平日の昼下がり。今は日が暮れるにはまだ早すぎるくらいの時間だ。
 なまえは道の端で立ち止まり、この時間帯に仕事を休んで出かけるのは久しぶりだと思いながら携帯の液晶画面に視線を落とす。目的地である帝丹小学校まであとは一本道であることがわかったため、マップ上にルート案内の矢印を出している地図アプリを終了させて再び歩き出した。



 帝丹小学校の正門横の壁に背を向ける形で立ち、なまえは目当ての相手が出てくるのを待った。少し経つと授業終了を告げるチャイムが鳴る。校門のそばに立って待っている間にも、元気な声とともに子どもたちが去っていく。
 しばらく読書をして時間をつぶしていると、ようやく知った声が耳に飛び込んできた。読んでいた本をしまい、正門の影から校舎の方をのぞけば目的の人物が友人と見受けられる4人の子どもと連れ立って歩いているのが目に入る。
 なまえは一度小さく息を吸ってから吐き出し、彼の前に姿を見せた。
「コナンくん」
 なまえが手を振って近づくと、コナンは足を止めて瞠目した。
「えっ、なまえさん!?」
「こんにちは」
「こんにちは……。今日、どうしたの? 仕事は?」
「今日は休みなの」
 正確には休みにした、と言うべきであるが。
 驚いた表情のままでいるコナンと周りにいる4人の不思議そうな顔の対比が、傍目にはおもしろくも微笑ましく映る。
 なまえはコナンに微笑み返し、周りの子どもたちへと視線を向けた。
「こんにちは」
 なまえが笑いかけると子どもたちは口々にあいさつを返してくれる。ひとり和んでいると、カチューシャをつけたかわいい子が質問をぶつけてきた。
「お姉さん、だれ? コナンくんの知り合いなの?」
 少女の大きな瞳には好奇心が滲んでおり、こちらを見上げて尋ねる彼女は無意識だろうが背伸びをして距離を縮めようとしている。その動作がとても愛らしく、なまえはつい口元を綻ばせながら口を開いた。
「私はみょうじなまえって言います。コナンくんの知り合いだよ」
 詳しいことを話すことはせずに最小限の情報だけを伝える。しかし、彼らにとってなまえのような保護者でも教師でもない大人というのはそれだけで興味を持つ対象になるようだ。なまえは子どもたちの視線から自身に感心が集まっているのを感じ取り内心で苦笑した。
 子どもは嫌いではないが、得意でもない。自分よりずっと小さな身体でエネルギッシュな子どもは愛らしいとは思うが、付き合うだけでなんだか疲れてしまいそうだった。
 それに今だれかと話すのなら、同じ素地を持つ相手がいい。今日はそのために来たのだ。
 子どもたちが口を開く前にとなまえは申し訳なさと焦りを半分ずつ抱えたままコナンに向き直る。
「今日、これから空いてる? ちょっと話したいことがあるの。そんなに時間は取らせないからどうかな? もし都合が悪いなら、また今度にするけど……」
 目線を合わせるためにしゃがみ込んで尋ねると、コナンはなにかを察したように一瞬目を眇める。そしてすぐに笑顔になると頷いた。
「ううん、大丈夫! 空いてるよ」
「よかった」
 なまえはほっと胸をなでおろして立ち上がる。名残惜しそうにする子どもたちに謝ってからコナンを拝借して別れた。
「ごめんね、突然会いに来ちゃって」
「ううん、大丈夫だよ。びっくりはしたけど。あと、よく学校わかったね?」
「そうだね……正直、地区が微妙だからもうひとつの方と迷ったんだけど、蘭さんが帝丹に通ってたって言ってたのを思い出して。それならコナンくんも同じかなって思って来てみたの」
 話しながら大通りを歩き、適当なカフェを見つけて入店する。
 ほどよくにぎわっている店内でなまえとコナンは向かい合って座り、飲み物を頼む。二人が注文したアイスコーヒーがきたところでなまえは話を切り出した。
「さっそくなんだけど、いいかな?」
 時間は取らせないと言ってついてきてもらったのだ。必要以上の前置きなどはいらないだろう。それに、この少年はなぜなまえが自分を訪ねてきたのかわかっているはずだ。
 先日、あのデパートの前で話したときと同じように相対した。指先が冷え切っていて震えそうになり、なまえはそれをごまかすように頬にかかった髪をそっと払い、薄く息を吐き出してから口を開いた。
