薄氷の記憶

かつて名家であった氷叢家は超常社会に上手く順応することができず、異形差別や遠縁同士での結婚が相次ぎ、縮小の一途を辿った。雪音はそんな氷叢家の……本家の身売り後、氏家たちが離散した頃に生まれた本家の娘だった。


「いい? 雪音。あなたがお義姉様のお心をお慰めして差し上げてね」
「? 私は、何をどうしたら……」
「何も難しいことはないの。お義姉様のお話をよく聞いて、お義姉様のお手伝いをたくさんするの。そして、なるべく傍にいてあげてね」
「……分かった」

雪音が病床の母とした約束はそんなものだった。子どもの雪音には事情はよく分からなかったが、両親が伯母である冷のところに雪音を遣わせようとしていた。
雪音は知らなかったが、当時、冷は嫁いだ先で色々あり、精神を若干病ませてしまっていた。子どもたちが日に日に旦那に似てくる、旦那と同じ色をしたところが醜く思えてしまうときがあると。追い詰められた連絡を受けた冷の母――即ち雪音の祖母でもある――が、氷叢の特徴が強く表れた雪音を傍に置いて、冷の慰めになればと考えたのであった。ちょうど、雪音の母が病を患っていたのも理由の一つだった。
冷の方も、そういうことならと夫に相談し、轟家の方で雪音を預かる運びとなったのだった。

冷は身売りすることになった本家の娘である。轟炎司、NO.2ヒーローエンデヴァーの強い要望で個性婚をすることになったのだ。それにあたり、エンデヴァーから多額の援助を氷叢は受け取った。雪音が何不自由なく暮らせているのは、間違いなく冷のおかげだった。







「雪音ちゃん、いつもお手伝いありがとうね」
「いえ……すみません、お手伝いのはずが……逆に仕事を増やしてしまって……」

轟家に来てからというものの、皆よくしてくれたが、肝心のお手伝いが難航した。雪音が不器用すぎたのだ。家事能力に関しては壊滅的で、逆に仕事を増やしてしまう始末で雪音は乏しい表情ながら非常に落ち込んでいた。
それに冷は優しく笑って、「気にしなくていいのよ」と言ってくれる。不器用ながら、一生懸命に冷の役に立とうと頑張っている姿が嬉しかったのだ。


「それにしても……焦凍がべったりで大変じゃない?」
「いえ、焦凍くんは大人しいので、それほど……」
「ならよかった。焦凍ったら、雪音ちゃんのこと……お姉ちゃんって思ってるのかもしれないわね」

お姉ちゃん、という馴染みの薄い単語に雪音は少々面食らった。
兄姉たちとの交流を半ば禁じられていた焦凍だったが、雪音との交流は許容されていた。もちろん、エンデヴァーによる稽古が最優先であったが、冷のために遣わされた雪音である。冷が焦凍にかかりっきりなので、自然と雪音も一緒にいることが多かった。
そのおかげか何なのか、雪音は焦凍にとても懐かれていた。物静かといえば聞こえがいいが、雪音は無口な方である。自分といて楽しいのだろうか、という不安はあったが……冷に誰より面差しが似ていたためか、焦凍は雪音を見るととても嬉しそうな顔をしてくれていた。そこはなんだか、可愛いと雪音も思っていた。

そんな風に話していたからだろうか、稽古を終えた焦凍がボロっとした顔を覗かせて、冷と雪音の間に飛び込んできた。


「お母さん! 雪音ちゃん!」
「焦凍くん、おかえりなさい」
「怪我してるわね……すぐに手当てしましょう」
「腫れてる……ちょっと冷やそう」
「んっ」

冷が救急セットをもって来る間、雪音が個性で焦凍の腫れた頬を冷やしていた。
焦凍は雪音の2つ下の従弟で、エンデヴァーが望んだ半冷半燃をもって生まれた子だった。個性が発現するや否や、焦凍はオールマイトをも超えるヒーローになるために、エンデヴァーから鬼の扱きを受けていた。
冷が戻ってくると、雪音が個性を使って焦凍の頬を冷やしているのを見て、雪音に声をかけた。


