よく晴れた昼下がり、わたしはお兄ちゃん――夕神さんの執務室にいた。
心音に連れてこられたのだ。
制服姿はかなり目立って、ここに来るまでに何人もの職員に振り返られた。
もしかしたら、取り調べを受ける学生と勘違いされたのかもしれない。
午前中は高校の入学式だった。わたしも3年生だ。
本来在校生は休日だけれど、生徒会と吹奏楽部、一部の生徒は入学式の受付として駆り出される。
式典では新入生を祝う吹奏楽部の演奏があり、わたしはピアノパートを担当した。
講堂の片づけを終えた帰り、なぜか校門の前に心音がいて、わたしを見つけると、元気いっぱいにぶんぶんと大きく手を振って、嬉しそうに駆け寄ってくる。
「今日は何の日でしょう?」
ピースサインを決めて問いかけてきた心音に「高校の入学式だったけど?」と答えれば、容赦なく肩をはたかれる。
「もう、やだなあ! エイプリルフールだよ」
わたし今日、検事局に解剖記録を受け取りに行く予定があるんだ。
せっかくだからさ、ふたりでユガミさんをからかっちゃお!
英語をしゃべるような軽快なリズムでそう言って、悪戯っぽく歯をむき出して笑う心音は屈託がない。
心音が嘘をついてもすぐにばれるだろうから、わたしに協力してほしいらしい。
わたしが嘘をついて、心音が「エイプリルフールですよ」とネタ晴らしをする。
その後、お兄ちゃんにお昼ご飯を奢ってもらうところまでが心音の計画だ。
「むしろ、そっちのほうが心音の狙いでしょ?」
少しばかり意地悪く問いかけるわたしに、心音はぎくりとした表情を浮かべ、しきりに照れたように両手の指でポニーテールを撫でつけている。
この子は本当に分かりやすい。
心音のこういうところがお兄ちゃんに可愛がられるんだと思うと、ちくりと胸が痛む。
わたしは胸の痛みをごまかすように心音に微笑みかけた。
「で、どういう嘘をつくの?」
◇ ◇ ◇
検事局の窓からは見事な八重桜が見えた。
夕神さんの執務室は、小さい頃に見た心音のママの仕事部屋を思い出させる。
壁には掛け軸がかかっていて、和風の雰囲気が漂っていた。
窓際の検事席のそばには止まり木が置いてあり、大きな鷹が熱心に毛づくろいをしている。
ここで長い時間、お兄ちゃんと一緒に過ごすのだろう。
ギンと呼ばれているこの鷹が羨ましい。
それに心音もここを頻繁に訪れているのだと思うと、嫉妬してしまいそう。
応接スペースのソファから窓際を眺めてため息をついていると、大きな手から、茶托にのせられた湯呑がすっと差し出された。
「なにか珍しいもんでもあるかい?」
からかうように言われ、湯呑を受け取りながらばつの悪い思いがした。
気恥ずかしくて俯くわたしを、向かいのソファに座ったお兄ちゃんが面白そうに眺めている。
「夕神さんの家も、こんな感じなのかなって」
出所した後、お兄ちゃんがどんなところで暮らしてるのか、気になってしかたがなかった。
「今度見に来るか」
「え…」
あやうく湯呑を落としそうになる。
「どうせ心音にもねだられてたところだ。この際、まとめて二人で見に来いよ」
一瞬、二人きりを期待してしまった。
そんなのありえない。
お兄ちゃんと会ってるときは、いつもそばに心音がいるのだから。
『ユガミさんの部屋って、どんな感じなんですか? 見てみたいです!』
そんなふうに気軽に聞く心音の顔が想像できた。
やっぱり心音が羨ましい。
スーツの襟につけられた弁護士バッジを目にするたび、その眩しさに顔を覆いたくなる。
「今日はどうした」
きっとわたしが浮かない顔をしていたのだろう。
お兄ちゃんが何気ない口調でそう問いかけてきた。
気風のいい笑みを浮かべるお兄ちゃんの肩には、いつのまにか鷹が止まっている。
「悩みがあるんなら、このユガミがなんでも聞いてやる」
お兄ちゃんは目を細めて、優しくギンの頬をつついてやっていた。
くすぐられて嬉しそうに目を瞑るギンが羨ましい。わたしもこんなふうに、お兄ちゃんに撫でられたい。