「コナンくんは安室さんについて、なにを、どこまで知ってるの?」
「……たぶん、なまえさんよりはいろいろ知ってると思う。けど詳しくは言えない」
「そう……。じゃあ、前に安室さんと知り合いか訊いてきたのはなんだったの?」
「前に探偵事務所に来たときに二人が一緒にいるのを見て、なんとなく雰囲気とか距離感が仲の良い友達みたいだったから、もしかしたら面識があったんじゃないかと思って」
「……ほんと、すごいね、コナンくんは」
「あと、それもだよ」
「え?」
「親しい人とか一緒にいる時間が長い人とかって、言動が似てくるでしょ? たまに安室さんとなまえさんの言い回しが似てるときがあって、それも気になってたんだ。安室さんも今のなまえさんみたいな言い方、前にしてたよ」
 ぐっと息が詰まった。コナンに指摘されたからではない。大学時代、友人からなまえと降谷は兄弟みたいに似ているときがあると言われたことを思い出したからだ。間接的に示される親しかった証拠がすでに過去のものであるということがひどく苦しい。
「……コナンくんは、私と安室さんが知り合いだって確信してたんだね」
 知り合いかと尋ねてきたあのときから。
「うん」
 デパートの前で問いかけられたときにも考えたことを改めて確認すれば、コナンは眉を下げつつ微かに笑んで頷いた。
 相手が確信を得ていることに対して否定を重ねることはせず、代わりに牽制するような口調で言葉を紡ぐ。
「それじゃあ、コナンくんはなんで私と安室さんの関係を知りたかったの?」
 これ以上踏み込んでくれるなという思いを言外に滲ませながら尋ねた。
 こちらの手札を見せるつもりはないが、コナンにどこまで把握されているのかは知る必要があった。
 コナン相手に気は抜けない。先日の安室とのやり取りで、彼がコナンをただの小学生と考えていないのは明白だった。彼がそう感じているのなら、なまえも気を緩めてはいられないのだ。
 聡明な少年はこちらがカードを持っていること自体は察しがついているだろう。それはコナン自身の発言からわかっている。
 しかし、こちらがどんなものを持っているかまでは特定できていない。だからこそ先日の問いかけがあったはずなのだ。
「……コナンくんは安室さんについて知りたいの?」
 あくまでも慎重に言葉を重ねた。なまえの意図が知られることで、安室の不利益になることがあってはいけない。
「ううん、違うよ」
 あっさりとしたコナンの返答は、しかしどうにも嘘が入り込んでいるようには見えなかった。
「じゃあ、まさか私のこと、知りたかったの?」
 肩の力を抜き冗談半分に笑いかければ、コナンはなんてことのないように「そうだよ」と首肯する。
「あー……探偵の好奇心?」
 思い当たったことをそのままつぶやくとコナンは曖昧にかわいらしく笑ってごまかした。図星だったからなのか、単に想定外の出来事や不意打ちに弱いからか。どちらにせよ、なまえの思いつきや冗談を多分に含みつつの言葉であったが、探っていた理由は当たっていたようだ。
 先ほどまでの動揺の見られない表情と打って変わって今のコナンは素が出ているようで、ずっと子どもらしくなまえの目に映る。
「ごめんね?」
 コナンは首をすくませ申し訳なさそうに言ってこちらを窺った。
 なまえはそれに苦笑をこぼしつつ首を振る。
 コナンがここで嘘をつくメリットはそこまでないはずだ。だとすればコナンの言っていることは本当のことなのだろう。
 安室のことを探っているわけではないというのなら安心できる。あとはこちらで余計な情報を話さないように注意を払えばいい。
 そう考え、なまえはふと先日のことを思い出した。
 デパートから帰る車内でのことだ。コナンに会いに行くというようなことを示唆したなまえに対して安室はなにも言わなかった。それはコナンと接触されても大丈夫だと判断したからなのだろうか。大丈夫だという根拠は、なまえにあったのか、コナンにあったのか、それとも自分自身にあったのだろうか。
