今日はなまえの家に安室が来ることになっていた。というのも、数日前になまえの父が取引先の社長からいただいたという銘酒が届いたことがきっかけである。
 なまえはアルコール弱くはないが強くもないため、いくら銘酒とはいっても一升瓶を送られてもひとりでは消費しきれない。それに、せっかくの銘酒ならだれかと飲みたいという気持ちがあった。
家に呼べるほど親しく、かつ物理的にも距離が近く、酒に強い人物。なまえの脳裏に浮かんだ相手はやはりというべきか安室透で、銘酒が届いた日にさっそく連絡をとって次の金曜日にでもどうかと誘ってみれば、彼は快く応じてくれたのだ。
「いらっしゃい。どうぞ、こちらへ」
「お邪魔します」
 なまえは約束していた時間にチャイムを鳴らした安室をリビングへ通し、さっそく買い置いて冷やしていたビールなど酒類やつまみをテーブルに並べた。
「呼びつけるような形になってしまってすみません」
「いいえ、呼んでいただけてうれしいです。ありがとうございます」
 人当たりのいい笑みをのぞかせた安室がそう言いながら手土産を渡してくれる。そしてそれとは別で、ビニール袋を差し出された。
「これは?」
 受け取った手土産をテーブルの上に置き、代わりにビニール袋を持つとずしりとした重みを感じた。中を見れば数種類の酒とつまみになりそうな食べ物たちが入っている。サラダなどを買ってくるということは事前に聞いていたが、酒まで持ってきてくれるとは思っていなかった。
「よければこちらもどうぞ」
「わー、ありがとうございます」
 礼を言ってありがたく頂戴することにし、さっそくそれらもテーブルに置いていく。前もって言っていない分は消費できなくても問題ないものを選んでくるあたりはさすがだ。
 安室の手を借りつつ準備を終え、向かい合わせに席に着いた。
 すると安室がまた別の袋から包装紙に包まれたものを取り出す。
「みょうじさん、こちらも渡しておきますね」
「え? なんですか?」
 一体いくつ出てくるのだろうかと思いながらアルバムのような形をしたそれに首を傾げつつ反射的になまえが受け取れば、安室は彼女に開けてみるよう促した。なまえは手の中にある重みを感じながら、包装紙を破かないよう丁寧にセロテープをはがして包みを開く。
「え」
 中身が目に入った瞬間、思わず声が漏れた。
「遅くなってしまいましたけど、引っ越し祝い、ということで」と安室が微笑んで言い添える。
 贈られたものは、ペローの寓話集だった。それも、なまえが以前からほしいと思っていたもので、装丁も挿絵も美しい大型本だ。
 うれしさや驚きで震えそうになりながら両手で本を胸に抱く。
安室に引っ越し祝いと言われたことにも心が舞い上がる。彼はアンデルセン全集の話をしたときのことを覚えていたのだ。
「どうしよう、ほんとにうれしいです……ありがとうございます」
 不意打ちの贈り物になまえの涙腺が緩んだことを悟っただろう安室は、気づかないふりをして本を抱きしめた彼女を見て柔らかく目を細める。
「それはよかったです」
「うれしいです、すっごく……。どうしよう……今度なにかお返ししますね」
「いつもお世話になっていますし今日もこうして呼んでいただいていますし。気にしないでください」
「ありがとうございます。大切に読みますね」
 なまえは大切に抱えた本の贈り主へ笑い返す。そしてまばたきをしてから安室に断って立ち上がり、さっそく贈られた本を本棚に飾った。
 そして仕切り直すように再び席に着き、なまえはわずかにうるんだ視界をまばたきでごまかして安室と目を合わせた。
「言っていた日本酒は食後のお楽しみということで」
 そう言いながら安室に空のグラスと取り皿を差し出す。飲食物は種類を多くそろえ、各々好きなものを選べるようにした。
 サラダを取り分け、氷の入ったグラスに飲み物を注ぐ。そしてお疲れさまですと言い合ってグラスを軽く触れさせた。なまえはつくったばかりのハイボールをひと口含んでから箸を取り上げる。
「それじゃあ……いただきます」
「いただきます」
 なまえはさっそく安室が買ってきたサラダに手をつけた。レタスを咀嚼してからチキンに箸を伸ばす。
