「降谷さん、もうすぐ卒業ですね」
 なまえが不意に漏らした声に、隣にいた降谷が歩調を緩めて返事をした。
「いや、まだ先だろ?」
 まだ11月だけど、と言う降谷になまえは一度立ち止まってから大きく首を振った。
「そんな、4ヶ月なんてあっという間ですよ! それにテスト明けなんて顔合わせる機会、ないじゃないですか!」
「まあ、確かにな……」
「降谷さんと三年間ずっと一緒だったんですよね……さみしくなるなぁ」
 口の中で沈みかけた気持ちを転がすと降谷はなんてことのないように言った。
「いつでも会えるよ」
「それはまあ、そうですけど……。授業一緒に受けるのももうすぐ終わりだなって思うとさみしいし……それに降谷さん警察学校入るんでしょう? 忙しいじゃないですか」
「そうだとしても時間くらいつくるさ」
「わー、降谷さん優しいー! 大好きですー」
「はいはい」
 なまえは降谷と並んでキャンパス内を移動する。日差しが強く照りつけ、むき出しになっている二人の顔や腕を容赦なく襲う。今日も暑いですね、なまえがそう言いかけたところで音楽が鳴った。
 視界は一度暗転し、意識が急激に浮上する。
 なまえは音の発信源である携帯を掴み、画面に指を滑らせてアラームを止める。大学時代の夢を見るのは久しぶりだった。夢は夢だが、彼とは似たような会話をした記憶がある。
 しかし覚醒してから考えると、現実離れした夢だったとひとり苦笑をこぼしつつ、なまえは起き上がるためベッドサイドの眼鏡に手を伸ばした。
「あっ」
 掴んだ眼鏡が指先から滑り落ち、眠っている安室の頭に当たる。慌てて眼鏡を取り上げてかけ、安室の顔をのぞき込めば、ゆっくりと彼の目が開かれた。
「おはようございます……。すみません、眼鏡落としちゃいました」
「おはようございます。大丈夫ですよ」
 柔らかく微苦笑を浮かべた安室は軽く髪を整えてベッドから抜け出す。なまえは彼に倣うように身体を起こし、顔にかかった髪をかき上げた。
 安室が洗面所で身支度を整えている間に着替えを済ませ、洗面所が空いたところで顔を洗って軽く化粧を施した。目を休めるためコンタクトレンズはつけずに眼鏡をかけ直してリビングへ向かう。
 椅子に浅く腰かけ携帯の液晶画面に指を滑らせメールを確認している様子の安室は、どうやら昨晩コンビニで着替えのためのワイシャツも購入していたようで、上だけ昨日と装いが異なっていた。
 待たせたことに軽く詫びを入れ、なまえは安室の向かいの椅子を引く。
「安室さん、今日は時間ありますか? もし大丈夫そうなら、近くにおいしいパン屋さんがあるので買ってきて食べてもいいかなと思っていたんですけど……」
 語尾を濁して尋ねれば安室はあっさりと頷いた。
「ええ、大丈夫です。ぜひ」
 穏やかな笑みを傾けた彼に昨晩のことを気にする様子は見受けられない。前もそうだったと自嘲に近い思いを飲み込みながら、なまえはさっそく屋外用の眼鏡にかけ替え、財布と携帯だけ持って安室と並び立ち家を出た。
 5分ほど歩けば通りに面した目的のパン屋が見えてくる。店の扉をくぐればちょうど焼きたてのパンが並べられているところだった。休日の朝にしては早い時間だが、すでに数名の客がトレーに目当ての品を乗せている。
 なまえと安室は客の流れに沿い、各々好きなパンを選んだ。なまえは朝食用のものに加えて自宅用に食パンも買うことに決め、財布を出そうとした安室を押しとどめて支払いを済ませて店を出る。
 家に戻って簡単なサラダをつくってコーヒーを淹れ、買ってきたパンとともにテーブルに並べた。なまえと安室は手を合わせて挨拶をし、さっそく食事に手をつける。
 なまえがほんのり温かさを残した丸いパンを千切って口に運ぶと、優しい小麦の味が広がった。安室はコーヒーを片手にクロックムッシュをひと口かじった。なまえがぼんやりと彼の方を見ていると、不意に目が合う。
「おいしいですね」
「ええ、おいしいですね」
 同じものを見て、感じて、食べて、飲んで、共有する。ただそれだけの簡単な、けれどとても穏やかで幸せなこと。
 なまえは安室と他愛ない会話を交わしながら奥底で燻っていた苦い感情がかき消されていくのを感じて、ほんのりと甘いパンを飲み込んだ。



