序幕


手を差し伸べたのはどちらが先だったのか、今となってはもう覚えていない。


嘘や偽善で塗り固められた世界に本物を見た。
底なしの闇に狂気を宿した瞳はとても魅力的だった。本物のその瞳が、わたしの世界を彩ってくれると信じて疑わなかった。


手が重なったのはそのあとのこと。
彼はにっこりと笑った、天の使いかのように。

天の使いとは言ったもののあの頃のわたしは天使に救いを求めていたわけじゃない。救われたわけでもない。そもそも神さまなんて信じないし頼まない。


信じているのは自分の目で見たものだけ。
頼りにしているのは自分だけ。
彼もまた、同じだった。


彼の瞳を見たわたしはただ、彼とともに景色を見たいと思った。たとえ辿り着く場所が狂気の渦巻く闇の中だとしても。彼が堕ちるならば、ともに奈落へ堕ちることも厭わない。不思議とそれに恐怖はない。どこまでも同じ景色が見たかった。


彼は重ねられた手を握り、わたしの手を引いて歩き出す。遅れることも縺れることもなくついていく足は軽やかだ。心は春の木漏れ日のように暖かで満ち足りている。



空っぽだったわたしに、水を注いでくれた彼の名は赤木しげる。

生涯、添い遂げることになる男である。

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