「安室さん、最近お仕事はどうですか?」
 それほど会う間隔が空いているわけではないが、当たり障りのない話題を選んで尋ねる。互いに近況報告をしつつ飲み食べしていれば、なまえは会話のペースにつられてすぐグラスを空にしてしまった。
 もう少しゆっくりと飲まなければと自戒しつつ、安室が買ってきた小さなボトルの白ワインを開けて新しいグラスに注いでから、ふと思い出したことを口にする。
「そういえばこの前、典子さんに会ったんですけど」
 安室の仕事を介して知り合った人物の名前を挙げた。
「へぇ? 典子さんと」
 すると安室が穏やかに目を細めてこちらを見るので、なまえは「あれから何回か会ってるんですよ」といささか気恥ずかしくなりつつ言い訳のように付け加え、視線で続きを促した彼に従う。
「……本のジャンルに日常の謎って、あるじゃないですか」
「ああ、ありますね」
 安室がグラスに残った最後のひと口を飲み干した。なまえが手元にある白ワインのボトルを示すと安室が首肯したため新しいグラスにそれの中身を注いで手渡す。
「典子さんが、そういう感じの謎に遭遇したらしいんですよ」
「“日常の謎”に?」
「はい。ほんとに数分のことだったみたいなんですけど……」
 典子はそのとき最寄り駅近くのスーパーで購入した食材を袋に詰めていた。そして、ふと数メートル離れた隣のサッカー台を見ると、50代ほどと見受けられる女性がオリーブオイルの瓶を逆さにしており、なにやら周囲を落ち着きなく窺っていたという。その女性がどんな目的で瓶わざわざ瓶を逆さにしているのか気になったが、じろじろと不躾に見るのも憚られた。後ろ髪を引かれつつも典子はその場を後にしたらしい。
「ね、ちょっと“日常の謎”っぽいでしょう?」
「確かに、そうですね」
 安室が考え込むようにわずかに首を傾ける。その整えられた髪は安室の動作に沿って小さく揺れ動き、きれいな茶色がなまえの目に留まった。カプレーゼを口に運びつつ彼の様子を窺えば視線が絡む。
「安室さん、なにかわかりました?」
「なんとなくは」
 微笑みにも見える表情を浮かべる安室へ顔を向けつつ、なまえはワインの入ったグラスを傾ける。
「その推理、聞いても?」
「推理、というほどのものではありませんが……」
 そう前置きをしてから安室は口を開いた。
「おそらく、瓶の底が割れていたのではないでしょうか?」
「瓶の底が?」
「ええ、そうです。瓶の底は置くときなどにぶつけやすいでしょう? きっと底が割れてしまったために逆さにしていたのではないかと思います」
「なるほど……じゃあ、きょろきょろしていたのはなんでなんですか?」
「店員を待っていたか、呼ぼうとしていたかのどちらかかと思います。中身が漏れていれば掃除をしたり新しいものに替えたりするために店員に声をかける必要がありますから」
「でも、瓶が割れて中身が漏れていたら気づきそうですけど……あ、オリーブオイルだから……?」
「そうですね。オリーブオイルは光に弱いので、大体のメーカーは濃い色の瓶を使っています。瓶の色が濃いと中身が見えづらいので、気づかなかったんでしょう……まあ、実際にどうなのかはわかりかねますが」
「けど、そう考えると筋が通りますね。確認できないのが残念です……。今度、典子さんに会ったら話してみます。きっと喜ぶと思いますよ」
 典子は嬉々として安室の推理を聞くだろう。彼女であれば、事実がわからない以上いくつかの解がありえてしかるべきなのだとでも言いそうだ。
 彼女のその姿を想像してつい口元を綻ばせれば、安室がつられたように微笑んだ。
安室が時折のぞかせるその温かなまなざしがなまえは好きだった。わかりきっているのに降谷を呼んでも返事をせず、嘘をついてくれない安室透という人物のその柔らかな部分に触れると、ひどく懐かしい場所へ連れていかれるような心地がする。
 なまえはさりげなく安室から視線を外す。そしてワイングラスを傾け、感傷などに浸ってしまわないようにアルコールで温かな痛みを飲み込んだ。
