私のお兄ちゃん

「さっきから黙って聞いてれば……みーんな好き勝手ばっか言って!!」
「な、なんだよ……」

キッと祈李が睨みつけた方向には一際反対していた人間の姿があった。
突然噛みつかれた男は若干たじろぎながらも、負けじと祈李をにらみ返した。それに慌てたのは出久と麗日だった。ここでまさか祈李が声を荒げるとは思っていなかったのだった。
祈李はそれはもう怒った様子で、ずんずんと前に進み出て、怒りを大地にぶつけるかのように両手を大きく広げて身振り手振りを加えつつ主張した。


「あのねぇ! 言わせてもらうけど! なんっっっで! 私のお兄ちゃん・・・・・が顔もよく知らない人々のために命張んないといけないわけ!!?」

それは祈李がずっと認めたくなくて、許容できなくて、否定し続けたもの。
避難民も、ジーニストの言葉も、全部が全部祈李の敵で、祈李が戦っている世界そのものだった。
だから、祈李はこんなものは認めない。認めるわけがない。


「ヒーロー志望だから!? 特別な力を持ってるから!? そんなの知らない!! あの人は私のお兄ちゃんなのよ!!」

祈李の瞳に雫が零れる。それが雨のせいなのか、そうじゃないのかなんて、わかっているのは祈李だけだった。
祈李は緑谷出久のたった一人の妹だ。緑谷出久は緑谷祈李のたった一人の兄だ。兄は死んだとか、そんなのはもうどうでもよかった。
小さな祈李が必死になって「おにーちゃんをいじめるな」と叫んでいる。


「私のお兄ちゃんが他人誰かを救けるためにっ、あんなボロ雑巾みたいになってて! それでも来るなだなんだ!! 好き勝手言ってんじゃないわよ!! 私のお兄ちゃんを寄ってたかって虐めるなこの寄生虫共が!!!」

――自分の身くらい自分で勝手に守れ。そして勝手に死ね。
出久の力をあてにしているくせに、出久が休むことも許容できない奴らをどうして出久が守らないといけないのだ。蛆がわくのを見ているようだった。虫けらを見るような祈李の視線を受けた男は、カッとなって祈李に手が出そうになった。


「こ、このっ……!」

引子と友だちの悲鳴が聞こえた。殴りつけられるとわかっても、祈李は一歩も引かなかった。真っ直ぐに男の目を見ていた。蛆虫だ。兄に集る、兄に湧く蛆虫だ。
殴りたいなら殴ればいい。拳を振り上げるのは図星を刺されたからだ。暴力で誤魔化すのは自分の弱さだ。祈李はもう、それを知っている。


(勝己も……こんな気持ちだったのかな……)

自分がどれだけ弱かったかを実感する。もっと、早くちゃんと出久と話していたら。変な意地を張らずに、無駄何て思わずに話していたら。
言っても聞いてくれないんじゃないかと思うと、怖かった。怖かったから言わないを選択した。でも、もし……もっと早くにその殻を破れていたなら、こんなことにはならなかったのだろうか。

拳が祈李に振り下ろされて、それが祈李の頬を撃つ直前、強くて優しい腕に抱き寄せられた。それが誰かを認識する前にぼろりと瞳から雫が零れ落ちた。


「――やめてください、僕の妹です。妹の暴言は謝ります……ごめんなさい。でも、暴力は見過ごせません。僕はこの子の……お兄ちゃんなんです」

祈李を抱き寄せて、避難民たちを怖がらせないように再び距離を取った出久は優しい目をしていた。
「お、にいちゃ……」と思わず零れた声にも出久は優しく返事をしてくれて、そこには濃い心配の色があった。出久はもう、頭ごなしに「何でこんな危ない事ことしたの」とは責めなかった。
祈李を分かろうと努力してくれている。出久はちゃんと祈李を見ている。それに何だか泣きたくなって、祈李は心のうちに蟠ったそれを吐き出すことにした。


(ねぇ、お兄ちゃん。聞いて。私が思ってたこと……全部、聞いて)

12年分の思いを乗せて、小さな祈李が口を開いた。


「わたし、私、だから言ったのよ。ヒーローなんかなれるわけないって、ならなくていいって……顔もよく知らない誰かのためにボロボロにならないで……あんたは私のお兄ちゃんでしょ……私だけのお兄ちゃんでいればいいんだわ……!!」

ヒーローにならないで。顔も知らない誰かを救けるために怪我しないで。私だけのヒーローでいて。
小さな祈李が泣きながらいやいやと兄に縋りついている。出久はそれを泣きそうな顔で聞いていた。わかってしまった。祈李の叫びで、自分がどれだけ祈李を傷つけてきたのか。
爆豪の言った言葉が重くのしかかる。祈李を泣かせているのは自分だった。最初からずっと、そうだったのだ。