さっきから嫉妬してばかりだ。
ギンにも、心音にも。
お兄ちゃんに近しいものを目にするたびに、やきもちを妬いてしまう。
そんな醜い自分から目を逸らすように窓の外を見れば、八重桜が春風に揺られて散っていた。
白い花びらがはらはらと舞い降りてゆく様は、雪のように儚い。
なぜだか胸を絞られるような気持ちになる。
春のせいだ。
いつもなら、エイプリルフールの嘘に協力したりなんかしないのに。
わたしの「嘘」にどんな反応をするのか、お兄ちゃんに試してみたくなってしまった。
「悩みじゃないの。でも、聞いてくれる?」
言ってみろ、と不敵に顎をしゃくる夕神さんの――お兄ちゃんの顔を、わたしはまっすぐに見つめた。
「わたし、お兄ちゃんが好き」
◇ ◇ ◇
「今日友達がユガミ検事に嘘の告白をするんです。
あとから『真っ赤な嘘で〜す』って、冷やかしちゃうつもりなんですけど」
わたしの言葉に検事さんがパチンと指を鳴らす。
「そいつはなかなかクールだね。……面白いことになりそうだ」
爽やかな笑みを浮かべて、覗きこむようにわたしを見下ろすのは、刑事の茜さんいわくジャラジャラのアクセサリーをつけた――ガリュウ検事だった。
カッコつけてるのに妙に様になってるのが、オドロキ先輩と大きく違うところだ。
わたしは解剖記録を受け取りに、ガリュウ検事の執務室を訪れていた。
いくつも並んだモニターには、それぞれ全く別の資料が映し出されている。
なんでも、いくつもの事件を同時に解決しているそうで、スーパーコンピューターのような頭脳を持ってるとしか思えない。
それでいてギターや書きかけの楽譜までもが乱雑に転がっていて、男の子がおもちゃ箱をひっくり返したような微笑ましさのようなものがあった。
「それにしても、嘘をつくんなら君でもよかったんじゃないかな」
「わたしだけじゃ、すぐにばれちゃいますよ」
「……ああ、確かに。君じゃあ、嘘はバレバレだね」
その言葉に、少しばかりムッとする。
「ぼくが思うに、希月弁護士はおデコくん並みに嘘がつけないタイプだ。
すぐに顔に出るというかさ」
「異議あり!
なんだかそれって、失礼じゃありませんか?」
頬を膨らませて異議を唱えるわたしに、ガリュウ検事が首をかしげた。
「そうかな。可愛いと思うけど」
さらりと揺れた金髪の前髪から、なんともいえないシャンプーのいい香りが漂う。
「可愛い」なんて言われただけで、許してしまう自分のチョロさが恨めしい。
オドロキ先輩に「可愛い」なんて言われたら絶対に殴ってるのに、ガリュウ検事に言われるとリップサービスだとわかっていても舞い上がってしまう。
もしかしてこれが、ガリュウ検事の手なの?
わたし上手い事あしらわれてる!?
百面相をしているわたしの前で、ガリュウ検事がくくっと身体を折り曲げて笑っている。
「……本当に、君たちの事務所のメンツは面白い奴ばかりだ」
落ちてくる前髪をかきあげ、かきあげ、それでも笑いが止まらない様子のガリュウ検事。
ひょっとしてこれって、少しばかり馬鹿にされてる!?
オドロキ先輩がむきになるのもわかる気がした。
「もう、ガリュウ検事!」
「はい。これがキミのお目当てだろ?」
爽やかな笑みで解剖記録を渡されて、何も言えなくなってしまう。
なんだかまたもや上手くかわされた気がする。
「クールなお友達によろしく」
それからこちらを指さして、ガリュウ検事がばっちりウインクを決めてくる。
「次の法廷、負けないよ」
挑戦的な笑みを残して扉が閉まった。
クールに見えて、意外と負けず嫌いな人だと思う。
法廷で熱くなっているガリュウ検事の姿を、オドロキ先輩の隣で何度か見たことがある。
解剖記録を渡されるという事は、次の法廷で戦うのはガリュウ検事だ。
なんたって、オドロキ先輩のライバル検事だ。
今度の裁判、わたしだって、絶対に負けないんだから!
