼして安室の言葉を肯定した。
「そこまで見られているとは思いませんでした」
 それに、安室に看破されては完璧とはとてもではないが言い難い。
「だれも薫ちゃんがカフェから出たことに気づかなかったという点にまず違和感を覚えました。あとは先ほど話した時計と、里香さんの取り乱し方ですね」
「なるほど?」
 さすが探偵、と言うべきか。安室が鋭いことはわかっていたため絶対にばれないなどと思っていたわけではもちろんないが、それでも細かいところまで観察・分析する洞察力には驚かされる。
「それに、薫ちゃんが席を離れたあと、コナンくんと蘭さんに他の店を見ていてもいいと言っていたでしょう? もし二人がいなければ、出ていったことに気づかなかった説明がつきやすくなっていたでしょうね。3人とも気づかないのは不自然に思われかねませんが、ひとりならまだ納得されやすい」
「え、待ってください、コナンくんと連絡とっていたんですか?」
 探している間にそんなそぶりはなかったのに、とそこまで考えてはっと思い至る。車を取りに行くとき、安室はわざわざなまえをデパートの前に残していった。そのときに連絡をしていたのではないだろうか。
 安室に確かめると、なんでもないような口調で肯定された。
 先ほど安室がコナンの推理は合っていたかと尋ねたこともそれで納得できる。
 なまえがあきらめにも似た嘆息を漏らす。すると安室はそれまでの表情を沈め、幾分か静かな声色でなまえに問いかけた。
「……みょうじさんは、里香さんが一時的だとしても薫ちゃんを手放そうとしていたことに気づいていたから、わざと薫ちゃんがいなくなったと言ったのでしょう?」
「……はい」
 なまえと薫は先週、二人でいる機会があった。そのとき、薫は縋るような声で言ったのだ。
「ママとずっと一緒がいいって、薫ちゃんが言っていたんです」
 薫は離婚や父親、養育権ついてなどは一切知らない。しかし、聡い彼女は母親の気持ちを察し、不安がっていた。一方で里香は薫の気持ちを汲めないほど忙殺され、疲弊し、そのことが原因で一時の迷いではあるが仕事と娘の間で揺れていた。
 それが今日のことで見失いかけていた本心を取り戻せたのではないかとなまえは思っている。
「里香さんも仕事などでいろいろと思い詰めていたんでしょうね」
「そうですね……」
「僕は、よかったと思っていますよ」
 安室が穏やかな声で言う。
 ありがとうございます、とつぶやいたなまえに安室の横顔が微笑んだ。
 敢えて多くの言葉で尽くさない彼の優しさはなまえだけではなく里香や薫にも向けられているのかもしれない。すべてを語ってしまわない方が、時に望ましい。
 コナンもそれをわかっていてなまえに確認以上のことを問わなかったのだろうか。
 しばらく車内に沈黙が下りる。赤信号に引っかかり、減速して停車したところでなまえは口を開いた。
「……ちょっと、訊いてもいいですか?」
 安室の整った顔がゆっくりとなまえの方に向けられる。
 なまえはわずかに揺れる安室の色素の薄い髪の先を見つめ、落ちてきた自身の横髪を耳にかけてから言葉を選んだ。小さく息を吸い込み、吐き出す。
「……コナンくんって、何者なんですか?」
「難しいことを訊きますね」
 安室は柔らかな笑みを浮かべたまま困ったように眉を下げてなまえを見た。
「じゃあ、安室さんにとってどんな子ですか?」
 重ねて尋ねると、安室は前に向き直って口を開く。車が再び走り出す。
「頭の切れる小学生探偵、ですかね」
 なるほど、確かに安室の彼への評価は正しいし、正鵠を射ているだろう。しかしそれはなまえには安室にとってのコナンというよりも、単なる客観的な見解のように聞こえる。だが、そう返したところで得られるものは少ない。なまえはぶつける質問を変えた。
「じゃあ、私にとってはどんな子になると思いますか?」
「みょうじさんにとってですか……。そうですね、きっといい探偵になると思いますよ」
 いい探偵。いいと言うからには近づいても問題はないということだろうか。それとも探偵というくらいだから必要以上に距離を縮めるなということだろうか。
 それに、以前安室に言われた「心配しなくても大丈夫」という言葉が気にかかる。心配をしなくていいこととなにを話しても問題がないということはきっとイコールで結ばれない。
「私もコナンくんと仲良くなりたいなぁ、なんて」
 聞かせるともなしにつぶやいた言葉は微かに響いて立ち消える。安室は聞いていないふりか聞こえていないふりをして前を見ている。
 窓から流れる街並みをぼんやりと見つめながら、なまえは決めかねた心を持て余して静かに息を吐き出した。


ホワイト・エレファント