 食事を終えたところでコーヒーを淹れ直し、時折思い出したというように会話を挟んで過ごしていると安室の電話が鳴った。
「すみません、失礼します」
「お気になさらず」
 携帯を片手に断りを入れた安室へベランダの方を手で示し、彼が外に出たのを目で追ってからコーヒーに口をつける。長くかかるのだろうと思いきや、安室はなまえがマグカップを空にする前に通話を終了させて戻ってきた。
「すみません、急用が入ってしまったのでそろそろお暇させていただきます。せっかく淹れ直していただいたのにすみません」
「いいですよ、気にしないでください。……あ、そうだ、お返ししますね」
 大丈夫だと首を振り、財布から五千円札を抜き取って安室に渡す。
「昨日いろいろ買ってきていただいたのとコンビニの分です」
「こんなにいただくわけにはいきませんよ」
「いえ、むしろ足りないくらいでしょう? それに今までも送っていただいたりいろいろお世話になったりしているので、これくらいは」
「けどみょうじさんには毎回駐車料をいただいていますし」
「乗せていただいているんだから駐車料くらい持って当然です。いつものように押しつけられていると思って、払われてください」
 軽い口調で笑ってみせれば安室は目を伏せて柔らかく口元を綻ばせつつ、礼を言って引き下がった。
 そしてふと思いついたというように顔を上げてなまえに問いかける。
「みょうじさん。明日、空いていますか?」
「え? 明日は……午前中は空いています。午後からは予定が入っていますが……」
「もしよかったら、朝、ポアロにいらしてください。明日は僕もいるので、サービスしますよ」
「ほんとうですか? それなら明日、伺いますね」
「ええ、ぜひ」
「それじゃあ気をつけてくださいね」
「ありがとうございます……。では、また明日」
「はい、また明日」
 そう言って去っていった安室の背中を見送ってドアを閉めた。
 なまえはリビングで立ち尽くし、見るともなしに窓の外へ視線をやった。差し込む陽射しがまぶしい。
 安室は事もなげに、さも当たり前のようになまえをバイト先に招いた。「また明日」と、そんな風に言って笑った。また明日必ず会える保証なんてどこにもないのに、いつかいなくなってしまうかもしれないのに、彼はそう言って去っていった。
 なまえは嘆息し、本棚に飾られた本に手を伸ばした。昨日もらったばかりの本だ。安室はどんな気持ちでこれを手に取ったのだろう。
 頑なに降谷への呼びかけに応えない彼は、しかし確実になまえとの距離を縮めている。時折のぞかせる笑みやほどけた口調は、その近づいた距離に基づいているはずだった。そうでなければ不自然だし、それ以外にありえない。
 いけないなと、そう思った。
 彼はごくたまに、ほかの人に接するときと同じようになまえに対しても自身の素地をのぞかせる。それはなまえにとってとても居心地がよく、けれど同じ人間だからこそ違和感を際立たせる。そしてその違和感に気を取られているうちに彼は遠くに行ってしまいそうだった。
「…………コーヒー」
 確認するように声に出してコーヒーを注ぐ。マグカップの見えない底に視線をやったままなまえは重いため息を吐き出した。
 普段と違うことが怖かった。また明日と簡単に口に出したとしても、その保証などだれもできない、それが恐ろしかった。
 彼はいつ去っていくのだろう。どうやっても安室の素地は降谷でしかなくて、けれど降谷を知っているなまえの前だけでは安室透という人間でいる。なぜそうしなくてはいけないのだろう。
 思うことは数えきれないほどある。それをうまく消化できない理由にはきっとなまえと彼の過失はない。
 なまえは無意識のうちにひそめていた眉を揉みほぐしつつ再び嘆息をこぼし、すべての思考を断ち切るように瞼を下ろす。彼女は立ち上るコーヒーの香りに包まれながら、苦い思いも嫌な想像も打ち消せないままマグカップに口をつけた。
 数日前、大学時代からの友人と会った。一緒に食事をし、近況報告をして別れたその帰り道の本屋で手に取った一冊の本。それは大きな書店の文庫版が並ぶ本棚の隅にあった。タイトルに惹かれて手に取った本は100ページ程度の薄いもので、表紙の色合いからか漠然と頼りない印象を受けた。
