きみの名前を呼んだあとに
「僕とつき合ってくれ」と言われてからずっと考えていた。あれはつまりいわゆる恋人関係になるという解釈で間違いないのだろうか、と。
あのあと下校時間になると「送るよ」と乙部くんに言われ登校だけでなく一緒に下校した。その言葉通りご丁寧に家の前まで送ってくれたのだ。翌日である今日も朝から迎えにきてくれて一緒に登校した。
いまだ疑心暗鬼の中、教室に着いて扉を開けた瞬間、わたしは恋人関係になったという現実を叩きつけられやっと実感するのだった。
「よっ、ご両人!朝から熱いねえ!」
笠置くんたちがにやにやしながら囃し立てる。女子たちも黄色い声をあげていて教室中が騒がしかった。また注目の的となったわたしは思わず一歩後退りした。なんだか連日こんなのばかりだ。
頭になにかが当たり振り向き見上げると、呆れ顔をしている乙部くんがいた。どうやら頭に当たったのは彼の胸板らしい。視線に気がついた彼はにやりと笑い、わたしの肩を抱いて高らかに宣言した。
「当然さ。積年の想いがようやく実ったんだからあまり囃し立ててくれるなよ。まあ、悔しかったらきみたち負け犬も恋人をつくりたまえ」
「屈辱だ…。シアンさん!僕たちも…っ!なにをする!」
「おめーは黙ってろ、バカJr.」
触発されたオーキッドさんがシアンちゃんに言い寄り、それを笠置くんが頭を叩いて止めた。
乙部くんの言葉は顔から火が吹いてしまいそうなほど恥ずかしかったけれど、おかげでわたしに集まっていた注目は外れ、男子は涙を流して悔しがり、女子は男子に冷めた視線を送る。
わざと挑発するようなことを言ったのは、わたしに集まる視線を逸らすため?
わたしが注目されるのが苦手なことを知っているから。
なんて、考えすぎだよね。
飛び込んできたポン太ちゃんを胸に受けとめながら、自分に都合のいい考えを払拭した。
「くそ、清丸のやつ!安栖さんにフラれろ!」
「清丸がフラれるに一票だ!」
「俺もだ!」
「待て、おまえら!賭けなら俺が胴元を引き受ける。さあ張った張った!」
「清丸が安栖さんに愛想つかされる」
「清丸が安栖さんに逃げられる」
「乙部がフラれる」
「おい、それじゃ賭けになんねーだろ」
賭博場と化した教室を苦笑して眺めていたら、いつの間にか隣にシアンちゃんが並んで「バカみたい」と呆れた様子で呟いた。
男子は賭けごとに夢中だし、女子は昨日見たドラマなど別の話題に移っていたので、注目されることがなくなったわたしはほっと一安心した。
「おい、やめたまえ。冴に失礼だろ」
乙部くんの言葉に思わず彼を見上げると、真剣な表情で笠置くんたちに注意をしていた。乙部くんから視線を逸らせないわたしは気がつかなかったが、笠置くんたちも賭けを止め、驚いた様子で乙部くんを見つめていたらしい。
今度の注目の的は乙部くんだ。
「清、おまえ…」
「冴って誰だ?」
「んー、誰だっけ?」
「なに言ってるんだ、彼女の名前だよ」
「あ、そうだ。安栖さんの名前だ」
「安栖さんで定着してたからなー」
みんなが「誰のことだ?」と困惑する中、乙部くんはさも当然のように言った。みんながすでに忘れていたわたしの名前を覚えていてくれた。
そのことが素直に嬉しい。せっかく岡本くんたちが「ごめんね」と謝ってくれたのに、彼から視線を逸らせなくなるくらいには嬉しくて胸がいっぱいだった。
あまりにもじっと見つめすぎたせいか、乙部くんは視線を合わせて「どうしたの?」と不思議そうに訊ねてきた。
「な、名前…」
「名前で呼ぶくらい、僕たちはつき合っているんだから当然だろう?」
「でっでも…」
煮え切らない態度のわたしに「だめかな?」と乙部くんが悲しそうな顔で呟いた。そんな顔をさせたかったわけじゃない。首を横に振ってだめではないし驚いただけであることを伝えると、乙部くんは「よかった」と安心したように眉を下げて笑った。
不敵な笑みや裏がありそうな笑顔は何度も見たことがあるけれど、こんな風に優しく笑うところははじめて見た。はじめて名前を呼ばれたことも相まってなんだか照れくさい。
「あなたの名前、冴っていうのね」
「あ、うん。安栖冴です」
そういえばシアンちゃんがこの学校に入学してから改めて自己紹介してなかったな。シアンちゃんがわたしの名前を知らなくても当然か。
「名前で呼ばれてるところ見かけないから知らなかったわ」
「昔から名前で呼ぶの両親くらいだから…」
途端、教室が重苦しい雰囲気に包まれる。これってもしかしてわたしのせい?個人的に暗い話ではないと思ったのだけれど、もしも気分を害したのなら申し訳ない。謝ろうと口を開いたら乙部くんに遮られる。
「これからは、僕が嫌というほどきみの名前を呼んであげるよ」
優しく微笑む乙部くんに釘づけになった。こんなことにならなければ一生見ることはなかったであろう姿。オーキッドさんのお父さんのお仲間にミサイルを撃ち込んだり、小型船で本船を爆破させたときの恐ろしさは微塵もない。
目の前にいるのはただただ優しい
乙部くんだ。
「シアンちゃんやポン太くんもね」
「そうね。あなたがよければ呼ばせて」
「みうっ!」
「も、もちろんだよ!」
笑顔のシアンちゃんと元気いっぱいなポン太ちゃん。こんなことにならなければシアンちゃんとこんな風にお話することはなかったし、ポン太ちゃんと遊んだりすることはなかった。
「改めてよろしくね、冴」
「みう!みー!」
「こちらこそよろしくお願いします!」
はじめて呼ばれた名前はなんだか恥ずかしくて、こそばゆくって、照れくさくて。胸が締めつけられる感覚に襲われた。
それが不思議と嫌ではなくて。
「よろしく、冴」
「…うんっ!よろしくね!」
差し出された手に触れても悪寒はしない。
それどころか温度が伝わり心まで温かくなる。
その温もりのおかげで自然と笑みがこぼれ、心の底から笑うことができた。それがとても懐かしく感じたのだった。