 コナンがこれ以上知ろうとしないことがわかった安堵と同時に、安室への関心というには強く懐疑心というには弱すぎる思いがなまえの内をちらつく。しかしそれは自分でどうこうできる問題ではないと、どうしようもないほど自覚していたためなまえは心の底にそれらの感情を詰めて押し込んだ。
 なまえとコナンのそれぞれが考えに耽り、無言になっていたために下りた沈黙は唐突に破られた。
「ねぇ、一応確認したいんだけどさ……。なまえさんは、敵? 味方?」
 抑えたトーンでコナンがなまえに問いかける。
 それは漠然として意図も掴めない質問だったが、なまえの口からは自然と、なにかを考えることもなくただ言葉が滑り落ちた。
「私はなにがあっても安室さんの味方だよ。たとえ安室さんが敵に回ったとしても、私は安室さんの味方でいたい」
 そこまで告げてから、コナンにとってどうかと問いたかったのかもしれないと気づく。しかし迷わず出てきた言葉はなまえの偽りのない本心だった。
「……そっか」
 コナンはなまえの返答に目を細める。こぼれたその呆れとも憧憬ともつかない笑顔に、緊張と警戒で引きつっていたなまえの心も少し緩む。
「……あとね、コナンくんが安室さんの味方なら、私もコナンくんの味方だよ」
 なまえが大切なのは彼で、守るべき相手も彼で、けれどそれをコナンと相対する立場であることとすぐに結びつけるのは早計だ。確かになまえはコナンと仲が良いわけでもなければ、これからずっと付き合っていく相手でもない。しかし、コナンは薫の事件のときも真相を知りつつも沈黙を通し、なまえのことを信じているというようにまっすぐ見上げてくるのだ。
 なまえもできるならばコナンのことを信じたいと思う。
「…………ねぇ、コナンくんは安室さんの味方なの?」
 対立する立場にいてほしくはないと思った。この少年はただ知識があるだけの子どもではない。賢く、聡く、そして優しいのだ。なまえにとって大切な存在でないだけで、コナンはとても素敵な人物だ。
「……僕は、敵じゃないよ」
 そう言ってこちらを見たのは真摯な瞳だった。味方だと断言しないところに、ひとつの真実がある気がした。
「そう……ありがとう」
「あと、安室さんは僕の味方じゃないけどなまえさんの味方だと思うよ?」
「……うーん、それはどうかな」
 なまえよりも確実になにかを知っているコナンはしかし、こちらを慮った様子で見つめるだけだ。
 なまえ自身、自分が安室に対して思っているのと同じくらい、安室に大切にされていることは自覚している。ただ、それはコナンが言う「味方」だからというわけではないような気がしてならないのだ。なまえは安室と、そしてきっとコナンとも、同じ土俵に立てていない。立つべきではなく、立っていないからこそ今の立場があるのだから。味方をしてくれても、味方ではない。
 改めて考えると、どうしようもなく遣る瀬ない思いが胸に立ち込める。なにかがずれているような不快感に似たざわめきが滲み出ようと疼いていた。
「どうなんだろうね……。ねぇ、コナンくん」
「なに?」
「結局、コナンくんでも安室さんでも、敵でも味方でも、どちらにせよこれ以上話さないよね」
 話せないではなく、話さない。明確に敵ではなかったとしても、味方ではない相手に開示する情報はもうない、話さない。お互いに。
 違う土俵に立っているからといって、なまえにとってはそれがただの引け目になるわけではない。安室のいる場所がどんなところで、なにをしているのかも知らないが、なまえはなまえの立つ場所から安室と向き合うだけだ。それだけなのだ。
「そうだね」
 コナンが顎を引く。なまえは彼の頭を見ながら頬に触れた横髪を耳にかけ、あえかに息を吐き出した。
 立場としては自分よりはるかに安室と近いところにいるコナンに対して八つ当たりに近く会話を切り上げるような言い方をしてしまった自分自身に辟易しつつ、しかし同じ場所にいけないことがどうにももどかしくて仕方がない思いを消し去ることもできない。
「……ほんとうに……」
 なまえは言葉を途切れさせた。自分でもなにを言おうとしていたのかわからなかった。ただこのまま会話を終わらせたくないだけかもしれなかった。
 口をつぐんで手元を見つめていると、コナンが静かに切り出した。