 就寝前にその本のページを読むともなしにめくっていたなまえだったが、気がつけば物語の中に入り込んでいた。
 ひとりの少女がいた。彼女は父と二人暮らしだった。母は物心ついたときにはすでにおらず、少女は幼い頃から母親は死んだのだと聞かされていた。ある日その少女のもとへ小箱が届く。それを開ければまず少女の目に入ったのは「あなたに幸せを」という短いメッセージだ。そして、その髪の下には象を模したオルゴールが入っていた。
その地域では白い象が幸せの象徴とであるされていた。
ひとりの少年がいた。彼は母と二人暮らしだった。父は物心ついたときにはすでにおらず、少年は幼い頃から父親は死んだのだと聞かされていた。
 ある日その少年のもとへ手紙が届く。手紙は死んだはずの父からで、筆圧の高いお世辞にもきれいとは言い難い字で同封されていたペンダントの説明が書かれていた。白い象を模したそれは、お守りだという。
 しかし、少年の住む地域では白い象は忌み嫌われる存在であった。白い象は美しく神秘的であるが、厄介で持て余すものなのだ。
 少年はペンダントを首にかけ、人目につかぬよう洋服の下に隠して肌身離さず持ち歩くことにした。
 やがて少女は成長し、父親と離れて暮らすようになる。かつて少女だった女性は、あるとき電車のボックス席で乗り合わせた男と言葉を交わす。その男と話していくうちに、互いの境遇や見てきた景色がひどく似ていることに気づいていく。片親であること、自然が好きなこと、いじめられていたこと、勉強が得意でないこと、海を見たことがないこと、白い象を持っていること。
 物語はただ淡々と進んでいく。徹底的に一人称視点を排除した文章では、彼らの科白からしかその感情を読み取ることができない。
 なまえはひたすらに文字を追った。終盤にさしかかった話はなめらかでどこか冷涼な空気を孕んだまま穏やかに進んでいく。湛然と綴られていく物語だったが、最後のページに近づくにつれて涙が溢れ、止まらなくなる。
 最後のページを読み終え、本を閉じたときになまえは悟った。なまえにとっての彼は、彼にとってのなまえは、彼女と彼にとっての白い象なのだと。



 なまえの仕事が繁忙期に突入したためしばらく会っていなかった安室から連絡が入った。午後9時を過ぎた頃、今から数分前にメッセージは届いていた。その内容は、有名店のケーキを依頼人からもらったがひとりでは食べきれないため一緒にどうかというものだった。
 常識的な彼らしからぬ提案を意外に思いつつ携帯の画面に視線を落とす。読み返しても当然ながら文面は変わらず、今からこちらへ寄ってもいいかという確認の言葉が並んでいた。
 多少驚きはしたが特に断る理由もないためなまえは二つ返事で了承し、夕食の後片付けを済ませてテーブルを拭いた。
 安室が唐突にやってくるのははじめてだ。仕事柄不規則になってしまうのだろうとわかっているし知った人を自宅へ招くことに抵抗はないため構わないが、会わない期間が長かったためそこはかとなく緊張する。
 彼が到着するまでまだ時間があった。手持ち無沙汰だったが本を読む気にも携帯に触れる気にもなれず、紅茶を入れてなんとなく普段は見ないテレビをつける。適当にザッピングをしていると、ふと妙に惹かれる映像があった。ショートムービーらしいその映像を追っていると、既視感を覚えた。幼い少女と少年、そして白い象の話。それはなまえが数日前に読んでいた本と同じ内容のものだった。
「ふるやさん」
 小さく掠れた声でなぞったその名前は、映像の音にかき消されることなくはっきりと響いた。久しく呼んでいない彼の名前。
 なまえはカップにくちびるを触れさせながら目を閉じた。紅茶はいい香りを漂わせていた。
 ぼんやりと映像を眺めているだけで時は過ぎ、安室が到着した。先ほどまで依頼人と合っていたと聞いてはいたが、礼儀正しく挨拶をする彼からは疲労の色は読み取れない。形式的な挨拶を交わしてからなまえは彼に椅子を勧め、紅茶を入れ直して席に落ち着いた。
「今日は突然すみません」