 外で会うよりもわずかにほぐれた態度をのぞかせる安室はそれがなまえとの関係で言い訳ができる範囲だとわかっているのだろう。信頼されていると捉えていいのだろうか、それとも言い訳できるがゆえに気を許しているのか。
 なまえはため息を飲み込み、グラスに口づけてからトマトとモッツァレラチーズを取り皿に乗せる。
「私カプレーゼ、好きなんです」
 カプレーゼを口に運びながらそう言えば、買ってきた本人はどうぞ食べてくださいとなまえの方へ皿を押し出した。なまえは安室に勧められるがままそれを食べ進めつつ、ふと冷蔵庫の中身を思い出した。
「……そういえば、冷蔵庫にトマトとモッツァレラチーズ買ってあるんですよね……」
 皿に残ったトマトとチーズはそれぞれ二切れずつ。なまえが大部分を消費してしまったため残りは彼に譲ることにし、新しくつくろうかと思案する。
「もしよかったら、つくりましょうか?」
 すると安室がそんなことを言うものだから、なまえはキッチンを使わせてもらってもいいのならと付け足した彼の提案を二つ返事で受け入れ、さっそく並び立って移動した。
 まず冷蔵庫からトマトとパックに入ったモッツァレラチーズ、食器棚から皿を取り出す。トマトは洗い、包丁とまな板を用意して安室に手渡した。安室は受け取ったトマトをまな板の上に転がすと手慣れた様子でスライスしていく。
 なまえはその間にモッツァレラチーズの袋を開封した。水を切ってから白くて丸いかたまりをボウルに移し、まな板の脇に置く。安室はチーズも手際よく切り、用意した皿へトマトと交互に盛りつけていった。
「オリーブオイルと胡椒とバジル……と、レモン……」
 なまえはつぶやきながら調味料を出して安室に手渡す。最後に冷蔵庫からレモン果汁の小瓶を取り、なまえはそこで首を傾げた。
「えっと、塩は……」
 定位置にない塩を探していれば、安室が調味料を混ぜていた手を止めて視線をテーブルへとやった。
「向こうにあったと思いますよ」
 安室に指摘されてテーブルの方へ行ってみれば見慣れた容器が鎮座しており、それをみてようやく使うだろうからと移動させたことを思い出した。なまえは無色透明な瓶に入った塩を持ってキッチンへ戻る。ありましたよと手渡せば、安室は律儀に礼を言って受け取った。そして調味料を混ぜていた小ぶりなボウルに塩を適量加えていく。
「波の花―」
 なまえが安室の手元を眺めながらつぶやけば、安室が混ぜられた調味料たちを盛りつけられたトマトとチーズの上にかけながら隣に視線をやった。
「みょうじさん、酔ってます?」
 外で話しているときよりも幾分か柔らかな声は、なまえを慮っているというよりはむしろからかうような響きを帯びている。
「いやいや、大して酔ってないですよー」
 なまえは普段よりもわずかに砕けた態度をのぞかせる安室に対して気が緩んでしまっただけだとは言えずに笑って流し、完成したカプレーゼの皿を受け取ってテーブルへ運んだ。
 なまえが飲みすぎているわけではないとわかっているためか安室からそれ以上は特に追及はなく、二人は再び席に落ち着いた。
「そうだ、今日雨降るみたいですけど安室さん、傘持ってきました?」
「一応、折りたたみは」
「抜かりないですね、さすが」
 残っていた白ワインを飲み干しグラスを空けた安室に視線と指先で問い、こちらも小ぶりなボトルに入った赤ワインを開封して彼の手で寄せられたシンプルで透明なガラスの容器へと注ぐ。ライトボディのためカプレーゼにも合うだろう。そんなことを考えながらボトルにふたをしたところでなまえの携帯が鳴った。
 画面を確認すると、友人からの電話だった。なまえが出るべきか迷うと、心を用いた安室が気にしないで出るように言われたため、目礼し一言断って席を立ち窓際に移動した。
 通話ボタンに触れ、携帯を耳に当てる。
「もしもし。なまえです」
『もしもし。久しぶりー、奈緒美だよ』
 一年以上会っていない友人の声が電話口で響く。大学時代の同級生でいちばん仲の良よかった彼女とは、頻繁にこそ会えないがいまだに縁が続いている。
「ナオさん久しぶり、元気だった?」
『うん、元気元気。急にごめんねー、今いい?』
