君のための私で

文化祭が終わってしばらくしてからも、雪音の心は晴れなかった。むしろ焦凍を見かける度に、胸が張り裂けそうだった。幸いと言っていいのか、雪音は普段から表情が乏しく、何を考えているのかわかりにくい。焦凍も「どっか、具合悪いの?」と心配してくるだけであった。それを「バーニンの温泉卵が恋しくて……」と本当のことを混ぜて誤魔化した。焦凍も職場体験で雪音がバーニンに作ってもらっていたのを思い出し、納得するのだった。バーニンに感謝した。

そしてそれから間もなくだった。ビルボードチャート下半期の結果が出たのは。これでエンデヴァーは名実共にNO.1ヒーローとなった。コメントでは一言「俺を見ていてくれ」とだけ答えたエンデヴァーだったが、雪音にはそれで十分だった。十分、理解した。焦凍が変わったその瞬間から、エンデヴァーも変わろうとしている。焦凍が誇りに思えるような、父になるために。オールマイトが築き上げた何かを、今度は自分が支えるために。
進んでいると雪音は感じる。止まっているのは自分だけで、このままじゃいけないと思うのに……どうやって歩き出せばいいのかわからないままだった。









「氷叢さんいる!? いるなら出てきて! 大変なの! エンデヴァーが!!」

ドンドンと焦った様子で雪音の部屋のドアが叩かれる。何事かと思いつつも、エンデヴァーの名前に反応し、雪音は急いでドアを開けた。


「何? おじ様に何かあったの……?」
「よかったいた! とにかく来て! テレビ見たが早いから!」
「え、ええ……」

手を引かれて、急いで共有スペースにあるテレビまで連れていかれる。それを目にした瞬間、雪音は目を見開いた。
焦凍が職場体験に来た時、雪音が相手取った脳無という生き物に酷似したそれが、エンデヴァーを押していた。ここまでエンデヴァーが押されたことなど、雪音は見たことがなかった。エンデヴァーはすごい人だ、僅かな騒音を見逃さず、迅速に被害を抑え、すぐに解決してしまう人だった。
そのエンデヴァーの顔の左半分に、強烈な攻撃が入る。倒れたエンデヴァーに雪音は息を呑んだ。


「ちょっ、氷叢さん連れてきたのかよ! ダメだろそれは!」
「なんでよ!? インターン先のヒーローで、おじさんなわけじゃん! 知らない方があれでしょ!」
「テレビ越しに見るのもきついだろ……! ここで黙って見てるしかねぇんだから!」
「ちょっと喧嘩しないでよ! 氷叢さん、まずは座ろう。大丈夫、きっと大丈夫だから」
「え、ええ……」

ドクドクと心臓が早鐘を打つ。珍しく動揺したような雪音の表情に、喧嘩している場合じゃないと顔を見合わせ、ばつの悪そうな顔をした。
テレビから平和の象徴の不在を訴える声が聞こえる。これが平和の象徴がいなくなった現実だと。雪音は何だかそれに胸の奥底から何かが湧き上がってきそうで、でも何も言えなくて、浅い呼吸を繰り返しながら掌を握りしめていた。
その時、熱心にミスコンの準備を手伝ってくれていた女子生徒が、雪音の震える手を上から包んで握ってくれた。自然とその顔を見上げると、女子生徒は力強く頷いた。


「大丈夫、言葉にならなくても……わかってるから。ちゃんと、伝わってるから」

それがどういう意味なのか、雪音は分からなかったけれど……言葉にできなくてもいいと許された気がした。
事実、女子生徒は分かっていた。雪音が言語化できなくても、その胸の内にどんな感情を抱えているのか。心に不器用なだけで、ちゃんとそこに感情があることを理解していたのだった。

そして、テレビから大きな声が聞こえた。テレビに怒る声、いなくなった象徴ではなく、今自分たちのために戦っているエンデヴァーを見ろという声が。力強い声が聞こえた。

――見ている。雪音も、ちゃんとエンデヴァーを見ている。今に始まったことじゃない、職場体験で指名をもらえたあの日からずっと、雪音はヒーローエンデヴァーを見ている。


「おじ様……っ」

そうしてエンデヴァーは勝利のスタンディングを披露する。始まりのスタンディング。エンデヴァーの時代の……幕開けだった。
くたっと力が抜ける雪音の背を、手を握ってくれていた女子生徒が支えて、抱き寄せた。雪音が戦っていたわけではないのに、震える手をどこまでも優しく包み込んでくれた。

けれど間もなくそこに、ヴィラン連合の荼毘が現れる。緊張が走る中、そこにNO.5のミルコが現れると勝機がないと悟ったのか、荼毘はすぐに逃亡した。


「はぁ……よかった……一件落着だね。もう大丈夫」
「……」
「氷叢さん? 大丈夫……?」
「……え、ええ」

雪音は何故か、荼毘に焦凍の面影を見た。焼け爛れた皮膚を継ぎ接ぎで覆った男なのに、目が……どこか似ていた気がした。


――どうかしてるわ……敵に焦凍くんを重ねるなんて。







九州でのエンデヴァーたちの戦いから二日後、焦凍と一緒に雪音は外出許可をもらい、轟邸に足を運んでいた。
焦凍の担任である相澤が一緒に送ってくれたのだ。雪音が轟邸に足を踏み入れるのは、正月に挨拶に訪れて以来である。焦凍が来ると分かっていたからか、冬美がそばを打っていた。ちょうどゆであがったそれを冷やそうとしていたようだったので、雪音は手伝うことにした。冷やすのは得意である。