「いいえ、大丈夫ですよ。むしろ声をかけていただけてうれしいです」
「それならよかったです」
 安室が持ってきた数種類のケーキから各々好きなものを選んで皿に移し、さっそく食べ始めながら近況報告を交わす。
なまえが薄く透明な膜をまとったフルーツタルトのイチゴにフォークを刺す動作に集中していると、ふと安室がリビングのテレビへと目をやった。
「……テレビ、見てたんですか?」
「え? なんでですか?」
「めずらしいと思ったので。……ああ。リモコンが出ていたので、そうかなと」
 黒く塗りつぶされた画面からなまえへと顔を向ける。
「なんとなくつけたら、原作を知っている映画がやっていたので、つい」
 苦笑してから安室の皿が空いていることに気づく。なまえは自分の皿に残ったひと口分のタルト生地を咀嚼した。
「なんていう映画なんですか?」
「ホワイト・エレファントっていうんですけど……ご存知ですか?」
「ああ、本なら読んだことがあります。映画化されていたのは初めて知りましたが……」
「私も最近知ったんですけど、結構いろいろなところで上映されていたみたいですよ。この作品って小説の情景描写も素敵なんですけど、映像もほんとうにきれいなんです。……あ、ちょっとつけてみますか?」
 ぜひ、と安室が頷くのでソファーに並んで座り、テレビの電源を入れる。
 映画はちょうど、成長した少女と少年が乗り合わせた電車で会話を交わしているシーンだった。彼らは自分たちの象の話をしていた。
「私はなぜ当時死んだはずの人間からの手紙を信じられたのか、わかりません。それに、どこか薄気味悪いという風にも感じていたのにまだ手元にあることも不思議なくらいなんです」
「わたしも、同じかもしれません。……わたしはきっといつだって捨てたいと思っていました。大切だったのは、確かなのですが」
 車窓から海が見える。薄い雲が空にかかり、海より淡い青を引き立てる。端に見える山は木が生い茂っている。浜辺の脇の歩道を子どもたちが走っている。その空間だけが他から切り離されているかのように、電車の走行音のみが響いていた。
 再び彼らが口を開く。映画はもう終わりに近い。
 なまえはそっと隣を窺った。安室の視線はまっすぐ画面に向けられている。
 安室はこの原作を読んだとき、なにを思っただろうか。今はどう感じているのだろうか。盗み見た横顔からはひとつも読み取ることができなかった。
 画面はかつて少女だった女性を映し、彼女が最後の科白を口にしてエンドロールへ移った。ほっと息をついたところで、リモコンを操作してテレビを消す。
「……どうでした?」
「原作の情景描写が忠実に再現されていますね。映像がとてもきれいでした」
「読んだイメージの通りですよね。……安室さんは、彼らにとっての白い象ってなんだと思いますか?」
「……難しいですね」
 安室が考えを置くように軽く首を傾げた。
「私は、彼らにとっての白い象はわからないけど、彼らにとっての親は、白い象だったんだろうなって思います」
「それはどちらの意味ですか?」
 普段と変わらない穏やかな安室の声が耳に届く。それが無性に苦しかった。
なまえは彼をまねるように曖昧な笑みを浮かべて首を傾げる。ああ、ふがいない。なぜ涙腺が緩んでしまうのか。緊張か恐怖か、はたまたまったく別のなにかだろうか。指先が冷たい。手は震え、身体も言うことを聞かずに小刻みに揺れている。
「……紅茶、入れ直してきますね」
 なまえは誤魔化されてくれるだろう安室の聡明さに期待をしてキッチンへ向かおうとしたが、足にうまく力が入らずに床へ滑り落ちそうになった。
「大丈夫ですか?」
 重力に従うまま床へ座り込む。安室が腕を掴んで支えたため、激突することは免れた。
「あー、すみません……」
 取り繕えなかった。口元だけ笑いながら、頬に涙を伝わせたまま安室と目を合わせることができずにその首元あたりに視線をさまよわせる。
 安室が優しい分だけ胸が痛む。失う恐怖を思い出す。
 床にへたり込むなまえの腕を離した安室はソファーから降りて彼女と目線を合わせてしゃがんだ。
「……大丈夫です。すみません……」
 彼から無理矢理聞き出すことも、問いただすことも、したくなかった。それがなまえの降谷に対する信頼だった。