「あんまり長電話はできないけど、大丈夫だよ。どうしたの?」
『ありがと、ごめんね。すぐ終わるから大丈夫。えーと、なまえ、今度同窓会あるかもしれないって知っている?』
「え、同窓会?」
『あ、ええとね……同窓会っていうか、あたしたちの代と一個上代の島田ゼミで集まれる人は集まろうって感じのなんだけどね』
「島田ゼミで? 知らなかった」
『そっか。まだ確定じゃないから正式に知らせたりはしてなかったんだけどさ、どっかから話が広まっちゃって、そのおかげで情報が錯綜しちゃっててねー。まだ同窓会、企画段階で細かい日程までは決まってないの』
 なまえは奈緒美の話を聞きながら、そういえば彼女はなまえたちの代のまとめ役のような立場だったと思い出す。ほかにもまとめ役が務まるような人物は数人おり、奈緒美はその中では目立つ方ではなかったが、連絡をとったり話をまとめたりすることが彼女自身好きなようで、企画などには必ず案を出したり主催側に立って意見を集約したりと積極的に携わっていた。
 今回はひとつ上の代の先輩と話しているうちに同窓会の話が出てきたのだと彼女が電話越しに言う。
「その先輩って、ゆーさん?」
 訪ねれば、奈緒美は楽しげに笑い声を立てて肯定した。そしてひと呼吸おき、切り替える。
『で、本題……というか、いちばん聞きたかったんだけど』
「なぁに?」
『ええと、まずね、みんなから写真集めて同窓会でスライドショー流そうっていうことになってさ』
「うん」
『なまえの写真、ちょっとだけあたしの手元にあるんだよね。だからそれ、使っても大丈夫かなって思ってさ、確認』
「うーん、写真かぁ……。スライドショーってその場だけ? それとも配られたりするの?」
『一応、共有できるようにするつもりだよ』
「そうなの……。それじゃあ、申し訳ないんだけど、私の写真はあんまり入れないでもらえるとうれしいな」
『了解! なまえだけじゃなくほとんどの写真、あたしが持ってるから安心してよ?』
 語尾を上げて茶目っ気たっぷりに言ってみせる彼女に思わず笑みがこぼれる。彼女の趣味はカメラだというだけあって、大学時代もゼミ合宿中などは奈緒美が自前のカメラで撮影していたのだ。そのため、なまえたちの代にゼミで撮った写真はほぼ奈緒美が管理していると言っても過言ではない。
「ナオさんありがとう」
『いいよー、そんなの。写真得意じゃないっていう気持ちわかるし。聞いてよかったー』
「ごめんねー。お願いします」
『気にしないでよ、むしろこういうのって疎かにしちゃまずいでしょ、こういう集まりでも』
「うん。そうだね」
『あー、あと、もうひとつだけ』
「なに?」
『最近会ってる?』
「会ってるって? だれに?」
 訊き返した瞬間、彼女がだれを指しているのか思い至る。
「あ、ええとね、会ってない」
 降谷のことかと声を落として確認すれば、奈緒美から気まずそうな肯定が返ってきた。
「やっぱり。ナオさんが訊いてくる相手は彼くらいだもん。あと、私5年くらい会ってないよ」
 降谷が卒業してからは何度か会っていた。なまえの就職が決まったときも大学を卒業したときも、多く時間が取れずとも会って話をした。
 けれど、気がつけば会えなくなっていた。
『そっかぁ……。じゃあ、写真とか持ってる? あたしとかなまえもだけどあんまり写真に写らないタイプの人だったでしょ、だから写真が手元になくてさ。なまえならいちばん仲良いし、1枚くらい写真とか持ってない? せっかくならスライドショーに入れたいし。あと難しいかもしれないけどできれば出席もしてほしいし』
「そうなの……。たぶん、数枚くらいはあったと思うけど、相変わらず連絡とれなくて。さすがに許可なしには渡せないから……ごめんね」
 瞼を強く閉じた。過去形にしてくれないところから彼女の思いが汲み取れてしまった。心の柔らかい部分を鷲掴みにされているようで、のどが熱くなる。
 ほんとうなら、きっと今頃は降谷とたまに会っては他愛ない話をして、仕事の愚痴をこぼして、共通の友人と遊びに行って、相変わらずだねなんて笑い合う。そんな未来をいつかのなまえは信じていたのに、すぐそこにそんな未来はあったはずなのに。
