あなたのためなら、この命などどうなったって構わない。元よりあなたに救われた命なのだから。



「あなたに名を授けましょう」



河から流れてきた得体の知れないわたしたちに、あのお方はそう言ってにっこりと笑い、澄んだ瞳で「わたしの名前」を紡いだ。それがわたしとお師匠さま、光明三蔵法師さまとの出逢いだった。


今日も今日とて金山寺はよい天気だ。うん、おそうじ日和。竹ほうきを持って外に出ると新鮮な空気が流れ込んでくる。

ふと香る、嗅いだことのある煙たい匂い。その匂いが誰のものなのかすぐにわかったわたしは周囲を見渡し、白い煙がひと筋のぼる木の陰に駆けていく。



「お師匠さま!」

「おや、名前。元気ですね」

「はい!お師匠さま、いつも吸っているそれはおいしいのですか?」

「いいえ、全然。なので吸っちゃいけませんよ」

「? はーい」



「いいお返事です」とお師匠さまがわたしの頭を撫でてくれる。こうしていると心があたたかくなる。この瞬間が大好きだった。

吐き出された煙は澄んだ青空に溶けた。その煙を見送りながら、お師匠さまが言うんだから吸っちゃだめなんだろうなあ、とぼんやり思っていると背後から足早に砂利を踏みしめる音が近づいてくる。それが誰のものかなんて簡単なことだった。彼はお師匠さまがこうして煙を吐くと、いつもそれを注意しにくるから。



「またやってる…」



呆れたように江流がため息をつくと、お師匠さまは決まって「気をつけていますのでご心配なく」と笑う。折れるのはいつも江流のほう。今日ももう一度ため息をつくとなにも言い返さなくなった。

ああ、なんて心地よいんだろう。

名前を呼ばれたあの日、声が聞こえたのだとお師匠さまは言った。救いを求める声。わたしたちの声がお師匠さまには聞こえたのだという。



「いつかあなたたちにもそんな声が聞こえる日がくるかもしれませんね」

「そのときはうるせえって言ってぶん殴ってやりますよ」

「ははっ江流らしい。名前はどうしますか?」



たすけて、と救いを求める声が聞こえたら。わたしにはいったいなにができるのかな。



「わたしは、いっぱい抱きしめてあげます」



過去のわたしがそうされたように。ぎゅっと抱きしめて、頭を撫でて、手を繋いで、微笑んであげる。
わたしがお師匠さまにされて嬉しかったこと、心が温かくなったこと、それらすべてを教えてあげたい。

あなたが教えてくれたたくさんの愛を寂しい君に。



「おまえは相変わらず甘いな」

「そ、そんなことないもん!」

「単純」

「むー…」

「ははは、いいじゃないですか。私は名前らしくて好きですよ」



お師匠さまは微笑みながらわたしの頭を撫でてくれる。未だにふくれっ面のわたしを見てお師匠さまは、眉間に皺を寄せた江流の背中を軽く叩いてなにかを促す。すると江流は頬を染めたあと、そっぽを向いて「別にきらいじゃない」と呟いた。
ちょっぴり嬉しかった。



「よかったですね、名前」

「はいっ、お師匠さま!」

「…やっぱ単純なやつ」

「なにをー!」

「はっはっは、ふたりは元気ですねえ」



澄んだ青空とすこしの煙。
お師匠さまと、江流と、わたし。
それだけでしあわせだった。



「お師匠さま、大好きです!」



いつか飛ばした紙飛行機のように、どこまでも飛んでいけると信じていた。



「私も名前のことが大好きですよ」



でも違った。江流の言う通りわたしは甘かった。
飛ばした紙飛行機はいずれ地についてしまうことに、このときまだ気がついていなかった。





「江流、早く」

「どうしたんだよ、そんなに急いで」

「わからないけれど…いいから早く!」



雨が降る夜。胸騒ぎがとまらないその日、わたしと江流はお師匠さまに呼び出されていた。胸騒ぎの正体はわからないものの、わたしは江流の手を引っ張りお師匠さまの部屋へと急いだ。



