はじめての憂鬱


昨日のポン太ちゃん初恋事件。
あのあと、クラス中から注がれる憐憫のまなざしから逃れたり、帰宅時間になってもポン太ちゃんが離れなかったりとずいぶん苦労した。

それ以外にも苦労したことがもうひとつ。
下校するまでの間ずっと乙部くんからの視線を一身に受けた。科学者として興味津々ですという感情が伝わってくるほどの熱視線だったが、それをちょうだいしただけで昨日はなにごともなく無事に1日を終えた。

どうか今日以降も安寧が乱されることなく無事に過ごせますようにと願いながら「いってきます」と自宅を出るため扉を開ける。しかし、そんなささやかな祈りはいとも簡単に打ち砕かれた。



「おはよう、安栖さん!」



あり得ない、あり得てはならない人物の登場に、思わず開けたばかりの扉を勢いよく閉めた。

きっとなにかの見間違いだ。あの熱視線に疲れて幻覚を見ただけ、それかプラズマかなんかだ。でなきゃ彼がわたしの家の前にいるわけがない。

自分に言い聞かせて恐る恐る扉を開けると、彼は先ほどより近い位置に笑顔で立っていた。見間違いでもプラズマでもなかった。
正真正銘、乙部清丸くんその人だ。



「酷いなあ、突然閉めるなんて」

「どっどうして乙部くんが…!?」



酷いなんて微塵も思ってなさそうですね、なんて文句をつけるほどの余裕や度胸なんてなくて、なぜここに乙部くんがいるのかという疑問を口にできたのが精いっぱいだった。しかしそんな精いっぱいの疑問も母の「大声出してどうしたの?」という声に負けてしまう始末。



「おはようございます。僕は安栖さんの同級生の乙部清丸と申します!安栖さんにはいつもお世話になっているのでお迎えにあがりました」

「おはよう。あらあら、わざわざありがとうね。これからもどうぞ娘のことをよろしくね」

「いえ!こちらこそ!」



呆然としているうちにいつの間にか乙部くんとお母さんが仲良くなっていた。失礼だけどこんなに礼儀正しい乙部くんをはじめて見た。そんな乙部くんを気に入り、勝手に娘をよろしくしたお母さんをこれほど恨んだことはない。



「それではお母さん、僕たちいってきます」

「え?あの、乙部くん!?」

「はい、いってらっしゃい」



乙部くんに腕をがっしり掴まれて強制連行されるわたしをのんきに笑顔で見送るお母さん。
違うよ!お母さんが思うような和む状況じゃないの!どうか娘の危機に気づいて!
そんな思いも虚しく、わたしは乙部くんに引きずられるようにして自宅をあとにした。



「君ん家、甘い匂いがしたね」

「え!?」



一緒に登校する事実をありのまま受けとめ、絶妙な距離を保ちつつ歩いていると突然投げられた会話にどきっとする。

「そんなに身構えないでよ」と乙部くんが笑う。先生や笠置くんたちに向けられる笑顔ではないそれにほっとして、先ほどの質問の答えとして母親がお菓子作りに熱中している旨を話すと「ふーん」と興味なさげに呟いた。
ち、沈黙が痛い。



「浮かない顔だね。具合でも悪いのかい?」

「いえ、元気です。……身体は」

「そう?せっかくの素晴らしい朝だ、笑おうじゃないか!」



暗い顔をしているのはあなたのせいですが、とは言えなかった。改めて言うがそんな余裕も度胸もない。皆無だ。

きらきらと輝やく乙部くんの瞳を見て、わたしのささやかな安寧は完全に幕を下ろしたのだと確信した。

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