『そっかぁ、じゃあ来れなさそうかぁ。ごめんね、わざわざ。ありがと!』
 なまえは奈緒美のあっけらかんとしたような声色にはっとした。彼女は安室の存在を知らないのだと改めて思い至る。
 しかし彼女はなまえが降谷の存在を思い出すたびに苦みを覚えることを知っていた。だからなまえをできる限り沈ませないよう彼の名前を出さないまま、なにも変わっていないかのように、昔が今ここにあるかのように話すのだ。そしてそれは降谷と仲が良かった奈緒美自身が望んでいることでもあるのだろう。
「ううん。こっちこそありがとう。あとごめんねー、訊きづらかったでしょ?」
 からりと笑って言ってみせれば、奈緒美は「そんなことないって」と電話越しに笑い声を立てる。
『あ、あとほんとに最後これだけ! ずっと気になってた店があってさ、今度一緒に行かない?』
「行きたい! ナオさんと全然会ってなかったし」
『やった! じゃあまた連絡するね』
「うん、ありがと。待ってるね。じゃあまたね」
『はーい』
 通話を終えて席へ戻ると安室がこちらを見て目を細めた。
 そのまなざしの柔らかさにまた涙腺が緩んでしまいそうで、なまえは努めて安室に対する普段通りを装いながら口を開いた。
「すみません、失礼しました」
「いいえ、大丈夫ですよ」
 電話についてはどちらも一切触れることなく、無難な話題で食事は進んだ。
 ゆったりとしたペースで飲んだり食べたりしつつ会話を交わしているうちに箸が止まり、二人のグラスが空く。
「とりあえず一度片付けて日本酒出しますけど、安室さんまだ食べますか?」
「いえ、もう大丈夫です。ごちそうさまでした。おいしかったです」
「こちらこそ、いろいろいただいてしまって……。ありがとうございます。ごちそうさまでした」
テーブルの上にあったものは二人で手分けして流しに移す。なまえは洗い物をすると申し出た安室に食器類を任せ、日本酒用に新しくグラスを用意した。適度に冷やされた純米大吟醸を両手で抱え、グラスと並べてリビングの方のテーブルに置く。
 なまえは二人分の日本酒をつぎ、洗い物を終えて戻ってきた安室に片方を手渡した。ソファーに並んで腰かけてグラスを触れさせ、顔を見合わせてから日本酒に口をつける。華やかな香りが心地いい。
 ほっと息をつき、ふと視線を感じて隣を見れば安室と目が合った。
「なんですか?」
「……いえ、ただおいしそうに飲むなと思って」
「そうですか……?」
「そうですよ」
 知らず知らずのうちに頬が緩んでいたらしい。口元をわずかに綻ばせた安室に笑い返し、垂れた横髪を耳にかける。
 もしもなまえが降谷と面識のない人間であったのならば、今の安室の不自然な間はなかったのだろうかと思った。「相変わらず」とは決して言ってくれない安室がなにを考えなにを抱えてなまえに接しているかなど知りはしないし、知る術もない。知らないなまえの目には彼の態度が理不尽に映ってしまう。
 降谷だったら、なまえの敬愛する友人であり先輩であった降谷だったら。彼なら「相変わらずおいしそうに飲むなと思って」と、そう言ってくれたはずなのに。
 安室には、降谷の後輩としてのなまえのふるまいは望まれないのだろう。違う形でそばにいることは許されているというのに。
「おいしいもの、好きなんです。お酒に限らずですけど……あ、ポアロのコーヒーもおいしかったです」
「いつでも飲みに来てください」
「じゃあ、今度は朝に寄ります」
 穏やかに微笑む安室の横顔を見つめてからなまえは手元へ視線を落とした。透明な液体がゆらゆらとグラスの中で揺れている。
「お待ちしています」
「はい。来週、お邪魔しますね」
 知らないふりをされているなんて、傍から見たら酷い仕打ちだろう。けれど安室の隣は不安定で胸が痛んで苦しくなることがあっても、切なくなるほど居心地がよく穏やかな気持ちにもさせられるのだ。
 ただ今まで通りを信じていたあの頃がひどく懐かしかった。
 今も降谷は隣にいるのに、あの頃の未来はすでに枯れ果て、死んでしまっていた。

