てっぺんまでもうすぐ
耳を劈くような叫び声で我に返った。
発生源である隣を見ると、顔面蒼白の冴が僕の腕を両手でがっつり握りしめながら叫び声を連発している。彼女が声をあげている相手は飛び出してきたゾンビたちだ。
そうだ。冴の手を引いて歩き出した八満に腹が立ち、彼女の手を奪ってその流れのままおばけ屋敷に入ったんだった。
「安栖、なんか雰囲気違ぇな」
冴たちがメリーゴーランドで楽しんでいる間の待ち時間で、なんの脈絡もなしに八満が呟いた。
たしかにいつもの冴とは違う。全くの別人になったわけではないのにそう見えるのは、私服が見慣れていないせいなのか、デートという雰囲気がそうさせているのか、理由は分からないがたしかなことがある。
「…だからなんなんだ」
「ああしてると結構かわいいよな」
そんな冴に見惚れ、視線を合わせられなくなるくらいには彼女のことをかわいらしく感じ、目の前の八満にいらついてしまう。
明らかにいつもの僕ではない僕がいた。
「はっ、きみのものでもないだろうに」
「だからって、その様子じゃあ完全に清のものってわけでもねえだろ」
なにか企んでいるのか?
やけに上機嫌でメリーゴーランドから視線を外さない八満の様子を窺っても心情は読めない。八満の言葉に心臓がざわつき、ただ僕のいらつきが募るばかりだ。
「俺、好きになっちゃいそ」
その言葉をきっかけに僕の余裕はついに底をついた。今日はもともと余裕などないに等しかった。最初にそうさせたのは冴だったけれど。
冴たちが戻ってきても僕は八満に対して敵意を収めることができなかった。ついには親を守ろうとするポン太とまで火花を散らす始末。
素直な感情を彼女の側で心置きなく伝えられるきみには僕の気持ちなど分からないだろうね。神獣の、それも赤ん坊にこんな感情を抱くなんてやはり相当余裕がないらしい。
そして冒頭に至る。
このままでは冴の魂も抜けてしまいそうだったので途中退場の出口から外に出た。彼女のぐったりとしている様子に罪悪感が湧いて冷たいお茶を差し出した。
知らなかったとはいえ苦手なおばけ屋敷に入ってしまったことに謝罪をすると、むしろ途中退場させてくれてありがとうと感謝された。まったくきみらしい。
「…まあ、きみの叫び声で我に返ったからね」
「我に返ったって?」
「いや、こっちの話。気にしないで」
笑いかけると、冴はとても嬉しそうににこにこと笑っていた。ご機嫌そうな彼女に、なぜそんなに嬉しそうなのかと問うと、冴は自分が笑っていることに気がついていないようだった。
「今日ずっと様子が変だったから、いつもの乙部くんに戻ってよかったなあと思って」
照れくさかったのかそれを誤魔化すように冴は最後に「えへへ」とふにゃっと笑った。
ずっと気にかけてくれていたのかと驚いた。それと同時に嬉しくなった。そんなことで自然と笑みがこぼれるほど嬉しかったのか、と。
自分のことで他人に一喜一憂されるのがこんなにも嬉しいことだとは知らなかった。
女の子の格好ひとつで心が揺れることも、腐れ縁の一言で心がざわつくことも、すべて冴がいなければ知ることのなかった感情だ。
調べるものがないほど平凡な女子生徒は、僕にたくさんの感情を教えてくれた。
あの日からずっと。
「抜け出しちゃおうか」
もっと教えてほしい感情がある。
それはきみとふたりで知りたい感情だった。
「え!?ちょっ、乙部くん!?」
そうと決まれば行動は早く、僕は冴の手を攫い走り出した。朝と比べれば天と地ほどの差。足どりは軽く羽が生えたように気分が弾む。
冴はいろんな表情を見せた。
コーヒーカップで目をまわし、ゴーカートで大いにはしゃぎ、ジェットコースターで急降下とともにめいっぱい叫ぶ。巨大迷路は僕が先にゴールしてしばらくしても彼女がたどり着く様子はなかったので迎えに行った。
