「にふぇーでーびる」
始業式である今日は午前中で全日程が終わる。男子テニス部は午後から部活があるが、俺は担任から海岸の少女こと燕谷の学校案内を言いつけられている。部活に遅れることを永四郎に伝えるよう裕次郎に頼んだ。
ホームルーム終了後、一部の部活しか活動がないため生徒が減り静かになった廊下を歩く。燕谷は俺の三歩後ろを着いてきている。
俺たちに会話らしい会話はない。たまに俺が説明をして燕谷が頷く、その繰り返し。
次の説明まで燕谷は外の景色を見ているし、俺は緊張してそれどころではなかった。
まさか海岸の少女とこんなところで再会するなんて夢にも思わなかった。先ほどよりも心臓は落ち着いたが、それでもまだいつもより鼓動が速いことには変わりない。
「あい、今さらやしが俺は平古場凛。ゆ、ゆたしくな、お隣さん」
そういえば自己紹介してねえな、と気づいて立ち止まり振り返ると燕谷は遠慮気味に頷いた。もしやと思い「やー、やまとぅんちゅか?」と訊ねると燕谷は首を傾げた。
う、ちゅらかーぎー…。
「本土の人間か?」
「うん」
なるほど、どうりで言葉が通じないわけだ。はじめに頷いたのは俺の言葉をなんとなく推測してくれたのだろう。合っているか定かではないから遠慮気味だっただけで。
じっと俺を見つめる瞳に耐えられなくなって思わず目を逸らしてまた歩き出す。燕谷は特になにも言わずまた俺の三歩後ろを着いてきた。
資料室に行くときは2階の渡り廊下を使用するように注意し、他にも畑や体育館などを案内していると、今まで俺の三歩後ろを着いてきていた燕谷が突然俺の横から飛び出した。なにごとかと後を追うと、フェンス越しにテニスコートを見つめる燕谷がいた。
こちらに気づいた裕次郎が手の代わりにラケットを振ってきたので手を振り返す。どうやら今日は早乙女が不在らしく、試合形式で打ち合ったり走り込みだったり各々が自分に必要なメニューをこなしているようだ。
そんな様子を燕谷は微動だにせず、真っすぐ見つめている。隣に立ち表情を盗み見すると、その横顔はとても悲しそうに見えた。
だがそれは一瞬で、そう思ったときにはもういつもの感情が読めない表情に戻っていた。あの悲しそうな表情は気のせいだったのか?
なんとなく気まずくて「俺のお気に入りの場所があるんだが行くか?」と問うと燕谷は俺を見上げてゆっくり頷いた。
相変わらず三歩後ろを着いてくる燕谷を案内したのは、俺のお気に入りの場所である海が見える屋上。景色も最高だし爽やかな風も感じられるここは穴場だ。
「ここからだと海も見えるんだ」
「…いいところ」
風でなびく髪を手でおさえ遠くを見つめる燕谷の頭上に藍色の小鳥が止まる。ぎょっとしたが、よく見ればそれははじめて燕谷と会った海岸で見かけた小鳥だった。
「そいつと仲良いんだな。海岸にいたあの日も一緒にいたろ」
「海岸…。ああ、あのときの」
燕谷は今さら俺のことを思い出したらしく「どうりでどこかで見たことがあると思った」と興味なさげに呟いた。結構ショックだったが、小鳥とは小さい頃から一緒なのだと俺の質問に答えてくれたのでよしとしよう。
「テニス、興味あるんばあ?」
燕谷は無口だが会話を嫌うようではない。ちゃんと俺の言葉に返してくれる。だから少し間を空けて先ほど気になったことを聞いてみた。
すると燕谷は口を一文字に結んで遠くを見つめるだけで、俺の質問に答えることはなかった。
「おしまい?」
「え?」
「学校案内」
「そ、そうだな。終わりかな」
「そう。じゃあ帰る」
そう言って燕谷は背を向け歩き出す。藍色の小鳥は相変わらず彼女の頭上に乗ったままだ。ぼーっとその様子を見ていると燕谷はこちらに振り返りながら「平古場」と俺の名前を呼んだ。
馬鹿みたいに反応してしまう俺の心臓は、またどくんと波打つ。
「にふぇーでーびる」
あの日と同じ。
燕谷の絹のような髪が風になびき、色白の肌とターコイズブルーの瞳が日の光に反射してきらきらと輝いている。
澄みきったその瞳に吸い込まれてしまいそうだ。無表情の瞳の奥になにが潜んでいるのか計り知れないが、ただただどこまでも美しかった。
結局俺は部活が終わり迎えにきた裕次郎に肩を叩かれるまでその場に呆然と立ち尽くしていた。
部活をさぼった(さぼりたくてしたわけじゃないと弁明しても無駄だった)俺は、せっかく一度は逃げられたのに永四郎からゴーヤー地獄を味あわせられることとなった。
それでも不思議と満ち足りた気分になれたのは、きみが「ありがとう」と言ってくれたから。