「ガリュウ検事を倒して、オドロキ先輩にも勝つのよ、心音!」
わたしの大声に、そばを通りがかっていたアウチ検事がビクッとしていた。
解剖記録を鞄にしまい、わたしはユガミ検事の執務室を目指して廊下を歩く。
なまえはもう、ユガミ検事に告白したのかな?
男性の検事さんや事務官たちの目が、なまえに釘付けだった。
わたしもジロジロ見られたことはあるし、遊び目的で検事局に来たと勘違いされてつまみ出されそうになったことは何度もあったけど、あんなふうに熱く見つめられたことはない。
オドロキ先輩もイチコロで参ってしまったなまえの魅力が、ここでも炸裂したのだった。
なまえ本人はまったく気付いてないみたいだけれど。
無自覚なところがまた、なまえのいいところだなあとわたしは思う。自慢の友達だ。
ああ、わくわくするなあ!
なまえに告白されたら、ユガミさん、どんな反応するんだろう?
とびっきりの悪戯に引っかかるユガミさんの顔を想像して、笑いをこらえるのが大変だった。
そわそわしながらユガミさんの執務室の前までたどり着き、中の様子をそっとうかがう。
やけに静かだった。
手筈通り、なまえが告白したみたいだ。
よっし! さっそく乗り込むわよ、心音!
わたしは勢いよく扉を開け、胸を張ってユガミさんに言い放つ。
「今日は何の日でしょうか、ユガミ検事!」
って、あれ……?
ピースサインを決めたまま、わたしは固まった。
応接スペースのテーブルで、真っ赤になった顔を両手で覆って俯くなまえと、それを首をかしげて覗きこんでいる鷹のギン。
それに――窓際では、検事席の後ろで外の桜を眺めているユガミさんの姿がある。
「…………」
一つに束ねられているユガミさんの黒髪が、微かに揺れた気がした。無言なのに、妙な空気を感じる。
「あの、ユガミさん」
わたしは戸惑いつつもユガミさんに近づき、その大きな背中に声をかけた。
「『喜』の感情が暴走してますけど、なにかあったんですか?」
そのとたん、ユガミさんが打ちのめされたように低くうめいた。
番刑事から電流を流されたときのユガミさんを思い出す。
「心音、てめえ……」
地を這うような低い声があたりに響く。
振り返ったユガミさんは、猛禽類のような鋭い目つきでわたしを睨んだ。
「表に出やがれ」
「ひゃ、ひゃいいいいいいいっ!」
◇ ◇ ◇
廊下に放り出されたわたしは、ユガミさんから「ありがた〜いお説教」を受けていた。
「エイプリルフールか……」
へっ、と息を吐き出すように笑い、ユガミさんがわたしを見下ろす。
「小学生みてぇな真似しやがって。いかにもお前さんの考えそうなことだよなあ? 心音」
悪魔のような凄絶な笑みだった。
高身長と相まって、物凄い迫力がある。
「てめえで嘘をついちゃあすぐにばれるからって、なまえを使いやがるたァいい度胸だ」
『ゼンブ、バレテター!』
「あっ、こら、モニタ!!」
素直に白状してしまうモニタを慌てて𠮟りつけても、もう遅い。
もはや悪戯がバレた子供のように俯くしかなかった。
わたしの思惑を完全に見抜いてたユガミさんの言葉にぐうの音も出ない。
そんなわたしに呆れたように、ユガミさんが深々とため息をつく。
「だいたい、お前さんは詰めが甘ぇんだよ……嘘をついていいのは、午前中だけだ」
「ええっ 午前中までなんですか!?」
驚くわたしの前で、ユガミさんが執務室の扉を開け、部屋に入っていく。
「午後の嘘は無効だ。わかったら、とっとと成の字のところへ帰りやがれ」
「そ、そんなぁ!」
振り向きざまにニヒルな笑みを浮かべ、ユガミさんが扉を閉めた。