途中、園内のレストランで昼食を挟んだり、売店で土産品を見たりして過ごすうち、空は赤く染まりはじめた。
「はあ、こんなにはしゃいだの久しぶり」
「ゴーカートでは随分飛ばしてたね」
「あれはテンションあがって、つい…」
連れまわしはじめたときはシアンちゃんたちのことを気にしていたが、僕が八満に抜けることをすでに伝えてあると言うとそれを信じ、そのあとは遊園地を満喫してくれた。
遊び疲れた僕らは休憩の意味も込めて最後に観覧車にたどり着く。照れ笑いを浮かべたきみと乗るゴンドラが揺れる。冴の向こうに見える空が、彼女の頬よりさらに赤く染まっていた。
「シアンちゃんたちはもう帰っちゃったのかな。ポン太ちゃん、楽しんでくれてたらいいね」
せっかくのふたりきりでも冴は、はじめて遊園地に来たシアンちゃんたちの心配をしていた。
少しくらい意識してくれたっていいじゃないか、とむくれている時点で結果は白黒はっきりついているし、僕はもうそれをとっくに認めている。
「乙部くん、アトラクションが好きなんだね」
「え?」
「だって、一刻も早く乗りたかったんでしょう?だから途中で抜け出したんだよね」
「…はあ」
予想通りだが目の前の彼女は僕の気持ちなど気づいていないようだった。先ほどまではいつもと違う僕を気にしてくれていたというのに、免疫のない心情には鈍感だ。
「違うよ。ふたりきりになりたかったんだ」
「え?」
なので素直な気持ちを伝えてみた。当然、彼女は目を丸くしたけれど。
理解していない様子の冴に分からせるため、もう一度彼女の目をまっすぐ見つめて呟く。
「冴と、ふたりきりになりたかったから抜け出したんだよ」
感情を伝えるだけで声が震えるとは、命の限り好き勝手を尽くしてきた僕が聞いて呆れる。きみに嫌われることが怖いと言ったらきみは笑うかい?
「あの、えっと…乙部くん?」
「違うよ」
いつもと違う雰囲気を感じ取ったのか、しどろもどろな冴の手を捕まえて距離を詰める。
「乙部くん」じゃ気に食わない、足りないんだ。きみに感情を教えてもらってから僕は随分とわがままになってしまったらしい。
あの日、嬉々として呼んでくれた僕と同じ名前を呼んでほしい。
「名前で呼んでほしいな」
「へ!?あ、いや…か、顔が…近い、です…」
至近距離でもどうにかして真っ赤な顔をそらそうとする冴に自然と口角が上がる。彼女には悪いが加虐心をくすぐられてしまい、雑に手を捕まえただけでは飽き足らず、冴の指に僕の指を絡めて優しく触れると、ついに彼女は顔を俯かせた。
ああ、やはり僕は命の限り好き勝手したいんだ。
「顔が近いと困るのかい?嫌?」
「嫌ってわけじゃ…ただ、恥ずかしくて…」
「じゃあ名前で呼んでくれたら離してあげるよ」
「……まるくん」
「なんだい?もう一度、大きな声で」
蚊の鳴くような声で呟いた彼女に優しく促すと、恥ずかしさのあまり涙で瞳を潤ませ、彼女の向こうで燃えている夕焼け空のように顔を赤くした冴が、僕を見つめながら今度はしっかりとした声で呟いた。
「…清丸くん」
「清ちゃん」
ふ、と思い出したのは観覧車のジンクス。
観覧車のてっぺんでキスを交わした恋人同士は永遠に結ばれるとかなんとかというありきたりなもの。ゴンドラに乗り込む前、僕らの前に並んでいたカップルがそんな話をしていた。
科学的根拠のないものは信じない。
けれど、きみとなら信じたいと思ってしまった。
「よくできました」
とうとう、あの日の声と笑顔は僕の心を掴んで離してはくれなかった。僕の心を締めつけ、すべてを吸い込もうとする。そして僕はまんまと吸い寄せられるのだ。
今はただ、きみに触れたいと。
僕は、きみの瞼にあの日の憧れごと口づけた。
たどり着いて、分かち合うものはなにもないけど
恋のよろこびにあふれてる