 ゆったりとしたペースで飲みながら会話を続けていたなまえと安室は途中からグラスの中身を水に切り替えた。炭酸で割ったとはいえウイスキーとワインの赤と白をそれぞれ一杯ずつ、日本酒を二人で四合ほど飲んだのだ。時間をかけて飲んだが、どちらにせよ水分補給は必要だった。
「……雨の音、すごいですね」
 手の中でグラスを揺らしながらつぶやいた。中に入った氷がグラスとぶつかり涼し気な音を立てる。
「そうですね……。だいぶ降っているみたいですね」
 安室が携帯を取り出してインターネットに接続し、ニュースの画面を開いてなまえに見せる。関東ではいくつかの地域で大雨・洪水警報が出されているようだ。この近辺はまだ警報は出ていないようだが、降雨量はかなり多いらしい。
 安室はソファーから離れ、窓に寄ってカーテンを引く。大粒の雨が窓ガラスを叩いていた。なまえはそんな彼を一瞥し、自分の携帯を手に取った。時刻は午後11時半を回ったところだ。帰宅するにはちょうどいい時間だ。続いてインターネットを開き、電車の運行状況を確認する。いくつか止まっている線と遅れている線があるようだ。
「電車、動いていますかね……」
 そう小さくこぼした安室に寄り、今しがた開いていた画面を見せた。
「安室さん、これ」
「ありがとうございます……どの線も混んでいそうですね」
「そうですね」
 いまだ外に視線をやっている安室から離れてソファーに戻る。意味もなく携帯の画面に指を滑らせたなまえは瞼を強く閉じた。大きく息を吸い込み、静かに吐き出す。
「遣らずの雨じゃないですか?」
 笑みを含んだ声を安室の背中にかければ、彼の手はカーテンを閉め、その視線がなまえを捉えた。
「なにもお構いできませんけど、よかったら泊まっていきますか? 飲むの、付き合ってください」
 なまえの自宅に安室を招くことも、安室から本を贈られたことも、はじめてだった。例外のように感じるそれらは異端で、日常からはみ出して見える。少なくともなまえと安室の関係は周囲から納得されれば十分で、今の距離を維持するために必要なことではない。大切なのは周りからどう見えるかだ。なまえは安室に好意を寄せ、近づきたいと考えているし、安室はそれを受け入れている。家の行き来があることも泊まることも不思議ではない。そう見えていなければ、世間的に納得されて受け入れられて定義できる、そんな関係が必要だ。
 けれど、なまえと安室という一対一の関係ではそんなものは必要ないのだ。
「せっかくですし付き合ってくださいよ、安室さん」
 安室はそうですねと感情の読めない声で否定とも肯定ともつかない返事をする。
「私と安室さんの仲じゃないですか」
ふざけた声色で言いながら、なまえに隠し事がない安室であれば固辞することなどないくせにと酔いが醒めつつある頭で考える。
「着替えならお貸しできますし、ほかに必要なものはコンビニで買えますし……だめですか」
「それではお言葉に甘えて、泊めていただいてもいいですか?」
「もちろんです」
 とりあえず、下着などはコンビニで買えるだろう。歯ブラシは予備があるし、寝るときに着る服なら以前なまえが使っていたものがある。Tシャツは着丈が長くなまえが着ると膝を覆い隠すほどで、全体的にゆったりとしたつくりになっているため安室でも着られるだろう。パンツもサイズが大きく締めつけないデザインのもので、ウエストがひもで調節できるタイプであるからこちらも問題ないだろう。
 前回安室が泊まったときはなまえがひどく酔っていたことと感情的になっていたことで全く気が回っていなかったが、さすがに今日はできる範囲で手を砕いて至らない部分をなくしたい。寝る場所だけは申し訳ないがなまえのベッドで我慢してもらう。
 しかし、安室は弁が立つ。うまく会話を運んでなんだかんだ帰宅してしまうという可能性はなきにしもあらずだ。
「それじゃあ、早めにコンビニ行きましょう。案内します」
「コンビニの場所はわかるから、ひとりで大丈夫ですよ。雨もひどいですし……。二人とも濡れてしまったら大変でしょう? みょうじさんは僕が買いに行っている間、お風呂にでも入っていてください。帰ってきたらシャワーをお借りしますので」
