拝啓、歩み立つ君へ

今年の雄英体育祭はヴィランの襲撃を耐えたという話題性もあり、1年A組を目当てに1年の部に注目が偏った。
けれどそれでも3年であるから、それなりの注目度と共に雪音たちは競技に挑んでいた。3年連続選手宣誓を担当し、もはやどこか名物と化した雪音の「頑張ります」宣誓でスタートだったけれど。
ただ一つ違ったのは……昨年までは雪音一強、独壇場と化していた体育祭だったのに対し、今年は雪音に食らいつくどころか、一歩先を行く者が3人現れたことである。


「あ、しまっ、お茶の間にまた俺のチンチ――冷たっ!!」

先を行く通形が調整をミスり、例年と同じくお茶の間に恥部を晒すのを寸でのところで氷でカバーする。
1年からの付き合いであるから、もう何となくタイミングは把握できていた。通形はいつもよく雪音に話しかけてきていたから。
ガクブルと寒さに震えながら、通形が雪音にサムズアップした。


「ハハッ、ナイスフォロー!」
「ごめんなさい、私温かい氷は出せなくて……」
「うん。それはもう氷じゃないんだよね」

氷叢さん、相変わらず天然だよね、と思いながらもさっさと服装を正し先を行く。
雪音は前を行く3人の背中に、ついのこの時が来たのね、と極めて冷静だった。雪音は知っている。己の限界を――。









体育祭が終わってから、珍しく轟から連絡が来た。よかったら会って話したいと言われ、雪音はそれを快諾し、時間を取った。


「焦凍くん、おまたせ」
「雪音さん……待ってねぇよ、俺もさっき来たとこだから」
「それならよかった」

待ち合わせたのは蕎麦屋さんだった。そうめんも出してくれるお蕎麦屋さんで、前から気になっていて、ついでだからここで待ち合わせてお昼を食べようと約束したのだった。
当たり前に冷たいそばと冷やしそうめんを頼んで、一息つく。


「それで……話ってなに?」
「……俺、体育祭で緑谷ってやつにきっかけもらって……なりたかった自分を思い出したんだ」
「なりたかった自分?」
「うん。俺は……お母さんと、雪音さんと一緒にテレビで見た、オールマイトに憧れた。あんなヒーローになりたくて、お母さんも俺に「血に囚われなくていい、なりたい自分になっていい」って言ってくれたこと……俺は忘れてた」

雪音は一緒にテレビでオールマイトを見ていた時のことを思い出す。いつも轟は目を輝かせていて、こんなヒーローになりたいってビジョンが確かにあったことも。頷いて、続きを促すと轟は自身の左手を見つめていた。


「ずっと、左側が憎かった。お母さんを追い詰めたあいつと同じ左が、憎かった。でも……緑谷が、俺の力だって言ってくれたんだ。親父のじゃなくて、俺の力だって」

雪音はわずかに目を見開く。それは当たり前のことで、だけど誰も言わなかった言葉だった。


「それで分からなくなって……お母さんに会って来たんだ」
「伯母様に……?」
「ああ、俺の存在がお母さんを追い詰めると思って今まで会わなかった。でも、俺がちゃんと再びヒーローを目指すには会って話をして、望まれていなくたって……お母さんを救け出すことが、スタートラインだと思ってた。でも、お母さんは……泣いて謝ってきて、驚く程あっさり笑って赦してくれた。俺が何にも捉われずに突き進むことが、幸せであり、救いになると言ってくれたんだ」

轟の表情は、冷がいなくなってからこの世の全てを憎んでいるかのような顔をしていた。
でも今は……憑きものが落ちたかのように、穏やかな顔をしている。そこにかつて一緒に過ごした、無邪気な焦凍の面影を見た。


「あいつのことは赦したわけじゃないし、赦す気もないけれど……この力は俺の力だから。なりたいものになるために、俺はこれも受け入れて、一緒に進んでいこうと思う」
「そう……」
「雪音さんには、ずっと甘えちまってたから……ちゃんと話したかったんだ。長い間一緒にいてくれて、ありがとう。あなたがいたから……俺は心を保つことができた」

まるで焦がれるような目だった。轟にとって雪音は兄姉より身近な存在で、母と同じくらい精神的な支柱であった人だった。冷がいなくなった後、冷によく似た雪音がそばで一層支えてくれたから、母の優しさを愛情を忘れずにいられた。雪音は轟の――初恋の人だった。


「雪音さんが俺を支えてくれたように、雪音さんが辛い時、今度は俺が支えられるように……頑張るよ。遅くなったけど、そういう人間になろうと思う」

物憂げな表情のまま、雪音がしばらくしてやっと口に出した言葉は「あなたなら、大丈夫」と言ったものだった。
ちょうどそばとそうめんが届いて、いただきます、と二人してツルっと口に運んだ。
美味しかったけれど、雪音の心は凍ったままだった。むしろ、もっと――。







雪音は解散した後そのまま家に帰ると、布団を敷いて横になっていた。
なんだかとても疲れた。素敵な出来事だったはずなのに、雪音の心は一層凍ってしまった。


――どうして? いい事だわ。焦凍くんが明るく前を歩き出したのに。どうして、気分が晴れないのかしら。


ゆっくりと、轟が言った言葉を振り返る。最初から、順を追って。
そうしてすぐ、もしかしてと思い至った。


「私……また、間違えたのかしら……?」

緑谷が誰かは分からなかったけれど、その人が轟に「君の力」だと言ってくれたこと。今まで誰も言わなかったこと。それを振り返る。もしかして、と思った。
轟が左側を憎み出したとき、親父の力だと忌避し出したとき、左側を使わずに母の右側だけで一番になると言ったとき、自分は「それはおじ様のでも、伯母様のでもなくて、焦凍くんだけの力よ」と言っていたら……あんなに長く轟が苦しむこともなかったのではないかと、雪音は思い至ってしまった。