「ふぁ〜! 前から思ってたけど、ほんと雪音ちゃんの氷って綺麗だよね。芸術品みたい……」
「そう?」
「うんうん、なんかアートって感じ。何かこだわりでもあるの?」
「こだわり……」

冬美は氷漬けになったそばを前に、少し興奮していた。ただの氷塊ではなく、芸術品のように装飾された氷像だった。今回うさぎが象られたそれに、雪音が氷を繰り出すとき、毎度装飾されているのを思い出し疑問に思ったのだった。
雪音はそういえばよく言われるなと思う。自分の作る氷が綺麗だと。いつも何かを象ったそれに、思いをはせた。きっと、その原点はこれだろうと思う。


「こっちの方が……喜ぶから」
「え……?」
「ただ凍らせるより、何か形があった方が……あの子は嬉しそうだった」

その一言で冬美はあ、と察した。あの子が誰なのか、わからないはずがない。ともすれば実の姉兄である自分たちよりずっと、焦凍と雪音は近かった。焦凍のもう一人のお姉ちゃんで、冷にとってももう一人の娘。それが雪音だった。
それが雪音の氷が美しい理由だというのなら、冬美はかなわないなぁ、と思った。きっと誰より焦凍を思って、大事にしているのは雪音だと、冬美は理解してしまったから。
雪音の氷が美しいのは、当たり前だ。焦凍のために磨いた技術で、焦凍のための、雪音なのだから。









そうしてそばもいい感じに冷え、時間も時間で、夏雄も焦凍もお腹が減っていたようだから、先に食べながらエンデヴァーを待つことにした。
そして念押しとばかりに、冬美が「今日はお父さんを労おうね」と言って、夏雄も焦凍も乗り気ではなかったものの、とりあえず了承してくれた。生返事にも似たそれだったけれど、約束は約束である。


「てか、なんでそば?」
「焦凍が好きだからよ。寮になっちゃったし、滅多に会えないんだもの。帰って来た時くらいは好きなもの食べさせたいじゃない?」
「え、そうなの……焦凍」
「うん。冷たいそばが好き」
「は、初耳だ……」

焦凍はもう高校生なのに、好きなもの一つ知らなかったというのはなかなかに衝撃だった。接する機会が今まであまりなかったというのも理由である。夏雄は今までの時間を埋めるように、他に好きなものはないか、逆に自分は何が好きか、姉ちゃんは、雪音ちゃんは、と好きなものを確認していた。
そんなことを話していると、ようやく本日の主役、エンデヴァーが帰ってきた。


「おつかれ」
「おつかれさまです」
「……久しぶりだな」

エンデヴァーは焦凍と雪音がいることに、少しだけ驚いた様子だった。
冬美が丁寧に焦凍と雪音は外出許可をもらって来たこと、先生にも上がってもらおうとしたけれど、遠慮されて外にいることを説明し、改めてお疲れ様でしたと伝える。
焦凍といえば、ようやく発した言葉が「傷跡……ひでえな」の一言であり、それもそばをずぞーっと啜りながらであった。夏雄は一言も発さず、ずぞーっとそばを啜っている。
これに慌てたのは冬美で、今日は労おうって約束だったでしょと苦言を呈すが、夏雄はやっぱり無理だと出て行こうとしてしまった。それを言いたいことがあるなら言え、と引き留めたエンデヴァーに夏雄は爆発してしまった。


失敗作おれたちは放ったらかし。聞こえてくるお母さんの悲鳴、焦凍の泣き声。燈矢兄のこともさ……NO.1になって、強敵倒したところで心から消えるハズない。勝手に心変わりして! 一方的に縒り戻そうってか! 気持ち悪いぜ! そーゆーとこ。わかってんの!?」

――薄氷の記憶が雪音の脳裏に蘇る。
燈矢が亡くなった後、エンデヴァーによる焦凍への扱きは一層苛烈を増した。焦凍もまた、大好きな母親がいなくなったのはエンデヴァーのせいだと、エンデヴァーを完全否定することに固執した。雪音はただ、そんな焦凍のそばにいただけだ。何かをできたわけではなく、ただそばにいた。何もできなかった。


「これから向き合い、償うつもりだ」
「あっそ!!! 悪い、姉ちゃん!! ごちそーさま!」
「なつー!!」

出て行ってしまった夏雄に冬美が叫ぶが、夏雄は戻ってなんてこなかった。冬美が自分たちも家族になれるんじゃないかと浮足立っていた矢先のことである。落ち込む冬美に、焦凍は冷静だった。冷静にそばを啜っていた。
するとテレビからこの間のエンデヴァーたちの戦いに対する声が流れてきた。最初はマイナスのコメントから入ったそれだったが、見ろや君が出ると、その声は一転して好意的なものに変わった。


「ヒーローとしての……エンデヴァーって奴は凄かったよ。凄い奴だ。けど……夏兄の言った通りだと思うし、おまえがお母さんを虐めたこと……まだ許せてねェ。だから……親父≠ニしてこれからどうなっていくのか、見たい。ちょっとした切っ掛けが人を変えることもあるって、俺は知ってるから」

雪音は何も言えなかったけれど、思い浮かぶことはたくさんあった。
焦凍が許せないのは、自分にしたことじゃなくて、いつだってお母さんたちにしたことだ。そして人が変わることを理解している。その変化を見ようとしている。エンデヴァーをちゃんと見ている。

焦凍に切っ掛けを与えたのは緑谷で、エンデヴァーの切っ掛けはきっと焦凍の変化だった。じゃあ、雪音の切っ掛けは……ひょっとしたらもう、とっくに気づかないだけで訪れているのかもしれない。


 


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