 なまえが安室の話の筋は通っているがどこか信用ならないと内心で思いつつ発言者を見上げると、彼は窮したように苦笑して言った。
「じゃあ、鍵を貸してもらってもいいですか? ちゃんと返すので」
「……わかりました。大きい傘があるので、それ使ってください」
 濡れて帰ってくるだろう安室のために早く風呂に入ろうと決め、いつかなまえが買ったまま放置してあった大きなビニール傘を持った彼を見送った。
 アルコールを摂取したため手早くシャワーを浴びるだけにとどめ、肌の手入れを済ませ眼鏡をかけて脱衣所を出た。リビングに移動してソファーに腰かけてテレビをつけた。
ニュース番組にチャンネルを合わせ、アナウンサーの滑らかな声が読み上げる内容を漫然と聞きつつ髪にタオルを当て、水分を移すように挟み込んでいく。
 しばらく同じ動作を繰り返してドライヤーにかけられるくらいまで水気を飛ばしたところで玄関から鍵の回る音がした。
 なまえは立ち上がってリビングから玄関に顔をのぞかせる。安室が鍵を閉めてからこちらへやってくる。洋服は雨に打たれて色が濃くなっていた。
 風邪をひいてしまう前にとすぐに安室を風呂場へ案内し、部屋着とタオルをかごに置く。
「シャンプーとかは適当に使ってください。棚も開けていただいて構いませんので、必要なものがあれば使ってください。あと洗濯機も使ってくださいね。……じゃあ、なにかあればいつでも呼んでください、ごゆっくりどうぞ」
「ありがとうございます」
 なまえは安室を脱衣所に残し、ドライヤーだけ拝借するとビングに戻った。
 なんとなくテレビをつけてニュース番組にチャンネルを合わせる。高校生同士の傷害事件や警察による暴行事件など眉を曇らせるようなニュースがいくつか続いたあと、天気予報のコーナーへと移る。
 なまえは見るともなしに画面に目をやりながらドライヤーをかける。10分ほど風を当てたところでおおかた乾いたため電源を切り、コードを本体に巻きつけて目の前のテーブルに置いた。そして日本酒とグラスを二つ、水の入ったペットボトルを往復して運びリビングのソファーに落ち着く。画面では新作映画のCMが流れていた。
 日本酒をグラスに注ぎ、口に含む。飲み口がすっきりしていておいしい。
 なまえが舌に残る余韻に浸っていると、リビングに人が入ってきた気配がした。ソファーに膝をつくように体を反転させれば安室がこちらへ寄ってくる。
「お風呂と着替え、ありがとうございました」
「いいえ。サイズ、大丈夫でした?」
「ええ、大丈夫です」
 笑んだ安室にソファーを勧め、ドライヤーを手渡す。テレビを消し、安室が髪を乾かしている間にグラスをもうふたつ追加で用意した。
 香りを味わうように日本酒を少しずつ舌に乗せつつ安室を窺う。することもなくじっと隣を見ていれば、目を伏せていた彼はこちらを一瞥してドライヤーを止めた。
「もういいんですか?」
 コードを元のようにまとめる安室に尋ねれば、おおかた乾いたと返ってくる。なまえはへぇともふぅんともつかない曖昧な声で頷き、受け取ったドライヤーは脱衣所の棚へしまった。
「安室さん、飲みませんか?」
「いただきます」
「はい、どうぞ。……そういえば、安室さんはよく飲みに行ったりするんですか?」
 ソファーへ舞い戻ったなまえは安室のグラスへ瓶を傾けながら問いかけた。
「あまり頻繁には行きませんね……みょうじさんはよく行かれるんですか?」
「私は全然ですよ。飲むのは好きなんですけど、友人とはなかなか時間が合わなくて。かといってひとりで飲むなら家でいいかなって思ってしまうので」
「お酒、好きなんですね」
「詳しくはないんですけど、家ではよく飲みます。眠れないときにも飲みますし」
「みょうじさん、眠れないことは多いんですか?」
「そんなに多くはないです。寝酒って結局睡眠の質が落ちてしまうので、できるだけ避けてはいるんですけど……」
 苦笑しつつ、ペットボトルに手を伸ばす。なにも入っていないグラスを手元に寄せ、透明な液体で中を満たした。ガラスの壁越しに水の冷たさを感じながらそれに口をつける。
