◆ 「せんせ、さよなら」 昨日、三歳の誕生日を迎えたばかりのみずほちゃんが、お母さんと手を繋ぎながら、空いている小さな手で僕に手を振ってくれた。 彼女が動くたび、ひょこひょこと揺れるツインテールが可愛くて、頬がゆるんでしまう。 「さようなら。また明日」 僕もみずほちゃんにさようならをして、お母さんと一緒に門から出て行く小さな背中を見送った。 僕は立花 歩。 すみれ保育園に勤めている二十四歳。 ここでは最年少の保育士だ。 ここで働く人たちはみんな良い人たちばかりで、とても過ごしやすい。……んだけど、それだけといえばそれだけ。 年収は三百万そこそこだし、周りは女性ばかりで家庭をもっている。 疎外感を感じる時もあったりするわけで……。 だったらなぜ保育士という職業を選んだのかというと、理由は簡単。子供が好きだから。 なんだけど……最近、その理由だけではなくなっている。 あろうことか、僕は自分が受け持っている子供さん、ひまちゃんの親御さんに恋心を抱いてしまったんだ。 好きな人の名前は、荘真。 ――そう。その人は『彼女』ではなく、『彼』だ。 もちろん、僕はノンケ。 これまで同性に恋心を抱いた事なんて一切ない。 だから、この感情を理解した時、僕自身、驚きを隠せなかった。 実際、荘真さんを初めて見た時だって、何とも思わなかった。 ――訂正。 何も思わなかったわけじゃない。 身長百八十センチ。染めているわけでもないのに、生まれつき色素が薄い茶色の髪。 男なのに、もやしのようなひょろっとした貧弱な身体で、大きな目をしているのが僕。 だけど荘真さんは、僕とは正反対の容姿をしていた。 僕よりも頭ひとつ分高い背に、襟足まで短く切りそろえられた黒髪。細くて鋭い目。すっと伸びた鼻の下にある薄い唇。端正な顔立ちをしていて、しかも肩幅も広い。モデル並みの体型で、とても格好良い。彼は滅多に笑わなくて、薄い唇はいつもへの字に曲がっている。 『格好良いけれど、無愛想な人』 それが、彼に対する第一印象だった。 だけどもし、いつも無愛想な人が、今まで見たことがないくらい、優しい微笑みを見せたら? 僕が大好きな子供たちに、微笑みかけていたら? 僕は、荘真さんの笑顔に惚(ほ)れたんだ。 彼は二年前に、奥さんと離婚をして、ひまちゃんとふたり暮らしをしている。 でも、この恋は実らない。 それは彼が僕と同性だからというのもあるんだけど、それだけじゃなくって、彼には恋人がいるから。 外資系の仕事をしている忙しい荘真さんに代わって、彼女さんが荘真さんのお子さんである、ひまちゃんを迎えに来ているから……。 恋心が発覚してから、すぐに失恋。 なんて悲しい現実だろう。 そんなことを考えている、夕焼け色に染まった閉園間近の今だって、荘真さんの彼女さんが見えた。 ――ああ、今日は最悪だ。 荘真さんも一緒にいる。 「パパ、おねいちゃんっ!!」 ひまちゃんは満面の笑顔をふたりに向けて、駆け足で寄り添う。 三人一緒にいる姿を見ると、まるで本当の親子のようだ。 僕の胸に痛みが走る。 まずい。涙、出そう……。 それでも僕は今、保父さんだ。感傷に浸っている暇なんてない。 ひまちゃんを真ん中に、仲良く手を繋いで家に帰って行く3人に、みんなと同じように笑顔で、『また明日』と手を振った。 ――それから僕は悲しい気持ちのまま、なんとか仕事を終えて、保育園の門をくぐる。同時に、我慢していた涙がするりと流れた。 ――ああ、もう最悪。男が外で泣くなんて。 ――しかもまだ、保育園の門にいるのにっ!! みっともなくズビズビと鼻を鳴らし、出てくる涙を拭っていると――何だろう。 俯(うつむ)けた僕の頭上に影が被さった。 何事がと思って涙ぐむ目をそのままに、顔を上げると、そこには薄い唇をへの字にしている、いつも無愛想な荘真さんが立っていた。 「どうかなさったんですか?」 低い声が、大人げなく泣いている僕に話しかけてきた。 「っ、荘真さん、なんで……っ」 訊ねられた問いに当然僕は、『貴方に失恋したから』なんて答えられるハズもない。 いや、それよりもなぜ、彼がここにいるのかということが気になった。 ひまちゃんはどうしたの? 彼女さんと一緒に帰ったんじゃないの? 彼はなぜ、僕を気遣うような優しい言葉をかけてくるの? たくさんの、『どうして』が頭の中でグルグルと回る。 すると彼は、整った眉尻を下げ、どこか困ったような表情を見せた後、口をひらいた。 「好意を抱いている人が、悲しそうな顔をしているのに、放っておけなかった。ひまは姉さんに頼んで、あのまま家に連れ帰ってもらった」 「えっ!?」 ――彼は今、なんて言ったの? 『姉』『好意』様ざまな気になる単語が彼の口から一度に出てきて、何から尋ねれば良いのか、わからなくなった。 僕は何も言えず、そのまま穴があくほど荘真さんを見つめていると――。 「君のことが気になって、仕方がないんだ」 荘真さんは、夕焼けと同じくらい赤い顔をして、そう言った。 まさか僕が彼女さんだと思っていた女性って、荘真さんのお姉さん? 荘真さんは、僕のことを気になってくれているの? そこでようやく、僕は荘真さんが話した内容を理解した。 だけどなんて答えればいいの? 突然のことで頭が回らず、そのまま無言でいると、荘真さんの下がった眉尻がもっと下がった。 「すまない、不快にさせてしまった」 僕が拒絶をしたと思ったらしい荘真さんは、広い背中を見せ、僕から去っていく……。 待って、違う。 違うんだ!! 慌てて手を伸ばし、彼の腕を引っ掴んだ。 「僕も好きです!! ずっと好きでした!!」 思わず大きな声で思いの丈を伝える。 荘真さんは振り返り、細い目を見開いて僕を見下ろした。 「夢……じゃないよな」 そう言った荘真さんは目を細める。 薄い唇が孤を描く。僕が大好きな笑顔を見せたんだ――……。 *END*