「先に冷やしててくれたのね。ありがとう、雪音ちゃん」
「いえ……個性しかうまく使えないので」
「え。そんなことないよ、僕雪音ちゃんが作ってくれたそうめん、好きだよ」
「……じゃあ、そうめんも得意」
「うんっ、また作って。お母さんのごはんも好きだけど、雪音ちゃんのも好きだから」
「……分かった」

幼い子どもたちのやり取りに冷が表情を緩ませた。雪音が作るそうめんは大変雪音らしく、冷やす過程で鍋ごと個性で凍らせてしまうのだった。最初は驚いたが、それが見ていて面白かったのだろう、焦凍のウケは大変良かった。ただ、真夏じゃないと氷が溶けるまでかなりの時間がかかってしまうので、風物詩感のあるものだった。

冷は焦凍の怪我を手当てしながら、ふと思う。
一時は燈矢のことも、焦凍の個性がそうだろうと思いつつも、正式に発覚してからの夫の過激な教育もあり、ふとした時に子どもたちに対して、恐怖や悍ましさを感じてしまう瞬間があったけれど、雪音が来てくれてからは今のところ収まっている。馴染みのある氷叢の特徴を色濃く受け継いだ雪音が、実家を思い出させてくれるからかもしれない。
根本的に何かを解決できたわけではないけれど、このまま大きな何かがなく、時間が流れていけばいいと冷は祈るような気持ちでいた。








エンデヴァーが仕事で不在の間は雪音は焦凍と冷とのんびりすごしていた。
テレビでオールマイトの活躍が流れると、自然とそちらに顔が向いた。焦凍の目は分かりやすく輝いていた。


「オールマイト、かっこいい!」
「……うん」

オールマイトは本当にすごいヒーローだった。ナチュラルボーンヒーロー。どんな状況でも「もう大丈夫! 私が来た!!」とオールマイトが現れるとほっとする。もう大丈夫だって思える。
焦凍はオールマイトに憧れて、自分もヒーローになりたいと思っていた。雪音にはまだそんな明確ななりたいもののビジョンはなかったけれど、ヒーローというものに対して、漠然とした憧れだけは、そこにあった。









「燈矢くん、どこに行くの……?」
「雪音ちゃん……」

どこかへ行こうとする燈矢を見つけ、雪音は尋ねる。
燈矢はげ、と言いたげな顔をして雪音を振り返った。


「どこだっていいだろ……女の子には関係ないよ」
「? 女の子だから関係ないの?」
「そうだよ。言ったって絶対わかんないから」
「そうなの……分かった」
「え……うん、そういうことだから。じゃ、もう行くね」
「行ってらっしゃい」

あっさり引き下がった雪音に燈矢は余計な問答をせずに済んだと思うも、あの子大丈夫かな、と少しだけ心配した。何だか悪い人にすぐに騙されて、ついて行ってしまいそうだ。
今まで冷か焦凍のどちらかについていたものだから、燈矢は雪音とはあまり関わってこなかった。悪い子ではないけれど、感情の起伏が乏しくて、声だって雪に音があるのなら、あんな声なんだろうなっていうくらい儚げで。母によく似た綺麗な顔をしているから……まるで精巧な人形のようだと思った。


「わかんないよ、あの子には。絶対……」

消えない火を着けられたことも、譲れない何かがあるわけでも、何でもないはずだから。








燈矢を探している冷に、橙矢ならどこかへ出かけたと伝えると、血相を変えた。それで雪音は送り出してはいけなかったのだと悟った。


「燈矢くん、女の子には関係ないって言ってた。言ったって分からないって」
「燈矢がそんなことを……?」
「ごめんなさい。私、止めなかった……」
「……いいのよ、雪音ちゃん。私も取り乱したりしてごめんね。燈矢はちょっと、その……繊細な時期なの。どこか行こうとしているのを見たら、話しかけずに私か炎司さんに伝えてくれる?」
「わかりました」

雪音は静かにうなずいて、冷の言う通りに以後務めた。
冷もエンデヴァーも雪音が燈矢が出て行こうとしているのを見たというと、焦凍か冬美たちと一緒にいなさいと決してその後を見せようとはしなかった。何か複雑な事情があるのだとは思っていたけれど、雪音はそれを知ろうとはしなかった。
隠すということは知られたくないからだと分かっていたから。雪音は人形だ。ただ、求められるままにそこにある。
雪音の役目は病床の母の心を慰めることから、冷の心を慰めることへと変わった。だからその道から逸れないように、雪を踏みしめるように歩いていた――。