「……あなたをひとりぼっちにしたくなくて、ヒーローになろうと決めたのに。私はやっぱり……ヒーローじゃないんだわ」

仮免は合格した。けれど、仮免を取ってからのインターン後、通形たちは頭角を現し、自分を超えてしまった。こんな日が来るのは最初からわかっていた。自分がヒーローの器ではないことを、雪音は誰より自覚している。
だから、1年の時も、2年の時も、体育祭で話題になるたびに「今だけ」で「この勝利は紛い物」で「皆が覚醒前のつまらないもの」でしかないと思うと、何とも言えなかった。


轟が何に憧れて、ヒーローになりたいと夢を抱いたのかもわかっていたのに。傍で見ていたのに。雪音は大事なことほど何も伝えられていなかった。


――あの頃と何も変わらない、人形のままだ。







気づいたら眠っていた。起きたらもう夕方で、雪音は焦凍くんが出るから、と1年の部を録画してもらえるよう頼んでいたことを思い出して、そちらを見ることにした。
一度入学おめでとうと言いに足を運んだっきり、轟と交流することはあまりなかった。同じ学校と言えど、雄英の敷地面積は広大だ。会おうと思って行動しなければ、会うこともなかった。

そうして雄英体育祭、1年の部は以前までの轟とはまた違った、刺々しい雰囲気の男の子――爆豪勝己というらしい――による選手宣誓から始まった。


『せんせー、俺が1位になる』

その不遜な宣誓にブーイングが巻き起こった。続けて「せめて跳ねの良い踏み台になってくれ」とまで煽っていた。それに雪音はすごい子ね、とぼんやり思う。宣誓とは誓いの言葉だ。雪音は「頑張ること」しか誓えなかった。諦めないことも、1位になることも、誓えなかった。けれど彼は誓えるのだ。一点の曇りもなく、自分が1位になると。それがなんだか、雪音には少しだけ眩しかった。

第一種目は障害物競争だった。これには雪音もやった覚えがあった。自分はあの時、最初から個性を大放出して足止めと突破を果たした。きっと焦凍くんもそうするだろう、と思っていると、やはりそのようになった。
けれど、自分の時とは違い、避けれる生徒が多かった。全体的に迷いがなく、立ち止まっている生徒が少ない。なるほど、これが敵の襲撃を耐え抜いた者たち≠ネのだと雪音は納得した。


――彼らはいいヒーローになる。私よりずっと……。


すぐに彼らは自分を超えるだろうと雪音は思う。
轟の圧勝かと思われた第一種目も、衝撃的な選手宣誓をした爆豪が食いついていたし、この時点で雪音は焦凍くんと並べる人がいるとは思わなかった、と大分驚いていた。けれど、もっと驚いたのは――。


『さァさァ、序盤の展開から誰が予想できた!? 今一番にスタジアムへ還ってきたその男――――緑谷出久の存在を!!』

個性を使うことなく、ロボの装甲と地雷を利用して、爆風で一気に轟たちを抜かし、1位に躍り出た……緑谷出久。
緑谷、という名前に、雪音はこの子が焦凍くんにきっかけをくれた子なのだと理解する。
特別に強そうとか、雰囲気がある子ではなかった。むしろおどおどしていて、頼りない印象を受ける。ただ「君の力だ」とだけ言われて轟の心が動くとも思えなかった。緑谷の何が轟を変えたのか、雪音はそこが気になって、自然と轟よりもずっと、緑谷の方に注目するようになったのだった。







どんなにボロボロになっても、緑谷は決して屈しなかった。逃げなかった。ただひたすらに向かっていっていた。
緑谷の個性は超パワーを出せるが、体がそれに耐え切れず、自尊覚悟というリスキーな個性だった。けれど絶えず激痛に飛び込み、勝利を掴もうと足掻いていた。
そして、緑谷が一層何かを叫んで……轟がそれに応えるかのようにひだりを使った。

結果は緑谷の場外で轟の勝ちだった。けれど、その姿はまるで――。


「ヒーロー……」

緑谷は格上の存在に対して、決して諦めなかった。それと同時に、轟を救うことだって。救けて、勝とうとした。それは雪音が幼い轟と、冷と一緒にテレビで見たオールマイトの姿とどこか重なった。

言葉だけで人の心が動くことは稀だ。根深いものであればあるほどに。
大事なのはきっと、その人が何をした・何をしている人なのかだ。

緑谷だから、轟は心を動かされた。きっかけ≠ノなったのだとわかると、雪音は自分の思い違いに気づいた。


「とんだ思い上がりだわ……私では、焦凍くんのきっかけ≠ノなんてなれるはずないのに」

最初から、前提が違うのだ。雪音は人形だ。求められるままにそこに在るだけの人形。
その人形に何か言われて心が動くはずもない。実家に帰ると別れたときの轟の背中があまりに寂しそうで、ひとりぼっちにさせないためにヒーローを志した同じ道を選択した
でも、もう轟はひとりぼっちじゃない。轟と並んで歩いてくれる人たちがもうこんなにいて、冷とだって関係を修復して、左側も自分の力だと受け入れられた轟に、もう自分は必要ないのだと思うと……よかったと思うと同時に、じゃあ私はこれからどうしたらいいのだろう、といった不安が過った。


歩み立つ君へ――その門出を喜ばしく思うのに、置いて行かれた気になってしまうのは……何故でしょう。

 


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