「みょうじさん」
 なにも言わなくてもいい。言ってくれなくても、そばにいてくれるだけでいい。もう突然消えてほしくない。互いの思惑を悟ろうと、一致しようと、すれ違おうと、いつかの日々と形が変わってしまおうと、ただそこにいてほしい。欲張ってしまうこともあるけれど、心の底から願うのは、ただ降谷がそこにいること、それだけだった。
 ただ降谷がそこにいて、一緒に笑って悲しんで、疲れたときには大変だねと言い合って、幸せに生きているのをそばで見ていたい。降谷の幸せをつくる一部でありたい。降谷のいる未来になまえもいることができれば、それだけでいい。
「私は、ずっと……」
 この人になにを伝えればいいのだろう。さんざん泣いて縋って引き留めて、けれど望むことはそんなことではなかった。ただ、以前のように同じ時間を歩んでいきたかった。彼が幸せに生きる姿を見ることができれば、そしてその幸せを構成する一部でいることができれば。偽りも保身も驕りもある、ただ必要のない壁はない、そんな当たり前の友人でいたかった。
「……俺も、友人でいたいと、思ってるよ」
 なぜこの人は憎らしいほどなまえの言いたいことをわかってくれるのだろう。そうやって手を差し伸べてくれるこの人がずっと好きだった。尊敬していた。なまえの人生になくてはならない人のひとりだった。
 彼にどんな事情があるのかなんて知らない。これから先、知ることができるかさえも定かではない。けれど今、何物にも代えがたい言葉をもらった。それだけでもう十分だった。痛みも苦さも悲しみも虚無感もあった彼のいなかった日々は、その言葉だけで救われた。
 どちらからともなく伸ばした手を掴む。指先が赤くなるほど握りしめ、涙を流し続けた。
 この人のそばにいたいと、そう、強く思った。



 安室と最後に会ってから数ヶ月が経った。なまえの仕事が忙しく、また彼もそうだったのだろう、互いに連絡を取っていなかった。繁忙期が終わり、精神的な余裕を取り戻した頃、なまえは安室に連絡を入れた。しかし、電話はつながらなかった。その電話番号はもう使われていなかった。
 彼とはもう二度と会えないのだろうか。漠然とそう思った。どこかで覚悟していたことだった。ただひとつ、彼が消えるときはなにか言葉にしてくれるだろうと考えていたが、それは自惚れだった。信頼と自惚れを履き違えていられるのは事実を目の前に突きつけられるときまでだった。
 いつか去ってしまうのだろうと、自己保身にも似た、根拠もない、しかし真実だろうという確信を持っていた。だから覚悟はしていた。構えていた分、衝撃も悲嘆も少ない。安室となまえに交流があったという事実を知る近しい人間がおらずとも、いくら心がズタズタに引き裂かれようとも、覚悟はあったのだ。
 こんな思いをするくらいなら再会など仕組まなければよかったと、そう切り捨てるのは簡単だ。けれどなまえにとっての彼は簡単に捨てられるほど安くない。一度築いてしまった関係を、信頼を、なかったことにするなどできるはずがなかった。
 ふと上げた視界に安室からもらった本が映る。美しい装丁と挿絵の本。そしてその隣にはなまえは吸い寄せられるように本棚に近づき、その本の表紙に触れる。途端、彼から受け取った思い出や優しさが溢れるように脳裏に浮かんでは消えていく。
 なまえは壁に頭を打ちつけてずるずると座り込んだ。そして八つ当たりに壁を叩こうと振り上げた拳を自らの腿に振り下ろす。
ここで冷静になれてしまう自分も、去っていってしまった彼の存在も、うまく消化できない。大切だという叫びは届いていたのに、どうやっても互いが望む形でそばにいることはできないのだろうか。
 冷たい液体が頬を滑っていくのを感じながら強く瞼を閉じる。
「降谷さん」
 それでも、彼はなまえを大切に思ってくれていた。なまえは彼を大切に思っていた。その存在が時に煩わしかろうと、重かろうと、疎ましく感じようと、持て余してしまおうと、ただ相手がそこにいるだけで幸せだった。大切でかけがえのない人だった。
 なまえにとっての彼はずっと白い象だったのだ。


ホワイト・エレファント