廊下に締め出されたわたしは、必死になって扉を叩く。
「待ってください! ユガミさん、なまえ!」
返事のかわりに、中からかちりと鍵のかかる音がした。
◇ ◇ ◇
「それでわたし、ユガミ検事の執務室から締め出されたんですよ」
すごすごと事務所へ戻ってきたわたしは、所長の成歩堂さんに慰められていた。
応接スペースのソファで、コンビニで買ってきた焼きそばパンを頬張り、春限定のリプトンのフルーツティーをストローで飲む。
結局ユガミさんからお昼を奢ってもらいそこねてしまった。
悄然とするわたしの前で、向かいのソファに座る成歩堂さんが、顎に手を当てて唸るように言う。
「これはユガミ検事に一杯食わされたね」
「えっ」
「嘘をついていいのは午前中だけっていうルールは、半分正しくて、半分正しくないんだよ」
法廷で真相を暴いているときのような、どこかミステリアスな表情で成歩堂さんが呟く。
「?? つまりそれって、どういうことですか?」
「イギリスではそのルールは適用されるけれど、ほかの国では24時間いつでも嘘をついていいんだ」
「ええええええええぇ!」
『ダマサレタ―! クヤシイッ! クヤシイッ!』
モニタが真っ赤に光っているのを楽しげに見つめながら、成歩堂さんが顎をさする。
「なにはともあれ、エイプリルフールの嘘は大成功だったんじゃないかな」
「そうですか? 大失敗だと思うんですけど」
主にお昼を奢ってもらえなかった件について。
そう言ったら、「心音ちゃんは色気よりも食い気だよね」と笑われてしまった。
オドロキ先輩に同じセリフを言われたら、絶対に小突いてたと思う。
成歩堂さんにからかわれると、嫌な気持ちにはならないけれど、なぜか恥ずかしくなってしまう。
俯くわたしの前で、成歩堂さんはぷくくっと笑いをこらえていた。
「あのユガミ検事がひどく動揺してたんだろう?」
思い出しても可笑しくてたまらない、というようにその身体が痙攣するように震えている。
そういえばさっきも、「ユガミさんの喜の感情が暴走してて……」の説明のあたりで噴き出していた。
焼きそばパンにかぶりつき、紅しょうがの酸味とパンの甘みを味わいながら、わたしの頭に疑問が掠める。
なんで、ユガミさんは、嘘をついてまでわたしを廊下に締め出したんだろう?
そもそも…。
「あの後、なまえに何があったんでしょう?」
「ユガミ検事から取り調べを受けたんじゃないかな」
「取り調べ!? なんでなまえが」
「なまえちゃんが本当に嘘をついたのかどうか、納得できるまで詳しく話を聞いてるんだと思うよ」
「ええっ 尋問てことですか!?」
思わずソファから立ち上がりかけるわたしの前で、成歩堂さんが「まあ、そんな感じかな」と苦笑している。
ユガミさんの取り調べなんて、絶対に受けたくない!
検察側に有利な証言を引き出されて、あっというまに起訴されてしまいそうだ。
ユガミ検事の心理操作に翻弄されて涙目になるなまえの顔が、目に浮かぶようだった。
「大丈夫なのかな、なまえ」
「大丈夫じゃないと思うよ、色々と……」
成歩堂さんがどこか陰のあるような忍び笑いを浮かべる。
「……色々って?」
三日月のイヤリングに触れながら首をかしげるわたしに、成歩堂さんがあっはっはっ、と身体を揺らせて笑う。
「心音ちゃんには、まだ早いかな」
あいまいに微笑んだ成歩堂さんに、頭の中がクエスチョンマークでいっぱいになった。
よく意味はわからないけど、なんだか胸がどきどきする。
期間限定のリプトンのフルーツティーからは、春の味がした。