「失礼します」

「お師匠さま!」

「あ、おい!名前!」



江流のようにお師匠さまの返事を待てず、わたしは勢いよく障子を開けた。当然のことながらそこにはお師匠さまが座っていた。当たり前のことなのに酷く安心したわたしは、思わずお師匠さまに抱きついた。

それを優しく受けとめてくれたお師匠さまは、ゆっくりとわたしの身体を引き離す。そのときに見たお師匠さまのお顔は、今まで見たこともないくらい真剣なもので、安心したはずの心がざわめきだした。



「江流、名前。今日はあなたたちにとても大切な話があります」



お師匠さまから離れ、江流と並んでお師匠さまの前に正座をする。今まで気にもとめなかった雨音がうるさくて仕方がない。



「江流、あなたに玄奘三蔵の名を授けます」

「…! はい」



お師匠さまと江流のやりとりを傍観する。
いつもと違うそれに、なにかが壊れる音が聞こえた気がした。わたしはそれが怖くて、ただ自分の身体を抱きしめる。



「名前」



お師匠さまがわたしの目の前にきていたことさえ気がつかなかった。優しくわたしの名を呼ぶ声、ひだまりのような匂い、大好きだったはずのそれらに身体が震える。撫でてくれる手はいつもと同じ温かさなのに。

こんなにも違うのは、どうして?



「あなたに玄奘三蔵の一生涯のつき人を命じます」

「つきびと…」

「いついかなるときも江流の側にいて、彼を支えてあげなさい。名前、あなたにしかできないことです」

「はい。わかりました…」

「いい子ですね」



お師匠さまは目の前にいるのに。
どうしてこんなに遠く感じるの?



「そのときはお師匠さまも一緒、ですよね…?」



情けなく縋るようなか細い問いは震えていた。
ただ、お師匠さまに頷いて欲しかった。「もちろんですよ」といつものように微笑んで欲しかった。

なのにお師匠さまがわたしにくれたのは見たこともない、今にも消えてしまいそうな儚い笑顔だった。



「名前。愛していますよ」



その笑顔が冷たくなったのは、すぐあとのことだ。





「守れなかった」



なにも感じない。無機質な江流の声。
さっきまでわたしを撫でてくれていた手はとても冷たくて。

ねえ、神さま。
どうしてこのお方の温かさを奪ってしまったの?



「名前…」



血まみれのわたし。でもこれはわたしの赤じゃない。お師匠さまの赤。わたしを抱きしめたまま動かなくなったお師匠さまの血。



「おい、名前!しっかり…!?」



動かなくなったお師匠さまを呆然と見つめるわたしの肩を掴み、江流はわたしと目を合わせる。眉間に皺を寄せた江流は目を見開かせていた。
どうしたんだろう?わたし変な顔してる?今わたしはいったいどんな顔をしているの?



「どうしたの、江流」

「おまえ…その瞳…」

「そんなことよりおかしいよ、江流。お師匠さまが動かないの。冷たいの。どうしちゃったのかな」



手のひらにべっとりとついた赤。
いつの間にか震えがとまり、口元に弧を描いていることに気がつく。

ねえ、お師匠さま。この笑みはなんというの?
わたしこの気持ちの名前を知らないの。だってまだ教わっていないんだもの。ねえ、誰か教えてよ。この気持ちは、いったいなに?



「こんな世界、いらない」



震えはとまったはずなのに、今まで感じたことのない寒さがわたしを襲う。冬の冷たさじゃない、もっと寒くて恐ろしいもの。

怖くてお師匠さまの手に触れても、寒さが消えることも、温かさを感じることもない。

心にぽっかり空いた穴と暗くなった世界。
その暗がりの世界にひとりぼっち。



「名前!もう、いいから…」

「江流…?」



江流に包まれる、わたしの身体。やっぱりなにも感じない。おかしいな、江流は動いているのに。お師匠さまのような温かさも、ひだまりの匂いもしない。

ざあざあと降り続く雨の音だけが聞こえる。
とても耳ざわりだ。



「ぜんぶ、壊れてしまえばいいのにね」



あの日、澄んだ青空をきった紙飛行機は地に堕ちた。





少女に気の刃が降る
(一度地に堕ちた紙飛行機がまた飛び立つことはなく)
(温かさという愛をくれるのはあなただけだと知る)




2013.11.20

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