「ブランデーとウイスキーがあったのはそのためですか」
「そうです。ロックか水かソーダで割って飲んでます。たまに、なんだっけ……名前忘れちゃいましたけどビールと割ったりとか……」
「ボイラー・メーカーですか?」
「そうです、それです……あとはエッグ・ノッグにして飲んだり……」
「みょうじさん、お酒強くはないですよね?」
「そんな、全然弱くはないですよ……」
 とても強いかと問われると肯定できないが。なまえはアルコールを薄めるようにもう一度水を含む。
「強くないならビールで割るのは控えた方がいいと思いますよ?」
「……ですよね」
 頻度が高いわけではなかったが、以後気をつけようと肝に銘じた。
「安室さんは……」
 強いですよねと続けようとしたくちびるを止める。そして日本酒の入ったグラスを手の中でくるくると回し、途切れた言葉を紡ぐ。
「全然、酔わなさそうだなぁ」
 独りごとの調子でこぼされたなまえの科白に、安室はどうだろうかとでも言うように小さく笑ってからグラスに口づけた。
 なまえはソファーの上に足を引き上げて膝を抱え、安室を横目で見ながら両手で持った日本酒のグラスを手首で回して中身を揺らす。そして透明な器に残った液体を呷った。
「……安室さん、日本酒はお口に合いましたか?」
 ソファーの背に左肩をつける形で身体ごと安室の方を向く。
「ええ、とてもおいしいです」
「よかった……。ひとりではさすがに持て余してしまうので、遠慮なく飲んでいってくださいね」
「ありがとうございます。……みょうじさん、飲みますか?」
「あ、飲みます」
 安室はなまえのグラスにつぎ足すと、一言断って手酌で自らの器にも純米大吟醸を注ぐ。
安室は、酒自体は好むようだが頻繁に外に飲みに行くわけではないようだし、今までの付き合いで自宅でも嗜む程度しか飲まないのだろうと察せられた。酒の中で特に日本酒を嗜好しているというわけでもないようだから、純米大吟醸を飲む機会はなかなかないだろう。安室を引き留めるのは半ば無理矢理押し切ったような形ではあったが、酒を楽しんでもらえているのならよかったとなまえはひそかに安堵した。
「……おいしい……」
 ソファーに視線をやりながら口の中で独り言ちれば、安室が空気をなぜるように微笑んだ気配がする。変わらない態度の彼に、なまえはなめらかな味わいを舌で感じながら内心で嘆息をこぼした。アルコールが回ったおかげで頬が熱く、微かに頭痛がする。
「……聞かないんですね」
 ため息交じりに低声をもらす。
「なにがですか?」
 安室はなにも知らないというような声色で疑問形をつくってみせた。
 彼をとどまらせた理由も、以前ポアロの窓越しに目が合った日にコナンとともにいたことも、彼はなにも聞こうとはしない。
 尋ねられさえすれば足踏みせずに話せるのに、なまえが自ら踏み込むことを躊躇すると知っていて安室は問いかけないし話題にしない。
「……この間、ポアロの前、通りかかりました」
「ああ、あの日ですね」
「コナンくんと、お茶していたんです」
「コナンくんと? よかったですね、仲良くなれて」
 冗談めかした物言いは、以前なまえが同じように遠回しに追及しようとしたことを彷彿させた。
「……じゃないと一緒にいてくれないんですもんね」
「みょうじさん、大丈夫ですか? 飲みすぎですよ」
「だいじょうぶ、です」
 大丈夫でないのは、心だけだ。会話を噛み合わせてくれない安室は聡くて賢くてずるい。
 もう寝ましょうと促され、なまえは素直に立ち上がった。安室とともにベッドにもぐり込み、アルコールが回って揺れたような心地のまま目を閉じる。
 ベッドとタオルケットの隙間に身体を埋めながら、ふと二度と会えなくなるという気分はどのようなものだろうかという考えが思い浮かんだ。けれどなまえはその感覚をすでに知っていたことを思い出す。あの恐ろしいほどの虚無感と当たり前に彼がそばにいた日々が脳裏をよぎり、閉じた瞼の裏に涙が滲む。
 なまえは息苦しいほどの切なさを抱いたまま、意識が途切れるように眠りに落ちた。


ホワイト・エレファント