みょうじなまえは自宅でぼんやりとテレビを見ていた。夕飯時であるが、家に食材はほとんどない。繁忙期に入ってからずっと残業続きで帰宅時間が遅く、買い物をする時間も食事をつくる気力もなかったためにしばらく外食ばかりで過ごし、なにも買っていなかったからだ。
 今日はやっと仕事が落ち着き、久しぶりに早く帰宅できたが、買い物のために店に立ち寄ったり料理をしたりするような意欲は案の定というべきか湧かず、帰宅途中の電車内で食材宅配サービスをインターネットから注文した。
 到着予定時刻を知らせるメールが届いていたが、もうすぐだった
「はーい」
宅配便が来るたびにインターホンの購入を検討していたことを思い出す。忘れないように留意いいかた
念のためにチェーンロックはかけたままドアを開けて相手を確認する。
「はーい」
「みょうじ?」
 黒い革靴と鞄、ネイビーのスーツに白いシャツ、ストライプのネクタイ。
「みょうじ」
 その声が耳に届いた瞬間、なまえの手は反射的に扉を閉めた。粗い動作のために思わず首をすくめてしまうような音が響く。しかしなまえはそこまで気を回すことができず、耳の奥で心臓が脈打つのを感じながら開錠しようとサムターンのつまみを回した。そこですでに鍵を開けていたのに、逆に施錠してしまったことにはっと気づく。慌ててそのまま逆にひねり、チェーンロックへ手を伸ばす。震える手で2回失敗して、3回目でようやくロックを外すことに成功した。
 すぐさまドアを開け放つ。その勢いでつまずきいたが、ドアノブに体重をかけて片手を地面につき、なんとか転倒を防ぐ。しかし膝が震え、力が入らない。それを察した彼はしゃがみ込む彼女の腕を取ってまっすぐ立たせた。
「大丈夫か?」
 そう言ってなまえを窺うのは、間違いなく降谷零その人だった。
「だいじょうぶですけど、うそ、え、え、なんで」
「とりあえず、玄関まででいいから上がってもいい?」
「どうぞ……けどなんで……。野菜じゃない……なんで……うそ……」
 狼狽したままのなまえはなにを口走っているのか自覚をしないまま、玄関口で向かい合った降谷を見上げた。目が熱く、喉元は苦しい。
「急に来てごめん……久しぶり」
 耳になじむ声がじわじわとなまえの心を侵食する。
 ぼろぼろと涙が落ちるのも構わず彼の名前を呼ぶ。
「ふるやさん」
 目元に触れれば、体温で温まった雫で指先が濡れる。なんと言うべきかわからず、なまえは視線をさまよわせた。すると、降谷が腕を持ち上げなまえの手首を柔い力でその頬から下ろした。そして丁寧な手つきで彼女の袖口についた砂を払ってから解放する。
 なまえが降谷の動きを見つめて離れていく体温を無意識に追えば、伸ばした手を掴まれた。ぐちゃぐちゃと指が絡まり合う不器用で不細工な握り方はあの日と同じだった。もう片方も握り合った手に縋るように重ねる。
 ひどく安心するのに、涙は止まらない。しゃくりあげながらもう一度彼の名前をなぞれば、つないだ手に力を込められた。
 降谷は泣きじゃくるなまえに応えるように彼女を呼び、顔を上げさせる。
「みょうじ」
「うう……」
「相変わらずだなぁ」
 肩を震わせるなまえと目を合わせた降谷がそう言って笑った。穏やかに、幸せそうに、笑った。


ホワイト・エレファント