けれど、それが薄氷のようなものであったと気づくのに時間はかからなかった。
燈矢との関係が悪化の一途を辿り、そしてついに冷が耐えられなくなってしまった。焦凍の左側に煮え湯を浴びせてしまったのだ。これが原因で冷は病院に入れられ、焦凍は以前の無邪気さが嘘のように、父への憎しみに身を焦がしていた。
そして――轟家の長男、轟燈矢が死亡した。
燈矢がいつも向かっていたのは瀬古杜岳という、エンデヴァーが昔特訓していた山だったという。そこでひたすら燈矢は個性を鍛えて、そして……その身を自らの炎で焼いてしまったのだ。
エンデヴァー以上の火力を宿しながら、冷の体質を受け継いでしまって、その個性に身体が耐えられていなかった。だからエンデヴァーも冷も止めていたのだった。

それを知った時、雪音は何かが割れる音が聞こえた気がした。足元が崩れていく、氷の割れる音。自分が今まで歩いていたのは雪道なんかじゃない、薄氷の上だったのだと気づいたとき、言い知れぬ思いが込み上げてきた。それがどんな感情だったのかも、わからなかった。自分の感情なのに、理解できていない。だって雪音はずっと――求められるままにそこにあるだけの、人形だったから。









雪音は中学に上がるまでを轟家で過ごしていた。冷が入院したことで氷叢家に戻るはずだったが、冷がいなくなった日、焦凍が痛いくらいに雪音の手を掴んで離さなかった。それが妙に印象的で、許されるのならば、と留まることを許可してもらったのだ。
エンデヴァーの焦凍への教育は苛烈を増していた。エンデヴァーもまた、雪音に冷の代わりを期待していたのかもしれない。


「焦凍くん」
「雪音さん……」

焦凍は相変わらずボロボロだった。全部エンデヴァーのせいだと思った焦凍は、父の思い通りにさせるものかと、父から受け継いだ炎を使わず、母からもらった氷だけで一番になると決めていた。
いつの間にか、雪音ちゃんから雪音さんになって、自分たちの距離も開いてしまったように思う。


「腫れてる。冷やすね」
「いい、自分でできるから」
「……そう」

頬へと伸ばした手を、優しく振り払われる。もう昔みたいに無邪気に関わる日は来ないのだろうか。雪音たちの距離は、薄氷の壁が聳え立っているようだった。
雪音は考える。もっと自分にできることがあったのではないかと。もう少し、知るべきだったのかもしれないと。そうしたら何か……変わっていただろうか。


「……もうすぐ実家に帰るんだろ」
「……ええ」
「あんたも……俺の前からいなくなるんだな……」

どこか寂し気なその目に雪音は言葉に詰まった。
母が、そろそろ帰ってきてほしいと願っていた。まさかこんなにも長く手放すことになると思っていなかったのだ。でも、焦凍を置いてどこかへ行くというのは……焦凍にとって、大きな意味があるのも分かっていた。


「わりぃ、変なこと言った。むしろ長すぎたくらいだよな。俺のためにいてくれたんだろ……」
「焦凍くん……」
「元気で。あんたは俺の――いや、なんでもねぇ。またな」
「……ええ、また」

焦凍が何を言い淀んだのかはわからなかった。けれど背を向けて去っていく焦凍の背中が……なんだかとても寂しそうだったのが印象的だった。
だから、雪音は――。














『こりゃすげーぞ!! 1年ヒーロー科氷叢、第一種目から第三種目まで追随を許さず、圧倒的な力で今、栄光をこの手に!! 今年の雄英体育祭、1年の部優勝は氷叢雪音だーー!!』


――ヒーローになろうと思った。


私の氷結全部はあなたの半冷半分にも満たないけれど。


ナチュラルボーンヒーローオールマイトにだってなれないけれど。


それでも、もう彼がひとりぼっちにならなくていいように。


無邪気に笑えたあの日がまた戻ってくるのを……願ってる。


――この氷原で、私はあの日の薄氷を……そっとなぞっている。



麗しの花は氷原に在りて

 


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