「僕は安室さんとなまえさんとのことは、なんにも知らないよ。……ただ……安室さんは、ほんとなら許される範囲でちゃんと教えた方がいいんだよ。きっとそれがふつうで、そうしなくちゃいけなくて、けどそれだと今みたいに友達でいるのは難しいと思う」
「……そう……」
 明確に示された友達という言葉に対して口を挟めず、曖昧に笑んで頷くだけになってしまう。
「僕は、安室さんじゃないからよくわらないけど」
 ごめんねと続けたコナンに首を振った。
 鬱屈とした感情は消えないが、コナンに対してわだかまりをぶつけるような真似はもうしない。情報を聞き出そうとするのも同じ土俵に立てないのもすべてなまえの一方的な都合なのだ。
「ううん。こちらこそ、いきなり会いに来ちゃったし……。ほんとうにごめんなさい。ありがとう」
 改めて突然訪ねたことを詫びつつ、その中に先ほどの非礼への謝罪を含ませる。そして続けて感謝の意を示せば、コナンはなまえの意図を汲み取ったらしく小さく笑って応えた。
「……それじゃあ、そろそろ行きましょうか」
 もう帰る頃合いだろうとコナンを促し、店を出てから並んで歩き出した。他愛ない会話をぽつりぽつりと交わしながら探偵事務所の方面を目指す。
 15分ほど歩けばコナンにとっては見慣れた、なまえにとってはまだ他人の顔をした通りに出た。
 事務所の前まで送ろうとすると、ポアロの前を通ったところで蘭と、その周りに友人と見受けられる少女たちの姿が見えた。どうやらコナンは彼女らと面識があるようで、事務所に帰らずポアロに寄っていくことにするという。
「なまえさん、送ってくれてありがとう」
「いいえ。こちらこそ今日はありがとう」
「それじゃあ……さよなら」
「さようなら」
 手を振ってポアロへ入っていったコナンの背中を木製のドア越しに透けているかのように数秒間見つめる。
 妙な名残惜しさを抱えつつ、気持ちを切り替えて帰路に就こうとしたところで店のガラス越しに安室と目が合った。なまえはこちらに接客の笑みを向ける安室へ目礼を返す。そして今度こそその場を立ち去った。



 探偵業の傍ら喫茶店で働く安室透。彼のことをコナンがどこまで知っているのかはわからなかったが、コナンは安室について詮索しようとしていたわけではないこと、これ以上なまえに踏み込むこともないのだろうということは知ることができた。
 なまえはゆったりとした歩調で駅までの道のりを行きながらコナンから告げられたことを思い返す。
 コナンがなまえに対して迷いながらも口にした言葉たちは、それがなまえの耳に入ってからじわじわと彼女の内側に侵食し、なじんでいった。とても小さななにかが、しかし少しのずれや狂いがなくしっとりとぴったりとなまえの中に収まったのだ。
 もちろん、コナンの言うことはすべて正しいとは限らない。しかし、さよならという言葉を選んだコナンと今回のように意思を持って会うことはもうないのだろうとなまえは悟っており、だからこそ余計彼の言っていたことが事実なのだと信じることができた。
 近くにいたいと望んだのはなまえで、安室ではない。しかし安室はなまえの気持ちと暗に示された提案を受け入れた。それは安室がなまえと同じ気持ちを持っているからだ。
 なまえは安室のそばにいたい。周りからどんな風に見られようと、ただ安室のそばにいたい。
 安室は言うべきことを言わずに、言ったことと言わないことで犠牲になるものを天秤にかけて、それでもなまえと友人でいるという選択をしたのだと、そう信じていたい。そしてそのなまえが信じた安室の近くで立っていたい。
 乗り込んだ電車から流れる景色をぼんやり眺めながら、なまえはくちびるの動きだけで彼の名前をなぞった。
 すると意味もなくのどが熱くなり思わず俯いて口元を覆う。滲んだ涙をこぼすまいとまばたきを繰り返し、安室の顔を思い出すがかえって涙が誘われてしまう。
 苦し紛れの言い訳のように安室さんのせいですよと心の中で独りごち、なまえは分厚いドアの窓ガラスにうっすら映った自分と視線を合わせて小さく口の端を持ち上げてみる。
 太陽はまだ夜の縁へと落ちていなかった。


ホワイト・エレファント