「……ごめん、ごめん祈李……そんな風に思っていたなんて知らなくて……でも、僕は救けたいんだ。困っている人に手を伸ばせる人で在りたい……ヒーローになりたいんだ」

それでもやっぱり折れることはできなくて。それはオール・フォー・ワンの責任もあるけれど、ここで、このヒーローアカデミアで出久はたくさんのことを乗り越えて、その果てに救えたものも、救えなかったものも、もう知ってしまっている。出久の困っている人を救けたいという気持ちは肥大する一方だった。
祈李はその返答を予想しつつもそれでも嫌だと叫んだ。


「そんなの知らない! いいじゃない! 私だけのヒーローお兄ちゃんでいてよ! 私いやだわ! 誰かのために傷ついて、ボロボロになって、私の知らないところで死んじゃうかもしれないヒーローなんて大っ嫌いよ……!」

祈李のヒーローになれる人間は世界で一番幸せ者なのだ。だからそれでいい。世界で一番幸せに祈李がするから、だからどうか頷いて。
けれど出久は頷かなかった。祈李だけのヒーローにはなってくれなかった。肩を震わせる祈李に、先ほどの男も消沈した様子で呟いた。


「俺たちだって……寄ってたかって子どもを虐めたいわけじゃない。でも怖いんだ!! 不安を取り除いてほしいんだよ!! ただ安心して眠らせてほしいだけなんだ……!!」

そう叫んだ瞬間、麗日がプレゼント・マイクの持っていた拡声器を持って飛んだ。思わず祈李も「丸顔女……!?」と口に出す。雄英のシンボルに降り立った麗日に何する気なのよと心配した。
麗日が拡声器で叫ぶ。出久は特別な力を持っている。だから、迷惑をかけないように雄英を出て行ったのだと。連れ戻したのは自分たちなのだと叫んでいた。この現状を一番どうにかしたいと願って、いつ襲われるかもわからない道を進む出久の姿を見て欲しいと訴えたそれは、確かに出久のボロボロの姿をちゃんと見ることに繋がった。


『特別な力はあっても!! 特別な人なんていません!!』

麗日の叫びが祈李も伝わってくる。特別な人なんていない。それは祈李が兄じゃなくてもいい、兄以外の誰かにやらせたくて、他のヒーローに押し付けようとしたそれだって同じなのだ。みんな辛い中で戦ってくれている。出久の傍にいてくれた。それは……きっと、絶対、感謝しないといけないことだった。当たり前じゃなかったのだ。
近くにいた爆豪が祈李の頭を乱暴に撫でる。しょうがないとでもいうように、頑張ったなとでもいうように。


「こいつらの命を守るシステムがある……でも、不安は残っちまう。てめーが拭えねーもんはこっちで拭う」
「でも、一人でやらせる気はねぇよ。だからおまえは何も心配すんな」

今になって病院で爆豪が言った言葉が響いてくる。
麗日が戦っている。出久のために、兄のために戦ってくれていた。祈李の知らないうちに、兄を救けてくれるヒーローたちがもういたのだ。
そうして麗日が道を開いてくれて、その道へと踏み出す足があった。出久が救けたという男の子と異形型の女の人が駆け寄ってきた。

誤魔化しようがないくらいに泣く祈李を爆豪が背に庇ってくれた。その背中はもう大丈夫だと安心させるようなもので、爆豪ももう一人のヒーローなのだと感じた。雄英に入って一年ちょっと。たったそれだけの時間で出久と爆豪は祈李が知らない二人になっていた。もう、ヒーローなのだ。彼らは、ヒーローなのだ。

避難民の意見が、気持ちが動かされて、出久を受け入れてくれる雰囲気になった中、一人の避難民が出久に問うた。出久がここで休んだら元の暮らしに戻れるのかと。それに出久は確かな声で答えた。


「皆が一緒にいてくれるから……全部取り戻します」

兄はもう一人じゃない。それが痛いほどに伝わって、何だかそれが無性に安心できた。
出久が祈李に向き直って、申し訳なさそうに眉を下げた。


「祈李……ごめんね。それでも僕は……止まれないんだ。止まりたくないんだ。でもきっと約束するよ、僕は死んだりしない。笑って祈李のところに帰ってくる。だから少しだけ待ってて。全部取り戻して、全部救けて、全部勝って、みんなの笑顔を取り戻すから」

約束だというように小指を差し出される。祈李はそれにしょうがないなと言った顔をして応じた。
しょうがないのだ。兄は言い出したら聞かないから。一度決めたことは引かない人だから。困ってる人がいたら、どんなに格上の相手でも立ち向かっちゃう人だから。

――ゆびきりげんまんうそついたらはりせんぼんのーます、指切った。


「……やっぱり……お兄ちゃんなんて嫌いだわ……」
「うん、ごめん……僕は悪いお兄ちゃんだ……」

それでも、この人は祈李の兄なのだ。
死んだなんて思ってごめんね。あなたは私のお兄ちゃんよ。大事な大事な、たった一人のお兄ちゃんよ。


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